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Estimand(エスティマンド)って何?因果推論のカギとなる概念をやさしく解説

2023年10月24日

「Estimand(エスティマンド)」という言葉、耳にしたことはありますか?なんだか難しそう…と感じるかもしれませんが、実はこれ、何かを知ろうとするときの「問いの立て方」を明確にする、とっても大切な考え方なんです。

特に、薬の効果を確かめたり、新しい治療法を評価したり、あるいは社会の制度がどんな影響を与えているかを探る「因果推論」の世界では、Estimandがカギを握っています。

「この薬は本当に効くの?」「この政策で社会はどう変わる?」

こうした問いに、より正確で信頼できる答えを出すために、Estimandは欠かせません。この記事では、Estimandの基本的な考え方から、なぜそれが重要なのか、そして実際の現場でどう役立っているのかまで、わかりやすい言葉で一緒に探っていきましょう!

Table of Contents

1. Estimandって、つまり何?料理で例えると…

Estimandは日本語で「統計学的推定対象」と訳されることもありますが、もっとシンプルに言えば、「結局、あなたは何を知りたいのですか?」という研究のゴールを、具体的に言葉で定義したものです。

例えるなら、料理のレシピのようなもの。「美味しいカレーを作りたい!」という目標だけでは、どんな材料で、どんな手順で作ればいいか曖昧ですよね。Estimandは、「〇〇産の玉ねぎと△△産の牛肉を使い、□□のスパイスで煮込んだ、辛さレベル3のビーフカレーの味」といった具合に、「何を(What)」「誰について(Whom)」「どのように(How)」知りたいのかを明確にする役割を果たします。

なぜ今Estimandが注目されているの?

これまでも研究者はもちろん目標を持って研究を進めてきました。しかし、特に複雑な要因が絡み合う医学研究などでは、「治療の効果」と言っても、人によって解釈が異なったり、研究途中で予期せぬ出来事(薬の服用をやめてしまう、別の治療を始めてしまうなど)が起こったりして、結果の解釈が難しくなることがありました。

そこで、「最初に知りたいことを明確に定義しておこう!」という考え方、つまりEstimandが重要視されるようになってきたのです。これにより、研究の計画段階から結果の解釈まで、一貫性のある、より信頼性の高いアプローチが可能になります。

Estimandを理解することは、因果推論という少し複雑な世界への第一歩です。さあ、Estimandについて、もう少し詳しく見ていきましょう!

2. Estimandのキホン:研究の「設計図」を構成する要素

Estimandは、単なる目標設定ではありません。研究で本当に知りたい効果や因果関係を測るための「設計図」であり、数学的な表現や定義を伴います。この設計図をしっかり描くことで、どんなデータを集め、どんな分析方法を使うべきかが明確になります。

Estimandを形作る!研究の「設計図」となる5つの柱

Estimandは、研究で「結局、何を知りたいのか?」を明確にするための具体的な定義でしたね。では、その定義はどのようにして具体的に形作られるのでしょうか?国際的な医薬品開発のガイドラインである「ICH E9(R1)」では、Estimandを明確にするために、主に以下の5つの要素(構成要素)を具体的に定めることを推奨しています。これらは、研究という名の建物を建てる際の、重要な「設計図」の柱と考えることができます。

対象集団 (Population): この結果は「誰」についての話?

  • 何を決める?: 研究の結果が、最終的にどのような特徴を持つ人々の集団に当てはまる(適用できる)と考えられるのかを定義します。
  • なぜ重要?: 例えば「高血圧の患者さん」と言っても、軽症か重症か、年齢層、他の病気の有無などで効果の現れ方が違うかもしれません。「特定の遺伝子変異を持つ肺がん患者さん」「ワクチン未接種の高齢者」のように具体的に定義することで、研究結果を誰に一般化できるのか、その範囲が明確になります。ここを曖昧にすると、結果の解釈や実臨床への応用に混乱が生じます。
  • 例:
    • 「18歳以上65歳未満の、中等症以上の慢性心不全患者」
    • 「過去に特定の治療歴がない、進行性の乳がん患者」
    • 「特定の地域に居住する、学齢期の児童」

関心のある変数 (Variable / Endpoint): 「効果」を何で測る?

  • 何を決める?: 介入(治療など)の効果や影響を、具体的にどの指標(モノサシ)を使って測定・評価するのかを定めます。主要評価項目(最も重要な指標)だけでなく、副次評価項目(その他の重要な指標)や安全性評価項目も含まれます。
  • なぜ重要?: 「効果があった」と言っても、何をもって効果とするかで意味合いが大きく変わります。「血圧が下がった」のか、「心血管イベントが減った」のか、「QOL(生活の質)が向上した」のか。測定するタイミング(例:治療開始から24週間後)も明確にする必要があります。客観的な測定値だけでなく、患者さん自身の声(患者報告アウトカム, PRO)が重要な場合もあります。
  • 例:
    • 「治療開始12週時点での、ベースラインからのHbA1c(血糖値の指標)の変化量」
    • 「5年間の追跡期間における、全死亡または心不全による入院の発生率」
    • 「試験期間中の、特定の副作用(例:重度の嘔吐)の発現割合」
    • 「患者報告による、疼痛スコアの変化」

介入・曝露 (Treatment / Exposure): 何と何を比べる?

  • 何を決める?: 関心のある効果を引き起こすと考えられる要因(介入や曝露条件)と、それを比較する対象(対照条件)を明確に定義します。
  • なぜ重要?: 「新薬の効果」を評価する場合でも、比較対象が偽薬(プラセボ)なのか、既存の標準治療薬なのか、あるいは異なる用量なのかによって、明らかになる「効果」の意味合いは全く異なります。介入の具体的な内容(例:薬剤の用法・用量、治療期間、教育プログラムの頻度や内容)まで詳細に定義することが、結果の解釈には不可欠です。
  • 例:
    • 「新薬Aを1日1回10mg経口投与する」 vs 「プラセボ(見た目が同じ偽薬)を1日1回経口投与する」
    • 「新しいリハビリテーションプログラム(週3回、各60分)を実施する」 vs 「従来の標準的なリハビリテーションを実施する」
    • 「ワクチンXを接種する」 vs 「ワクチンXを接種しない」

集団レベルでの要約指標 (Population-level summary measure): 個々の結果をどうまとめる?

  • 何を決める?: 対象集団における個々の患者さんの測定結果(変数/Endpoint)を、集団全体としてどのように要約して表現するか、その統計的な指標を定めます。
  • なぜ重要?: 個々のデータだけでは集団としての傾向は分かりません。変数の種類(例:連続値か、二値か、生存時間か)や研究の目的に応じて、適切な要約指標を選ぶ必要があります。例えば、平均値の差で見るのか、それともイベント発生率の比で見るのかで、効果の示し方が変わります。
  • 例:
    • 連続値: 平均値の差、中央値の差
    • 二値データ(例:有効/無効、発生/非発生): リスク差、リスク比、オッズ比
    • 生存時間データ: 〇年生存率の差、ハザード比(イベントの起こりやすさの比)

介入後イベント (Intercurrent events) の扱い: 想定外の出来事をどう乗り越える?

  • 何を決める?: 介入開始後に発生し、変数の測定や解釈に影響を与える可能性のある出来事(Intercurrent Events, ICE)を特定し、それらをどのように扱うか、その「戦略」を定義します。これがEstimandの概念において、特に重要で新しい視点です。
  • なぜ重要?: 臨床試験などでは、計画通りに進まないことがよくあります。例えば、患者さんが副作用で薬の服用をやめてしまったり、効果がないと感じて別の治療を始めてしまったり、あるいは全く別の理由で亡くなってしまったり。これらのICEをどう扱うかによって、「推定される効果」の意味合いが根本的に変わってしまうため、事前に明確な戦略を決めておく必要があるのです。
  • ICEの例:
    • 割り付けられた治療の中止や変更
    • 効果不十分や副作用による代替治療(救済治療)の開始
    • 研究プロトコルで規定されていない併用薬の使用
    • 主要評価変数に影響するような死亡
    • 治療遵守(アドヒアランス)の不良
  • 代表的な扱い方(戦略): ICH E9(R1)では、主に5つの戦略が示されています。どの戦略を選ぶかで、「研究が答えようとする問い」が変わります。
    • 治療方針 (Treatment Policy) 戦略: ICEの発生に関わらず、最初に割り付けられた治療方針の効果を見る。「この治療法を導入する方針は、実臨床でどのような結果をもたらすか?」という問いに近い。
    • 仮説的 (Hypothetical) 戦略: もしICEが起こらなかったとしたら、あるいはICE発生後に特定の対応をしたとしたらどうだったか、という仮説的な状況での効果を推定する。「もし全員が薬を完全に服用し続けられたとしたら、その純粋な薬理効果は?」といった問いに対応。
    • 複合変数 (Composite Variable) 戦略: ICEの発生自体を、有効性の欠如などと見なして評価項目の一部に組み込む。「治療を完遂し、かつ目標を達成できた割合は?」といった問いに対応。
    • 治療中 (While on Treatment) 戦略: ICEが発生するまでの期間のデータのみを用いて効果を評価する。「割り付けられた治療を受けている間だけの効果は?」という問いに対応(ただし解釈に注意が必要)。
    • 主要層別 (Principal Stratum) 戦略: 特定のICEを起こす/起こさないといった、患者さんが元々持つ潜在的な特性(層)における治療効果を推定する。「副作用で治療を中止するタイプの人を除いた集団での効果は?」といった非常に特定の問いに対応。

これらの5つの要素を、研究の目的に合わせて一つ一つ丁寧に定義し、組み合わせることで、初めて「この研究は何を明らかにしようとしているのか?」というEstimandが明確な輪郭を持って立ち現れます。これが、信頼性が高く、解釈のブレがない研究結果を得るための、そして科学的な対話を可能にするための、重要な第一歩となるのです。

Estimandにも種類がある!代表的なアプローチを知ろう

研究で明らかにしたい「問い」が一つではないように、その問いを具体化したEstimandにも様々な種類(フレーバーのようなもの)が存在します。ここでは、因果推論の文脈で特によく議論される代表的なEstimandの種類を見ていきましょう。これらは主に、「誰にとっての効果」を「どのように」評価したいか、という視点の違いを反映しています。

Average Treatment Effect (ATE): もし「全員が」受けたら?社会全体の平均効果

  • 考え方: ある集団(例えば、特定の病気を持つ患者さん全体)を対象に、「もし、その集団の全員が特定の介入(例:新薬A)を受けたと仮定した場合」と、「もし、その集団の誰もがその介入を受けなかった(あるいは比較対象の介入を受けた)と仮定した場合」の結果を比較し、その平均的な差(効果)を見ます。
  • 問いのイメージ: 「この治療法は、対象となる患者集団全体に対して、平均してどれくらいの効果をもたらすポテンシャルがあるか?」「この公衆衛生キャンペーンは、社会全体として平均的にどれくらいの影響があるか?」
  • 使われる場面: 集団全体への影響を評価したい政策決定(例:ワクチンプログラムの効果、税制変更の影響など)や、ある治療法の一般的な有効性を把握したい場合によく用いられます。
  • ポイント・注意点: 集団全体を対象とした「もしも」の比較であり、理論上は分かりやすい概念です。ただし、実際には介入を受けられない人や受ける可能性のない人も含めて平均化するため、その解釈には留意が必要です。

Average Treatment Effect on the Treated (ATT): 「実際に受けた人」にとっての効果は?

  • 考え方: 集団の中で、「実際に」特定の介入を受けた人たちだけを対象とします。そして、「その人たちが介入を受けた場合の実際の結果」と、「もし、その人たちが介入を受けていなかったとしたらどうだったか(という反実仮想)」を比較し、その平均的な差(効果)を見ます。
  • 問いのイメージ: 「この新しい研修プログラムに参加した社員は、参加しなかった場合と比べて、平均してどれくらいスキルが向上したか?」「この禁煙外来を利用した人は、利用しなかった場合と比べて、平均してどれくらい禁煙に成功しやすくなったか?」
  • 使われる場面: 特定のプログラムやサービスの参加者にとっての直接的な便益を評価したい場合や、観察研究(人々が自ら介入を選択する状況の研究)などでよく用いられます。
  • ポイント・注意点: ATEとの主な違いは、効果を評価する対象が「実際に介入を受けた人」に限定される点です。介入を受けた人と受けなかった人の間には元々何らかの違い(例:モチベーションの高さ、病気の重症度など)がある可能性があるため(選択バイアス)、ATTの結果を集団全体にそのまま一般化することはできません。

Intention-to-Treat (ITT) の原則に基づくEstimand: 「治療方針」としての効果は?

  • 考え方: これは厳密にはEstimandの名称ではありませんが、特にランダム化比較試験(RCT)において非常に重要な分析の原則であり、特定のEstimand(多くはEstimandの5要素で述べた「治療方針(Treatment Policy)戦略」)に対応します。重要なのは、「実際に患者さんがどのような治療を受けたか」ではなく、「最初にどちらの治療グループにランダムに割り付けられたか」に基づいて比較を行う点です。途中で治療をやめたり、別の治療に切り替えたりした人も、最初に割り付けられたグループのメンバーとして解析に含めます。
  • 問いのイメージ: 「新薬Aを投与する治療方針(戦略)は、プラセボ(偽薬)を投与する治療方針と比べて、全体としてどのような結果をもたらすか?(途中で服用をやめる人がいる可能性なども含めて)」
  • 使われる場面: RCTにおける主要な解析方法として広く採用されています。ランダム化によってグループ間の比較可能性が担保されるため、バイアスを最小限に抑えて治療「戦略」の効果を評価できます。実臨床での状況に近い(必ずしも全員が計画通りに治療を続けるわけではないため)効果の推定値と解釈されることもあります。
  • ポイント・注意点: ITT原則は、治療割り付けの効果を公平に評価する上で強力ですが、「もし全員が割り付けられた治療を完全に遵守したらどうだったか?」という純粋な薬理学的効果(有効性, efficacy)とは異なる場合があります。そちらを知りたい場合は、Per-Protocol解析(プロトコル通りに治療を完遂した人だけを対象とする解析)に対応するEstimandなどを別途検討しますが、その推定や解釈には追加の仮定が必要となり、バイアスのリスクも高まるため注意が必要です。

補足:Estimandはもっと多様

ここで紹介したのは代表的な例であり、研究の具体的な目的や状況に応じて、さらに多様なEstimandが定義されます。例えば、

  • 特定のサブグループにおける効果: 「高齢者におけるATEは?」「女性におけるATTは?」など、対象集団を絞ったEstimand。
  • 介入後イベントの扱い方を反映したEstimand: 「もし副作用で中止しなければ効果はどうだったか?(Hypothetical戦略)」「副作用での中止を治療失敗とみなした場合の効果は?(Composite Variable戦略)」など。
  • Complier Average Causal Effect (CACE): RCTにおいて、割り付けられた治療を実際に遵守した人たち(Complier)における平均的な治療効果。

どのEstimandを選択するかは、「その研究を通じて、本当に何を知りたいのか?」という問いに立ち返り、研究の文脈や目的に最も合致するものを選ぶことが極めて重要です。そして、選んだEstimandに合わせて、研究デザイン(データの集め方)や分析方法を適切に設計していく必要があるのです。

3. なぜEstimandはそんなに大事なの? 具体例でその「威力」と「怖さ」を知る

「Estimandが大事なのは分かったけど、具体的に何がどう変わるの?」そう思いますよね。Estimandの真価は、具体的なシナリオ、特に「もしEstimandがなかったら…」という状況を想像してみると、よりはっきりと理解できます。曖昧な問いは、思わぬ落とし穴や混乱を招く可能性があるのです。

ケーススタディ:新薬の「長期的な」効果を見る臨床試験で考えてみよう

ある製薬会社が開発した、新しい高血圧治療薬「クスリナオールX」の有効性と安全性を評価するための、大規模な臨床試験を行うとします。目標は、「このクスリナオールXを長期間服用することで、プラセボ(偽薬)と比較して、患者さんの血圧を安定して下げ、心血管イベント(心筋梗塞や脳卒中など)のリスクを減らせるか」を知ることです。期間は3年間と長期にわたります。

長期試験では、様々な予測不能な出来事、すなわち介入後イベント (Intercurrent Events, ICE) が起こりやすくなります。例えば…

  • 副作用がつらくて、患者さんがクスリナオールXの服用をやめてしまう。
  • 効果が感じられず、別の降圧薬を自己判断で追加してしまう。
  • 試験期間中に他の病気(例:がん)を発症し、そちらの治療が優先される。
  • 転居や個人的な理由で、試験への参加(通院)自体が困難になる。
  • 残念ながら、高血圧とは別の原因で亡くなってしまう。

こうしたICEが起こったとき、その患者さんのデータをどう扱うかで、試験結果の解釈は大きく変わってきます。ここでEstimandの明確さがカギを握るのです。

【シナリオ1】Estimandが明確に定義されている場合

研究チームは試験開始前に、関係者(臨床医、統計家、規制当局の意見も参考に)と議論を重ね、主要な「問い=Estimand」を以下のように明確に定義しました。

明確な問い (Estimand)

「中等症から重症の高血圧と診断され、心血管イベントのリスク因子を1つ以上持つ50歳以上の患者集団において、クスリナオールXを1日1回10mg、3年間投与する治療方針は、プラセボを投与する治療方針と比較して、3年後の収縮期血圧(上の血圧)のベースラインからの平均変化量をどれだけ改善するか? なお、割り付けられた治療(クスリナオールXまたはプラセボ)を何らかの理由で中止した場合や、プロトコルで禁止された降圧薬を追加した場合でも、それらの患者は最初に割り付けられたグループに含めて解析する(治療方針戦略; Treatment Policy Strategy を採用)。」

明確であることのメリット
  • 研究デザインの最適化:「何を知りたいか」が明確なので、それに最適な患者さんの選択基準、測定する項目(主要評価項目:3年後の収縮期血圧変化量、副次評価項目:心血管イベント発生率など)、測定タイミング、必要な症例数を合理的に設定できます。
  • データ収集・管理の効率化: どの情報を、いつ、どのように収集・記録すべきかが明確になり、無駄なデータ収集や後からの混乱を防げます。ICEに関する情報も系統的に収集します。
  • 解析計画の事前確定: ICEが起こった場合にどうデータを扱うか(今回は治療方針戦略)が事前に決まっているので、解析段階で恣意的な判断が入る余地がありません。統計解析計画書(SAP)に明確に記載できます。
  • 結果の解釈の一貫性: 得られた結果(例:平均でプラセボ群より5mmHg多く血圧が低下)が、「治療方針としての効果」を示していることが明確であり、誰にとっても解釈のブレが少なくなります。
  • バイアスリスクの低減: 特にICEの扱いを事前に決めておくことで、結果に都合の良いデータだけを選んだり、除外したりするバイアス(選択バイアス、Attritionバイアスなど)のリスクを大幅に減らせます。
  • 透明性と再現性の向上: 研究計画書や論文でEstimandが明記されていれば、他の研究者が研究の内容を正確に理解し、必要であれば追試(再現)することが可能になります。
  • 円滑なコミュニケーション: 研究チーム内での認識統一はもちろん、規制当局(PMDA, FDAなど)への承認申請時や、学会発表、論文投稿、さらには臨床現場の医師や患者さんへの情報提供においても、「この研究は何を明らかにしたのか」を誤解なく、正確に伝えることができます。

【シナリオ2】Estimandが曖昧な(定義されていない)場合

研究チームの目標は「クスリナオールXの効果を評価する」という漠然としたものだけで、具体的なEstimandは定義されていませんでした。

曖昧な問い

「クスリナオールXは、プラセボより長期的に有効か?」

起こりうる深刻な問題
  • データ扱い・解析方針の迷走: 試験が進み、副作用で中止する人や別の薬を追加する人が出てきた段階で、「さて、これらの人のデータをどうしようか?」という議論が始まります。
    • ある研究者は「副作用でやめた人は除外すべきだ。クスリナオールXが合わなかった人を含めては、本当の効果が見えない」と主張するかもしれません。(しかし、これでは「副作用が出にくい人に限定した効果」を見てしまうバイアスがかかる可能性があります)
    • 別の研究者は「効果がなくて他の薬を追加した人も除外すべきでは?」と言うかもしれません。(しかし、これでは「効果があった人だけ」を選んでいることになりかねません)
    • さらに別の方法として、「中止時点の最後の測定値を、試験終了まで持ち越す(LOCF)」という古い方法や、「統計モデルで欠測値を補う(多重代入法など)」といった方法も考えられますが、どの方法を選ぶかの明確な基準がなく、担当者や時期によって方針がブレる可能性があります。問題なのは、どの方法を選ぶかで、計算される「効果」の大きさが大きく変わってしまう可能性があることです。
  • 結果の解釈が「カオス」に: 解析方法が複数試され、異なる結果が出てきた場合、「結局、クスリナオールXは効くのか、効かないのか?」「どの結果を信じればいいのか?」が分からなくなります。研究チーム内でも意見が割れ、報告書や論文の結論も玉虫色になったり、あるいは最も都合の良い結果だけが強調されたりする危険性があります。まさに「リンゴとミカンとバナナを比べている」ような状態です。
  • バイアスの「温床」となる: 明確なルールがないため、無意識のうちに、あるいは意図的に、特定の結果(例:統計的に有意差が出やすい結果)を導くような解析方法が選ばれてしまうリスク(p-hackingなど)が高まります。特に脱落した患者の扱い(Attritionバイアス)は結果を大きく歪める可能性があります。
  • 研究の「再現性」が失われる: 他の研究者がこの試験結果を検証しようとしても、元の研究が具体的にどのような「問い」に答えようとし、どのようにデータを扱ったのかが不明瞭なため、比較可能な結果を得ることが極めて困難になります。
  • 科学的知見の「停滞」を招く: この研究結果を、他の高血圧薬の試験結果と比較したり、複数の試験結果を統合してより信頼性の高い結論を導く「メタアナリシス」を行ったりすることが難しくなります。結果として、医学知識の進歩が妨げられ、医療ガイドラインの作成などにも悪影響が出ます。
  • 関係者との「コミュニケーション不全」に陥る: 規制当局との承認審査の場で、「この解析方法の根拠は?」「なぜこのICEの扱い方を選んだのか?」といった厳しい質問に明確に答えられず、審査が難航する可能性があります。学会発表や論文でも、査読者から信頼性を疑問視されるでしょう。
  • 資源の「浪費」と「倫理的」な問題: 多大な費用、時間、そして何よりも臨床試験に参加協力してくれた多くの患者さんという貴重なリソースが、明確な結論を出せない研究のために浪費されることになります。参加者に対して、研究が何を明らかにしようとしているのかを事前に十分に説明できなかった(インフォームド・コンセントの不備)という倫理的な問題も生じかねません。

このように、Estimandが曖昧であることは、単なる学術的な手続きの問題ではなく、研究の信頼性、効率性、透明性、そして最終的には患者さんや社会全体への貢献度にまで深刻な影響を及ぼす可能性があるのです。だからこそ、研究を始める前に「私たちは何を知りたいのか?」を徹底的に問い詰め、明確なEstimandを定義することが、これほどまでに重要視されているのです。

要注意!Estimandが曖昧だと、こんな問題が起こるかも…

研究の「設計図」であるEstimand。もしこれが曖昧だったり、そもそも考慮されていなかったりすると、研究の信頼性を揺るがしかねない様々な問題が発生します。具体的にどんな困ったことが起こるのか、詳しく見ていきましょう。

研究の目的が「霧の中」に… ゴールが見えなくなる

Estimandが明確でないと、そもそも「この研究で、具体的に何を知りたいのか?」という核心部分がぼやけてしまいます。関係者間(研究者、統計家、臨床医など)で目指すゴールが共有されないため、研究計画の立案、必要なデータの収集、解析方法の選択といったプロセス全体で、判断の軸が定まりません。まるで、行き先を決めずに航海に出るようなもので、どこに向かっているのか分からなくなってしまいます。

結果の解釈が「人それぞれ」に… 結論がまとまらない

同じデータセットを目の前にしても、Estimandが曖昧だと、結果の解釈が人によって大きく異なる可能性があります。例えば、新薬の臨床試験で途中で服用をやめた人をどう扱うか?その扱い方一つで、「薬が効いた」という結論にも、「効かなかった」という結論にもなり得ます。これでは、客観的な評価ができず、まるでリンゴとオレンジを比べて議論しているような状況に陥ってしまいます。

見えない「バイアス」が忍び寄る… 結果の信頼性が低下する

研究者が意図するしないに関わらず、結果に偏り(バイアス)が入り込むリスクが高まります。特に、研究途中で起こるイレギュラーな出来事(専門的にはIntercurrent Eventsと呼ばれます。例:副作用による治療中止、他の治療の開始など)の扱いが事前に決められていないと、無意識のうちに結果が良く見えるようなデータ処理をしてしまう可能性があります(選択バイアスなど)。これにより、薬や治療法の効果が実際よりも過大評価されたり、逆に過小評価されたりして、真実とは異なる結論が導かれてしまう恐れがあります。

「再現できない」研究に… 科学の土台が揺らぐ

科学的な発見が信頼されるためには、他の研究者が同じ手順で研究を追試し、同様の結果が得られること(再現性)が重要です。しかし、Estimandが不明確だと、そもそも元の研究が「どんな問いに答えようとしたのか」が分からないため、追試自体が困難になったり、追試しても結果が一致しなかったりします。これは研究の透明性を損ない、科学全体の進歩を妨げる要因にもなります。

他の研究と「比べられない・合わせられない」… 知見が集まらない

あるテーマについて複数の研究が行われても、それぞれの研究が(明示的に定義されていない)異なるEstimandに基づいている可能性があります。これでは、各研究の結果を単純に比較したり、統合してより確かな結論を導く「メタアナリシス」という手法を用いたりすることが難しくなります。せっかくの研究成果が断片的なままとなり、分野全体の知識の集積が進みにくくなってしまいます。

関係者との「話が噛み合わない」… コミュニケーションに齟齬が生じる

特に医薬品開発においては、製薬企業と規制当局(日本のPMDA、米国のFDAなど)との間で、薬の有効性や安全性について厳密な議論が必要です。Estimandが明確に定義されていないと、「このデータは何を示しているのか」という点で認識のずれが生じ、承認審査プロセスが滞ったり、最悪の場合、承認が得られないという事態にもなりかねません。研究者同士の議論においても、誤解や混乱を招く原因となります。

誤った判断や決定につながるリスク… 患者さんや社会への影響も

これが最も深刻な問題かもしれません。信頼性の低い研究結果に基づいて、効果のない、あるいは有害な可能性のある治療法が臨床現場で使われたり、効果の乏しい政策に多額の税金が投入され続けたりする可能性があります。これは、患者さんの健康や安全を脅かすだけでなく、限りある医療資源や公的資金の無駄遣いにもつながり、社会全体にとって大きな損失となります。

小括

このように、Estimandを軽視することは、単なる学術的な問題にとどまらず、私たちの健康や社会にも影響を及ぼしかねない重要な課題なのです。だからこそ、研究に関わるすべての人々がEstimandの重要性を理解し、研究の初期段階から明確に定義することが求められています。

4. Estimandを「定義」し、データから「推定」するプロセス

Estimandが「知りたいことの定義」であることは分かりました。では、具体的にどうやってEstimandを定め、そしてデータを使ってその答え(推定値)を求めるのでしょうか?

このプロセスは大きく分けて、「Estimandを定義するステップ」と「定義されたEstimandをデータから推定するステップ」の2段階で考えられます。

ステップ1:Estimandを定義する(研究計画段階)

これは、研究を始める前に「何を明らかにしたいのか?」を徹底的に考えるプロセスです。先ほど紹介した「Estimandを構成する5つの要素」を一つずつ具体的に決めていきます。

  1. 対象集団 (Population) の特定: どんな特徴を持つ人たちに興味があるのか?(例:年齢、性別、病気の重症度など)
  2. 関心のある変数 (Variable / Endpoint) の選択: 効果を測るための具体的な指標は何か?(例:血圧、血糖値、生存期間、QOLスコアなど)
  3. 介入・曝露 (Treatment / Exposure) の明確化: 何と何を比較するのか?(例:新薬 vs 既存薬、介入A vs 介入なし)
  4. 集団レベルでの要約指標 (Summary measure) の決定: 結果をどのようにまとめるか?(例:平均値の差、リスク比、オッズ比)
  5. 介入後イベント (Intercurrent events) の扱い方の選択: 服薬中断、他の治療の併用、死亡などのイベントが起きた場合に、それらをどう考慮して「効果」を定義するか? ここが最も議論が必要な部分であり、複数の戦略(例:治療方針の効果を見る、仮に治療を続けた場合の効果を見る、など)から目的に合ったものを選びます。

この定義プロセスは、研究者だけでなく、統計家、臨床医、場合によっては患者さんや規制当局など、関係者間での十分な議論と合意形成が重要になります。

ステップ2:Estimandを推定する(データ収集・分析段階)

Estimandが明確に定義されたら、次はその「答え」を実際のデータから計算(推定)します。

  1. データ収集: 定義されたEstimandに必要な情報を集めます。対象集団から適切にサンプルを選び、変数(Endpoint)を測定し、介入後イベントの情報も記録します。
  2. 統計モデルの選択と分析: 集めたデータを使って、定義されたEstimandを計算するための統計的な手法を選択し、適用します。
    • 使われる主な統計ツール・テクニック:
      • 回帰分析: 様々な要因の影響を調整しながら、介入の効果を推定します。
      • 生存時間解析: 治療開始から特定のイベント(例:死亡、再発)が発生するまでの時間を比較します。
      • 傾向スコアマッチング: 観察研究などで、介入群と対照群の背景因子が似るように調整し、比較可能にします。
      • 操作変数法: 未測定の交絡因子(結果に影響を与える隠れた要因)がある場合に用いられることがあります。
    • 重要なのは: 選ぶ統計手法は、ステップ1で定義したEstimand(特に介入後イベントの扱い方)と整合性が取れている必要があります。
  3. 推定値 (Estimate) の算出: 選択した統計モデルを用いて、Estimandの具体的な値(例:平均血圧の差は -5mmHg)とその信頼区間(例:95%信頼区間は -7mmHg から -3mmHg)を計算します。
  4. 感度分析: 分析の際に行った仮定(例:欠測データの処理方法、モデルの選択など)が、結果にどれくらい影響を与えるかを評価します。これにより、結果の頑健性(ロバストネス)を確認します。
  5. 結果の解釈と報告: 得られた推定値が、ステップ1で定義したEstimand(=知りたかったこと)に対する答えとなります。統計的な有意性だけでなく、臨床的・社会的な意味合いも考慮して解釈し、明確に報告します。

Estimandを定義し、それをデータから推定するこの一連のプロセスを経ることで、研究の問いに対するより信頼性の高い、解釈のブレが少ない答えを得ることができるのです。

5. Estimandは現場でどう活かされている? 実務での応用例

Estimandは、アカデミックな理論の世界だけでなく、私たちの生活に身近な医療や社会の現場でも、その重要性が認識され、活用され始めています。

薬剤開発:より確かな「効き目」の証明へ

  • 臨床試験の質向上: 新しい薬が本当に有効で安全かを確認する臨床試験において、Estimandは「何を証明したいのか」を明確にする羅針盤となります。試験のデザイン(どんな患者さんを対象にするか、何を測定するか)や統計解析計画を立てる上で中心的な役割を果たします。
  • 規制当局との対話: 製薬企業が新しい薬の承認を得るためには、PMDA(日本)やFDA(米国)、EMA(欧州)といった規制当局に対して、薬の有効性と安全性を示す質の高いデータを提供する必要があります。Estimandを明確に定義し、それに基づいた試験を行うことで、企業と規制当局の間での認識のずれを防ぎ、より科学的で効率的な審査プロセスにつながります。
  • 欠測データへの対応: 臨床試験では、様々な理由でデータが欠損することがあります(例:患者さんが来院しなくなる)。Estimandのフレームワークは、こうした欠測が結果の解釈にどう影響する可能性があるかを考慮し、より適切な対応策(統計的手法)を選択する指針を与えてくれます。

臨床研究:より良い医療の選択のために

  • 治療効果の客観的評価: 様々な治療法や医療介入の効果を比較する臨床研究において、Estimandを用いることで、「どんな患者さんにとって」「何を基準に」「どのように」効果を評価するのかが明確になり、より客観的で信頼性の高い結論を導くことができます。
  • 観察研究での因果推論: ランダム化比較試験(RCT)が実施できない場合に行われる観察研究(実際の診療データなどを使う研究)においても、Estimandの考え方は重要です。交絡因子(結果に影響を与える他の要因)の影響をどう考慮し、何を「効果」として定義するかを明確にすることで、バイアスの少ない因果関係の推定を目指します。
  • 患者さんへの説明: 医師が患者さんに治療法の選択肢を説明する際にも、Estimandに基づいた研究結果(例:「この治療を受けた場合、平均して〇〇という効果が期待できますが、△△といった理由で治療を続けられないケースも考慮されています」)を伝えることで、よりインフォームド・コンセント(十分な情報に基づく同意)に役立つ可能性があります。

医療政策:効果的な制度設計と資源配分

  • 政策効果の評価: 新しい医療制度や公衆衛生プログラム(例:特定健診、予防接種事業)が、国民の健康や医療費にどのような影響を与えたかを評価する際に、Estimandは「何を達成目標とするか」を明確にします。これにより、政策の有効性を客観的に判断し、改善につなげることができます。
  • 医療資源の最適配分: 限られた医療資源(予算、人材、設備など)をどこに重点的に投入すべきかを判断する上で、様々な医療介入の費用対効果をEstimandに基づいて比較検討することが役立ちます。
  • エビデンスに基づく政策立案 (EBPM): Estimandの考え方は、勘や経験だけに頼るのではなく、信頼できるデータと分析(エビデンス)に基づいて政策を決定していくEBPMの考え方と親和性が高く、その推進に貢献します。

このように、Estimandは単なる統計用語ではなく、薬剤開発から日々の診療、そして社会全体の医療システムに至るまで、より良い意思決定を行うための実践的なツールとして、その価値を発揮し始めています。

6. まとめ:Estimandは、より良い未来のための「問いの力」

これまで見てきたように、Estimand(エスティマンド)は、因果関係を探求する上で非常にパワフルな考え方です。それは単に研究のゴールを定義するだけでなく、研究プロセス全体の質を高め、私たちが手にする情報の信頼性を向上させるための「設計図」であり、「共通言語」でもあります。

Estimandの重要ポイントをおさらい

  • 「何を知りたいか」を明確にする: 研究の目的、対象、測るもの、結果のまとめ方、予期せぬ出来事の扱い方を具体的に定義します。
  • 研究の一貫性と透明性を高める: 計画から分析、結果の解釈まで、ブレのないアプローチを可能にします。
  • バイアスを減らし、信頼性を向上させる: 結果の解釈における恣意性を減らし、より客観的な結論を導きます。
  • コミュニケーションを円滑にする: 研究者間、規制当局、医療従事者、政策立案者の間で、「何について話しているのか」という共通理解を促進します。
  • 実務に役立つ: 薬剤開発、臨床研究、医療政策など、様々な現場での意思決定の質を高めます。

これからのEstimand

Estimandの考え方は、今後さらに多くの分野で重要性を増していくでしょう。医学や薬学だけでなく、経済学、社会学、教育学など、因果関係の解明が求められるあらゆる領域での応用が期待されます。また、より複雑な状況に対応するための新しいEstimandの定義や、それを推定するための統計手法の開発も進んでいくと考えられます。

この記事を読んでくださったあなたが、もし研究に携わる方であれば、ご自身の研究計画にEstimandの視点を取り入れてみてください。もし医療や政策に関わる方であれば、提示されるエビデンスの背景にあるEstimandに関心を持ってみてください。そして、一般の方であっても、ニュースなどで目にする様々な調査結果に対して、「この調査は、結局何を知ろうとしたのかな?」と考えてみることは、情報リテラシーを高める上でとても役立つはずです。

Estimandは、私たちがより確かな知識に基づき、より良い判断を下し、より良い未来を築いていくための「問いの力」を、改めて教えてくれる概念と言えるでしょう。

-疫学, 統計学, 臨床試験

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