Society5.0におけるガバナンスの必要性
Table of Contents
1.1 なぜガバナンスが必要か
1.1.1 本報告書の目的
我々が生きる世界は、少子高齢化、都市への人口の集中、経済成長の鈍化、所得格差の拡大、急速な気候変動、環境破壊等、様々な課題に直面している。また、2020年に世界を襲った新型コロナウイルス感染症は、経済活動と公衆衛生の両立の難しさを浮き彫りにした。
こうした課題を克服し、一人ひとりがより豊かで主体的な幸せな生活を送ることができる社会を実現するためには、革新的なデジタル技術を最大限に活用することが必要である。
現代は、高度なデジタル技術に支えられた、いわゆる第四次産業革命の時代といわれる。IoT、ビッグデータ、AI、5G通信といった先端技術は、人類が直面する様々な課題を克服し、これまでよりも豊かで幸福な社会をもたらす可能性を秘めている。例えば、ビッグデータとAIによって、社会における人流や物流の需要と供給をマッチングさせることで、個々人のニーズに合った、環境負荷が少なく、かつ経済的にも効率的な移動を実現できると考えられる。自動運転車や自動操縦ドローンによる人流・物流システムが実装されれば、過疎化によって移動手段が限られる高齢者等であっても、常に利便性の高いサービスを受けることができるようになるだろう。リアルタイムの健康データと医療機関の保有するデータが連携されれば、身体の異常を早期に特定し、更には既往歴や地理的条件を踏まえて、オンラインでの受診や、最適な医療機関への速やかな誘導も可能となる。ロボットの遠隔操作や3Dプリンターによって、物理的な存在を前提とするサービスですらオンラインで即時に提供される時代も遠くないであろう。また、従来ヒトが実施することが前提とされてきた工場設備などの点検作業を機械で代替できれば、ヒトは身体へのリスクからも解放されることになる。
このように、サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムによって、経済発展と社会的課題の解決を両立する人間中心の社会を、日本は「Society5.0」と名付け、その実現に取り組んできた。
本報告書は、こうしたSociety5.0を実現するために不可欠となる「ガバナンス」の在り方を検討し、デジタル技術の上に成り立つ今後の人類社会の発展と幸福に資することを目指すものである。
Column 1. Society5.0の経済効果と我が国の現状
Society5.0に関連する経済効果については、既に様々な数値が公表されている。例えば、IoT・AIによる経済的インパクトは、2030年に、我が国だけで132兆円の実質GDPの押し上げ効果を有すると予想されている。さらに、世界では、2030年のGDPが、AIによって15兆7000億ドル高くなる可能性があるとする試算もある。分野別にみると、自動運転車による世界の乗客経済への影響は2050年までに7兆ドル、我が国のドローンビジネスの市場は2025年度に6427億円、行政手続の電子化が我が国のGDPに与える影響は1.3兆円といった様々な予測が発表されており、いずれも先端的なデジタル技術が国内外の経済に飛躍的な発展をもたらすことを示唆している。
しかし、現実はどうであろうか。国際経営開発研究所(IMD)が公表する、世界デジタル競争力ランキング(2020)では、我が国は、先進国を中心とする63か国・地域中、27位に位置付けられている。低迷の要因としては、高度経済成長期からの社会システムの構造改革が進んでいないことや、必要とされる人材の高度化9やビジネスの俊敏性への対応の遅れのほか、硬直的な規制の枠組みなどが挙げられている。また、OECDによる2019年のレポートによると、我が国における業務におけるICTの活用動向は、OECD加盟国の平均値を下回っている。総じて、我が国における業務でのICTの利活用は、世界の主要国ほど進んでいないといえる。
2020年に世界を襲った新型コロナウイルス感染症の爆発的な拡散は、このようなデジタル化の停滞を見直すきっかけとなった。我が国においても、行政手続や契約における書面・印鑑・対面の廃止の動きや、オンライン診療の初診解禁・オンライン教育の推進など、デジタル技術活用に向けた規制改革の動きは進んでいる。しかし、これらは個々のヒトの行為をデジタルで代替する「Society4.0」の実現にすぎない。こうした個々のデジタル化を超えて、あらゆるシステムやデータが接続されていくSociety5.0を実現するためには、これまでのガバナンスモデルを格段に柔軟かつ効果的にするよう、大胆に変革していく必要があるというのが、本報告書の主題である。
1.1.2 Society5.0を実現するためにガバナンスが必要な理由
サイバー空間及びフィジカル空間を連動させる様々なサービスが相互運用されていく社会(Society5.0)では、例えば以下のように、様々なガバナンス上の課題が生じる。
① Society5.0を実現するためには、大量のデータを収集・分析していくことが必要となるが、これによって生じるプライバシーや、営業秘密に対するリスクをどう克服するか? また、流通するデータが正確であることや、信頼できるものであることを、どのように確保するか?
② Society5.0では、AIなどの高度なアルゴリズムによる自律的判断が社会に大きな影響を及ぼすことになるが、AIの挙動を事前に予測したり事後的に説明したりすることは、現時点での技術では困難である。このようなAIが、人間の意思決定や身体の安全等に与える影響をどのように管理するか?
③ Society5.0では、複数の主体が提供する様々なシステムが相互運用されていくことになるが、そのことにより提供されるサービスの信頼性や安全性をどのように確保するか? また、事故が生じた場合の責任関係をどう整理するか?
④ 高度化・巧妙化・組織化するサイバー攻撃や、ハードウェアの故障やソフトウェアの不具合に備えるために、どのようにリスクマネジメントするか?
上記はあくまで一例であり、実務上のガバナンスの課題は極めて多岐にわたる。そして、技術の進歩だけではなく、そこから生じる様々なガバナンス上の課題を克服することができなければ、Society5.0を実現することはできないと考えられる。
Column 2. 革新的な技術を社会実装する際にガバナンスが問題となった事例
実際に、イノベーティブな技術の社会実装が、ガバナンスの課題によって困難に直面した例は少なくない。以下に、いくつかの例を挙げる。
(a)トロント都市開発計画 「IDEA」
2017年10月、Googleの親会社であるAlphabet傘下の企業Sidewalk Labs(サイドウォーク・ラボ)が、カナダのトロントで未来都市実現のためのスマートシティプロジェクト「IDEA(Innovative Development and Economic Acceleration)」に着手する計画を発表した。しかし、メディアからの批判や地元住民の反対運動などを受け、2020年5月に計画の中止が発表された。
この計画では、モジュラー式グリーンビルディングや自動運転車両の活用など様々な先端技術の活用が予定されていたほか、市民生活のあらゆるデータが収集され、最先端のサービス等に活用されるという革新的な計画が含まれていた。しかし、市民のデータを収集することやその管理に対して、地元トロント市民や関係団体等から強い懸念が表明され、これが計画の中止の理由になったとみられている。民間企業が都市の管理者になるという新しい体制において、管理者側がステークホルダーの信頼に足り得るガバナンスモデルを示しきれなかったことが課題として挙げられる。
(b)顔認証のためのデータセットの使用
近年、AIを活用して、人間の顔を撮影した画像データから、性別・年齢・人種などを判別したり、個人を特定したりする顔認証技術が注目されている。この技術の精度を高めるためには、大量の顔画像データが必要とされるため、多くの企業や研究機関から顔画像を集めたデータセットが公開されている。
2019年1月、米国IBMは、100万人の多様な個人の顔画像データを収めた「Diversity in Faces(DiF)」と呼ばれるデータセットを公開した。しかし、この顔画像データとして、写真共有を目的としたコミュニティサイト「Flickr」上にある写真が利用されていることが判明し、Flickrのユーザーの中から、データセットへの写真利用に対して同意していないという声が挙がっている。
IBM側は、著作権等の制限が通常よりも緩和される「クリエイティブ・コモンズ(CC)」のタグがつけられた画像のみを使用していたため、写真の利用に問題はないというスタンスを取っていたが、企業側と一般ユーザーの認識には乖離があり、写真の利用にあたって合意の形成が十分ではないことが明らかになった。
顔認識技術の学習のために一般公開されている画像データを用いることや、技術を応用したソフトウェアの使用に関して、形式的ではなく実質的な合意に基づくガバナンスの確保が課題となっている。
(c)自動運転技術
自動運転技術も、未来社会の実現に向けて大いに注目を集めている技術であるが、その実用化に向けた課題は多い。特に、2018年、Uberが公道での走行実験中に起こした死亡事故を受けて、Uberだけでなく、トヨタやNVIDIAも公道での走行実験を中止した。
日本では、2020年の道路交通法の改正によって、レベル3の公道走行が認められたが、レベル4以降の自動運転の実現に向けては、ドライバーの定義等に関して国際的な合意が必要とされ、未だ国際的な合意にまでは至っていない。特に、現行法上のドライバーは「人」とされているが、自動運転システムによる走行が認められた場合、自動運転システムを「ドライバー」と呼べるのか、などの点についての国際的な合意の形成には至っていない。さらに、自動運転システムによる運転が行われている最中に事故が発生した場合、その責任主体は、人なのか、運輸事業者なのか、システム開発事業者なのか、などの点についても、明確な合意は形成されていない。
(d)ドローン
ドローンによる新たなサービス市場の創出も、未来社会の実現に向けて近年特に期待される領域となっており、そのために、各種規制の緩和が期待されている。しかし、ドローンは航空機と異なり個人で飛行させることが可能であり、加えて航空機のような管制システムがないことから、落下、衝突、プライバシー侵害などのリスク面も懸念される。2015年4月、我が国の首相官邸にドローンが落下した事件を契機に、航空法によりドローンの飛行が厳しく規制されるようになった。規制の対象は「人口密集地」「目視外」「第三者上空」等における飛行であり、これら環境での飛行は原則として禁止されており、航空局の許可承認が必要となる。
今後の課題としては、①飛行中のドローンをリアルタイムで識別するためのリモートIDの導入、②膨大な数のドローンでも事前の飛行計画の審査/受理や飛行時の管制ができる自動化されたUTM(Unmanned Traffic Management)システムの導入、③違法なドローンの排除を実現するためのガバナンス、等が課題となっている。
(e)重要インフラのシステム停止
近年は、システムのセキュリティやハードウェアのガバナンスに関する問題によって電力・金融・航空などの重要インフラや工場が停止する事態も起きている。2015年の米国ICS-CERTの報告によると、米国内のサイバー攻撃のうち約1割が重要インフラのフィジカルシステム(制御システム)にまで到達しているとされ、実際に世界各地でインシデントが起きている。2015年には、ウクライナ西部の電力供給会社で、何者かが電子メールでマルウェア(情報の搾取やシステムの攪乱などを行う不正なソフトウェア)を送り込み、電力制御システムを遠隔操作して100万人以上が住む地域を数時間にわたって停電させるという重大インシデントが発生した。2017年には、フランス・英国・日本などの大手自動車メーカーのコンピューターがWannaCryと呼ばれるマルウェアに感染し、数日にわたって工場が操業停止に陥る事態となった。2018年には、欧州の水道事業者の制御システムのPCが、ブラウザに表示された広告を通じて仮想通貨マイニングのマルウェアに感染し、水道設備を制御するシステムの性能が低下するという事故も起きている。また、日本では、2020年に、証券取引所の株式売買システムがサーバーのハードウェア障害により終日にわたって停止して取引が行えなくなったほか、航空交通管制システムがハードウェア故障により一時停止するなど、ハードウェアの不具合に起因するシステム停止事故が発生した。
1.2 本報告書のねらい
Society5.0を実現するためのガバナンス上の課題は、上記のように、プライバシー、システムの安全性、透明性、責任の分配、サイバーセキュリティ等、多岐にわたる。そして、これらの課題に対応するための検討も、分野ごとに国内外の様々なフォーラムで行われている。
しかし、サイバー空間とフィジカル空間が融合するSociety5.0が、従来のフィジカル空間を中心とする社会と前提を大きく異にすることを考えれば、そのガバナンスの在り方についても、既存の制度枠組の中で逐次的な改正を行うのではなく、企業、法規制、市場といった様々な要素が関連するガバナンスのメカニズムを根本から見直す必要があると考えられる。
本報告書は、こうした問題意識に基づき、Society5.0がガバナンスの観点から従来の社会とどのように異なるかを分析し(第2章)、これを受けてガバナンスによって目指すゴール自体も変化していくことを示した上で(第3章)、そのような社会の中でゴールを実現するためのガバナンスモデルを提案するものである(第4章)。結論を先取りすれば、本報告書が示すのは、マルチステークホルダーによる継続的なガバナンスへの関与を確保する「アジャイル・ガバナンス」のモデルである。すなわち、企業、法規制、インフラ、市場、政治参加といった様々な場面において、ステークホルダーが、「環境・リスク分析」「ゴール設定」「システムデザイン」「運用」「評価」「改善」といったサイクルを、継続的かつ高速に回転させていくガバナンスモデルを提唱する。
こうしたガバナンスモデルを提案することによって、本報告書では、以下のような目的に貢献することを想定している(なお、政府や企業といったステークホルダーの役割の変化については、第1弾報告書第6章で論じている)。
1.2.1 立法・行政・司法機能の再設計
Society5.0を実現するためには、従来型の硬直的な法規制の在り方や、これを適用・執行する行政の在り方、及び権利救済システムとしての司法の在り方を根本的に見直す必要があると考えられる。
急速な技術革新や社会の変化を前に、法で一律に行為義務を定めたり、規制当局が企業のあらゆる行為を監督したりするモデルは、維持し難くなっている。国家がルール形成、モニタリング、エンフォースメント、救済といったガバナンスの機能を一手に担うモデルから脱却し、企業やユーザーを担い手とするマルチステークホルダーによるガバナンスを実現することが必要であると考えられる。
また、政府に期待される役割は、法規制の策定やその執行だけではない。複数の主体のサービスが相互運用できるようなインフラの整備、市場ルールの設定、競争環境の確保、これらのシステムやルールのデザインに向けたステークホルダー間の対話の促進など、公的機関に期待される役割は従来以上に多岐にわたる。
さらに、複雑性や不確実性が増大する中で、事前規制のモデルが難しくなっていくことから、事後的救済としての司法機能が果たす役割も重要になっていく。社会システムの複雑化を踏まえた、専門的かつ迅速な救済メカニズムが不可欠になってきている。
本報告書では、このように、Society5.0において多様化する公的機関の役割を検討し、これを達成するためにどのような改革が必要かを検討する。
1.2.2 企業の産業競争力の根本的な強化
企業が、Society5.0において競争力を備えるためには、イノベーティブな技術を積極的に活用していくことが重要なのはいうまでもない。しかし、新たな技術は常に新たなリスクを伴う。例えば、ユーザーのプライバシーをどのように保護すべきか、セキュリティ上の懸念にどう対応すべきか、事故が発生した時に、どこまで責任を負う必要があるのか、といった点は、経営判断の上でも重要な事項である。こうした課題への対処方法は、必ずしも法律によって一律に導かれるわけではなく、たとえ違法ではないとされる行為であっても、ユーザーの信頼を得られないことによってプロジェクトが頓挫したり、企業価値が棄損したりする例は少なくない(上記コラム2参照)。他方で、不確実性の増大する現代において、企業が「ゼロリスク」にのみこだわると、イノベーションを起こすことができなくなり、結果として競争力が損なわれることになる。
このように、「イノベーション」と「ガバナンス」の双方が求められる時代において、企業がどのように達成すべきゴールを設定し、自らの構築するシステムのリスクを評価し、これを対外的に説明し、ユーザーや社会からの信頼を獲得することができるかを、本報告書では検討する。
1.2.3 国際的なデータガバナンスの実現
サイバー空間を起点とするSociety5.0においては、企業活動が容易に国境を越えることができる。様々なデータが国境を越えて共有されることは、グローバルなレベルでイノベーションを促進することにつながるものであり、世界規模での社会課題の解決やSDGs(持続可能な開発目標)の実現等にも資するものであると考えられる。
2019年1月に開催されたダボス会議において、安倍首相(当時)は、「信頼ある自由なデータ流通」すなわち”Data Free Flow with Trust”(DFFT)というコンセプトを打ち出した。この“Trust”の文言に示されているように、国際的なデータ流通を促進するためには、移転先におけるデータの取扱いについて透明性が確保されており、プライバシーやセキュリティ、知的財産権等に関する適切なガバナンスが実施される必要がある。
しかし、現実には、各国のデータガバナンスに関する立場は様々である。例えば、データのガバナンスを専ら市場に委ねる場合、顧客接点を独占して巨大化した一部の企業が、大量のデータを囲い込み、様々な市場における新規参入を難しくするリスクがある。国家があらゆるデータを統制する場合、公的機関によって人々の行動・性格・政治的立場・思想信条などが把握されることになり、人権や民主主義へのリスクを生じさせる。他方、厳格な規制によってリスクをコントロールしようとすれば、データガバナンスに関するコンプライアンスコストが上昇することで、データの利活用が進まなかったり、先端的なイノベーションの実現が困難となったりする可能性がある。
企業や個人の活動のグローバル化により、一国のみによるガバナンスの影響力は極めて限定的となってきている。本報告書で示すようなガバナンスモデルを国際的に共有し、各国のルール形成やその実践に関する共通の基盤を構築していくことで、真にイノベーティブで豊かなグローバル経済を実現していくことが求められている。
本報告書で提案する「アジャイル・ガバナンス」のモデルを他のガバナンスモデルと比較すると、以下のように特徴づけることができる
① 様々なステークホルダーが分散的にガバナンスを行う点で、国家や一部の巨大企業があらゆるデータやシステムを管理するガバナンスモデルと異なる。
② 透明性・アカウンタビリティの向上や、公正競争の確保等を通じて、ステークホルダーに実質的な選択権を保障する点で、市場や社会規範によるガバナンスの機能を強化するものである。
③ 常に環境とリスクを再評価しながら、柔軟にゴール設計やシステムデザインを繰り替える点で、ルールベースの法規制等による硬直的なガバナンスモデルの限界を克服するものである。
1.3 本報告書の構成
上記のような狙いを達成するため、本報告書では、以下のような構成で、新たなガバナンスモデルを提示する。
まず、第2章では、Society5.0の基盤となるサイバー・フィジカルシステム(CPS)の特徴を紹介し、それに伴うガバナンス上の課題について説明する。そこでは、デバイスやセンサーなどを通じた多様なデータ収集と、AIなどのアルゴリズムによる自律的な判断、そのフィジカル空間へのフィードバックといったプロセスや、こうしたシステムが相互運用されていくことによって、継続的な状態変化、不確実性、予見・統制困難性、責任主体特定の困難性、支配力の集中、アジェンダのグローバル化といった様々なガバナンス上の課題がもたらされることを示す。
このようなSoceity5.0では、あらかじめ一定のルールを定めてそれを履行するというガバナンスのアプローチが極めて困難になる。こうしたアプローチに代わって重要となるのは、ステークホルダー間で「ゴール」を共有し、それを実現するために、各主体が柔軟にシステム設計・運用・評価及び改善を行っていくアプローチである。
そこで、第3章では、ガバナンスによって達成すべき「ゴール」について整理する。そこでは、幸福、自由、基本的人権、公正競争、民主主義といった様々なゴールの具体的な内容が、技術や社会の状況、個人の価値観等によって相対的に変化するものであり、とりわけ変化が速く価値観が多様化する現代においては、ゴールの内容が常に見直される必要があることを示す。
本報告書の第4章では、上述のようなCPSの特徴と、これに伴い常に変化していくゴールを前に、社会全体でどのようなガバナンスモデルを構築していくべきかを検討する。そこでは、各主体が常に周囲の環境変化を踏まえてゴールやシステムをアップデートしていく「アジャイル・ガバナンス」の考え方に基づき、企業・法規制・インフラ・市場・社会規範といった様々なガバナンスのメカニズムが、相互に連関しながらガバナンスのゴールを達成していくことが望ましいことを示す。
以上のような本報告書の構成を図示すると、図1.3のようになる。
【図1.3】本報告書の全体構成
Column 3. デジタルガバナンスにおける「ガバナンス・イノベーション」の位置づけ
昨今では、「AIガバナンス」「プライバシーガバナンス」「データガバナンス」といった様々な切り口からガバナンスの議論が行われているが、本報告書は、こうした様々な観点からのガバナンスの基盤となるものであるといえる。以下に、これらの関係を整理する。
- 「 AIガバナンス」とは、AIという「技術」を切り口とするガバナンスを意味すると考えられる。
AIは、CPSを構成する主要な要素であり、その特徴やガバナンス上の課題については、本報告書の第2章で詳しく検討している(AIが学習するデータについては2.2、AIの演算処理については2.3参照)。その上で、AIの技術的特徴に伴ってプライバシーや公平性、身体の安全性といった様々な「ゴール」に生じる影響については、本報告書第3章で分析している。更に、そうしたゴールを達成するためのガバナンスの在り方について、第4章で検討を行っている。 - 「 プライバシーガバナンス」とは、プライバシーという「ゴール」の観点からみたガバナンスであると考えられる。「ゴール」については、第3章で検討しており、プライバシー以外にも表現の自由、生命・身体の安全、公正競争、民主主義といった様々なゴールが存在する。
これらのゴールは、第2章で論じる様々な技術的特徴によって影響を受ける。また、そうした影響の下でプライバシーという「ゴール」を達成するための方法論については、第4章で論じている。 - 「 データガバナンス」とはより抽象的な用語であるが、「データに“関する”ガバナンス」という広い意味に捉えれば、CPSのガバナンスを論じる本報告書全体が「データガバナンス」を論じたものである、ということもできる。もっとも、「データガバナンス」という用語は、「プライバシーデータ」や「データセキュリティ」に関するガバナンスという狭い意味に解することも可能であり、そうした誤解を避けるために、本報告書では「データガバナンス」という言葉を用いていない。
1.4 本報告書におけるガバナンスの定義
本報告書の議論の出発点として、本報告書で扱う「ガバナンス」の定義を提示する。
本報告書では、Society5.0におけるガバナンスを、「サイバー空間とフィジカル空間を融合するシステム(CPS: Cyber-Physical System)を基盤とする社会において、そこで生じるリスクをステークホルダーにとって受容可能な水準で管理しつつ、そこからもたらされる正のインパクトを最大化することを目的とする、ステークホルダーによる技術的、組織的、及び社会的システムの設計及び運用」と定義する。以下、各要素について説明する。
(1)ガバナンスの対象:サイバー空間とフィジカル空間を融合するシステム(CPS)を基盤とする社会
Society5.0は、サイバー空間とフィジカル空間を融合する複雑なシステム(CPS: サイバー・フィジカルシステム)を基盤として構成される。CPSは、変化が迅速で複雑かつ予測不可能であり、様々な主体のシステムが接続されるために責任の所在も曖昧になり、リスクがフィジカル空間のリスクに直結するなど、ガバナンスを困難にする性質を多く含む。こうしたCPSの技術的特徴や、そこからもたらされるガバナンス上の課題については、第2章で詳しく述べる。
(2)ガバナンスの目的①:ステークホルダーが受容可能な水準でのリスク管理
新たな技術やビジネスモデルから生じるリスクは、その影響を受けるステークホルダーが受容できる水準で管理されていることが求められる。
ここでの「ステークホルダー」とは、あるシステムから直接又は間接に影響を受ける者を広く含むものである。システムの管理者・設計者や、これらの直接的なユーザーだけではなく、例えば行動の監視カメラに写り込む通行人や、自動運転車の前を横切る歩行者のように、一方的かつ潜在的なリスクに晒される者や、規制当局など公的な主体も含む。
次に、「リスク」とは、危害が発生する可能性と、その危害の程度を掛け合わせたものをいう。
その上で、ステークホルダーにとってリスクが「受容可能」とは、ステークホルダーが一定のリスクを受けることについて、手続的・実体的な正当化が可能であることをいう。予測が困難なSociety5.0のCPSについて、リスクをゼロにすることは事実上不可能であり、したがってガバナンスの目的も、必ずしもリスクをゼロにすることではない。どのような手続的根拠(例えば、情報開示、本人の同意、ステークホルダーとの対話に基づく意思決定等)や、実体的根拠(例えば、リスクが些少であることや、リスクを上回る利益がもたらされること、適切な補償がなされること等)によって受容可能性が確保されるかを、リスクの性質や程度、ステークホルダーの範囲等を考慮しつつ判断することが、ガバナンスの主要なプロセスとなる。
(3)ガバナンスの目的②:ステークホルダーへの正のインパクトの最大化
Society5.0のガバナンスにとって、上述のような「リスク管理」は、必要条件であっても十分条件ではない。Society5.0の実現にとって本当に重要なのは、個人の幸福追求の実現や、社会課題の解決といった、様々な正のインパクトをもたらすことである。
以上のような「リスク管理」及び「正のインパクトの最大化」というガバナンスの目的を、本報告書では、「ゴール」という。「ゴール」として具体的にどのようなものが考えられるかは、第3章で検討する。
(4)ガバナンスの主体:ステークホルダー
Society5.0は極めて複雑かつ変化が速いため、従来のように、法で一律に行為義務を定めたり、規制当局が企業のあらゆる行為を監督したりするモデルは維持し得なくなる。国家がルール形成、モニタリング、エンフォースメント、救済といったガバナンスの機能を一手に担うモデルではなく、個々のシステムを開発する企業や、そのユーザー、市場参加者、関連する個人・コミュニティなど、システムから直接又は間接に影響を受ける様々な主体がガバナンスに参加することが重要となる。ガバナンスシステムの構築にあたっては、ステークホルダーの参加によって、常に相互のチェックと抑制・均衡が働く形のガバナンスが形成されることが求められる。
(5)ガバナンスの態様:技術的、組織的及び社会的システムの設計及び運用
ガバナンスとは、上記のようなゴールを達成するための仕組作り及びその運用をいう。大きく分けて、①技術的な方法、②組織的な方法、及び③社会的な方法がある。
①技術的な方法としては、例えば、データ保護のための暗号化技術や、AIによる自動異常検知システム、一定の行為を選択することができないコードを組み込むこと等が挙げられる。
②組織的な方法としては、企業によるコーポレート・ガバナンスや、システム運営者としての政府組織のガバナンス等が考えられる。
③社会的な方法としては、法・市場・社会規範といった手法によるガバナンスが挙げられる。法は違反した場合の処罰の脅威によって、市場は株価や商品・サービスの価格と需給の調整機能を通じて、社会規範はそれに違反した場合のコミュニティからの非難によって、ガバナンスの目的を達成しようとするものである。
こうしたガバナンスシステムの設計及び運用は、単一の主体によって行われるのではなく、様々なステークホルダーの相互作用によって行われる。例えば、技術的な方法によってゴールを達成できると考えられる場合であっても、組織的な方法や社会的な方法によって、見直しや評価の機会を用意することで、当該技術がゴールを達成できているかを常時確認するといった工夫が考えられる。全てのステークホルダーがガバナンスに関与することは現実的には不可能であるが、ガバナンスの過程において、どのようにしてステークホルダーの関与を確保し、その権利や責任を調整するかということが、Society5.0のガバナンスにおいては決定的に重要となる。これを達成するためのガバナンスモデルの在り方については、第4章で検討する。
Column 4. 本報告書における「ガバナンス」の特徴
「ガバナンス(Governance)」という言葉に一義的な定義は存在しないが、例えば、Cambridge Dictionaryは、Governanceを、「組織や国家を最も高いレベルで管理する方法、及びこれを実行する方法」17と定義する。一般に、企業のガバナンスのことを「コーポレート・ガバナンス」といい、国家のガバナンスを行う主体は「Government」(政府)と称される。
本報告書の「ガバナンス」の定義も、上記のような一般的な定義や用語法と基本的には整合する。但し、本報告書における定義は、以下のような特徴を有する。
① ガバナンスの対象を、CPSを基盤とする社会(Society5.0)としていること。
② 特定の主体(政府や企業など)によるガバナンスに限定せず、様々な主体(マルチステークホルダー)によるガバナンスを意味するものであること。
③ガ バナンスの方法として、組織管理や制度整備に限定するのではなく、技術的、組織的、社会的システムを広く含むものであること。
こうした意味で、本報告書における「ガバナンス」は、ガバメントやコーポレート・ガバナンス、テクノロジーガバナンスといった様々なガバナンスの在り方を包括的に含む、より高次的な意味を有するということができる。