現代の医学は、これまで治療が困難であった疾患に対して、新たな希望の光をもたらす変革の時代を迎えています。その中心にあるのが、患者さん自身の細胞を遺伝子レベルで改変し、病気と闘うための「生きた薬」として体内に戻す細胞療法という画期的なアプローチです 1。この治療法は、従来の低分子医薬品や抗体医薬とは根本的に異なる概念に基づいており、特にがん治療の領域では、他の治療法では効果が見られなかった患者さんを救うという、目覚ましい成果を上げてきました 3。しかし、この革新的な治療法は、その驚異的な効果の裏側で、製造プロセスの複雑さ、極めて高額な費用、そして治療を受けられる患者さんが限られるという大きな課題を抱えています。
このような状況の中、2025年6月30日に発表された、免疫疾患領域の世界的リーダーである米AbbVie(アッヴィ)社による、新進気鋭のバイオ企業である米Capstan Therapeutics(キャプスタン・セラピューティクス)社の買収は、単なる一企業の事業戦略を超えた、医学の未来の方向性を示す重要な出来事として注目されています。この買収の核心は、Capstan社が開発を進める「in vivo(イン・ビボ)」、すなわち「体内で」細胞を直接改変する技術にあります 5。これは、患者さんから細胞を一度体外に取り出して加工するという、これまでの細胞療法の常識を覆す可能性を秘めたものです。
本記事では、このAbbVie社によるCapstan社の買収という出来事を深く掘り下げていきます。まず、従来の細胞療法であるCAR-T細胞療法がどのようなものであり、どのような成功を収め、そしてどのような壁に直面しているのかを解説します。次に、その壁を打ち破る革新的な技術として期待されるin vivo CAR-T療法と、その実現に不可欠な標的化脂質ナノ粒子(tLNP)という技術について詳しく見ていきます。さらに、一つの大学の研究室から始まったCapstan社の誕生と成長の軌跡を追い、最後に、AbbVie社がなぜ巨額の投資を行ってこの技術を獲得したのか、その戦略的な意味合いを分析します。
この一連の解説を通じて、今回の買収が自己免疫疾患治療の未来、ひいては医療全体のパラダイムをどのように変えうるのか、その可能性を読者の皆さんと共に探求していきたいと思います。
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従来のCAR-T細胞療法 ― その成果と乗り越えるべき壁
革新的な治療法の未来を理解するためには、まずその原点である従来のキメラ抗原受容体T細胞(CAR-T)療法について知る必要があります。この治療法は、私たちの体にもともと備わっている免疫システムの兵士、T細胞の力を利用するものです 6。T細胞は、体内に侵入したウイルスや細菌、あるいは異常な細胞を見つけ出して攻撃する役割を担っています。CAR-T療法は、このT細胞を遺伝子工学の技術を用いてさらに強力な兵士へと生まれ変わらせる治療法です。
具体的には、科学者たちはT細胞に「キメラ抗原受容体(CAR)」と呼ばれる人工的な受容体を組み込みます 1。このCARは、特定の標的、例えばがん細胞の表面にだけ現れる目印(抗原)を正確に認識できるように設計された、いわば高性能なレーダーとミサイルを一体化させたようなものです 4。このCARを搭載したT細胞、すなわちCAR-T細胞は、標的となるがん細胞だけを精密に攻撃することが可能になります。
しかし、このCAR-T細胞を患者さんの体内で活躍させるまでのプロセスは、非常に複雑で時間と手間を要するものでした。この従来の方法は「ex vivo(エクス・ビボ)」、つまり「体外で」行われることから、ex vivo CAR-T療法と呼ばれています。その手順は、いくつかの段階に分かれています。まず、患者さんの腕の血管から血液を採取し、白血球アフェレーシスという方法でT細胞を分離・収集します 6。次に、収集されたT細胞は、高度に専門化された製造施設へと送られます。この施設で、通常はウイルスベクターという運び屋を用いて、CARの設計図である遺伝子をT細胞の内部に導入します。これが、T細胞をCAR-T細胞へと変える最も重要な工程です 1。
遺伝子導入が完了すると、今度はこのCAR-T細胞を数億個から数十億個という、がん細胞と闘うのに十分な数まで増殖させる「培養」という工程に入ります 4。この一連の製造プロセスには、数週間という長い時間が必要となります 9。この間、患者さんは自身の病状が進行しないように、別の治療を受けながらCAR-T細胞の完成を待たなければならない場合もあります 6。
製造が完了したCAR-T細胞は、厳格な品質検査を経て凍結され、再び患者さんのいる病院へと輸送されます。そして、いよいよ患者さんに投与されるわけですが、その直前にもう一つ重要な準備があります。それは「リンパ球除去化学療法」と呼ばれる処置です 4。これは、強力な化学療法によって患者さん自身の体内に元々存在するリンパ球を減少させることで、投与されるCAR-T細胞が体内で増殖しやすく、また攻撃を受けにくくするためのスペースを確保する目的で行われます 6。この処置は、ただでさえ病気で体力が落ちている患者さんにとって、大きな身体的負担となります 10。全ての準備が整った後、ようやくCAR-T細胞が患者さんの体内に点滴で投与され、治療が開始されるのです。
このex vivo CAR-T療法は、白血病やリンパ腫などの血液がんに対して劇的な効果を示し、多くの命を救ってきました。しかし、その輝かしい成果の裏には、乗り越えるべき大きな壁が存在します。
第一に、その費用です。一人ひとりの患者さんのために細胞を加工するオーダーメイドの治療であるため、そのプロセス全体にかかる費用は数千万円ほどとされます 11。
第二に、時間です。数週間にわたる製造期間は、病状が急速に進行する患者さんにとっては致命的な遅れになりかねません。
そして第三に、患者さんへの負担です。リンパ球除去化学療法は、それ自体が強い副作用を伴います。
これらの要因が複雑に絡み合い、この画期的な治療法を本当に必要としている患者さんのうち、ごく一部しかその恩恵を受けられないという厳しい現実を生み出しているのです。この治療法は科学的には奇跡的ですが、その提供モデルは、まるで複雑な物流と製造のサプライチェーンのようであり、その運用上の限界が、普及を阻む最大の障壁となっていたのです。
治療を患者の体内で完結させる挑戦 ― in vivo CAR-T
ex vivo CAR-T療法が直面する、費用、時間、そして患者さんへの負担という深刻な課題。これらの壁を根本から打ち破る可能性を秘めた、まさに革命的なアイデアが「in vivo CAR-T療法」です 5。このアプローチの核心は、これまで体外の専門施設で行われていた細胞の遺伝子改変というプロセスを、全て患者さんの体内で完結させてしまおうというものです。
この発想の転換は、治療のあり方を根底から変える力を持っています。体外で細胞を取り出し、輸送し、加工し、培養し、そしてまた輸送して体内に戻すという、複雑で高価な一連の工程を全て省略できるのです。代わりに、CARの設計図となる遺伝情報を搭載した「運び屋」を、点滴などで直接患者さんの体内に投与します。この運び屋が、体内のT細胞に狙いを定めて設計図を届け、T細胞が自らCARを製造し、CAR-T細胞へと変身するのです。この仕組みは、患者さん自身の体を、いわばCAR-T細胞を製造する「バイオリアクター(生体反応器)」として活用するものであり、細胞療法の概念を大きく塗り替えるものです 10。
このin vivoアプローチが実現すれば、ex vivo療法が抱える課題の多くが解決されると期待されています。まず、治療は既製品(off-the-shelf)の薬剤を投与する形に近づきます。つまり、事前に大量生産して在庫しておくことが可能になり、オーダーメイド治療に伴う莫大なコストと、数週間に及ぶ製造の待ち時間を劇的に削減できる可能性があります 12。これにより、治療はより迅速になり、これまでアクセスが困難だった多くの患者さんや医療機関にも届けられるようになります。外来クリニックでの治療も視野に入り、医療の提供体制そのものを変革する可能性すらあります 10。
さらに特筆すべきは、患者さんの体験を大きく改善する点です。in vivo CAR-T療法は、多くの場合、ex vivo療法で必須とされていた強力なリンパ球除去化学療法を必要としないと考えられています 10。これは、患者さんへの身体的負担を大幅に軽減し、治療の安全性を高める上で非常に重要な利点です。
また、Capstan社が開発するin vivo CAR-T療法には、もう一つ重要な特徴があります。それは、CARの設計図として、ウイルスベクターではなく「mRNA(メッセンジャーRNA)」を利用している点です。mRNAは、細胞内でタンパク質を作るための一時的な指令書のようなもので、その役割を終えると比較的短時間で分解されます。これは、CAR-T細胞の作用が永続的ではなく「一過的(transient)」であることを意味します 12。がん治療では、CAR-T細胞が長期間体内に留まり、がんの再発を監視し続けることが望ましい場合もあります。しかし、自己免疫疾患のように、自身の正常な組織を攻撃してしまう免疫の異常を是正する場合には、永続的な免疫改変はかえってリスクになり得ます。一時的に病気の原因となる細胞を除去した後は、免疫システムが正常な状態に「リセット」されることが理想的です。mRNAを用いることで、CAR-T細胞が必要な期間だけ機能し、その後は自然に消えていくという、より精密で安全なコントロールが可能になるのです。
このように、in vivo CAR-T療法は、単なる既存技術の改良版ではありません。それは、細胞療法を複雑なオーダーメイドの医療サービスから、より多くの人々が利用可能な標準的な医薬品へと変える、根本的なパラダイムシフトなのです。この変革が、これまで手の届かなかった治療法を、社会全体へと開かれたものにする道を拓くことが期待されています。
精密な「運び屋」の技術 ― 標的化脂質ナノ粒子(tLNP)の役割
in vivo CAR-T療法という革命的なアイデアを実現するためには、一つの極めて重要な技術的課題をクリアしなければなりません。それは、CARの設計図であるmRNAを、広大な体内を旅して、無数の細胞の中から目的のT細胞にだけ正確に届け、さらにその細胞の内部に送り込むという、非常に高度な「配達」の技術です。この難題を解決する鍵こそが、「標的化脂質ナノ粒子(targeted Lipid Nanoparticle、tLNP)」と呼ばれる技術です。
まず、運び屋の基本となる「脂質ナノ粒子(LNP)」について説明しましょう。LNPは、その名の通り、脂質、つまり油のような物質でできたナノメートルサイズの非常に小さな粒子です 14。mRNAのような遺伝物質は非常に壊れやすく、そのまま血中に投与してもすぐに分解されてしまいます。LNPは、この壊れやすいmRNAを内部に包み込み、体内の過酷な環境から保護するカプセルのような役割を果たします 15。このLNP技術は、新型コロナウイルスのmRNAワクチンで広く実用化され、その有効性と安全性が世界的に証明されたことで、一躍有名になりました 16。
LNPは通常、4種類の異なる機能を持つ脂質から構成されています。mRNAと結合してカプセル内に保持し、細胞内に取り込まれた後にmRNAを放出する役割を担う「イオン化脂質」。体内で異物として認識されにくくし、血中を長く循環できるようにする「PEG化脂質」。そして、粒子の構造を安定させる「コレステロール」と「中性リン脂質」です 17。これらの脂質が絶妙なバランスで組み合わさることで、LNPは効率的な運び屋として機能するのです 18。
しかし、標準的なLNPには一つの課題がありました。それは、静脈内に投与されると、その多くが自然と肝臓に集まってしまう性質があることです 19。ワクチンであれば、肝臓で抗原が作られても免疫応答を誘導できますが、T細胞を改変したい場合には、これでは目的を達成できません。肝臓への意図しない集積(オフターゲット送達)を避け、T細胞という特定の目的地にだけ荷物を届けるためには、LNPに「標的化」の能力、つまり住所を指定する機能を持たせる必要がありました。
ここで登場するのが、Capstan社の独自技術の核心である「標的化LNP(tLNP)」です。この技術は、LNPの表面に「バインダー」と呼ばれる分子を装飾するものです。このバインダーには、特定の細胞の表面にある「鍵穴」のようなタンパク質(受容体)にだけ結合する「鍵」として機能する、モノクローナル抗体などが用いられます 20。これにより、LNPは血流の中を漂いながら、自分の鍵が合う鍵穴を持つ細胞を探し出し、そこにだけ結合して荷物を届けることができるようになります。
Capstan社が「CellSeeker」プラットフォームと呼ぶこの技術は、まさにこの原理を応用したものです。同社の自己免疫疾患向け開発品であるCPTX2309の場合、標的とするのは「CD8陽性細胞傷害性T細胞」です。そこで、このT細胞の表面に特異的に存在するCD8という受容体(鍵穴)に結合する抗体(鍵)をLNPの表面に装飾します。この設計により、CPTX2309は体内に投与されると、他の無数の細胞を素通りし、CD8陽性T細胞に選択的に取り込まれます。そして、内部に搭載された抗CD19 CARをコードするmRNAを放出し、T細胞をin vivoで再プログラムするのです。実際、前臨床試験では、このtLNPを用いることでマウスの肝臓への集積が有意に減少し、T細胞が多く存在する脾臓への送達が優先的に行われたことが確認されています。
このtLNPプラットフォームの真の価値は、その「モジュール性」にあります。つまり、表面に付ける抗体(鍵)を交換すれば、T細胞以外の、例えばがん細胞や造血幹細胞など、異なる種類の細胞を標的にすることが可能です。また、内部に搭載するmRNA(荷物)を入れ替えれば、CARだけでなく、遺伝子編集ツールなど、細胞に全く異なる機能を持たせることもできます。この柔軟性こそが、AbbVie社が数十億ドルを投じてでも手に入れたかった、将来の医薬品開発の可能性を無限に広げる「技術基盤」そのものなのです。tLNPは、単なる運び屋ではなく、精密医療を実現するための、極めて高度なナビゲーションシステムと言えるでしょう。
科学的発見から企業の誕生まで ― Capstan Therapeutics社の歩み
Capstan Therapeutics社の革新的な技術は、ある日突然生まれたわけではありません。その根源をたどると、一つの大学における長年の地道な基礎研究に行き着きます。その大学とは、米国のペンシルベニア大学(Penn)です。同大学は、CAR-T療法のパイオニアであるカール・ジューン博士や、mRNAワクチンの基盤技術を開発したドリュー・ワイスマン博士らが在籍する、細胞・遺伝子治療研究の世界的な中心地として知られています 2。Capstan社の物語は、この知の集積地で、異なる分野の専門知識が融合するところから始まりました。
物語の主役の一人が、心臓血管生物学の権威であるジョナサン・エプスタイン博士です 22。彼の研究室は当初、がん以外の疾患、特に心臓の線維化、つまり心臓が硬くなって機能が低下する病態にCAR-T療法を応用できないかと考えていました。そして2019年、エプスタイン博士のチームは、科学誌『Nature』に画期的な論文を発表します。この研究では、線維化を引き起こす心臓の線維芽細胞の表面にあるFAPというタンパク質を標的とするCAR-T細胞を体外(ex vivo)で作り、心臓病モデルのマウスに投与しました。その結果、心臓の線維化が劇的に減少し、心機能が回復することを示したのです 24。これは、CAR-T技術ががん以外の疾患にも有効であることを示す、重要な概念実証となりました。
しかし、本当のブレークスルーはその3年後、2022年に訪れます。エプスタイン博士のチームは、ワイスマン博士らとも協力し、今度は体外での細胞操作を一切行わずに、同じ効果を体内で(in vivo)再現することに成功したのです。その成果は、世界で最も権威ある科学誌の一つ『Science』に掲載されました 26。この研究で彼らが用いたのが、まさにCapstan社の技術の原型となるものでした。抗FAP CARの設計図であるmRNAを、T細胞の表面にあるCD5という分子を標的とするLNP(tLNP)に搭載し、マウスに注射したのです。その結果、マウスの体内でT細胞がCAR-T細胞へと一時的に変化し、心臓の線維化を見事に抑制しました 21。この報告の著者リストには、後にCapstan社の創業者となる主要な科学者たちの名前が連ねられており 27、これが同社の科学的な設計図となりました。
この確固たる科学的基盤をもとに、2022年、Capstan Therapeutics社は正式に創業します。ペンシルベニア大学のmRNA、細胞医療、そしてLNPの各分野の専門家たちが結集し、in vivo精密医療の実用化という目標を掲げました。その革新的な技術は、すぐに目先の利く投資家たちの注目を集めます。創業に際し、シードラウンドとシリーズAラウンドを合わせて、総額1億6500万ドルという巨額の資金を調達しました。その出資者のリストには、ノバルティス、ファイザー、イーライリリー、ブリストル マイヤーズ スクイブ(BMS)といった、世界の名だたる製薬企業が名を連ねていました。通常、競合関係にある大手製薬企業がこぞって同じスタートアップに投資するのは異例のことです。これは、Capstan社の技術が、特定の製品にとどまらない、業界全体を揺るがしかねないほどの基盤的な価値を持つと、多くの専門家が見なしていたことの何よりの証拠と言えるでしょう。
さらに2024年3月には、シリーズBラウンドで1億7500万ドルもの追加資金を調達し、その勢いは加速します。この資金調達を主導したRA Capital社をはじめ、ジョンソン・エンド・ジョンソンなど、さらに多くの有力投資機関が加わりました。この時点で、Capstan社は、最初の研究対象であった心臓線維化から、より臨床応用が進んでいる自己免疫疾患の領域へと戦略的な軸足を移していました。リード開発品であるCPTX2309は、B細胞の表面にあるCD19という、自己免疫疾患への関与がよく知られている分子を標的とするものです 28。これは、すでにがん治療でその有効性が証明されている抗CD19 CAR-T療法の知見を応用する、賢明な戦略でした。
このように、Capstan社の歩みは、世界最高峰の学術研究機関における基礎科学の発見が、卓越したビジョンを持つ起業家と、その価値を見抜いた投資家たちの支援によって、わずか数年で数十億ドル規模の企業価値を持つ事業へと昇華した、バイオテクノロジーの世界における成功物語の典型例なのです。
AbbVie社による買収の戦略的意味
2025年、最大で21億ドルという巨額の対価を支払ってCapstan社を買収するというAbbVie社の決断は、一見すると大胆な賭けのように見えるかもしれません。しかし、AbbVie社が置かれている事業環境と同社の将来戦略を深く分析すると、この買収は極めて論理的かつ必然的な一手であったことが浮かび上がってきます。
まず、AbbVie社の現状を理解する必要があります。同社は、関節リウマチなどの自己免疫疾患治療薬「ヒュミラ」によって、長年にわたり世界の医薬品市場に君臨してきました 29。ヒュミラは、世界で最も売れた医薬品として知られ、AbbVie社の収益の根幹を支える巨大な柱でした。しかし、その特許が切れたことで、バイオシミラー(後続品)が次々と市場に参入し、ヒュミラの売上は急激な減少に直面しています 13。これは「ヒュミラクリフ(崖)」と呼ばれ、同社にとって最大の経営課題でした。この巨大な収益の穴を埋めるためには、既存の製品の売上を伸ばすだけでは不十分であり、次世代の成長を牽引する、全く新しい革新的な治療法を確保することが急務だったのです。
このような背景の中、AbbVie社は自社の研究開発戦略を明確に打ち出していました。同社の公開資料を見ると、「病理的な免疫活動を抑制するだけでなく、免疫寛容を誘導すること」、つまり免疫システムを正常な状態にリセットすることを目指すという、より根源的な治療への関心が示されています 31。さらに、「標的化ドラッグデリバリープラットフォーム」、「RNA治療」、そして「in situ(その場での)細胞リプログラミング」といった、次世代の技術プラットフォームへの投資を重点分野として挙げていました 31。
ここで、Capstan社の技術とAbbVie社の戦略を並べてみると、その驚くべき一致が見えてきます。Capstan社が開発するCPTX2309は、まさに「in situ細胞リプログラミング」を可能にする「RNA治療」であり、その実現の鍵は「標的化ドラッグデリバリープラットフォーム」であるtLNPです。そして、その治療が目指すのは、病気の原因となるB細胞を一時的に除去し、免疫システムが正常な細胞を再構築する機会を与える「免疫リセット」です 33。これは、AbbVie社が掲げる「免疫寛容の誘導」という目標と完全に合致しています。この買収は、偶然の出会いではなく、AbbVie社が探し求めていた未来のパズルの、まさに最後のピースを見つけ出したかのような、完璧な戦略的フィットだったのです 13。
この買収が示すもう一つの重要な点は、AbbVie社の治療哲学における大きな転換です。ヒュミラに代表される従来の自己免疫疾患治療薬は、症状を抑え続ける「慢性管理型」の治療でした。患者さんは、生涯にわたって薬を使い続ける必要があります。一方で、Capstan社の技術が目指すのは、免疫システムをリセットすることで、長期間にわたって薬剤を必要としない「寛解」、あるいは「治癒」を目指す治療法です。これは、AbbVie社が自社の成功モデルであった慢性治療のビジネスモデルから、より根治を目指す未来の医療へと、自ら舵を切ることを意味します。ヒュミラの特許切れという危機を、自社のビジネスモデルを次世代へと飛躍させる好機と捉えた、極めて戦略的な転換なのです。
AbbVie社が21億ドルという大金を投じたのは、CPTX2309という一つの開発品に対してだけではありません。彼らが手に入れたのは、免疫学、皮膚科学、消化器病学といった自社の広範なパイプラインに応用可能な、tLNPという強力な「技術プラットフォーム」そのものです 31。標的とする細胞や、送り込むmRNAを入れ替えることで、今後何年にもわたって新しい治療薬を生み出し続けることができるイノベーションのエンジンを獲得したのです。この買収は、AbbVie社が免疫学のリーダーとしての地位を未来にわたって維持し、さらに強化していくための、最も重要な戦略的投資であったと言えるでしょう。
治療の未来を書き換える ― in vivo CAR-T療法が拓くもの
AbbVie社によるCapstan社の買収は、単なる企業間の取引という枠を超え、私たちが病気とどう向き合うかという、医療の未来そのものを描き出す象徴的な出来事です。本記事で見てきたように、この出来事は、複雑で高価なオーダーメイド治療であった細胞療法が、より多くの患者さんのもとへ届く標準的な医薬品へと進化する、大きな転換点を示しています。その進化の旅は、体外で細胞を加工するex vivo CAR-T療法の輝かしい成功と、同時に露呈した限界から始まりました。そして、その限界を乗り越えるためのエレガントな解決策として、患者さんの体内で直接細胞を改変するin vivo CAR-T療法というアイデアが生まれ、それを可能にするtLNPという精密な運び屋の技術によって、現実のものとなろうとしています。
この技術がもたらす変革は、自己免疫疾患の治療にとどまりません。Capstan社が開発したtLNPプラットフォームの真価は、その驚異的な柔軟性と拡張性にあります。これは、様々な疾患を治療するための、いわば「OS(オペレーティングシステム)」のようなものです。
例えば、がん治療の領域では、自己免疫疾患で用いる抗CD19 CARの代わりに、特定のがん抗原を標的とするCARの設計図をmRNAとして搭載することで、強力ながん免疫療法をin vivoで確立できる可能性があります。これにより、ex vivo CAR-T療法が抱えていたコストや時間の制約から解放され、より多くの固形がん患者さんなどにも治療の選択肢が広がるかもしれません。
また、この技術の原点であった心臓線維化のような、これまで有効な治療法が乏しかった線維性疾患への応用も期待されます 2。線維化の原因となる細胞を標的とするCARを送り込むことで、硬くなった組織を再生させ、臓器の機能を回復させるという、夢のような治療が実現する可能性があります。
さらに、その応用範囲は遺伝性疾患にまで及びます。CARの設計図の代わりに、CRISPR-Cas9のようなゲノム編集ツールの設計図をmRNAとして搭載し、それを造血幹細胞のような特定の細胞に届けることができれば、病気の原因となる遺伝子そのものを体内で修復する治療が可能になるかもしれません。
これらの未来像が示すのは、患者さん一人ひとりの治療体験の劇的な変化です。数週間にわたる入院と、身体に大きな負担をかける化学療法を伴う複雑なプロセスが、外来での一回の点滴投与へと変わる可能性があるのです 10。これは、人類が手にした最も強力な治療法の一つである細胞療法が、一部の限られた人々のためのものではなく、誰もがアクセスできる「民主化」された医療となることを意味します。
AbbVie社とCapstan社の統合は、製薬業界全体にとっても大きな潮流の変化を告げています。それは、既存薬のわずかな改良を追い求めるのではなく、疾患の根本原因にアプローチし、治療のパラダイムそのものを変えうる、基盤的なプラットフォーム技術への投資が、企業の未来を左右するという明確なメッセージです。この取引をきっかけに、in vivoでの細胞・遺伝子治療への研究開発投資は世界的に加速していくことでしょう。
私たちは今、体内の細胞に直接指令を送り、その機能を自在にプログラムすることで病を治すという、新しい時代の入り口に立っています。それは、体内に「薬を作る工場」を一時的に建設するようなものです。AbbVie社によるCapstan社の買収は、その未来への扉を開く、歴史的な一歩として、長く記憶されるに違いありません。
参照情報
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- マルチドメイン融合リガンドを有するレンチウイルスベクターを用いた、非ヒト霊長類におけるCAR T細胞のin vivo生成 | 公益財団法人 大阪難病研究財団, https://nanbyo.or.jp/updates/202411ok/
- CAR-T(カーティー)細胞療法とは | 安城更生病院 Anjo Kosei Hospital, https://anjokosei.jp/mame/mame-35/
- 第 3 回「標的特異性を有する in vivo 遺伝子治療用製品の ベクターに関する評価の考え方」専門 - PMDA, https://www.pmda.go.jp/files/000265118.pdf
- CAR-T療法とは|【公式】キムリア.jp-医療関係者向け情報サイト, https://www.kymriah.jp/hcp/moa/car_t.html
- CAR-T細胞療法は新たながん免疫療法 仕組みや副作用を解説 - 瀬田クリニック東京, https://www.j-immunother.com/column/car-Medicalcare/
- 次世代CAR-Tへの挑戦 | Novartis Japan, https://www.novartis.com/jp-ja/research-development/technology-platforms/cell-therapy/charging-towards-next-generation-car-t
- 難治性がん治療で期待も、超高額なCAR-T療法を安くする方法 - MITテクノロジーレビュー, https://www.technologyreview.jp/s/333703/the-effort-to-make-a-breakthrough-cancer-therapy-cheaper/
- In vivoのCAR-T治療の可能性 - 医薬政策企画 P-Cubed, https://www.pcubed.jp/medicine/20250529-3764/
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