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再生医療の世界に起きた波紋 – なぜ、たかが呼称の変更が大騒ぎになっているのか
再生医療の最前線で、ちょっとした騒動が持ち上がっています。この分野の権威である日本再生医療学会(JSRM)が2025年5月30日に発表した声明が、業界内外で大きな話題を呼んでいるのです。同学会は、ある特定の細胞の呼び方を変えるという、一見些細な決定を下しました。しかし、この変更は単なる言葉遊びではなく、再生医療の透明性、患者さんの安全、そして未来の治療法のあり方にも関わる、根深い問題に光を当てています。
話題の中心となっているのは、「間葉系幹細胞(Mesenchymal Stem Cells)」、略してMSCと呼ばれる細胞群です。骨髄や脂肪組織、臍帯(さいたい)など、私たちの体の様々な場所で見つかるこの細胞は、傷ついた組織の修復を助けるなど、再生医療の分野で大きな期待が寄せられています。しかし、日本再生医療学会の発表によると、「幹細胞」という言葉が一人歩きし、誤解を生む可能性があるというのが、今回の騒動の核心です。
「たかが細胞の名前じゃないか、なぜそんなに大騒ぎするんだ?」と思われるかもしれません。しかし、この問題は、もしご自身やご家族が再生医療を検討している場合、あるいは医療の進歩に関心がある方々にとって、非常に重要な意味を持っています。治療法がどのように宣伝され、患者さんがそれをどう理解し、そして私たち一人ひとりが、より賢明な医療選択をするために何を知っておくべきか、という点に深く関わっているからです。
この名称変更の動きは、科学者たちの間だけで交わされる学術的な議論に留まりません。実は、急速に進歩する再生医療の分野、特に、効果が十分に検証されていない治療法が、時に過大な期待を煽る形で患者さんに提供されかねないという、業界全体の信頼性に関わる、より大きな懸念を反映した、公的な意思表示と見ることもできます。日本再生医療学会が過去にも、誤解を招くような広告表示に対して警鐘を鳴らしてきた経緯を考えると 1、今回の名称変更は、こうした問題に対する新たな一手と言えるでしょう。
言葉の整理 – 「間葉系幹細胞/間質細胞」(MSC)って、いったい何?
細胞との出会い:どこから来て、何をする(と考えられている)のか
さて、そのMSCとは一体どんな細胞なのでしょうか。私たちの体の中の骨髄、脂肪(脂肪組織)、臍帯、歯髄(歯の神経)など、様々な場所に存在する、いわば「何でも屋」さんのような細胞を想像してみてください 2。
科学的には、実験室のシャーレ(培養皿)のプラスチックにくっつきやすく、自分自身を複製して増える能力(自己複製能)を持ち、そして何よりも、骨や軟骨、脂肪といった数種類の専門的な細胞に変化する能力(分化能)を持つ細胞として定義されています 2。例えば、骨髄から取り出されたMSCは、骨髄の中で他の細胞群と共に骨髄間質細胞群を構成し、血液を作り出す造血幹細胞を支える役割も担っています 4。
「幹細胞」というレッテル:希望と混乱の源
「幹細胞」という言葉を聞くと、まるで魔法のようにどんな組織でも修復できる万能細胞を思い浮かべるかもしれません。MSCも確かに素晴らしい能力を持っていますが、「幹細胞」というレッテルは、他のもっと強力な幹細胞と比較した場合、少し誤解を招きやすい側面がある、と日本再生医療学会は指摘しています。
歴史を遡ると、「間葉系幹細胞(Mesenchymal Stem Cell)」という名称は、1991年にアーノルド・カプラン博士によって、その多分化能(複数の細胞に変化できる能力)に着目して名付けられました 5。しかし、長年にわたり、特に実験室で培養されたMSCに対して「幹細胞」という呼称が最も適切かどうかについては、多くの議論が交わされてきました 7。
実は、MSCはその発見当初から、ある種の「アイデンティティ・クライシス」に直面してきました。体の中に元々存在しているMSCと、実験室で取り出されて培養されたMSCとでは、性質が完全に同じとは限らないという点が、名称論争の一因となっています。国際細胞治療学会(ISCT)が、培養された細胞に対しては「多能性間葉系間質細胞」という名称の使用を推奨していることからも 8、この区別の重要性がうかがえます。治療に用いられるMSCの多くは培養によって増やされたものであるため、「間葉系間質細胞」という名称は、こうした細胞の特性をより正確に反映しようとする試みとも言えるでしょう。
MSC vs. 「スーパー」幹細胞:iPS細胞とES細胞
皆さんも、iPS細胞(人工多能性幹細胞)やES細胞(胚性幹細胞)という名前を耳にしたことがあるでしょう。これらは、体のあらゆる種類の細胞に変化できる能力(多能性)を持つため、しばしば「真の」幹細胞と考えられています。
一方、MSCは一般的に「多能性」ではなく「多分化能」を持つとされ、変化できる細胞の種類は、主に骨、軟骨、脂肪といった中胚葉由来の細胞に限られています(ただし、より広範な分化能を示唆する研究も存在します) 4。この違いは非常に重要です。MSCは治療への応用が期待されるものの、iPS細胞やES細胞のような万能の再生能力を持つわけではありません。ただし、iPS細胞やES細胞と比較して、腫瘍(奇形腫)を形成するリスクが一般的に低いという利点もあります 2。ES細胞は受精卵を破壊して作製されるため倫理的な課題が伴い、iPS細胞も遺伝子導入によるがん化のリスクなどが指摘されています 11。
「幹細胞らしさ」というのは、実は白か黒かではっきり分けられるものではありません。細胞は、幹細胞としての能力の度合いや種類において、様々な段階に位置づけられます。MSCもそのスペクトラムのどこかに位置しており、ある程度の自己複製能や分化能を持っていますが、その範囲はiPS細胞やES細胞ほど広くはありません。この名称論争の多くは、MSCがそのスペクトラムのどこに位置し、そして「幹細胞」という言葉が一般の人々にその位置づけを過大評価させていないか、という点に集約されると言えるでしょう。
表1:MSC vs. 「スーパー」幹細胞(iPS/ES細胞など) – 何が違うの?
特徴 | MSC(間葉系幹細胞/間質細胞) | iPS/ES細胞(多能性幹細胞) |
由来(どこから来るか) | 成体組織(骨髄、脂肪など) | iPS細胞:体細胞を初期化、ES細胞:胚 |
分化能(他の細胞になる力) | 多分化能(限定的、主に骨・軟骨・脂肪) | 多能性(あらゆる細胞種) |
自己複製能(増える力) | 有限 | 広範 |
倫理的課題 | 少ない(成体組織由来) | ES細胞は議論あり、iPS細胞は遺伝子導入のリスク |
がん化リスク(奇形腫形成) | 一般的に低い | 未分化細胞が残存すると高い |
この表は、日本再生医療学会が懸念する「MSCがiPS細胞やES細胞のようなものだという誤解」を解く一助となるでしょう。一般の人々が「幹細胞」という言葉から連想する能力と、MSCが持つ能力との間には隔たりがあることを理解することが、この問題の出発点となります。
JSRMの大きな一歩 – 「幹細胞」から「間質細胞」へ
学会の発表:JSRMは何を言ったのか?
2025年5月30日、日本再生医療学会(JSRM)は、これまで「間葉系幹細胞(MSC: Mesenchymal Stem Cells)」または「間葉系間質細胞(MSC: Mesenchymal Stromal Cells)」と併用されてきた呼称を、「間葉系間質細胞」に統一すると発表しました。
当初の声明では、その理由として「『間葉系幹細胞』という表現が、幹細胞としての多分化能や自己複製能が(MSCに)あるとの誤解を与える恐れがある」とし、MSCをiPS細胞やES細胞のような幹細胞と捉えるのは「誤解」であると、かなり踏み込んだ表現を用いていました。
中心にある懸念:患者は誤解させられているのか?
この名称変更の大きな動機の一つは、日本再生医療学会が強調するように、「幹細胞」というラベルが、特に自由診療のクリニックで提供される治療法の過大な宣伝に利用されていることへの懸念です。患者さんが「幹細胞」という言葉を聞いて、iPS細胞やES細胞のような強力な再生効果や奇跡的な治癒を期待してしまうものの、実際にはMSCが提供する効果はそれとは異なる、という状況を問題視しているのです。高額な再生医療を、藁にもすがる思いで受けている患者さんがいる現状 12 を考えると、誤解を招くような宣伝文句がいかに患者さんを不当に誘導しうるかは想像に難くありません。JSRMが過去にも「厚生労働省承認」といった不適切な広告表示に注意喚起を行ってきたこと 1 は、こうした問題に対する同学会の継続的な取り組みを示しています。
少し後退?修正された声明
興味深いことに、最初の発表後、JSRMには様々な意見が寄せられ、2025年6月6日には声明を更新しました。そこでは、「再生医療等安全性確保法(安確法)下の治療で多用されている間葉系幹細胞という表現が誤解を与える恐れがある」と、表現をやや和らげ、対象を特定する文言を加えています。
また、同学会の説明によると、MSCの一部のサブセット(特定の細胞集団)には、限定的ではあるものの、いくつかの組織への分化能を持つ細胞があることは認めており、全てのMSCに幹細胞性がないと断言しているわけではない、ともしています。JSRMが指摘するのは、自由診療で提供されているMSC治療の多くが、こうした特定の能力を持つ細胞を選別しているわけでもなく、投与する細胞がどの程度の「幹細胞性」を持っているかを評価できていない点です。これが、過剰な宣伝と相まって患者リスクにつながると考えているのです。
JSRMのこの迅速な「軌道修正」は、単なる微調整以上の意味合いを持っていたと考えられます。当初の非常に断定的な声明は、誤解を招くクリニックに対して強いメッセージを送る意図があったのかもしれませんが、多くの研究者にとっては科学的に単純化しすぎていると受け取られた可能性があります。更新された声明は、JSRMが、特に自由診療分野における明確な公的警告と、MSCが持つ限定的ながらも固有の幹細胞性に関する科学的正確性との間で、難しい舵取りを試みていることを示しています。
JSRMが声明の中で特に「再生医療等安全性確保法(安確法)下の治療」に言及したことは、より深い問題を暗に示唆しています。この法律は安全性確保を目的としていますが、その運用枠組み、特に自由診療で提供される治療法に関しては、細胞の「幹細胞性」が十分に評価されないまま治療が行われる余地を残しているのではないか、という懸念です。厚生労働省の資料でも、この法律に関する現状の課題として、リスク分類の妥当性や承認された治療の有効性フォローアップの欠如、審査委員会の質のばらつきなどが指摘されています 12。JSRMの名称変更は、安確法が時にどのように適用されているかに対する間接的な批判、あるいはその枠組みの下で提供されるものについて、より厳格な評価を求める声と解釈することもできるでしょう。
世界の潮流に乗る – MSCに関する国際的な声
これは日本だけの話ではない:世界はどう言っているか
JSRMが今回の決定を下したのは、決して孤立した動きではありません。実際には、多くの国際的な科学団体や規制当局がMSCについてどのように議論し始めているか、その潮流に沿ったものなのです。日本再生医療学会の発表でも、国際的な動向との整合性を重視したことが示されています。
国際幹細胞学会(ISSCR):注意深い指摘
幹細胞研究における主要な国際的組織である国際幹細胞学会(ISSCR)は、2021年にガイドラインを発表しました。その中で、MSC(ISSCRもMesenchymal Stromal Cellsと表記)を用いた市販の「幹細胞治療」の多くは、安全性と有効性の十分な証拠が不足していると指摘しています。そして、「幹細胞を含む」や「幹細胞様」といった不正確な表示は、患者のリスクを高め、正当な幹細胞研究を脅かす可能性があると警鐘を鳴らしています。ISSCRのガイドラインは、倫理的な研究と説得力のある科学的根拠の重要性を強調しており 13、この文脈で「間葉系間質細胞」という用語を使用し、未検証の治療法に関する懸念を示している点は重要です。
国際細胞・遺伝子治療学会(ISCT):明確化への推進
国際細胞・遺伝子治療学会(ISCT)は、MSCの呼称について長年議論を重ねてきました。2019年には、ISCTのMSC委員会が「MSC」という略称の使用は支持しつつも、細胞の由来組織(例:「骨髄由来MSC」)を明記し、「間葉系間質細胞」という呼称を用いることを推奨しました。ただし、in vivo(生体内)とin vitro(試験管内)の両方で厳密な「幹細胞性」の証拠がある場合はこの限りではない、としています 17。
さらに最近では、2023年にISCTが関与したMSCに関する新しい国際標準化機構(ISO)規格について解説した論文でも、「間葉系幹細胞」と「間葉系間質細胞」は別々に定義されており、将来的には由来組織などによって区別されるべきだと報告されています 18。これは、ISCTの以前からの立場と整合性が取れており、標準化と正確な用語使用への動きを示しています。
米国食品医薬品局(FDA):先例を築く
米国の規制当局である食品医薬品局(FDA)も、慎重な言葉遣いをしています。2024年12月、FDAがオーストラリアのメソブラスト社のMSC療法「RYONCIL」を特定の小児疾患に対して承認した際、FDAと同社はこれらの細胞を「間葉系間質細胞」と表現しました 20。JSRMは、このFDAの承認事例を、国際的な規制用語との整合性を図るための根拠の一つとして挙げています。
JSRMの決定は、MSC分野における「調和」と標準化を目指す、より大きな世界的な動きの一部と捉えることができます。MSCに関する研究や商業活動が世界的に急増する中で、共通の言語、定義、品質基準の必要性が高まっています。これにより、研究者はデータを比較しやすくなり、規制当局は製品を評価しやすくなり、最終的には世界中の患者にとってより安全で信頼性の高い治療法につながることが期待されます 18。
FDAのような影響力のある機関による言葉の選択は、学術的な意味合いに留まりません。それは実際の「規制の浸透」とも言える現象を引き起こす可能性があります。FDAが承認製品に対して「間葉系間質細胞」という用語を使用すると 20、それは業界全体へのシグナルとなります。これにより、将来の製品がどのように名付けられ、開発され、販売されるかに影響を与え、非常に強固な証拠なしに強い「幹細胞」という主張を伴う治療法が承認されにくくなる可能性があります。このような言葉の微妙な変化が、結果としてどのような治療法が市場に出回るかに大きな影響を与える可能性があるのです。
表2:MSCの呼称に関する主要な国際機関とJSRMの動向年表
年 | 組織・機関 | MSCの呼称・特性評価に関する主要な動向・ガイドライン | 典拠 |
2006年 | ISCT | MSCを定義するための最小限の基準を提案(しばしば出発点として引用される) | 23 |
2019年 | ISCT MSC委員会 | 「MSC」略称を支持しつつ、「間質細胞」を推奨(厳密な幹細胞性の証拠がない場合)。由来組織の明記を推奨。 | 17 |
2021年 | ISSCR | 幹細胞研究と臨床応用に関するガイドライン。「間葉系間質細胞」を使用し、未検証の治療法や不正確な表示に警告。 | 13 |
2023年 | ISCT/ISO | ISO規格に関する論文。幹細胞と間質細胞を別途定義し、由来組織による区別の重要性を強調。 | 18 |
2024年 | FDA | RYONCILを承認。細胞を「間葉系間質細胞」と表現。 | 20 |
2025年 | JSRM | 呼称を「間葉系間質細胞」に統一すると発表。後に「安確法下の治療で多用される表現が誤解を与える」と補足。 | JSRM公式発表 |
この年表は、JSRMの動きが突発的なものでも孤立したものでもなく、より大きな、進化し続ける世界的な合意形成の一部であることを明確に示しています。科学的な用語は固定されたものではなく、新たな知識や懸念に応じて変化していくものなのです。
白熱する議論 – 専門家たちの称賛、懸念、そして疑問
支持の声:「ようやく!」 – 患者保護と科学的誠実性のために
JSRMの今回の動きに対して、国内の研究者の中には賛同する声が多く聞かれます。彼らは以前から、特に自由診療のクリニックにおけるMSC治療の宣伝方法について懸念を抱いていました。主な心配は、「幹細胞」という言葉が、MSC治療をiPS細胞やES細胞治療と同等の効果があるかのように見せかけるために使われ、科学的に不正確な情報に基づいて、患者が高額な治療費を支払うよう誘導されかねないという点です。JSRMが2011年にも「患者の安全性を無視した未承認の再生・細胞医療」に警鐘を鳴らし 24、2023年にも不正確な広告表示に注意喚起を行っていたこと 1 は、こうした懸念が長年にわたるものであることを示しており、今回の名称変更への支持につながっています。
懐疑と懸念の声:「そう急ぐな…」
科学的なニュアンス
しかし、全ての専門家が全面的に賛成しているわけではありません。一部の科学者は、MSCは多能性ではないものの、限定的ではあれ自己複製能と多分化能という「幹細胞らしさ」を確かに持っていると主張します。彼らは、MSCを完全に幹細胞ではないと言い切ることが科学的に正確なのか、と疑問を呈しています。JSRM自身も、更新された声明で、一部のMSCサブセットがこうした能力を持つことを認めています。MSCが「多能性で自己複製可能な細胞」として記述されること 2 や、ISCTの基準にも分化能が含まれること 3、そしてMSCの歴史的な論文 3 がその固有の幹細胞的性質に言及していることからも、この科学的なニュアンスの重要性がわかります。
実質的な影響
また、より実利的な観点から、「名称変更が、実際に誤解を招くような広告を止める効果があるのか?」と疑問を呈する声もあります。彼らは、過大な宣伝を行うことを厭わないクリニックは、公式の用語がどうであれ、新たな抜け道を見つけるのではないかと心配しています。単に名称を変えるだけで、こうした悪質な行為を抑制できるのか、その実効性を問う声です。過去のPRP(多血小板血漿)治療における偽装や誤解を招く広告の事例 26 は、広告がいかに巧妙かつ欺瞞的になりうるかを示しており、名称変更だけでは万能薬にならない可能性を示唆しています。
この議論は、公衆衛生上のメッセージの明確化(患者保護のため)と、科学的用語の正確性(生物学的現実を反映するため)という、二つの要請の間の固有の緊張関係を見事に映し出しています。単純化しすぎると科学を歪めるリスクがあり、複雑な正確性は一般には理解しにくく、悪意ある者によって利用される可能性もあります。JSRMは、この難しいバランスを取ろうとしているのです。
名称変更の実効性に対する懐疑的な見方は、より深い問いを投げかけています。これは、「幹細胞」という言葉の誤用という「症状」に焦点を当てた解決策であり、自由診療の再生医療市場における規制、監視、施行の潜在的なギャップという「全身疾患」に対処するものではないのではないか、という問いです。用語の明確化は価値がありますが、もし根本的な環境が悪質な行為を許容するものであれば、それだけでは倫理に反する行為を抑制するには不十分かもしれません。
実社会への影響 – 患者とクリニックにとって何を意味するのか
再生医療における誤解を招く広告の影
率直に言って、この問題の背景には、特に保険適用外の自由診療を提供する一部のクリニックにおける、誇張された、時には全くの虚偽の広告という大きな問題が存在します。科学的根拠が乏しいにもかかわらず、「若返り」や難病の治癒といった壮大な約束をするクリニックの報告は後を絶ちません 26。
例えば、JSRM自身が過去に、実際には基本的な届出しかしていないにもかかわらず、ウェブサイトで「厚生労働省承認」を謳う治療法に対して警告を発しています 1。さらに悪質なケースでは、「偽物PRP」と称する治療が提供され、患者は実際の内容とは異なるものに高額な費用を支払い、時には健康被害を受けることさえあります 26。クリニックが効果未検証のサプリメントを販売していた事例も報告されています 27。
再生医療等安全性確保法(安確法):諸刃の剣?
日本には「再生医療等の安全性の確保等に関する法律」(通称:安確法)という法律があります。これは、有望な再生医療を迅速に患者に届けつつ、安全性を確保することを目的として制定されました 12。この法律の下では、クリニックは認定された委員会の承認を得て国に届け出れば、リスク分類に応じて特定の再生医療を提供できます。これは、新薬承認に通常必要とされる厳格で多段階の臨床試験とは異なるプロセスです。
この制度はアクセスを迅速化する一方で、懸念も指摘されています。JSRMが更新した声明で、特に「安確法下の治療」で用いられる「間葉系幹細胞」という表現が誤解を招きうると指摘したことは、安確法の下で提供される一部の治療が誇大広告の一因となっている可能性を示唆しています。実際、公式文書でも、安確法の課題として、審査委員会の質のばらつき、治療の長期的有効性の検証、未承認の遺伝子治療が自由診療として提供されることの防止などが挙げられています 12。この法律は改正も進められており、2025年5月から新たな規定が施行される予定です 29。
この名称変更は、患者にとってより明確で安全な状況をもたらすのか?
これが最も重要な問いです。JSRMは、「間葉系間質細胞」という呼称を推進することで、患者がより現実的な期待を持つようになることを期待しています。「幹細胞」ではなく「間質細胞」という言葉を聞けば、奇跡的な治療を想像するのではなく、治療が実際に何をするのか、どのようなエビデンスがあるのか、といったより厳しい質問をするようになるかもしれません。
しかし、一部の専門家が指摘するように、単に名称を変えるだけでは、悪質なマーケティング業者を止めるには不十分かもしれません。真の患者保護には、新しい用語以上のものが必要となるでしょう。それは、より良い患者教育、クリニックからのより透明性の高い情報提供、そして特に自由診療分野における再生医療の広告と実践方法に対する、より強力な監視体制にかかっていると考えられます。患者が被る不利益として、高額な費用や効果の不確実性があること 30 を踏まえると、この問題の解決は急務です。
MSCの名称をめぐる論争の根底には、専門的なクリニックと希望を抱く患者との間の「情報の非対称性」があります。これは特に、保険適用外の自由診療市場で顕著です。患者はしばしば、複雑な治療法を批判的に評価するための深い科学的知識を持っていません 12。一方で、クリニックはその知識を持っています。悪意のある業者は、このギャップを利用し、「幹細胞」のような感情に訴えかけるが科学的には曖昧な言葉を使って、効果が疑わしい高額な治療法を売り込むことができるのです 26。今回の名称変更は、そのような強力なバズワードの一つから力を削ごうとする試みです。
再生医療等安全性確保法(安確法)は、潜在的なパラドックスを抱えています。革新的な治療法への患者アクセスを迅速化するという称賛すべき目的を持つ一方で、その合理化された承認経路、特に自由診療で一般的な低リスク治療については、従来の医薬品ほど厳密な長期有効性データを必ずしも要求しない場合があります。これにより、法的には利用可能であるものの、真の長期的利益が不明確な治療法が存在しうる状況が生まれ、そのギャップが過大な期待を煽るマーケティングによって悪用される可能性があるのです。JSRMが「安確法下の治療」を特に問題視しているのは、このパラドックスが実際に機能していることへの懸念の表れと言えるでしょう。
日本におけるMSCと再生医療の今後
JSRMの次の一手:分野全体のより明確な定義に向けて
JSRMは、今回のMSCの名称変更だけで終わるつもりはありません。同学会は、「体性幹細胞」や「前駆細胞」など、再生医療における様々な用語を再定義するための特別委員会を設置する計画を示しています。国際的な動向も注視しつつ、分野全体でより一貫性のある、科学的に正確な語彙体系を構築することを目指しています。これは大きな仕事ですが、関係者全員が共通認識を持つためには不可欠な取り組みです。
真に効果的で安全な治療法への継続的な探求
どのような名称で呼ばれようとも、科学界はMSC(あるいは間葉系間質細胞)やその他の細胞療法の可能性を探求し続けています。これらの細胞が実際にどのように機能するのか、つまり、新しい組織に分化することによってなのか、あるいは既存の細胞を助ける有益な物質を放出すること(しばしば「パラクリン効果」と呼ばれるか、カプラン博士が提唱するように「メディシナル・シグナリング・セル(Medicinal Signaling Cells:薬効情報伝達細胞)」として機能するのか)について、より深く理解するための研究が進行中です 3。最終的な目標は、確固たる科学的エビデンスに基づいて、真に安全で効果的であり、患者の生活を改善する治療法を開発することに変わりはありません。
情報に基づいた患者・市民としての役割
再生医療が進歩し続ける中で、私たち一人ひとりが情報を得て、批判的な問いを持つことがこれまで以上に重要になります。誇大な宣伝に惑わされず、エビデンスを探しましょう。使用される細胞の具体的な種類、手技、潜在的なリスク、そしてご自身の状態に対する治療効果を裏付けるデータについて尋ねることが大切です。信頼できるクリニックや研究者は、明確な回答を喜んで提供してくれるはずです。
JSRMが再生医療におけるより広範な用語定義に取り組むことは、分野全体の「意味論的な足場」を構築することに他なりません。明確で国際的に整合性の取れた定義は、科学的な議論だけでなく、効果的な規制の策定、研究資金の配分、そして将来の技術革新が堅固で共通理解に基づいた土台の上に築かれることを保証するために不可欠です。これは、この分野の成熟に向けた長期的な投資と言えるでしょう。
MSCの名称に関する議論は、これらの細胞が実際にどのように機能するかについての科学的理解の進化も反映しています。当初の関心は、損傷した組織を置き換えるという「幹細胞」としての分化能力に大きく向けられていました 5。しかし、最近の研究や視点(カプラン博士の「メディシナル・シグナリング・セル」の概念 5 や、パラクリン効果、細胞外小胞(EV)の役割 3 など)は、MSCが炎症を抑え、既存の細胞を保護し、自然治癒を促す因子を分泌することで、治癒環境を「オーケストレーション(調律)」する役割を強調しています。これは、MSCが直接新しい組織になる「役者」としてだけでなく、シグナル伝達や調節を行う「指揮者」として機能するという理解へのシフトです。「間質細胞(Stromal Cell)」という、支持的な結合組織を指す言葉 2 は、もし「幹細胞」が分化のみを意味すると狭く解釈されるならば、皮肉にもこの細胞の多面的な機能をより良く表しているのかもしれません。
結論:明確さと慎重さをもって未来を航行する
まとめ:なぜこれが重要なのか
このように、JSRMがこれらの細胞を「間葉系間質細胞」と呼ぶという決定は、単に科学用語の難解な話に留まりません。それは、進行中の科学的議論の反映であり、国際的な潮流への応答であり、そして誇大な宣伝によって患者が誤解されるのを防ぐための真剣な試みです。複雑な科学を、医療のブレークスルーを切望する社会に伝えることの難しさを浮き彫りにしています。
読者の皆様へ:エンパワーメントのために
この物語 – 科学、議論、そして名称変更の背景にある理由 – を理解することで、皆さんがより力づけられたと感じてくだされば幸いです。治療を検討している方、医療ニュースを追っている方、あるいは単に好奇心からこの記事を読んでいる方であれ、より明確な全体像を持つことで、より良い質問をし、より情報に基づいた選択をすることができます。
再生医療の旅はエキサイティングですが、希望と健全な批判的思考の両方をもって、私たち全員が航海すべきものです。そして時には、それが名前の中に何があるのかを理解することから始まるのです。
MSCの名称をめぐる一連の出来事は、科学、倫理、そして規制がいかに絶えず相互に進化し合っているかを示す鮮明な実例です。これらの細胞に関する科学的理解が深まるにつれて、その使用とマーケティングに関する新たな倫理的問題が生じ、専門学会や規制当局に対応を促します。このダイナミックな相互作用は、医療の進歩が責任ある形で進み、最終的に患者の利益となるために不可欠なのです 5。
引用文献
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- FDA approves remestemcel-L-rknd for steroid-refractory acute graft versus host disease in pediatric patients, 6月 10, 2025にアクセス、 https://www.fda.gov/drugs/resources-information-approved-drugs/fda-approves-remestemcel-l-rknd-steroid-refractory-acute-graft-versus-host-disease-pediatric
- RYONCIL - FDA, 6月 10, 2025にアクセス、 https://www.fda.gov/vaccines-blood-biologics/cellular-gene-therapy-products/ryoncil
- 「間葉系幹細胞等の経静脈内投与の安全な実施への提言」の一部 ..., 6月 10, 2025にアクセス、 https://www.jsrm.jp/news/news-16348/
- Mesenchymal stem cells – a historical overview - ResearchGate, 6月 10, 2025にアクセス、 https://www.researchgate.net/publication/346573432_Mesenchymal_stem_cells_-_a_historical_overview
- 未承認の再生・細胞医療に警鐘 日本再生医療学会が声明 - サイエンスポータル, 6月 10, 2025にアクセス、 https://scienceportal.jst.go.jp/newsflash/20110202_01/index.html
- 平成24年度中小企業支援調査 (再生医療の産業化に資する諸外国の制度比較 に関する調査) - 経済産業省, 6月 10, 2025にアクセス、 https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/mono/bio/H24kaigaiseido.pdf
- 本物のPRP治療とは?~定義と厚労省の要件, 6月 10, 2025にアクセス、 https://rmnw.jp/?p=209
- 第10(最終)回 医療広告は優良誤認表示に当たる? クリニックが販売する商品にはどのような法規制が及ぶ? | m3.com, 6月 10, 2025にアクセス、 https://www.m3.com/news/iryoishin/1237635
- 再生医療等安全性確保法施行 5年後の 見直しに係る検討のとりまとめ - 厚生労働省, 6月 10, 2025にアクセス、 https://www.mhlw.go.jp/content/10808000/000946672.pdf
- 【公布通知】2025年5月15日 厚生労働省 医政局 研究開発政策課 再生医療等研究推進室, 6月 10, 2025にアクセス、 https://waarm.or.jp/6749/
- 再生医療のデメリット - ヒロクリニック, 6月 10, 2025にアクセス、 https://www.hiro-clinic.or.jp/regeneration/disadvantages-of-regenerative-medicine/
- 未承認エクソソーム対応へ、美容医療などでの使用に推奨事項を示す、日本再生医療学会が新ガイダンス、国の新たなルールへの一歩にも | ヒフコNEWS, 6月 10, 2025にアクセス、 https://biyouhifuko.com/news/japan/7097/
- 【藤宮峯子院長Vol.4】間葉系幹細胞(MSC)で慢性炎症が治る理由 - 再生医療クリニック, 6月 10, 2025にアクセス、 https://renee-clinic.jp/report/326/