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今の「当たり前」は、昔の「夢」だった? 社会保障のはじまりの話

皆さんが普段何気なく使っている健康保険証や、将来もらうかもしれない年金。これって、いつから、どんなふうに始まったんだろうって考えたこと、ありますか? 実は、今の私たちにとって「当たり前」のこうした制度も、昔の人たちにとっては大きな「夢」で、長い時間をかけて少しずつ形になってきたものなんです。

今回は、みんなが保険に入って、みんなが年金をもらえる「国民皆保険・皆年金」が実現する前の、日本の社会保障制度がどんな道のりを歩んできたのか、一緒に見ていきましょう!

お手本はドイツ!ニッポンにも「助け合い」の仕組みを

さて、時計の針をぐーっと戻して、第二次世界大戦よりも前の時代。世界で初めて「もしもの時のための備え」、つまり社会保険の仕組みを作ったのは、実はドイツだったんです。19世紀の終わりごろ、ドイツでは産業がぐんぐん発展したんだけど、その陰で働く人たちの状況は結構大変で、いろんな問題が起きていました。そこでドイツ政府は、「これじゃいかん!」と、1883年に病気やケガに備えるための法律(今の医療保険みたいなものですね!)、次の年には仕事中の事故のための法律(これは労災保険のはしり)を作りました。すごいですよね!

一方、その頃の日本はというと…。第一次世界大戦(1914年~1918年)がきっかけで、ものすごい好景気がやってきました。特に鉄鋼とか化学製品を作る工場がどんどんできて、働く人の数も一気に増えたんです。でも、いいことばかりじゃなくて、物価が急に上がって生活は苦しくなるし、お米の値段もびっくりするくらい高くなって、全国で「米騒動」なんていう事件も起きちゃいました。戦争が終わったら今度は不景気になっちゃって、仕事がなくなる人もたくさん…。そんなわけで、お給料上げて!とか、クビにしないで!っていう労働運動も激しくなったんですね。

ついに誕生!ニッポン初の医療保険「健康保険法」ってどんなの?

こういう社会のザワザワを何とかしなきゃ、ということで、日本政府も「ドイツみたいに、働く人のための保険制度を作ろう!」と考え始めました。そして1922年(大正11年)、「健康保険法」という法律ができます。これが、日本で最初の本格的な医療保険制度なんですよ。ただ、次の年に関東大震災っていう大きな災害があったので、実際にスタートしたのは1927年(昭和2年)になってからでした。

この健康保険法、どんな内容だったかというと、まず対象になったのは、工場や鉱山で働く、比較的お給料が少ない人たち。保険を運営するのは、国が直接やるパターンと、会社とかが作る組合がやるパターンの2種類。そして、保険料は働く人と雇う側が半分ずつ出し合って、国もちょっとお金を出す、という仕組みでした。これで、働く人たちは仕事中はもちろん、仕事以外の病気やケガ、それに出産や亡くなった時にも、お医者さんにかかれたり、お金がもらえたりするようになったんです。始まったときは、だいたい180万人くらいの人が入ったみたいですよ。その後、だんだん対象が広がって、会社やお店で働く事務員さんとかも入れるようになったり、家族も給付を受けられるようになったりしました。ちなみに、船に乗る船員さんたちのためには、1939年に医療保険もセットになった特別な「船員保険制度」っていうのができています。

都会だけじゃない!農村にも安心を届けた「国民健康保険」

都会で働く人たちのための保険は少しずつできてきたけど、当時の日本で、もうひとつ大きな問題だったのが農村の暮らしでした。大正時代の終わりごろからの不景気に加えて、昭和に入ってからは世界的な大不況の嵐!おまけに、特に東北地方とかではお米が全然とれなかったりして、農家の生活は本当に苦しかったんです。病気になってもお医者さんにかかるお金がない…そんな状況も珍しくありませんでした。

この大変な状況を何とかしようと、政府は農村の人たちのための新しい医療保険を作ることにしました。そして1938年(昭和13年)、厚生省っていう役所ができたのと同じ年に、「国民健康保険法」が生まれます。これは、今まであった働く人のための保険とはちょっと違って、地域に住んでいる人たちを対象にした、日本オリジナルの制度でした。最初は、組合を作るのも保険に入るのも自由だったんだけど、これによって日本の医療保険は、働く人だけじゃなくて、もっと広く国民全体を見るようになって、戦後の「国民皆保険」につながる大きな一歩になったんですね。

「みんなに保険を!」戦時下の熱い想いと、ちょっぴり苦い現実

その後、日本は戦争へと向かっていきます。「国を強くするには、国民みんなが健康じゃなきゃ!」ということで、厚生省は「国保がなきゃ元気な国民は育たない!」なんてスローガンを掲げて、国民健康保険をもっと広めようと頑張りました。1942年(昭和17年)には法律も変わって、市町村が組合を作るのが半ば義務みたいになったり、住民も入らなきゃいけなくなったり。その結果、国民健康保険組合の数はすっごく増えて、たくさんの人が入れるようになったんです。でも、戦争が激しくなってくると、お医者さんや薬が足りなくなっちゃって、十分な医療はなかなか届けられなかったみたいです…。

お年寄りになったらどうする?年金制度、はじめの一歩

さて、医療保険の話が続いたけど、今度は年金制度がどうやってできてきたのか見てみましょう。日本の公的な年金制度のルーツをたどると、軍人さんとかお役人さんのための「恩給制度」っていうのにたどり着きます。明治時代の初めから半ばにかけて、こういう人たちのための仕組みができて、1923年(大正12年)には「恩給法」っていう法律にまとめられました。

でも、私たちが今イメージするような、保険料をみんなで出し合って…という年金制度が出てくるのは、もう少し後。戦争の真っ最中、海の上で物資を運ぶ船員さんって、すごく大事な存在でしたよね。その船員さんたちをしっかり確保するために、1939年(昭和14年)に「船員保険制度」が作られました。これ、実は医療保険だけじゃなくて、お年寄りになった時にもらえる年金(老齢年金)とか、障害を負った時や亡くなった時の年金もセットになった、とっても画期的な総合保険だったんです。これが、日本の公的な年金制度の、まさに「はじめの一歩」と言えるでしょう。

働くみんなのための年金、「厚生年金」登場!

船員さんのための年金ができたのを受けて、「じゃあ、他の働く人たちのための年金も作ろう!」という話が進みます。そして1941年(昭和16年)、工場で働く男の人たちを対象にした「労働者年金保険法」が公布されました。この制度では、ある程度の期間保険料を払うと、年を取ったり(この時は55歳からでした)、体に障害が残ったり、亡くなったりした時に、年金とかがもらえるようになりました。保険料は、健康保険と同じように、働く人と雇う側が半分ずつ。その後、戦争がもっと大変になって、人手が足りなくなってくると、1944年(昭和19年)には女の人や事務の仕事をしている人も対象になったり、もっと小さな会社で働く人も入れるようになったりして、名前も「厚生年金保険」に変わりました。

なんでこんなふうに年金制度が作られたかっていうと、やっぱり国が発展していくには、働く人たちに安心して長く働いてもらうことが大事だって、みんなが気づき始めたからなんですね。それに、戦争中は「もっとたくさん物を作って国のために!」っていう時代だったし、保険料を集めることで、みんなに貯金をさせて物価が上がりすぎるのを抑えよう、なんていう狙いもあったみたいですよ。

戦争が終わって、ゼロからの再スタート。…本当に大変だったんだ

第二次世界大戦が終わった時、日本はもうボロボロでした。街は焼け野原、工場も壊されちゃって、仕事もない…。1945年(昭和20年)の終わりごろには、戦争から帰ってきた人たちと仕事がない人たちを合わせると、なんと1300万人以上!当時の働く人の3割から4割くらいがそんな状態だったっていうから、想像を絶しますよね。おまけに、GHQ(アメリカを中心とした連合国軍のことです)の命令で軍人さんの恩給もストップしちゃって、生活に困る人がますます増えちゃったんです。

そんな大混乱の中だったけど、GHQの指導もあって、働く人の権利を守るための法律(労働組合法とか労働基準法とか)が次々と作られました。それから、戦争のせいで衛生状態も悪くて、結核みたいな伝染病もすごく流行ったから、予防接種をしたり、新しいお薬を使ったり、みんなの健康を守るための対策も進められました。

「誰も置き去りにしない!」憲法と新しい福祉のカタチ

生活に困っている人があまりにも多かったので、政府も急いで助けの手を差し伸べようとしました。GHQからは、「国民を助けるのは国の責任だよ!」「差別しちゃダメだよ!」「最低限の生活は保障しなさい!」っていう、大事な3つの原則が示されました。これを受けて、1946年(昭和21年)に、生活に困った人を助けるための最初の「生活保護法」っていう法律ができたんです。

そして、同じ年の11月、今の日本国憲法が公布されました。この憲法には、一人ひとりの人権を大事にすることとか、幸せを求める権利とかと一緒に、「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」っていう「生存権」が、初めてはっきり書かれたんです。すごく大事なことですよね!国は、みんなが安心して暮らせるように、社会福祉とか社会保障、公衆衛生をもっと良くしていかなきゃいけない、っていう国の責任も書かれました。これを元にして、新しい制度がどんどん作られていくことになります。

最初の生活保護法は、まだちょっと問題点があったりしたので、1950年(昭和25年)に内容をガラッと良くした新しい「生活保護法」に生まれ変わりました。それと並行して、戦争で親を亡くした子どもたちや、戦争でケガをした人たちを守るために、「児童福祉法」(1948年)とか「身体障害者福祉法」(1949年)っていう法律もできました。この3つの法律を合わせて「福祉三法」って呼んだりするんだけど、これで戦後の社会福祉の大きな柱ができた感じですね。さらに1951年(昭和26年)には「社会福祉事業法」っていうのができて、国や県、市町村がやることと、民間の団体がやることをはっきり分けたりして、福祉の仕組みがもっとしっかりしてきたんです。

仕事がなくなっても大丈夫!「失業保険」ができたワケ

生活保護の仕組みはできたけど、やっぱり仕事がなくなっちゃうっていうのは大問題。その頃、国の財政を立て直すために、ちょっと厳しい経済政策がとられたりもして、ますます仕事がなくなる人が増えちゃうかも…って心配されていました。そこで、1947年(昭和22年)、日本で初めての「失業保険法」が作られました。これで、もし仕事がなくなっちゃっても、すぐに生活に困らないように助けてもらえる道ができたんですね。

「みんなで支え合う社会」を目指して

「これから日本の社会保障、どうしていったらいいんだろう?」って、みんなで考える必要がありました。1948年(昭和23年)、GHQのアドバイスもあって、総理大臣の直属のチームとして「社会保障制度審議会」っていうのが作られました。そして1950年(昭和25年)、このチームが「これからの日本の社会保障はこうあるべき!」っていう、とっても大事なレポート(「社会保障制度に関する勧告」)を発表したんです。このレポート、実はイギリスの「ベヴァリッジ報告」っていう有名なレポートの影響も受けていて、「社会保険を中心に、みんなで支え合う仕組みを作ろう!」っていうのが大きなポイントでした。そして、何よりもスゴイのは、「国民健康保険を全国民に広げよう!」つまり、「国民皆保険」を実現しよう!ってハッキリ言ったこと。これが、その後の日本の社会保障が進むべき道を示した、大きなターニングポイントになったんですね。

ピンチを乗り越えろ!国民健康保険、パワーアップ大作戦

「国民皆保険」っていう大きな目標ができたのはいいんだけど、その中心になるはずの国民健康保険、実は戦争直後のインフレとかでボロボロになっちゃって、たくさんの組合が活動できなくなってる大ピンチだったんです。そこで1948年(昭和23年)に国民健康保険法が大きく変わりました。まず、保険を運営するのを、これまでの組合じゃなくて、原則として市町村がやることにしたんです(これでグッと安定しますよね!)。そして、その市町村に住んでいる人は、みんな必ず保険に入らなきゃいけない、っていうルールもできました。さらに1951年(昭和26年)には、保険料だけじゃなくて、「国民健康保険税」っていう形で税金として集めることもできるようになって、お金の面でも強くなりました。その後、日本の経済も元気になってきて、お医者さんにかかる人も増えて、またまたお金が大変になったりもしたけど、国がお金を補助する仕組みもできて、だんだんしっかりしてきたんですよ。

年金も進化する!もっと安心な「新厚生年金」へアップデート

年金制度も、戦後の大変な時期を乗り越えて、進化していきます。厚生年金保険は、戦争直後のすごいインフレで、みんな保険料を払うのも大変だったし、せっかく積み立てたお金の価値もすごく下がっちゃって、将来ちゃんともらえるの?っていう不安がありました。だから、とりあえず保険料を少し安くしたりしたんだけど、1954年(昭和29年)に大きなモデルチェンジが行われました。これが「新厚生年金制度」って言われて、今の厚生年金の原型になったんです。どんなふうに変わったかというと、まず、もらえる年金が、それまでの「お給料に比例した部分」だけじゃなくて、「みんな同じ金額の基本部分」と「お給料に比例した部分」の二階建てになったんです。これで、より手厚く生活を支えられるようになりました。それから、男の人が年金をもらい始める年齢を、55歳から60歳に少しずつ上げていくことに。あとね、将来ちゃんとお金が足りなくならないように、5年に1回は必ず年金の財政状況をチェックして、必要なら仕組みを見直すっていうルールも作られました。これ、すごく大事なことですよね。

そうそう、日本の年金制度って、始まったときは、将来払う分のお金をぜーんぶ前もって積み立てておく「積立方式」っていうやり方だったんです。なんでかっていうと、制度が始まったころはまだお年寄りの数が少なかったから、将来お年寄りが増えたときに、若い人たちの負担が重くなりすぎないように、しっかりお金を貯めておこう!っていう考えだったんですね。でも、このやり方だと、物価が上がったりすると、せっかく貯めたお金の価値が変わっちゃうっていう弱点もあって…。だから、だんだんと、その時代に働いている人たちが、その時代のお年寄りを支えるっていう「世代間扶養」の考え方を強く取り入れた、もっと柔軟なやり方に変わっていったんですよ。

昔の頑張りが、今の私たちを支えてる!

こうやって見てくると、今の私たちが当たり前のように利用している社会保障制度って、本当にたくさんの人たちの苦労と工夫、そして「みんなが安心して暮らせるように」という熱い想いから生まれてきたんだなあって、なんだかジーンとしちゃいませんか?

この歴史を知ると、健康保険証一枚、年金の一つひとつに、また違った重みを感じられるかもしれませんね。

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