デジタルトランスフォーメーション、すなわちDXは、もはや単なる流行り言葉ではなく、企業の持続的な成長にとって不可欠な経営課題となっています。しかし、多くの企業がその推進に苦心し、本来の目的を見失って「手段の目的化」に陥ってしまうケースは後を絶ちません。DXを推進するためのツール導入そのものがゴールになってしまったり、一部の部署だけの取り組みに留まってしまったりと、その成功への道のりは決して平坦ではないのです。
そのような状況の中、日本の製薬業界において、いえ、業界の垣根を越えて全ての企業のDX推進のお手本となるべき圧倒的な成果を上げている企業が存在します。それが、中外製薬株式会社です。同社の取り組みは、客観的な評価によってもその卓越性が証明されています。
経済産業省と東京証券取引所が共同で選定する「DX銘柄」には、2020年から4年連続で選定されています 1。これは、デジタル技術を前提としてビジネスモデルを抜本的に変革し、新たな成長に繋げている企業として高く評価され続けていることの証です。さらに2022年には、その中でも特に優れた取り組みを行う企業として、最高位である「DXグランプリ」を受賞しました 2。そして2023年には、傑出した取り組みを継続している企業として、わずか3社のみが選ばれた「DXプラチナ企業2023-2025」にも認定されるという快挙を成し遂げています 5。この「DXプラチナ企業」に選定されるためには、「3年連続でDX銘柄に選定」かつ「過去にDXグランプリを受賞」という極めて厳しい要件を満たす必要があり 9、これは同社のDXが一時的な成功ではなく、持続的かつ進化し続けるものであることを示しています。
では、なぜ中外製薬のDXは、これほどまでに高く評価され、確固たる成功を収めているのでしょうか。この記事では、DXの推進に携わる私たちが学ぶべき「成功の本質」を、同社の具体的な取り組みを深く掘り下げていきましょう。
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成功の礎 — 経営と一体化したDXビジョン
中外製薬のDX成功の根幹には、他の多くの企業とは一線を画す、極めて強固な土台が存在します。それは、DXが単なるIT化や効率化の手段ではなく、企業の存続をかけた経営課題そのものとして位置づけられている点にあります。
DXを「生存戦略」たらしめた強烈な危機感
中外製薬のDXの原動力となったのは、製薬業界が直面する深刻な課題と、それに対する強烈な危機感でした。新薬を一つ創出するまでには、失敗したプロジェクトのコストも含めると数千億円もの莫大な費用がかかると言われています 7。さらに、臨床試験を経て承認されるまでの期間は平均で約100ヶ月にも及び、その成功確率は極めて低いのが現実です 7。
加えて、日本の超高齢化社会における医療費の増大は、薬価の継続的な引き下げ圧力となっており、製薬企業の収益環境は年々厳しさを増しています 10。このような状況下で、従来通りのやり方を続けていては、いずれ競争力を失い、淘汰されてしまうという認識が経営層から全社員に至るまで共有されていました 10。この「このままでは生き残れない」という切迫した危機感こそが、単なる業務改善のレベルを超えた、全社的な変革、すなわちDXへと向かわせる最も大きな力となったのです。DXは、あれば良いという選択肢ではなく、未来を切り拓くための唯一の道、まさに「生存戦略」として位置づけられたのです。
経営戦略と完全に融合したDX戦略
この強い危機感を背景に、中外製薬は極めて明確なビジョンを打ち立てました。特筆すべきは、会社の成長戦略とDX戦略が、二つの別個の計画としてではなく、完全に一体化したものとして策定されている点です。
まず、会社全体の羅針盤として、2030年に向けた成長戦略「TOP I 2030」が存在します 12。この戦略は、「世界のトップイノベーター」になるという壮大な目標を掲げ、その実現のために「R&Dアウトプットの倍増」や「自社グローバル品の毎年上市」といった、非常に挑戦的な事業目標を設定しています 12。この戦略名の「I」には、「Innovator(革新者)」という意味に加え、価値創造の原動力は「人」であり、社員一人ひとりが主役であるという「私=I」の二つの意味が込められています 12。これは、会社の成長が社員一人ひとりの主体的な活動によって成し遂げられるという、人間中心の思想を明確に示しています。
そして、この成長戦略「TOP I 2030」を実現するための最重要ドライバーとして位置づけられているのが、DX戦略「CHUGAI DIGITAL VISION 2030」です 13。このDX戦略が掲げるビジョンは、「デジタル技術で中外製薬のビジネスを革新し、社会を変えるヘルスケアソリューションを提供する」というものです 13。つまり、「何のためにDXをやるのか?」という根源的な問いに対して、「革新的な医薬品を継続的に創出し、世界の患者さんと人々の健康に貢献するため」という、全社員が深く共感し、自らの仕事の意義として捉えることができる明確な答えが示されているのです 12。
このように、DXがコスト削減や業務効率化といった限定的な目的ではなく、事業成長そのもの、ひいては会社のミッション達成のための根幹をなす活動であると定義されていること。これこそが、全社的なエネルギーを一つの方向に結集させ、DXを強力に推進する上での揺るぎない礎となっているのです。
変革を牽引するトップの覚悟とリーダーシップ
強固なビジョンが存在しても、それを実行に移す強力な推進力がなければ変革は絵に描いた餅に終わってしまいます。中外製薬のDXが力強く前進した背景には、経営トップによる揺るぎない「覚悟」と、それを組織全体に浸透させる巧みなリーダーシップがありました。
変革の起点となったトップダウンの危機感
中外製薬の本格的なDXは、2019年、当時の経営トップによる「これからはデジタルをやらなければいけない」という強い危機感から始まりました。このトップの号令が、全社的な変革の狼煙となったのです。この強い意志を具現化するため、全部門を横断してDXを推進する専門組織として「デジタル戦略推進部」が発足しました 15。単に内部の組織を再編するだけでなく、外部からデジタル分野における高度な専門知識を持つ人材を役員として招聘し、本格的な改革の舵取りを任せたのです 16。
「覚悟は人事で示す」という哲学
経営層のコミットメントが単なる言葉だけで終わらなかったことを示す、象徴的なエピソードがあります。当時の社長は、「社長の覚悟は人事で分かる」という哲学をしばしば口にしていたと言います 13。これは、本気で何かを成し遂げようとするならば、その部門に最も優秀な人材を配置することで、その意志を社内に明確に示すべきだという考え方です。この哲学に基づき、新設されたデジタル部門には社内外から選りすぐりの人材が集められました 13。これにより、社員は「会社は本気だ」というメッセージを明確に受け取り、変革に対する期待と信頼が醸成されたのです。
最強のスポンサーであり続けるための継続的発信
中外製薬の経営トップの役割は、号令をかけ、組織を作ることだけに留まりませんでした。彼らは、自らがDXの「顔」となり、そのビジョンと覚悟を社内外に継続的に発信し続ける、最強のスポンサーであり続けました。社長自らがメディアの取材に積極的に応じ、DXがもたらす未来について熱意をもって語る姿は、社内に対しては「本気度」を伝え、変革への参加を促す強力なメッセージとなりました 13。
同時に、この積極的な発信は、社外に対して「CHUGAI DIGITAL」という強力なブランドを構築する効果ももたらしました。「中外製薬でなら、何か面白いことができそうだ」という期待感を醸成し、旧来の製薬会社のイメージを刷新したのです 17。このブランディング活動は、変革に不可欠な優秀なデジタル人財を、競争の激しい市場から惹きつける上で極めて重要な役割を果たしました。多くの企業でDX担当者が経営層の巻き込みに苦労する中、中外製薬の事例は、トップのコミットメントが単なる承認行為ではなく、組織の文化を動かし、外部の才能をも惹きつける強力な磁場を生み出す原動力となり得ることを教えてくれます。さらに、この変革への投資は、CFOをはじめとする経営陣がDXをコストではなく未来への投資と捉えていたからこそ可能でした。期中に発足し、当初予算がなかったデジタル専門組織に対して、CFOがその重要性を理解し、必要な予算を確保したことは、変革を支える大きな力となったのです 13。
DXの「全社ごと化」— 全てを巻き込む仕組みの設計
DX推進における最大の壁の一つは、「DXは特定部署の仕事」という意識が社内に蔓延してしまうことです。この壁を打ち破るために、中外製薬が掲げたのが「DXの“全社ごと”化」というコンセプトです 18。これは、DXを全社員、全部門が「自分ごと」として捉え、主体的に関わる文化と仕組みを構築するという考え方です。
サイロを打ち破る「全社ごと化」という思想
「全社ごと化」の思想の根底には、DXはIT部門やデジタル推進部といった専門部署だけで完結するものではなく、事業部門の深い知見とデジタルの力が融合して初めて真の価値を生むという認識があります 21。この思想を実現するために、中外製薬は巧みな組織設計と戦略的枠組みを構築しました。DX推進組織は、自らが実行部隊となるのではなく、各事業部門がDXを推進するための「ファシリテーター」としての役割を担います 13。これにより、現場の課題を最もよく知る事業部門が主役となり、DXが事業の現場から乖離することを防いでいるのです。
「全社ごと化」を駆動させる3つの戦略的柱
この「全社ごと化」を具体的に進めるために、「CHUGAI DIGITAL VISION 2030」の中では、3つの基本戦略が柱として定められています 13。この3つの柱は、それぞれが独立しているのではなく、相互に連携し、会社全体の変革を加速させる強力なエンジンとして機能します。
第一の柱は、「デジタルを活用した革新的な新薬創出」です 13。これはDXの最終目的であり、製薬企業としての存在意義そのものに関わる、最も重要な戦略です。AI創薬やビッグデータ解析などを通じて、研究開発の成功確率を高め、開発期間を短縮することを目指します。
第二の柱は、「全てのバリューチェーンの効率化」です 13。研究開発から生産、営業、管理部門に至るまで、事業活動のあらゆるプロセスをデジタル技術で効率化します。ここで重要なのは、この効率化が単なるコスト削減を目的としているのではないという点です。効率化によって生み出された時間やコストといった経営資源を、第一の柱である「革新的な新薬創出」のための研究開発へ最大限に再投資すること。これが明確な目的として設定されています 13。
そして第三の柱が、「デジタル基盤の強化」です 13。これは、先の二つの柱を足元から支えるための土台となる戦略です。最先端のITインフラを整備し、データを安全かつ効率的に活用できる環境を整えると共に、全社員のデジタルリテラシー向上や専門人財の育成を進めます。
この3つの柱は、見事な循環構造を描いています。強固な「デジタル基盤」が、「バリューチェーンの効率化」を可能にし、そこで生み出された資源が、最も重要な「新薬創出」へと注ぎ込まれる。そして、革新的な新薬が生み出す価値が、さらなるデジタル基盤への投資を可能にするのです。このように、DXの取り組みが単発のプロジェクトで終わることなく、持続的に会社全体の価値創造能力を高めていく、自己強化的なサイクルが設計されているのです。この緻密な戦略的枠組みこそが、「全社ごと化」を単なるスローガンではなく、実効性のある経営システムとして機能させている秘訣と言えるでしょう。
バリューチェーンの革新 — 創薬から生産までの具体的実践
中外製薬が掲げる「全社ごと化」と3つの基本戦略は、単なる理念にとどまらず、創薬から生産、さらには全社的な業務基盤に至るまで、バリューチェーンのあらゆる領域で具体的な変革として結実しています。ここでは、その象徴的な取り組みの数々を見ていきましょう。
AIが拓く創薬の新たな地平
製薬企業の競争力の源泉である創薬プロセスにおいて、中外製薬はAIの活用を強力に推進しています。その代表例が、独自のAI技術を用いて抗体医薬品の創薬プロセスを革新する取り組みです。特に、自社開発したAIシステム「MALEXA」は、目覚ましい成果を上げています 22。従来、研究者の経験と勘に頼る部分が大きかった抗体の設計において、このシステムを導入したことで、設計に要する時間を最大で80パーセントも短縮することに成功しました 22。さらに、開発初期段階における候補分子の品質を予測する精度は最大90パーセントに達し、結果として開発の成功確率を2倍に向上させ、研究開発コストを40パーセント削減するという、まさに革命的な変化をもたらしています 22。
患者中心の医療を実現する分散化臨床試験
医薬品開発の最終段階である臨床試験(治験)においても、デジタル技術を活用した変革が進められています。それが、分散化臨床試験(Decentralized Clinical Trial、略してDCT)と呼ばれる新しい手法の導入です 24。これは、患者さんが頻繁に医療機関へ来院しなくても治験に参加できる仕組みであり、患者さんの身体的、時間的な負担を大幅に軽減します 24。この取り組みにより、これまで地理的な制約から治験への参加が難しかった遠隔地の患者さんにも参加の道が開かれ、より多様な患者データを集めることが可能になります 26。これは、患者さんに寄り添った医療を実現するという倫理的な側面に加え、治験参加者の募集プロセスを効率化し、開発期間全体の短縮に繋がるという、企業にとっても大きなメリットが期待される取り組みです 28。実際に、進行固形がんを対象とした治療薬「Tobemstomig(注射剤:PD1-LAG3二重特異性抗体薬)」の臨床試験などで、このDCTが活用されています 29。
自律型工場を目指すスマートプラントへの挑戦
医薬品を安定的に、かつ高品質に製造する生産現場でも、DXは力強く推進されています。目指す姿は、デジタル技術とロボット技術を駆使した「スマートプラント」の実現です 30。その一環として、製造作業の割り当てを自動化するシステム「PANDA」が開発、導入されました 30。従来、製造ラインへの人員配置は、各工程や従業員のスキルを熟知した熟練者の経験に頼っていましたが、「PANDA」はこの複雑な割り当て計画をデジタルで最適化します。これにより、工場全体での最適な人員配置が可能となり、生産性の向上と品質の安定化を両立させています 30。最終的には、人が介在せずとも自律的に稼働する工場の実現を目指し、継続的な改善が進められています。
全社員の「パートナー」となる生成AIの活用
近年急速に発展する生成AIの活用においても、中外製薬は先進的な取り組みを見せています。同社は、独自の社内向け生成AIツール「Chugai AI Assistant」を開発し、全社的に展開しました 32。その目的は、単なる定型業務の効率化に留まりません。中外製薬は生成AIを、人間を助けるツールとしてだけでなく、人と組織の可能性を解放し、新たな価値創造を共に行う「パートナー」として位置づけているのです 10。このツールの導入は目覚ましいスピードで進み、多くの社員が日常業務で活用するようになっています 10。その結果、現場から900もの新たな活用アイデアが生まれるなど、ボトムアップでのイノベーションを強力に促進する起爆剤となっています。
全社の神経系を刷新する次世代ERPプロジェクト
これらの個別の取り組みを支え、会社全体の経営効率を抜本的に向上させるために進められているのが、次世代基幹業務システム(ERP)への刷新プロジェクト「ASPIRE」です 33。これは、単なるシステム更新ではなく、全社的な業務プロセスの改革と、経営に必要なデータを一元的に管理し、迅速な意思決定を可能にすることを目的とした、ビジネスとデジタルのトランスフォーメーションプログラムです。この巨大な改革を推進するために、「ASPIREトランスフォーメーション部」や「ビジネストランスフォーメーション部」といった専門組織が新設され 33、全社一丸となって、より俊敏で効率的な経営体質への変革に取り組んでいます。
これら一つひとつの取り組みは、それぞれが大きなプロジェクトですが、全てが成長戦略「TOP I 2030」という共通のゴールに向かっているため、組織的な一体感と納得感を持って進められているのです。
「人」への投資が未来を創る — 最強のデジタル人財育成術
優れた戦略や最先端のツールも、それを使いこなし、価値を創造する「人」がいなければ意味を成しません。中外製薬が他社と一線を画しているのは、この「人」こそが最大の資産であるという信念に基づき、徹底した人財への投資を行っている点です。そのアプローチは、一部の専門家を育成するだけでなく、組織全体の変革マインドを底上げする、極めて体系的かつ多層的なものとなっています。
全社員のための学びの場「CHUGAI DIGITAL ACADEMY」
その中核をなすのが、2021年に設立された社内デジタル大学「CHUGAI DIGITAL ACADEMY」です 35。これは、全社員を対象とした、デジタル技術の基礎知識やトレンドを学ぶリテラシー向上プログラムから、データサイエンティストやビジネスアーキテクトといった高度な専門家を社内で育成するための専門コースまで、幅広い学びの機会を提供する包括的な仕組みです 35。社員は自らのキャリアプランや業務上の必要性に応じて、体系的にスキルを習得することができます。例えば、データサイエンティストを目指す社員は、ディープラーニングのような最先端技術を基礎から実践まで学べる講座を受講することが可能です 35。
管理職の「目利き力」を養う戦略的研修
特に注目すべきは、部長やマネジャーといった管理職層に特化した研修プログラムの存在です。多くの組織で、現場から生まれた新しいアイデアが、上司の理解不足によって潰されてしまうという問題が発生しがちです。中外製薬は、この「中間管理職の壁」を打破するために、管理職の能力開発に戦略的に取り組んでいます。この研修の目的は、管理職をデジタル技術の専門家にすることではありません。部下から上がってくるデジタルを活用した業務改善や新規事業の提案に対して、その可能性やリスクを的確に判断し、適切に支援するための「目利き力」を養うことにあります 38。これにより、現場の挑戦を上司が阻むのではなく、むしろ後押しし、加速させるという、イノベーションに最適な組織文化を醸成しているのです。
現場のアイデアを育てる「Digital Innovation Lab」
ボトムアップのイノベーションを促進するための仕組みとして、「Digital Innovation Lab(DIL)」が設けられています 39。これは、国内グループの全社員が、日々の業務の中で感じた課題や改善のアイデアを自由に提案し、自らの手でその実現を目指すことができるインキュベーション(事業化支援)の仕組みです 39。優れたアイデアには予算がつき、部門の垣根を越えたチームでプロジェクトを推進することができます。これにより、現場の小さな気づきや課題感が、組織全体の生産性向上や新たな価値創造に繋がる、イノベーションの好循環を生み出しています。
越境学習で変革の担い手を育てる「レンタル移籍制度」
さらにユニークな取り組みとして、社員を1年間ベンチャー企業などへ派遣する「レンタル移籍」という越境学習の制度も導入されています 42。この制度の主目的は、特定のデジタルスキルを習得することではありません。大企業の枠組みの外に出て、スピード感や変化の激しい環境に身を置くことで、「大局的・俯瞰的な視点」「圧倒的なスピード感」「自ら考え行動する力」といった、これからの時代に変革をリードするために不可欠なコンピテンシーを獲得することにあります 42。外の世界を実体験することで、自社を客観的に見つめ直し、新たな視点や発想を組織に持ち帰ることが期待されています。移籍した社員本人だけでなく、彼らを送り出した上司や部署もまた、新たな刺激を受け、変化を体感するといいます 43。
このように、中外製薬は「人が変われば、組織が変わる」という強い信念のもと、あらゆる階層の社員に対して、それぞれの役割に応じた成長の機会を提供しています。これは、一部のスタープレイヤーに頼るのではなく、組織全体の知力と実践力を底上げすることで、持続可能な変革を実現しようとする、長期的かつ戦略的な人財育成思想の表れと言えるでしょう。
攻めのDXを支える盤石な守り — デジタル基盤とセキュリティ
革新的な新薬の創出やバリューチェーン全体の効率化といった「攻め」のDXを加速させるためには、それを支える強固な「守り」、すなわち盤石なデジタル基盤と徹底したセキュリティ対策が不可欠です。特に、患者さんの生命に関わる機密性の高いデータを扱う製薬企業にとって、この「守り」の重要性は計り知れません。中外製薬は、イノベーションとリスク管理という、時に相反しかねない二つの要素を高いレベルで両立させる基盤を構築しています。
イノベーションを加速させる科学的IT基盤「CSI」
その中核となるのが、全社データ利活用基盤「Chugai Scientific Infrastructure(CSI)」です 16。これは、ゲノムデータのような極めて大容量かつ機密性の高い医療関連データを、高速かつセキュアに解析するために設計されたクラウドベースのIT基盤です。従来、研究開発基盤は部門ごとに個別に構築・運用されており、部門間でのデータ共有が難しく、新たな研究プロジェクトのために環境を構築するには半年以上もの長い時間と多大なコストを要していました 16。
CSIの導入は、この状況を劇的に変えました。AWSなどの先進的なクラウド技術を活用することで、研究環境の構築にかかる期間を、従来の6ヶ月から最短で1週間へと大幅に短縮し、インフラ構築にかかるコストも90パーセント削減することに成功したのです 16。これにより、研究者は場所や組織の壁を越えて必要なデータに迅速にアクセスし、本来の目的であるデータ解析や研究活動そのものに集中できる環境が整いました。この安全かつ柔軟な基盤は、大学や他の企業との共同研究、すなわちオープンイノベーションを加速させる上でも、強力な武器となっています 16。
サプライチェーン全体を見据えた包括的セキュリティ
クラウドサービスの利用が全社的に拡大する中で、セキュリティのリスク管理もより高度で包括的なものが求められます。中外製薬は、自社内のセキュリティを固めるだけでなく、取引先などが提供する外部のクラウドサービスに対しても、その安全性を客観的に評価する仕組みを導入しています。その一例が、クラウドリスク評価サービス「Assured」の活用です 45。このサービスを用いることで、社内で利用が検討されている様々なSaaS(Software as a Service)製品のセキュリティリスクを、専門家の知見に基づいて迅速かつ網羅的に評価することが可能になります。これにより、安全性を確保しながら、業務に有効な新しいクラウドサービスを積極的に導入していくことができるのです。これは、自社だけでなく、サプライチェーン全体を含めたエコシステム全体の安全性を高めようとする、先進的なリスク管理思想の表れです。
イノベーションの追求とリスク管理は、しばしばトレードオフの関係にあると見なされがちです。しかし、中外製薬の取り組みは、むしろ強固な「守り」の基盤があってこそ、全社員が安心して「攻め」のDXに挑戦できるのだということを明確に示しています。この盤石なデジタル基盤こそが、同社のDXを支える、見えざる成功要因の一つなのです。
中外製薬の成功の本質と私たちが実践すべきこと
これまで、中外製薬のデジタルトランスフォーメーション(DX)がなぜ成功したのか、その多岐にわたる取り組みを詳しく見てきました。その道のりを紐解くと、彼らの成功が、単なる個別施策の寄せ集めではなく、緻密に設計された経営戦略そのものであることが浮かび上がってきます。そこには、業界を問わず、DXという大きな変革に挑む全ての企業にとって、道しるべとなるべき普遍的な成功の本質が隠されています。
私たちDX推進に携わる者が、明日から自社の活動に活かすべき要点をまとめると、以下のようになるのではないでしょうか。
第一に、「何のためにDXをやるのか」という目的を問い続けることです。中外製薬のDXは、常に「革新的な医薬品を患者さんに届ける」という会社の存在意義と固く結びついていました。DXを単なるIT化やコスト削減の手段と捉えるのではなく、自社の経営目標や事業戦略と直結させ、全社員が心から納得し、共感できる「大義名分」を掲げることが、変革のエネルギーを生み出す源泉となります。
第二に、経営トップを最強の味方にすることです。中外製薬の変革は、トップの強い危機感と覚悟から始まりました。経営層に対してDXの重要性を粘り強く説き、そのコミットメントを、人事や予算配分、そしてトップ自らの言葉による継続的な発信といった、具体的で目に見える形で社内外に示してもらうことが、DXを全社的なうねりへと変える上で不可欠です。
第三に、「人」こそが最大の資産であると心得るべきです。中外製薬は、全社員のデジタルリテラシーを底上げする基礎教育と、変革をリードする専門人財や管理職の育成を、車の両輪として進めていました。最先端の技術も、それを使いこなす人がいなければ価値を生みません。組織のあらゆる階層の人々に対して成長の機会を提供し、組織全体の能力を引き上げることが、持続的な変革の土台を築きます。
第四に、挑戦を促し、許容する文化をつくることです。現場の小さな気づきからイノベーションの芽を育てる「Digital Innovation Lab」のような仕組みは、ボトムアップの活力を引き出します。重要なのは、たとえその挑戦が失敗に終わったとしても、それを責めるのではなく、次の成功に繋がる貴重な学びとして奨励する仕組みと風土を醸成することです。安全な環境があってこそ、人々は勇気を持って挑戦できるのです。
そして最後に、守りを固めてこそ、思い切った攻めが可能になるということです。中外製薬は、イノベーションを加速させる「攻め」の施策と同時に、それを支える強固でセキュアなITインフラという「守り」の整備に注力していました。安心してアクセルを踏み込める盤石な足場を築くことが、変革のスピードと質を決定づけます。
中外製薬が歩んできた道のりは、決して平坦ではありませんでした。しかし、明確なビジョンのもと、トップの強力なリーダーシップと、それを実効性のある仕組みに落とし込み、全社一丸となって取り組んだからこそ、業界の常識を覆すほどの大きな成果を生み出すことができました。
中外製薬の取り組みは、私たちに変革を成功させるための具体的な方法論だけでなく、その根底にあるべき哲学をも教えてくれます。この記事が、皆さんのDX推進活動の一助となれば幸いです。まずは自社の状況に置き換えて考え、一つでも二つでも、できることから始めてみてはいかがでしょうか。その一歩が、未来を大きく変える始まりになるかもしれません。
引用文献
- 「DX銘柄」に2年連続で選定されました。DXの"全社ごと"化を進める中外製薬の取組みについて, https://note.chugai-pharm.co.jp/n/n81517fe91022
- 経済産業省、「DX銘柄2022」33社を選定、グランプリは中外製薬と ..., https://it.impress.co.jp/articles/-/23291
- 経産省 「DX銘柄」に中外製薬 「DX注目企業」に大日本住友製薬を選定 ともに2年連続で取得, https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=71256
- DX先進企業33社を「DX銘柄」として選出、グランプリに中外製薬と日本瓦斯, https://www.advertimes.com/20220610/article386555/
- 経産省が「DX銘柄2023」・「DX注目企業2023」・「DXプラチナ企業2023-2025」を発表。各企業の取り組みも公開 - HRプロ, https://www.hrpro.co.jp/keiei/articles/news/3134
- 「DX銘柄2023」、「DX注目企業」、「DXプラチナ企業2023-2025」を経産省が発表。各企業の事例・取り組みも公開 - HRプロ, https://www.hrpro.co.jp/trend_news.php?news_no=2181
- もはやDX企業の中外製薬 生成AIのアイディアをボトムアップで集めて束ね、“新薬創出短縮”を目指す - ASCII.jp, https://ascii.jp/elem/000/004/236/4236646/
- 中外製薬ってどんな会社?, https://www.chugai-pharm.co.jp/profile/overview/whatkind/
- 【DX銘柄2023】デジタルトランスフォーメーション成功事例と認定企業の取り組み | HELP YOU, https://help-you.me/blog/dx-example/
- 中外製薬、AIで「本当に成果を出す」ための戦略 「わずか5年で」DX先進 ..., https://toyokeizai.net/articles/-/880506
- 中外製薬、DX推進で生成AI活用9割超・LLM利用半数超 短期間で成果を出せた理由 - note, https://note.com/ndot_man/n/n88f427ce9b51
- 成長戦略「TOP I 2030」 | 経営方針 | 中外製薬について | 中外製薬 ..., https://www.chugai-pharm.co.jp/profile/strategy/growth_strategy.html
- 中外製薬DX統括 志済聡子氏に聞く、キャリア変遷と全社一丸のDX ..., https://www.kandc.com/digital/dx/column/07/
- 【人材育成 for DX】開催レポート #8「トップイノベーター像実現に向けた中外製薬のデジタル人財育成・風土改革の取り組み」 - 一般社団法人日本ディープラーニング協会【公式】, https://www.jdla.org/topic/event-report8/
- 中外製薬はDXをどうやって「全社ごと」化したのか - エンタープライズジン, https://enterprisezine.jp/article/detail/13708
- AWS 導入事例:中外製薬株式会社 | AWS, https://aws.amazon.com/jp/solutions/case-studies/chugaiseiyaku/
- 東急と中外製薬に聞く、DX を加速させる上での、内製開発、カルチャー変革、人材育成 - YouTube, https://www.youtube.com/watch?v=4gQKpKzEOMY
- DX推進における経営課題とは?経営層に求められる役割や事例について紹介, https://kddimessagecast.jp/blog/dx/dx-keieikadai/
- 中外製薬の「DXの“全社ごと”化」 - すべて | Deliveruセレクト, https://shop.deliveru.jp/category-2/ivwqfefb/
- CIOの役割とは?DX推進と情報システム部門が起こすべき変革 - FLEXY(フレキシー), https://flxy.jp/media/article/19253
- ビジネス視点とデジタルスキルのハイブリット人材 | 編集部の ..., https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=75521
- 製薬・創薬業界のAI活用事例18選!約45%開発コスト削減の理由は ..., https://ai-front-trend.jp/pharmaceutical-ai/
- AIの活用による創薬の進歩|今後への課題や成功事例を紹介 - JOSAI LAB, https://www.josai.ac.jp/josai_lab/1375/
- テクノロジーが変える臨床試験:DCTが拓く「患者さんから始まる治療開発」 - 中外製薬公式note, https://note.chugai-pharm.co.jp/n/nc5f287b7bd62
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- DXで患者さん中心の臨床試験を実現。「患者 ... - 中外製薬公式note, https://note.chugai-pharm.co.jp/n/n50f0f4818b82
- 中外のがん治療薬、DCTでP1開始 国がんと大阪医科薬科大が連携 ..., https://nk.jiho.jp/article/189757
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- 生成AIの全社活用を目指して-中外製薬が取り組む内製と協働による ..., https://www.medinew.jp/articles/marketing/trend/chugai-ai-assistant
- 2023年04月27日|組織改正・人事のお知らせ|ニュースリリース ..., https://www.chugai-pharm.co.jp/news/detail/20230427170000_1298.html
- 中外製薬 奥田社長CEO担当の「ASPIREトランスフォーメーション部」新設 業務プロセスや組織改革を推進 - ミクスOnline, https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=73947
- 中外製薬株式会社のデジタル人財育成を支援開始 | 株式会社スキル ..., https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000066.000035215.html
- 未経験からデジタルプロジェクトリーダーへ 中外製薬のデジタル人財育成プログラムでリスキリングした社員3名の活躍, https://note.chugai-pharm.co.jp/n/nb32b3844b533
- 成長実感を促す人財育成 | 人財マネジメント | サステナビリティ | 中外製薬株式会社, https://www.chugai-pharm.co.jp/sustainability/diversity/development.html
- 博士課程教育 リーディングプログラム - 日本学術振興会, https://www.jsps.go.jp/file/storage/general/j-hakasekatei/data/Program_for_Leading_Graduate_Schools_Pamphlet_Jp.pdf
- 【イベント参加者募集】社員の挑戦を後押しする中外独自のアイデア実現プログラム「DIL」。これまでの成果を紹介し、中外製薬×パートナー企業×参加者のコラボレーションを目指すオンラインイベントを開催します。 - 中外製薬公式note, https://note.chugai-pharm.co.jp/n/n47b45523da04
- 全社基盤の構築・全てのバリューチェーンにわたる生産性向上 ..., https://www.chugai-pharm.co.jp/innovation/digital/platform_value_chains.html
- 「CHUGAI Digital Innovation CONNECT ~ ヘルスケアの未来を共創する ~」 開催のお知らせ, 「CHUGAI Digital Innovation CONNECT ~ ヘルスケアの未来を共創する ~」 開催のお知らせ
- 画像配置エリア 中外製薬における人的資本経営, https://smartwork.nikkei.co.jp/survey/pdf/20241220_3.pdf
- 「人が変われば、組織が変わる」中外製薬の挑戦に学ぶ“DX人財開発の最前線” - &ローンディール, https://andloandeal.jp/n/n97831db9fdb9
- 中外製薬のデジタル基盤グループの社員が解説。サイエンティフィッククラウド「CSI」で実現した全社クラウド基盤・高度解析インフラとは, https://note.chugai-pharm.co.jp/n/na642cf5bbfeb
- 中外製薬、クラウドリスク評価サービスを導入--安全なクラウド活用 ..., https://japan.zdnet.com/article/35192039/
- DX推進企業も導入、時間がかかるSaaSセキュリティ審査の「最適解」 効率化と正確性を両立する方法 (2/3) - エンタープライズジン, https://enterprisezine.jp/article/detail/17536?p=2