デジタルヘルス

【医師が処方】ゲームでADHDを治療?「エンデバーライド」とは

2025年9月1日

現代の医療は、医薬品や外科手術といった伝統的な治療法に加え、テクノロジーの力を活用した新たな治療法を開拓しています。その最前線に位置するのが、「デジタルセラピューティクス(Digital Therapeutics)」、略してDTxと呼ばれる分野です。これから、この革新的な治療法がどのようなものなのか、その基本からご説明します。

まず理解すべき最も重要な点は、DTxが一般的な健康増進アプリやフィットネスアプリとは一線を画すものであるということです。DTxは、質の高いソフトウェアによって駆動される、科学的根拠に基づいた治療的介入を提供するものです 1。その目的は、医学的な疾患や障害を予防、管理、または治療することにあります 3。この定義からもわかるように、DTxは単なる健康支援ツールではなく、それ自体が治療行為を構成する「医療」そのものです。

この分野の信頼性と安全性を担保するために、業界団体のデジタルセラピューティクスアライアンス(Digital Therapeutics Alliance)は、DTx製品が遵守すべき厳格な基本原則を定めています。それによれば、真のDTx製品は、その有効性と安全性を証明するために質の高い臨床評価を経ていなければならず、規制当局による審査や承認を受けることが求められます 1。そして、その科学的根拠に基づいて検証された範囲内でのみ、治療効果を主張することが許されます。このプロセスは、私たちが普段利用する医薬品が、厳しい臨床試験を経て承認される過程と何ら変わりません。実際に、DTx製品の中には、医師の処方箋がなければ使用できないものも存在します 2

DTxが登場した背景には、従来の治療法が抱える課題がありました。特に、注意欠如・多動症(ADHD)のような精神・神経疾患の領域では、薬物療法に伴う副作用や、専門的な行動療法を受けられる訓練された専門家の不足といった問題が長年指摘されてきました 5。例えば、ADHDの治療薬は有効性が高い一方で、食欲不振やいらだちといった副作用が懸念されることがあります 6。また、行動療法は専門家へのアクセスが限られているため、必要な子どもたち全員が恩恵を受けられるわけではありません 5

DTxは、こうした医療現場の「満たされないニーズ」に応えるための、新しい解決策として期待されています。ソフトウェアという形態をとることで、患者は自宅にいながら、あるいは好きな場所で治療を受けることが可能になります。これにより、地理的な制約や専門家不足といった、医療へのアクセスに関する障壁を低減できる可能性があります 3。さらに、治療内容を個々の患者の状態に合わせて最適化したり、治療への取り組み状況をデータとして正確に記録したりすることも可能です。このように、DTxは、従来の治療法が持つ限界を克服し、より個別化され、アクセスしやすく、継続しやすい医療を提供する可能性を秘めているのです。本記事で詳しく解説する「EndeavorRx」は、まさにこのDTxという新しい医療の形を体現した、画期的な事例と言えるでしょう。

「薬」になるゲームの誕生

医療の歴史に新たな一ページを刻んだ治療用ゲームアプリ「EndeavorRx」は、米国のベンチャー企業、Akili Interactive Labs(以下、Akili社)によって開発されました 9。Akili社は、自らを単なるゲーム会社やIT企業ではなく、「処方箋デジタル医薬品企業(prescription digital medicine company)」と定義しています 10。この定義には、同社の核心的なビジョンが込められています。それは、世界レベルの神経科学研究から得られる厳密な知見と、人々を夢中にさせるハイエンドなビデオゲームのエンターテインメント性を融合させることで、全く新しいカテゴリーの医療を創出するというものです 10

EndeavorRxの開発名は「AKL-T01」や「Project: EVO」として知られており、そのルーツはカリフォルニア大学サンフランシスコ校の研究者らとの共同研究で生まれたプロトタイプゲーム「NeuroRacer」にまで遡ります 12。この初期の研究から、特定の認知課題をゲーム形式で行うことが、脳機能に影響を与えうるという可能性が見出されました。Akili社は、この科学的基盤を発展させ、治療効果を持つ本格的な医療機器としてのソフトウェア開発へと乗り出したのです。

Akili社の挑戦は、二つの全く異なる世界の融合を目指すものでした。一つは、ユーザーのエンゲージメントや迅速な製品改良を重視する、変化の速いテクノロジー業界。もう一つは、何年にもわたる臨床試験による科学的根拠の構築と、厳格な規制当局の審査を最優先する、慎重で時間のかかる製薬・医療機器業界です。Akili社は、この両方の世界で成功を収めなければなりませんでした。製品は、子どもが毎日継続して使いたくなるほど魅力的でなければならず、同時に、医師が自信を持って処方できるほど科学的に有効かつ安全であることが証明されなければなりません。この困難な課題を乗り越えるため、同社は神経科学者とゲームデザイナーが協働する、他に類を見ないハイブリッドなチームを組織しました 10

さらに、Akili社の視野はADHD治療だけに留まりません。同社は、大うつ病性障害(MDD)や自閉症スペクトラム障害(ASD)など、他の精神・神経疾患における認知機能障害を対象とした製品開発も進めています 10。これは、EndeavorRxを支える中核技術が、単一の疾患に対する解決策ではなく、様々な疾患に共通して見られる認知機能の問題に応用可能な「プラットフォーム技術」であるという自信の表れです。この革新的なビジネスモデルと将来性への期待は、著名な投資家が主導する形で、同社が特別買収目的会社(SPAC)を通じて株式市場に上場するという大きな動きにも繋がりました 9。こうして、ゲームを「薬」として患者に届けるという前例のない挑戦は、科学界と産業界の大きな注目を集めながら、現実のものとなっていったのです。

脳の「注意機能」を鍛える仕組み

EndeavorRxがどのようにして治療効果を発揮するのかを理解するためには、その科学的な心臓部へと目を向ける必要があります。この治療法の主な標的は、脳の「前頭前野」と呼ばれる領域です 15。前頭前野は、物事に注意を向け、計画を立て、行動をコントロールするといった、高度な思考や判断を司る「司令塔」のような役割を担っています。ADHDを持つ子どもたちの場合、この前頭前野の機能に何らかの特性があることが、不注意や多動性といった症状の一因と考えられています。

EndeavorRxの治療メカニズムの核となるのが、Akili社が独自に開発し、特許を取得した「Selective Stimulus Management Engine」、通称「SSME™」と呼ばれる技術です 10。このSSME™は、特定の感覚情報(視覚や聴覚からの刺激)と、それに対応する運動(デバイスの操作)を、プレイヤーに同時に、かつ連続的に要求するように設計されています 11。これは「二重課題」あるいは「マルチタスキング」と呼ばれるパラダイムに基づいています 9

しかし、単に二つの作業を同時に行わせるだけでは、治療にはなりません。SSME™の真髄は、その「適応型アルゴリズム」にあります。このアルゴリズムは、プレイヤーのパフォーマンスを1秒ごとに監視し、その成績に応じてゲームの難易度をリアルタイムで自動調整します 10。例えば、プレイヤーが課題をうまくこなせるようになれば、アルゴリズムは即座に難易度を上げ、より高い集中力を要求します。逆に、ミスが続けば、少しだけ難易度を下げ、プレイヤーが課題を遂行できるぎりぎりのレベルを保ちます。

このプロセスは「閉ループシステム(closed-loop system)」と呼ばれ、プレイヤーの能力の限界ぎりぎりで挑戦を継続的に提供し続けることを可能にします 20。脳神経科学の分野では、脳が新しい神経回路を形成したり、既存の回路を強化したりする「神経可塑性」という性質を持つことが知られています。この神経可塑性を引き出すためには、脳に適度な負荷をかけ、挑戦させ続けることが重要とされています。SSME™の適応型アルゴリズムは、まさにこの原則を応用したものです。常に個々のプレイヤーにとって最適な認知負荷をかけ続けることで、注意機能に関わる前頭前野の神経回路を選択的に刺激し、その機能を活性化させることを目指しているのです 15

したがって、EndeavorRxは単に「楽しいゲーム」なのではなく、その裏側で、一人ひとりの脳の状態に合わせて精密に調整された認知トレーニングを施す、高度な医療機器と言えます。この連続的かつ個別化された挑戦こそが、エンターテインメントとしてのゲームと、治療としてのEndeavorRxを分ける決定的な違いです。

治療としてのゲームプレイ

EndeavorRxによる治療は、非常に体系化された方法で行われます。医師から処方を受けた子どもは、通常、1日あたり約25分間、週に5日間、これを4週間にわたって継続するという治療計画に従います 12。これは、薬を毎日決まった時間に服用するのと同じように、決められた「用法・用量」を守ることが重要であることを示しています。

実際のゲームプレイでは、子どもはスマートフォンやタブレット上で、宇宙船のようなキャラクターを操作します 12。主な操作は二つです。一つは、デバイス本体を左右に傾けることでキャラクターを操縦する「ステアリング」という運動課題。もう一つは、画面上に出現する特定のターゲットだけを選んでタップし、それ以外の「おとり」のターゲットは無視するという「タッピング」という認知課題です 19。そして、治療の中核をなすのが、このステアリングとタッピングを同時に行わなければならない「マルチタスキング」の状況です 23。プレイヤーは、障害物を避けながらコースを進み、同時に、次々と現れるターゲットの中から正しいものだけを瞬時に見分けて反応しなくてはなりません。

このゲーム体験は、意図的に挑戦的になるように設計されています。前述のSSME™アルゴリズムが常にプレイヤーの能力の限界を引き出そうとするため、時には難しすぎてイライラ(フラストレーション)を感じることもあります 12。しかし、この「難しい」と感じる状態こそが、脳の注意機能を鍛えている証拠でもあるのです。そのため、保護者には、この挑戦的な性質が治療の一環であることを子どもに説明し、励ますことが推奨されています 24

一般的なビデオゲームと大きく異なる点として、EndeavorRxには明確な「勝ち」や「完全クリア」という概念が存在しません 19。目的は、アルゴリズムによって個別最適化された挑戦に、一貫して真剣に取り組むこと自体にあります。この設計思想は、ゲームが過度な娯楽とならないようにするための重要な工夫です。さらに、1日のプレイ時間が約25分に達すると、アプリは自動的にロックされ、その日はそれ以上プレイできなくなります 23。この「ロックアウト機能」は、治療が決められた「服用量」を超えて行われるのを防ぎ、保護者が抱きがちなビデオゲームのやりすぎに対する懸念を払拭する役割も果たしています。

このように、EndeavorRxのゲームプレイは、楽しさの中に治療的要素を巧みに組み込み、用法・用量を厳密に管理することで、単なる娯楽ではない、管理された医療行為としての体裁を整えているのです。治療を成功させるためには、ゲームを日々の生活習慣に組み込み、静かな環境を整えるなど、行動療法的なアプローチが推奨されており、ソフトウェアとそれを取り巻く環境が一体となって治療プログラムを形成します 17

世界初の承認へ:米国での道のり

EndeavorRxが医療の歴史において画期的な製品であると位置づけられる最大の理由は、その規制当局による承認プロセスにあります。2020年6月15日、Akili社のEndeavorRxは、米国の食品医薬品局(FDA)から、治療目的の医療機器として販売の承認(クリアランス)を受けた世界初のビデオゲームとなりました 9。これは、ソフトウェア、特にビデオゲームが、医薬品と同様に処方されうる「治療薬」として公的に認められた歴史的な瞬間でした。

この画期的な承認は、「デノボ(De Novo)分類」という特別な規制経路を通じて達成されました 20。FDAの医療機器承認プロセスにはいくつかの種類がありますが、De Novo経路は、これまでに存在しなかった全く新しい種類の医療機器のために用意されています 27。具体的には、リスクが低い、あるいは中程度でありながら、その新規性のために比較対象となる「既存の承認済み機器(predicate device)」が存在しない場合に適用されます 26。EndeavorRxはまさにこのケースに該当しました。ビデオゲームを治療機器として承認した前例はなかったのです。

このDe Novoプロセスを通じて、FDAはEndeavorRxを「クラスII医療機器」に分類しました 29。米国の医療機器はリスクに応じてクラスI(低リスク)、クラスII(中リスク)、クラスIII(高リスク)に分けられます。クラスIIは、一般的な管理(品質管理システムの遵守など)だけでは安全性と有効性を十分に保証できず、特別な管理(性能基準の設定や市販後調査など)が必要とされる機器が該当します 26。さらに重要なのは、FDAがこの承認に伴い、「ADHD向けデジタル治療機器(Digital therapy device for Attention Deficit Hyperactivity Disorder)」という新しい医療機器カテゴリーを創設したことです 20。製品コードとして「QFT」が割り当てられました 20

このDe Novo承認がもたらした影響は、単に一つの製品が市場に出ることを許可しただけに留まりません。EndeavorRxがFDAに承認されたことで、それはこの新しいカテゴリーにおける最初の「predicate device」となりました。これは、将来、他の企業が同様のゲームベースのADHD治療用アプリを開発した場合、もはや時間とコストのかかるDe Novoプロセスを経る必要がなく、EndeavorRxと「実質的に同等」であることを証明すればよい、より迅速な「510(k)」という承認経路を利用できるようになったことを意味します 28。つまり、Akili社のこの一つの成功が、後続の製品開発のための道を切り拓き、この分野全体の発展を促す起爆剤となったのです。

また、この承認により、EndeavorRxは医師の処方箋によってのみ販売・使用が許可される処方箋医療機器としての地位を確立しました 11。これは、製品が消費者向けのウェルネスアプリとは明確に区別され、医師や保険会社からも信頼される、正統な医療ツールとして扱われるための極めて重要な一歩でした。

有効性の科学的証明:STARS-ADHD基幹試験

ある治療法が規制当局から承認を得るためには、その有効性と安全性が科学的に厳密に証明されなければなりません。EndeavorRxの場合、その中核をなしたのが「STARS-ADHD」と名付けられた基幹臨床試験です。この試験の結果は、世界的に権威のある医学雑誌の一つである『The Lancet Digital Health』に掲載され、その科学的な質の高さを示しました 30

この試験は、科学的信頼性が最も高いとされる「ランダム化比較二重盲検試験」という手法で設計されました 33。対象となったのは、ADHDと診断された8歳から12歳の子ども348名で、試験期間中はADHD治療薬を服用していないことが参加条件でした 30。参加者はランダムに二つのグループに分けられました。一方のグループはEndeavorRx(当時はAKL-T01と呼ばれていました)を、もう一方のグループは「アクティブコントロール(対照群)」と呼ばれる、別のゲームをプレイしました 16。この対照群のゲームは、単語を作るパズルゲームで、EndeavorRxと同様に子どもが楽しめるように設計されていましたが、治療の核となるSSME™アルゴリズムは搭載されていませんでした 20。対照群に単なる無治療ではなく、別の魅力的なゲームを用いることで、「ゲームをプレイする」という行為自体がもたらすプラセボ効果などの影響を排除し、EndeavorRx特有の治療効果を正確に評価することが可能になります。この厳密なデザインが、試験結果の信頼性を高める上で極めて重要でした。

試験の主要な評価項目、つまり成功を測るための最も重要な指標は、「TOVA(Test of Variables of Attention)」という客観的な注意機能検査のスコアの変化でした 16。TOVAはFDAに承認されたコンピューターベースのテストで、持続的注意や選択的注意といった能力を数値で評価することができます。

4週間の治療期間後、結果は明確でした。EndeavorRxをプレイしたグループは、対照群のゲームをプレイしたグループと比較して、TOVAの注意機能スコア(API)が統計的に有意に改善したのです 33。この統計的な有意差を示す

p値は0.006であり、この結果が偶然によるものではないことを強く示唆しています 16

一方で、副次的な評価項目として設定された、保護者が評価するADHDの行動症状評価尺度(ADHD-RS)などでは、EndeavorRx群の方が改善傾向は見られたものの、対照群との間に統計的に有意な差は認められませんでした 33。この結果の解釈は非常に重要です。これは、EndeavorRxがまず、脳の根幹的な「認知機能」である注意力を直接的に改善することを示唆しています。しかし、その認知機能の改善が、すぐに多動性や衝動性といった、保護者が観察する日常的な「行動」の全てに変化として現れるとは限らない、ということです。この科学的知見を正確に反映し、FDAが承認したEndeavorRxの適応は、「コンピューターベースのテストによって測定された注意機能を改善する」こととされ、「多動性などの典型的な行動症状における利益を示さない可能性がある」という注意書きが添えられています 20。これは、この治療法が何を行い、何を行わないのかを、臨床現場に正確に伝えるための、誠実かつ科学的な姿勢の表れと言えるでしょう。

治療の選択肢を広げる:薬物療法との併用

STARS-ADHD基幹試験がEndeavorRxの単独での有効性を証明した一方で、実際の臨床現場では多くのADHDの子どもたちが既に薬物療法を受けています。そこで重要になったのが、「EndeavorRxは薬物療法と併用できるのか、また併用した場合にさらなる効果が期待できるのか」という問いに答えることでした。この問いに答えるために実施されたのが、「STARS-Adjunct」試験です 35

この試験の目的は、EndeavorRxを既存の治療への「アジャンクト(adjunct)」、つまり補助的な治療法として用いた際の有効性を評価することでした 35。試験にはADHDと診断された8歳から14歳の子ども206名が参加しました。参加者は二つのグループに分けられました。一つは、ADHDの治療のために中枢神経刺激薬を既に服用しているグループ(130名)、もう一つは薬物療法を受けていないグループ(76名)です 35。このデザインにより、薬物療法を受けている子どもとそうでない子どもの両方で、EndeavorRxの上乗せ効果を検証することができました。なお、この試験は参加者が自身が受けている治療内容を知っている「オープンラベル」形式で行われました。

治療スケジュールも特徴的でした。参加者はまず4週間EndeavorRxを使用し、その後4週間の休止期間を挟み、さらに再び4週間の治療を行いました 35。このデザインにより、治療効果の持続性や、再治療による効果の増強があるかどうかも評価されました。

結果は非常に有望なものでした。最初の4週間の治療後、薬物療法を受けているグループと受けていないグループの両方で、ADHDに関連する機能障害の程度を評価する尺度(Impairment Rating Scale, IRS)が、統計的に有意に改善しました 35。これは、EndeavorRxが薬物療法と併用した場合でも、単独で使用した場合でも、子どもの日常生活における困難さを軽減する効果があることを示唆しています。

さらに興味深いことに、4週間の休止期間中も改善された効果は維持され、その後の2回目の4週間の治療によって、機能障害はさらに改善しました 35。この結果は二つの重要な点を示しています。一つは、EndeavorRxによる治療効果が、治療を中断してもすぐには消えない、ある程度の持続性を持つ可能性があることです。もう一つは、治療を繰り返すことで効果が積み重なっていく、累積的な利益が期待できる可能性です。これは、EndeavorRxを、脳の「筋力トレーニング」のように、長期的な治療計画の中で周期的に用いるという新しい治療戦略の可能性を示唆するものです。

このSTARS-Adjunct試験の結果は、EndeavorRxの位置づけを大きく変えました。それはもはや、薬物療法の単なる「代替」選択肢ではなく、既存の標準治療を補い、さらなる改善を目指すための強力な「補完」ツールとなりうることを証明したのです。これにより、EndeavorRxはより多くの患者にとっての治療選択肢となり、臨床医が既存の治療計画に組み込みやすい、実用性の高い治療法としての地位を確立しました。

安全性と考慮すべき点

新しい治療法を評価する上で、その有効性と同じくらい重要なのが安全性です。EndeavorRxは、600人以上の子どもたちが参加した複数の臨床試験を通じて、その安全性プロファイルが慎重に検討されてきました 9

最も重要な点として、主要な臨床試験において、重篤な有害事象は一件も報告されていません 16。報告された副作用のほとんどは、軽度で一過性のものでした。最も一般的に見られた副作用には、イライラ感(フラストレーション)、頭痛、感情的な反応、めまい、攻撃性などが含まれます 12。これらのうち、最も頻度が高かったのはフラストレーションで、これは参加者の約3パーセントから6パーセントで報告されています 20

この「フラストレーション」という副作用は、EndeavorRxの治療メカニズムと深く関連していると理解することが重要です。前述の通り、このゲームは適応型アルゴリズムによって、常にプレイヤーを自身の認知能力の限界で挑戦させ続けるように設計されています 20。能力の限界で作業することは本質的に困難であり、イライラを伴うことがあります。実際に、保護者向けの使用説明書には、このゲームが意図的に挑戦的であり、時にフラストレーションを感じるものであることを子どもに伝えておくよう助言されています 19。したがって、最も一般的な副作用である軽度のフラストレーションは、治療が意図通りに機能し、脳に適切な負荷がかかっていることの表れと解釈することもできます。

安全性に関するもう一つの重要な点は、EndeavorRxがどのように位置づけられているかです。Akili社と規制当局は、この治療法が「治療プログラムの一部として考慮されるべき」ものであり、「スタンドアロンの治療法として意図されたものではなく、子どものADHD治療薬の代替ではない」と明確に述べています 11。これは、ADHDが学業、社会性、行動など多岐にわたる側面を持つ複雑な障害であり、単一の介入だけで全てが解決するわけではないという臨床的な現実を反映しています。EndeavorRxは、医師による治療、薬物療法、教育プログラムなどを含む、包括的なアプローチの一部としてその真価を発揮するのです。この位置づけは、過度な期待を防ぎ、臨床医が既存の治療法と組み合わせてこの新しいツールを安全かつ効果的に活用することを促す、責任ある戦略と言えます。

また、全ての人に適しているわけではなく、例えば光感受性てんかんを持つ患者や、色覚異常、その他モバイルデバイスの使用を妨げる身体的制約のある患者には適さない可能性があるため、使用前には必ず医師との相談が必要です 20。これらの情報を総合すると、EndeavorRxは、適切に使用されれば非常に良好な安全性プロファイルを持つ、管理された医療介入であると結論づけられます。

日本における展開:「エンデバーライド」

EndeavorRxの革新的なアプローチは、米国市場に留まらず、世界へと展開されています。その中でも特に重要なのが、日本市場への導入です。このグローバル展開を実現するために、Akili社は日本の大手製薬企業である塩野義製薬株式会社と戦略的なパートナーシップを締結しました 9。この契約により、塩野義製薬はEndeavorRxの日本および台湾における独占的な開発・販売権を獲得しました 16

日本市場向けにローカライズされたこの治療用アプリは、「ENDEAVORRIDE(エンデバーライド)」と名付けられました 39。海外で開発された医薬品や医療機器を日本で承認・販売するためには、日本の規制当局である医薬品医療機器総合機構(PMDA)の厳格な審査を通過する必要があります。そのため、塩野義製薬は、エンデバーライドの有効性と安全性を日本人集団で確認するための、独自の臨床開発プログラムを実施しました。これには、第II相臨床試験や、承認申請の基盤となる重要な第III相臨床試験が含まれています 9

これらの国内臨床試験で良好な結果が得られたことを受け、エンデバーライドは「小児期における注意欠如多動症(ADHD)の治療補助」を目的として、日本の厚生労働省から製造販売承認を取得しました 18。その承認番号は30600BZX00176000です 40。これは、日本において小児ADHD患者を対象とした治療用アプリが承認された初めてのケースであり、日本のADHD治療に新たな選択肢をもたらす画期的な出来事となりました 18。これにより、従来のカウンセリングや薬物療法に加え、ゲームという新しい形の治療法が提供されることになります。

この日本での成功は、いくつかの点で非常に大きな意味を持ちます。第一に、米国で開発・検証された治療モデルが、異なる文化や人種的背景を持つ日本の患者集団においても有効であることを科学的に証明したことです。FDAとPMDAという、世界で最も厳格な規制当局の両方から承認を得たという事実は、この治療法の普遍的な価値を強く裏付けています。

第二に、米国の革新的なバイオテック企業(Akili社)と、日本の経験豊富な大手製薬企業(塩野義製薬)とのパートナーシップが、グローバルなDTx商業化の成功モデルを示したことです 9。Akili社が持つ革新的な技術と、塩野義製薬が持つ日本市場に関する深い知見、規制対応能力、そして販売網が組み合わさることで、この新しい治療法を日本の患者へ届けるという困難な事業が実現しました。両社間の契約内容には、開発の進捗に応じた支払いなど、複雑な金銭的取り決めも含まれており、DTx製品をグローバル市場に投入するためのビジネスの現実的な側面も示しています 39。エンデバーライドの日本での展開は、技術的な革新だけでなく、国際的な事業戦略の観点からも注目すべき事例なのです。

デジタル治療の未来

本記事でご紹介してきたEndeavorRxの物語は、単一の製品の成功譚に留まりません。それは、医療がデジタル技術と融合することで、全く新しい治療の形を生み出しうるという、未来への大きな可能性を具体的に示したものです。EndeavorRxは、ビデオゲームが処方箋医薬品となりうるという概念を理論から現実へと引き上げ、医療界にパラダイムシフトを促した真のパイオニアと言えるでしょう 9

この治療用アプリが持つ意義は多岐にわたります。まず、ADHDケアにおける長年の課題に応えた点が挙げられます。薬物療法以外の選択肢を求める声に応え、良好な安全性プロファイルを持つ非薬物療法を提供しました 5。また、ゲームという魅力的で没入感のあるフォーマットを採用することで、特に子どもたちにとって困難となりがちな治療への継続的な取り組み、すなわちアドヒアランス(服薬遵守)を向上させる可能性を示しました 8

EndeavorRxが切り拓いた道は、後続のDTx開発者たちにとっての道標となります。FDAのDe Novo承認プロセスを成功裏に通過したことで、同様の製品が承認を目指すための規制上の道筋が明確になりました 28。また、権威ある医学雑誌での論文発表や、日米両国での承認獲得は、DTxという分野全体の科学的信頼性を大きく高めました。これにより、投資家、他の企業、そして何よりも臨床医や患者が、デジタルによる介入を真剣な治療選択肢として捉える素地が築かれたのです。

今後、私たちはEndeavorRxを先駆けとして、様々な神経・精神疾患を対象としたDTxの波が訪れることを期待できます 14。Akili社自身も、うつ病や自閉症など、他の疾患への応用を研究しています。これらの新しい治療法は、患者一人ひとりの状態をリアルタイムでデータ化し、それに基づいて治療内容を個別最適化するという、真の個別化医療(パーソナライズド・メディシン)を加速させるでしょう。

EndeavorRxの登場はまた、患者の役割にも変化をもたらします。従来の治療では、患者は薬を受け取る受動的な存在になりがちでした。しかし、EndeavorRxのようなインタラクティブな治療では、患者自身の積極的で主体的な参加が治療効果に直結します。患者は自らの努力で治療プロセスを推進する、能動的な参加者となるのです。

結論として、EndeavorRxは、テクノロジーが単に医療を効率化するだけでなく、治療そのものの本質を変えうることを証明しました。その旅路は、デジタル治療が未来の医療において、薬物療法や行動療法と並ぶ標準的な柱の一つとなる可能性を力強く示しています。ゲームが「薬」になるという、かつてはSFの世界だった光景は、今や私たちの目の前にある現実なのです。

引用文献

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  9. ビデオゲームがADHD治療に!?FDA承認済み『EndeavorRx』 – alldtx.com,https://alldtx.com/product-best/mentalhealth-best-product-pickup-best/endeavorrx-akili-interactive-labs/
  10. Akili Interactive,https://www.akiliinteractive.com/
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  12. EndeavorRx - Wikipedia,https://en.wikipedia.org/wiki/EndeavorRx
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  31. A novel digital intervention for actively reducing severity of paediatric ADHD (STARS-ADHD): a randomised controlled trial - Johns Hopkins University,https://pure.johnshopkins.edu/en/publications/a-novel-digital-intervention-for-actively-reducing-severity-of-pa
  32. A novel digital intervention for actively reducing severity of paediatric ADHD (STARS-ADHD): a randomised controlled trial - ResearchGate,https://www.researchgate.net/publication/339480960_A_novel_digital_intervention_for_actively_reducing_severity_of_paediatric_ADHD_STARS-ADHD_a_randomised_controlled_trial
  33. STARS-ADHD Pivotal Study - EndeavorOTC,https://www.endeavorotc.com/evidence/stars-adhd-pivotal-study/
  34. EndeavorRx® - Digital Therapeutics Alliance,https://dtxalliance.org/products/endeavor/
  35. (PDF) STARS Adjunct Trial: Evidence for the Effectiveness of a Digital Therapeutic as Adjunct to Treatment With Medication in Pediatric ADHD - ResearchGate,https://www.researchgate.net/publication/370036674_STARS_Adjunct_Trial_Evidence_for_the_Effectiveness_of_a_Digital_Therapeutic_as_Adjunct_to_Treatment_With_Medication_in_Pediatric_ADHD
  36. Effectiveness of a digital therapeutic as adjunct to treatment with medication in pediatric ADHD - ResearchGate,https://www.researchgate.net/publication/350416836_Effectiveness_of_a_digital_therapeutic_as_adjunct_to_treatment_with_medication_in_pediatric_ADHD
  37. Effectiveness of a digital therapeutic as adjunct to treatment with medication in pediatric ADHD - PubMed,https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/33772095/
  38. 塩野義製薬 小児のADHD患者を対象としたデジタル治療用アプリ「SDT-001」を国内で製造販売承認申請 - ミクスOnline,https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=76157
  39. 500万ドルの長期債務を取り消して免除し、SDT-001(米国ではEndeavorRxとして販売されているAkiliのAKL-T01デジタルトリートメントの日本語ローカライズ版)に対して一定の支払いを行うことに合意しました。 - ウィブル証券,https://www.webull.co.jp/news-detail/10667469187695616
  40. 医療機器にかかるPMDAの取組,https://www.meti.go.jp/shingikai/mono_info_service/medical_equipment_healthcare/pdf/007_03_02.pdf
  41. 承認審査情報掲載システム - PMDA,https://www.pmda.go.jp/medical_devices/2025/M20250311001/navi.html
  42. 塩野義製薬、ADHD治療ゲームアプリを日本で発売 - 医療アラウンド,https://www.personalassist.co.jp/iryoaround/project/35658/

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