医学

がん治療の新たな標的。ビタミンD代謝遺伝子SDR42E1

SDR42E1という遺伝子は、私たちの健康に不可欠なビタミンDの代謝という身近な現象から、がんという深刻な病気の生存戦略に至るまで、驚くほど広範な生命現象に関与していることが、近年の研究によって明らかになってきました。

SDR42E1は、短鎖デヒドロゲナーゼ/レダクターゼ(SDR)スーパーファミリーと呼ばれる、非常に古くから存在する酵素の一族に属しています 1。このファミリーに属する酵素たちは、生命の進化の過程で多様な役割を担うように分化してきましたが、その多くはステロイドや脂質といった、体の構造やエネルギー源となる基本的な物質の代謝に関わっています。SDR42E1もその例外ではなく、生命の基本的な設計図の中に深く刻み込まれた、重要な役割を持つことが示唆されていました。

この記事では、一つの遺伝子、SDR42E1の研究成果の歴史と最新情報をご紹介します。まず、なぜこの遺伝子が、太陽の光を浴びることで体内で作られるビタミンDという、私たちにとって不可欠な栄養素の利用にこれほどまでに重要なのでしょうか。そして、それと同時に、なぜ同じ遺伝子が、体の秩序を乱す存在であるはずのがん細胞の生存に深く関わっているのでしょうか。

これらの問いに答えていく過程で、私たちはSDR42E1が持つ「多面的な機能」、すなわち一つの遺伝子が複数の、一見すると関連性のない生命現象を制御するという、生命の仕組みを垣間見ることになります。この遺伝子を深く知ることは、健康と病気の関係を見つめ直し、がん治療における新しい可能性を開くことにつながるのです。

生命活動の礎、ステロールとビタミンDの世界

私たちの生命活動を理解するうえで、基本的な分子たちの役割を知る必要があります。その中でも特に重要なのが「ステロール」と呼ばれる一連の化合物です。ステロールは、私たちの体を構成する約37兆個の細胞、その一つ一つを包む細胞膜の主要な構成成分として、生命の基盤を支えています 3。細胞膜に組み込まれたステロールは、膜に適切な流動性と強度を与え、細胞がその形を保ち、外部環境の変化に対応できるようにする上で不可欠な役割を果たします。

しかし、ステロールの役割は単なる構造材料にとどまりません。これらは体内で様々な生理活性物質に変換される前駆体、つまり「原材料」としても極めて重要です。例えば、ストレス応答や性機能に関わる多種多様なステロイドホルモンや、今回私たちが注目するビタミンDも、ステロールから作られます 3。動物における最も代表的なステロールはコレステロールであり、生命維持に必須である一方で、その代謝が乱れると動脈硬化などの健康問題を引き起こすことでも知られています 3。このように、ステロール代謝は、そのバランスが保たれて初めて、私たちの健康が維持されるという、非常に繊細なシステムなのです。

このステロールの世界から生まれる重要な分子の一つが、ビタミンDです。ビタミンDの物語は、私たちの皮膚から始まります。皮膚に存在する7-デヒドロコレステロールというステロールの一種が、太陽光に含まれる紫外線B波(UVB)を浴びることで、ビタミンD3(コレカルシフェロール)へと変化します 6。しかし、この段階のビタミンD3はまだ活性を持たない「未完成」の状態です。

ここから、ビタミンDは活性化への旅に出ます。まず、血流に乗って肝臓へと運ばれ、そこで最初の水酸化を受けて25-ヒドロキシビタミンD という形に変わります 6。これは体内に最も多く存在するビタミンDの形態であり、血中濃度を測定することで体内のビタミンDが足りているかどうかを判断する指標として用いられます。しかし、これでもまだ最終形態ではありません。次に、25-ヒドロキシビタミンDは腎臓へと運ばれ、そこで2度目の水酸化を受けて、ようやく生物学的に最も活性の高い形態である1,25-ジヒドロキシビタミンD、別名カルシトリオールへと最終変化を遂げるのです 6

この活性型ビタミンDの最もよく知られた役割は、骨の健康を維持することです。カルシトリオールは、腸管からのカルシウムとリンの吸収を促進し、血液中のこれらのミネラル濃度を適切に保つことで、丈夫な骨の形成を支えます 6。しかし、近年の研究により、その役割は骨だけに留まらないことが明らかになってきました。活性型ビタミンDは、免疫系の機能を調節したり、細胞の増殖や分化をコントロールしたりと、全身の様々な生命現象に関与する、まさに「万能ホルモン」とも呼べる働きを持っているのです 6

このように、ステロールという基本的な生体分子から、複雑な多段階のプロセスを経て活性型ビタミンDが作られる一連の流れは、私たちの健康を根底から支える重要な生命活動です。この経路のどこか一つにでも問題が生じれば、その影響は骨の健康から免疫機能まで、全身に及ぶ可能性があります。次は、この重要な代謝経路において、SDR42E1遺伝子がどのような役割を果たしているかを、詳しく見ていきましょう。

ビタミンD代謝の要、SDR42E1の機能に迫る

SDR42E1という遺伝子の特異的な役割を理解するためには、まずそれが属する大きなファミリー、短鎖デヒドロゲナーゼ/レダクターゼ(SDR)スーパーファミリーについて知ることが助けになります。このSDRスーパーファミリーは、知られている中でも最大級のタンパク質ファミリーの一つであり、そのメンバーは細菌からヒトに至るまで、あらゆる生物に存在します 1。これらの酵素が担う役割は非常に多岐にわたり、ステロイド、脂質、糖、さらには体外から取り込まれた異物(ゼノバイオティクス)の代謝まで、生命活動の様々な化学反応を触媒します 2。驚くべきことに、このファミリーに属する酵素同士のアミノ酸配列の類似性は低いことが多いのですが、「ロスマンフォールド」と呼ばれる共通の立体構造を持っており、この構造的な共通性が多様な機能を生み出す基盤となっています 2

この広大なSDRファミリーの中で、SDR42E1はビタミンD代謝の経路において、特に重要な役割を担うことがわかってきました。具体的には、ビタミンD合成の出発点となる7-デヒドロコレステロール(7-DHC)のような前駆体ステロールを、後続の反応が進みやすいように適切に処理し、最終的に活性型ビタミンDへと至る流れを円滑にする働きをしています 10。この機能は、単にヒトに特有のものではなく、進化の過程でショウジョウバエや線虫といった遠い親戚にあたる生物にまで保存されています [User text]。ある遺伝子の機能がこれほど広範な種で保存されているという事実は、その機能が生命にとって根本的かつ不可欠であることを強く物語っています。

SDR42E1の重要性は、臨床的な観察からも裏付けられています。科学者たちは、なぜ一部の人々が、十分な日光浴を心がけ、サプリメントでビタミンDを補給しているにもかかわらず、依然としてビタミンD欠乏症から抜け出せないのか、という臨床上の謎に取り組んできました [User text]。その答えの一つが、SDR42E1遺伝子に見つかったのです。大規模なゲノム解析研究により、SDR42E1遺伝子上に特定の変異(ナンセンス変異と呼ばれる、タンパク質の合成を途中で中断させてしまうタイプの変異)を持つ人々は、ビタミンD欠乏症になりやすいことが発見されました 10

この遺伝子変異が引き起こす事態は、体内の化学工場で特定の機械が故障した状態に似ています。SDR42E1という機械が正常に働かないため、ビタミンDの原材料である7-DHCなどの前駆体ステロールを適切に処理できません 10。その結果、これらの前駆体は行き場を失って体内に蓄積し、一方で最終製品である活性型ビタミンDは十分に生産されなくなります。つまり、原材料が豊富にあっても、それを製品に加工する重要な工程が滞ってしまう「代謝のボトルネック」が生じているのです。この発見は、SDR42E1が単にビタミンD代謝経路の一部を担う多くの酵素の一つではなく、経路全体のスムーズな流れを左右する「律速段階」、すなわち極めて重要な制御点であることを示しています。この遺伝子のわずかな違いが、個人のビタミンDレベル、ひいては健康状態に直接的な影響を及ぼす可能性があるのです。

遺伝子編集ツール、CRISPR/Cas9の仕組み

SDR42E1遺伝子の機能をこれほど詳細に解明できた背景には、近年の生命科学における最も重要な技術革新の一つ、「CRISPR/Cas9(クリスパー・キャスナイン)」システムの存在があります。この技術を理解することは、現代の生物学研究がどのように進められているかを知る上で欠かせません。興味深いことに、この革新的なツールは人間がゼロから発明したものではなく、自然界に存在する細菌の巧みな生存戦略を応用したものです。

その物語は、細菌とその天敵であるウイルス(バクテリオファージ)との、数十億年にわたる静かな戦いの歴史に遡ります 11。細菌は、一度侵入してきたウイルスのDNA断片を切り取り、自身のゲノムの中にある「CRISPR」と呼ばれる特定の領域に保存します。これは、あたかも細菌が過去に遭遇した敵の「指名手配写真」をファイリングしておくようなものです 11。そして、同じウイルスが再び侵入してきた際に、この保存された情報を使って、侵入者を迅速かつ正確に認識し、排除するのです。これが、細菌が持つ獲得免疫システムの基本的な仕組みです。

科学者たちは、この巧妙な防御システムを、あらゆる生物の遺伝子を自在に編集するためのツールへと昇華させました。CRISPR/Cas9システムは、主に二つの重要な要素から構成されています。

一つ目は「ガイドRNA(gRNA)」です 12。これは、科学者が標的としたいゲノム上の特定のDNA配列と相補的な配列を持つように設計した、短いRNA分子です。このガイドRNAは、広大なゲノムの中から目的の場所を正確に見つけ出す「探索ドローン」や「分子のGPS」のような役割を果たします 11

二つ目の要素は「Cas9酵素」です 12。これは、DNAを切断する能力を持つタンパク質で、「分子のハサミ」とも呼ばれます。ガイドRNAが標的のDNA配列に結合すると、Cas9酵素がその場所に誘導され、DNAの二本鎖を正確に切断します。この「二本鎖切断(DSB)」という現象が、遺伝子編集の全ての始まりとなります 12

DNAに切断が生じると、細胞はこれを緊急事態と認識し、自身の持つ修復機構を作動させて元に戻そうとします。科学者は、この細胞の自然な修復プロセスを巧みに利用します。修復メカニズムの一つである「非相同末端結合(NHEJ)」は、迅速ですが間違いを起こしやすく、切断箇所に数塩基の欠失や挿入といった小さな変異(エラー)を導入することがあります 12。このエラーによって遺伝子の読み枠がずれ、結果的にその遺伝子の機能が失われる「ノックアウト」という状態を引き起こすことができます 14。SDR42E1遺伝子の機能を調べる研究で用いられたのは、まさにこの方法です。一方で、「相同組換え修復(HDR)」という別の修復経路を利用し、切断と同時に設計したDNA断片を細胞に導入することで、特定の遺伝子を挿入する「ノックイン」も可能です 12

CRISPR/Cas9が登場する以前にも、ZFNやTALENといった遺伝子編集技術は存在しました 15。しかし、これらの旧来の方法は、標的DNAを認識するために複雑なタンパク質を毎回設計・作製する必要があり、多大な時間とコスト、そして高度な専門知識を要しました 15。それに対し、CRISPR/Cas9の革新性は、標的の認識を設計が非常に容易なRNAに依存している点にあります 15。これにより、遺伝子編集は、かつてないほど迅速、安価、高効率、そして簡便になり、一部の専門家だけのものであった技術から、世界中の多くの研究室で利用可能な汎用ツールへと変貌を遂げたのです。この技術革命があったからこそ、SDR42E1のような単一の遺伝子が細胞の運命に与える直接的な影響を、これほど明確に証明することが可能になったのです。

SDR42E1とがん

ビタミンD代謝におけるSDR42E1の重要性が明らかになる一方で、科学者たちはこの遺伝子が持つもう一つの顔、すなわち「がん」との関わりにも注目し始めました。この謎を解明するために、研究者たちは具体的な実験モデルとして、ヒトの大腸がん由来の細胞株である「HCT116細胞」を選びました 18。この細胞株は、がん研究の分野で広く用いられており、増殖が速いという特徴を持っています。特に重要な点として、このHCT116細胞は、もともとSDR42E1遺伝子を高いレベルで発現していることが知られていました [User text]。これは、SDR42E1が失われたときにどのような影響が出るかを調べる上で、理想的な条件でした。

研究チームは、前章で解説した革命的な遺伝子編集技術、CRISPR/Cas9を駆使しました。彼らはこの「分子のハサミ」を用いて、HCT116細胞が持つSDR42E1遺伝子を正確に狙い撃ちし、その機能が働かないように「ノックアウト」したのです。これは、がん細胞が依存している可能性のある重要な柱を、意図的に抜き去るような実験でした。

その結果は、研究者たちの予想を上回る劇的なものでした。SDR42E1の機能を失ったがん細胞は、その生存能力を著しく低下させ、細胞の生存率が実に53%も減少したのです 10。これは、わずかな影響ではありません。がん細胞の半数以上が、SDR42E1というたった一つの遺伝子を失っただけで死滅、あるいは増殖できなくなったことを意味します。この事実は、これらの大腸がん細胞が、生き延びるためにSDR42E1の機能に深く「依存」あるいは「中毒」している状態にあったことを強力に示唆しています。

この発見は、「精密オンコロジー(Precision Oncology)」あるいは「がん精密医療」と呼ばれる、現代のがん治療における最先端の考え方と深く結びつきます。従来のがん治療、例えば多くの化学療法は、がん細胞だけでなく、正常な細胞の中でも分裂が活発な細胞(髪の毛の細胞や消化管の細胞など)を無差別に攻撃するため、強い副作用が問題となることがありました 20。これに対し、精密オンコロジーは、個々のがん細胞が持つ特有の遺伝子変異や分子的特徴を特定し、その弱点、いわば「アキレス腱」だけを狙い撃ちする治療法を目指すものです 20。がん細胞だけを選択的に攻撃し、正常な組織へのダメージを最小限に抑えることで、より効果的で副作用の少ない治療を実現しようというアプローチです。

今回のSDR42E1に関する発見は、まさにこの精密オンコロジーの新たな標的候補を見つけ出したと言えます。もし、特定のがんがSDR42E1に強く依存して生存しているのであれば、この遺伝子の働きを阻害する薬剤を開発することで、そのがん細胞だけを選択的に死滅させられる可能性があります。つまり、SDR42E1の研究は、ビタミンD代謝の謎を解くだけでなく、がん治療における新しい戦略を得る可能性を秘めているのです。

SDR42E1が引き起こす遺伝子発現の連鎖反応

SDR42E1というたった一つの遺伝子を失っただけで、なぜがん細胞の半数以上が生き残れなくなったのでしょうか。その答えは、細胞内部で引き起こされた、ドミノ倒しのような大規模な連鎖反応にありました。研究者たちがSDR42E1をノックアウトした細胞の内部を詳しく調べたところ、実に4,600以上もの遺伝子の活動レベル(発現量)が大きく変動していることが判明したのです [User text]。これは、SDR42E1が単なる一つの歯車ではなく、細胞の広範なネットワークを制御する司令塔のような役割を担っていたことを示しています。この章では、その中でも特に重要ないくつかの遺伝子の変動を追いながら、がん細胞が崩壊に至るまでの分子メカニズムを見ていきます。

停止した成長のエンジン

がん細胞が死に至った直接的な原因の一つは、その異常な増殖を支えていた重要な遺伝子群の活動が停止したことでした。その代表格が「WNT16」と「SLC7A5」です。

まず、WNT16遺伝子の発現が大幅に低下していることが確認されました 10。WNT16は、Wnt(ウィント)シグナル伝達経路に属する分子で、この経路は多くのがんにおいて細胞の増殖を促進する強力なアクセルとして働くことが知られています 22。さらに、この経路が活性化していると、がん細胞が化学療法に対して抵抗性を示すようになることも報告されています 22。したがって、SDR42E1を失ったことでWNT16の発現が低下したということは、がん細胞の増殖エンジンが直接的な打撃を受け、その勢いが失われたことを意味します。

同様に、「SLC7A5」という遺伝子の発現も著しく低下していました 10。この遺伝子は、細胞膜に存在するアミノ酸トランスポーター(輸送体)を作る設計図です。がん細胞は、その際限のない増殖を維持するために、正常な細胞よりもはるかに多くの栄養、特にタンパク質の材料となるアミノ酸を必要とします。そのため、多くのがん細胞ではSLC7A5のようなトランスポーターが過剰に作られ、細胞外から貪欲にアミノ酸を取り込んでいます 25。SDR42E1の欠損によってSLC7A5の発現が低下するということは、がん細胞にとっての生命線である栄養補給路が断たれてしまうことに他なりません。これは、細胞を兵糧攻めにし、飢餓状態に陥らせるようなものです。

このように、SDR42E1の機能不全は、がん細胞の「増殖シグナル」と「栄養摂取」という、生存に不可欠な二つの柱を同時に揺るがしました。これらは単なる副作用ではなく、観察された53%という劇的な細胞生存率の低下を説明する、直接的な原因であると考えられます。

報われなかったストレス応答

一方で、細胞内では奇妙な現象も観察されました。SDR42E1を失ったがん細胞は、ただ無抵抗に死を待っていたわけではなく、生き残るために必死の抵抗を試みていたのです。その証拠として、「LRP1B」と「ABCC2」という二つの遺伝子の発現が、逆に上昇していることが見出されました 10

LRP1Bは、細胞膜に存在する受容体の一種で、細胞外から脂質などの分子を取り込むエンドサイトーシスという過程に関与しています 27。SDR42E1の機能不全によって細胞内のステロール代謝が混乱し、必要な分子が不足する事態に陥ったため、細胞はLRP1Bの発現を増やして、外部から何とか必要な物質をかき集めようとしたのではないかと考えられます。

また、ABCC2は、細胞内から様々な物質を排出するポンプのような働きを持つ輸送体です 29。SDR42E1の機能が停止したことで、正常に処理されなかった有害な代謝中間体が細胞内に蓄積し始めた可能性があります。これに対し、細胞はABCC2ポンプを増産して、これらの毒素を細胞外へ排出しようと試みたのでしょう。

しかし、これらの反応は、いわば沈みゆく船から必死で水をかき出すような、その場しのぎのストレス応答に過ぎませんでした。根本的な問題、すなわちSDR42E1という壊れたエンジンが修復されない限り、細胞の運命を変えることはできません。このLRP1BとABCC2の発現上昇は、がん細胞が経験した深刻な代謝ストレスと、それに対する絶望的なまでの抵抗の試みを物語る、分子レベルの記録なのです。

機能不全に陥ったエネルギー工場

さらに詳細な解析を進めると、SDR42E1の欠損が引き起こした影響が、予想以上に根深いレベルにまで及んでいることが明らかになりました。プロテオーム解析という、細胞内のタンパク質全体を網羅的に調べる手法を用いた結果、「ALDOA」というタンパク質の量が減少していることが突き止められたのです 10

ALDOAは、解糖系と呼ばれる、細胞がブドウ糖を分解してエネルギーを取り出すための中心的な代謝経路で働く、極めて重要な酵素です。多くのがん細胞は、正常細胞とは異なり、酸素が十分にある環境でも、この解糖系にエネルギー産生の多くを依存するという特徴的な代謝様式(ヴァールブルク効果として知られる)を示します 31。ALDOAは、このがん特有のエネルギー産生ラインのまさに心臓部とも言える酵素です。

このALDOAの減少という事実は、驚くべきつながりを明らかにしました。SDR42E1が担う「ステロール・脂質代謝」の世界と、ALDOAが働く「ブドウ糖・エネルギー代謝」の世界は、これまで直接的には関連が薄いと考えられていました。しかし、今回の結果は、これら二つの代謝系が密接に連携していることを示しています。SDR42E1というステロール代謝の重要な一点が破壊されたことによる衝撃波は、細胞全体の代謝ネットワークを揺るがし、ついには主要なエネルギー生産ラインである解糖系をも機能不全に陥らせたのです。これは、がん細胞にとって致命的なエネルギー危機を意味し、生存能力の劇的な低下に大きく寄与したと考えられます。がん細胞の代謝システムは、私たちが想像する以上に繊細で相互に連結したウェブのようなものであり、SDR42E1はそのウェブの重要な結節点の一つだったのです。

決定的だった「救出実験」

これら一連の劇的な変化が、本当にSDR42E1の欠損だけによって引き起こされたのかを最終的に証明するため、研究者たちは決定的な「救出実験」を行いました。彼らは、CRISPR/Cas9でSDR42E1をノックアウトした細胞に、一時的に正常なSDR42E1遺伝子を再び導入したのです 10

結果は明白でした。正常なSDR42E1が細胞内に供給されると、死にかけていた細胞は息を吹き返し、生存率が回復したのです。さらに、ストレス応答として発現が上昇していたABCC2などの遺伝子の活動も、元のレベルへと戻りました。この結果は、SDR42E1が、このがん細胞の生存と恒常性を維持するためのまさに「かなめ石」であったことを、疑いの余地なく証明しました。一連の細胞崩壊の引き金を引いたのが、SDR42E1の機能喪失そのものであったことが、これにより確定したのです。

おわりに

これまで私たちは、SDR42E1という一つの遺伝子を巡る科学的発見を追ってきました。ビタミンDという生命維持に不可欠な物質の基本的な代謝から始まり、CRISPR/Cas9という最先端の遺伝子編集技術を駆使した実験を経て、がん細胞の生存戦略の核心に迫るという、壮大なものでした。この一連の研究が明らかにしたのは、SDR42E1が単なる代謝酵素の一つではなく、特定のがん細胞において、ステロール代謝、栄養シグナル、そしてエネルギー産生という、生命活動の根幹をなす複数のシステムを繋ぐ、極めて重要な「代謝のハブ」として機能しているという事実です。

この発見がもたらす最大の希望は、SDR42E1が新たながん治療の標的となる可能性です。精密医療の目的は、がん細胞に特有の弱点を見つけ出し、そこを狙い撃ちすることにあります。今回の研究で、SDR42E1を失った大腸がん細胞が劇的に死滅したという事実は、この遺伝子に依存して生きているがんが存在することを示しています。もし、SDR42E1酵素の働きだけを特異的に阻害する薬剤を開発できれば、理論上はCRISPR/Cas9による遺伝子ノックアウトと同様の効果を、薬によって実現できる可能性があります。それは、正常な細胞への影響を最小限に抑えながら、がん細胞だけを選択的に攻撃するという、理想的な精密医療の実現に繋がるかもしれません。

しかし、ここで私たちは、科学者として慎重な視点を忘れてはなりません。今回の画期的な発見は、あくまでHCT116という特定の大腸がん細胞株を用いた「in vitro」、すなわち実験室の培養皿の上での研究成果であるという点を強調する必要があります 10。この結果が、生体内の複雑な環境、すなわち動物モデルや、最終的にはヒトの患者さんにおいても同様に再現されるかどうかは、まだ分かっていません。有望な新薬候補が臨床応用に至る道は長く、険しいものです。今後、SDR42E1を標的とする治療法が現実のものとなるためには、その有効性と安全性を検証するための、慎重かつ広範な基礎研究と、それに続く厳密な臨床試験が不可欠です。

このSDR42E1の研究は、基礎科学の探求がいかにして予期せぬ形で医学の進歩に貢献しうるかを示す一例と言えるでしょう。ビタミンDがなぜ効かない人がいるのか、という素朴な疑問から始まった研究が、最終的にがんという人類の大きな課題に対する新たな治療戦略の可能性を指し示しました。生命の設計図に隠された謎を一つ一つ解き明かしていく地道な努力こそが、未来の医療を切り拓く原動力となるのです。SDR42E1の物語はまだ始まったばかりであり、その全貌が明らかになる日を大きな期待を持って見守っています。

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