皆さんが今、手にしているスマートフォンや、日々の生活で利用する様々なオンラインサービスは、5G(第5世代移動通信システム)という技術によって、その利便性を大きく向上させつつあります。しかし、世界はすでにその先、2030年代を見据えた次世代の情報通信インフラ、いわゆる「Beyond 5G」の実現に向けた熾烈な競争の時代に突入しています。日本のBeyond 5G戦略は、単なる通信技術の世代交代を意味するものではありません。それは、現代日本が直面する複数の重大な課題と、未来への大きな好機が交差する一点から生まれた、国家的な戦略なのです。
この戦略が策定された背景には、いくつかの大きな時代のうねりがあります。まず、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大は、私たちの社会のデジタル化を劇的に加速させました。リモートワークやオンライン教育、電子商取引などが急速に普及し、国民生活や経済活動を支える情報通信インフラの重要性、そしてそれに伴うセキュリティ確保の必要性が、かつてないほど高まったのです 1。この経験は、強靭で信頼性の高い次世代ネットワークが、社会の根幹をなすライフラインであることを明確に示しました。
同時に、日本政府は「Society 5.0」という未来社会のビジョンを掲げています。これは、サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実世界)を高度に融合させることで、経済発展と社会的課題の解決を両立させる、人間中心の社会を目指す壮大な構想です 1。このサイバーフィジカルシステムの実現には、現実世界のあらゆる情報を瞬時に収集し、サイバー空間で解析・予測した結果を、遅延なく現実世界にフィードバックするための神経網が必要となります。Beyond 5Gは、まさにこのSociety 5.0の中核を担う次世代情報通信インフラとして位置づけられているのです 4。
さらに、国際社会に目を向ければ、Beyond 5Gを巡る技術開発や標準化、市場獲得競争は激化の一途をたどっています。主要国は国家戦略として研究開発に巨額の投資を行い、技術覇権を握るべくしのぎを削っています 1。このような状況下で、日本が国際競争力を維持し、経済安全保障を確保するためには、先端技術開発への取り組みが極めて重要な局面を迎えているのです。岸田内閣が掲げる「新しい資本主義」の実現に向けた成長戦略においても、デジタル分野への大胆な投資が柱の一つとされており、その中でもBeyond 5Gは、デジタル田園都市国家構想や経済安全保障、科学技術立国の推進といった重要政策を支える基盤技術として、明確に位置づけられています 2。
このように、Beyond 5G戦略は、パンデミックが明らかにしたデジタル化の必然性、Society 5.0という国家的な未来像、そして激化する国際競争という、内側と外側からの強い要請に応える形で策定されました。それは、単に通信を速くするための技術開発計画ではなく、経済、社会、安全保障といった国の根幹に関わる課題を、情報通信技術を軸に統合的に解決しようとする、日本の未来に向けた戦略です。
Table of Contents
カーボンニュートラルという避けては通れない課題
Beyond 5G戦略を語る上で、もう一つ避けて通れない重要な側面があります。それは、地球規模の課題である環境問題、特にカーボンニュートラルの実現です。現代社会において、情報通信技術(ICT)が果たす役割は増大し続けており、それに伴い、私たちがやり取りするデータ通信量、すなわち通信トラヒックも爆発的に増加しています。特にコロナ禍以降の生活様式の変化は、この傾向に拍車をかけました。
問題は、通信トラヒックの増加が、ICT分野全体の消費電力の増大に直結することです。このまま何も対策を講じなければ、将来の技術やサービスの発展に伴い、ICT分野の消費電力が社会全体のエネルギー供給を圧迫しかねないという深刻な懸念があります。この課題は、日本の国家目標と正面から向き合うことになります。日本は国際公約として、2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする、すなわち「2050年カーボンニュートラル」の実現を宣言しています。さらに政府は、2040年までに情報通信産業自体のカーボンニュートラルを達成するという、より踏み込んだ目標も掲げました。
ここに、Beyond 5G戦略が解決すべき大きな矛盾が生まれます。一方で、Society 5.0の実現のために、これまでとは比較にならないほどの膨大なデータを扱う超高性能なネットワークを構築しなければなりません。しかし他方で、そのネットワーク全体の消費電力は、現在よりも劇的に削減しなければならないのです。この厳しい制約こそが、日本のBeyond 5G戦略の技術的な方向性を決定づける重要な要因となりました。後の章で詳しく解説しますが、単に既存の技術を改良するだけではこの矛盾は解決できません。電力効率を現在の100分の1にまで下げるような、革新的な技術の創出が不可欠であり、それが日本の研究開発戦略の核心に据えられることになったのです。
このBeyond 5G戦略は、経済成長、社会課題の解決、安全保障の確保、そして環境問題への対応という、現代日本が抱える主要な課題を、次世代情報通信インフラという一本の軸で貫き、同時に解決しようとする壮大な試みであると言えるでしょう。それは、技術の進化が社会をどのように変え、国がその変化をどのように導こうとしているのかを示す、未来への指針なのです。
2030年代の社会を描く – Beyond 5Gが拓く未来のビジョン
未来社会を構成する三つの柱
Beyond 5G戦略が目指す2030年代の社会は、どのような姿をしているのでしょうか。総務省が2020年に策定した「Beyond 5G推進戦略」では、その理想像として「強靱で活力のある社会」の実現が掲げられています。そして、この大きな目標を具体化するために、三つの社会像が柱として示されました。これらは、Beyond 5Gという技術が、最終的にどのような価値を社会にもたらすべきかという、根本的な理念を表しています 1。
一つ目の柱は、「誰もが活躍できる社会(Inclusive)」です。これは、年齢、性別、国籍、障がいの有無、あるいは都市や地方といった居住地による様々な壁や格差を取り払い、全ての人がその能力を最大限に発揮し、社会参加できることを目指すものです 6。例えば、地方の過疎地に住む高齢者であっても、最先端の遠隔医療サービスを受けられたり、地理的な制約なく新しい働き方を選択できたりする社会です。このビジョンは、日本の重要な国家戦略である「デジタル田園都市国家構想」と深く結びついています。
二つ目の柱は、「持続的に成長する社会(Sustainable)」です。これは、地球環境との調和を図りながら、経済的な成長を継続していくことを目指す社会像です。前章で述べたカーボンニュートラルへの挑戦は、この柱の最も重要な要素です。情報通信インフラの消費電力を劇的に削減すると同時に、ICT技術を活用して社会全体のエネルギー効率を高めることで、環境負荷の少ない形で経済成長を実現します。また、激化する国際競争の中で日本の産業競争力を強化し、新たな成長分野を創出することも、この持続可能性に含まれる重要な目標です。
三つ目の柱は、「安心して活動できる社会(Dependable)」です。これは、国民が日々の生活や経済活動を、文字通り安心して営むことができる社会を目指すものです。具体的には、大規模な自然災害やシステム障害、あるいはサイバー攻撃といった脅威に対して、通信ネットワークが決して途切れることなく、瞬時に復旧する強靭性を確保することが求められます。また、国際情勢が複雑化する中で、国の基幹インフラである通信網の自律性を保ち、サプライチェーンのリスクを低減させる「経済安全保障」の観点も、この柱の重要な要素となっています。
これら「包摂性(Inclusive)」「持続可能性(Sustainable)」「高信頼性(Dependable)」という三つの柱は、Beyond 5Gが単なる技術革新に留まらず、より良い社会を創造するための手段であることを明確に示しています。技術的な目標は、すべてこれらの社会的な価値を実現するために設定されているのです。
ビジョンから国家政策へ
この三つの社会像は、単なる理想論ではありません。日本の具体的な国家戦略や政策の中に、その思想が深く組み込まれ、推進されています。ここでは、それぞれのビジョンがどのようにして現実の政策に結びついているのかを見ていきましょう。
まず、「誰もが活躍できる社会」というビジョンを最も象徴する政策が、「デジタル田園都市国家構想」です。この構想の根底には、高齢化や過疎化といった課題に直面している地方にこそ、デジタル技術の活用ニーズがあるという認識があります。光ファイバーや5G、そして将来のBeyond 5Gといったデジタル基盤を全国津々浦々に整備することで、地方にいながらにして都市部と変わらない、あるいはそれ以上に質の高いサービスを受けられる環境を創出することを目指しています 7。例えば、遠隔教育によって地方の子供たちが最先端の教育に触れたり、スマート農業によって生産性を飛躍的に向上させたり、ドローン物流によって買い物や医療品へのアクセスを確保したりすることが可能になります。これは、デジタルの力で地域の個性を活かしながら地方を活性化させ、国全体のボトムアップの成長を実現しようとする試みであり、Beyond 5Gが目指す包摂性の具体的な実践例と言えます。
次に、「安心して活動できる社会」というビジョンは、「経済安全保障」の推進という形で具体化されています。近年、国際情勢の複雑化や社会経済構造の変化に伴い、基幹インフラの信頼性や重要技術の確保が、国家の自律性や国民生活を守る上で極めて重要になっています。特に、あらゆる産業・社会活動の基盤となる情報通信ネットワークにおいて、特定の国や企業の技術に過度に依存することは、大きなリスクとなり得ます。このため、政府は経済安全保障推進法を制定し、重要技術の研究開発を支援し、サプライチェーンの強靭化を図るなど、経済を安全保障の観点から捉え直す取り組みを強化しています。Beyond 5G戦略において、日本の強みを活かした技術開発や、オープンなネットワーク構成を推進することは、この経済安全保障を確保するための重要な方策なのです。
そして、「持続的に成長する社会」というビジョンは、「科学技術立国」の推進と密接に連携しています。「第6期科学技術・イノベーション基本計画」では、Society 5.0の実現を大きな目標として掲げ、そのための重要な研究開発分野として、Beyond 5G、AI、量子技術、宇宙などが挙げられています 1。これらの分野に戦略的に投資し、イノベーションを創出することで、日本の国際競争力を高め、持続的な経済成長のエンジンとすることを目指しています。特に、Beyond 5Gの研究開発は、他の先端技術分野とも深く関連し合っており、例えば量子技術は将来の究極のセキュア通信(量子暗号通信)に、宇宙技術は衛星通信との連携によるカバレッジ拡大に繋がります。
このように、Beyond 5Gが掲げる三つの社会像は、それぞれが独立しているのではなく、デジタル田園都市国家構想、経済安全保障、科学技術立国といった政府全体の重要政策と有機的に結びつき、相互に連携しながら推進されています。この壮大なビジョンと具体的な政策の一体化こそが、日本のBeyond 5G戦略の大きな特徴であり、単なる技術開発計画を超えた、国家的なプロジェクトとしての性格を物語っているのです。
暮らしと産業の変革 – Beyond 5Gが実現するユースケース
人間の体験を新たな次元へ拡張する
Beyond 5Gがもたらす未来は、私たちの生活や体験そのものを、これまでの想像を超える新たな次元へと引き上げます。それは単に通信が速くなるという話ではなく、現実世界と仮想世界の境界が溶け合い、人間の能力そのものが拡張されるような、根源的な変化を意味します。ここでは、特に個人の体験を豊かにする、未来志向のユースケースを見ていきましょう。
その筆頭に挙げられるのが、「超テレプレゼンス」の実現です。これは、自宅にいながらにして、地球上のあらゆる場所に、まるで自分がその場にいるかのようなリアルな体感でアクセスできる技術です。高精細な映像や音響だけでなく、触覚や嗅覚、味覚といった五感の情報までもが伝送され、遠隔地に置かれたアバターやロボットを介して、現地の環境とインタラクションすることが可能になります。例えば、海外の観光地を自分の分身であるアバターで散策し、現地の風を感じ、名物料理の香りを嗅ぐといった体験が日常になるかもしれません。あるいは、月面に設置されたロボットに接続し、リアルタイムに近い感覚で月面での活動を体験する、そんな宇宙旅行も夢ではなくなるでしょう 8。
次に、「超サイバネティクス」は、人間の能力を拡張する技術です。これは、個人の思考や行動がサイバー空間からリアルタイムで支援を受けることで、身体能力や認知能力を飛躍的に向上させるというものです。例えば、XR(クロスリアリティ)技術に触覚情報をフィードバックするハプティクス技術を組み合わせることで、熟練技能者の繊細な手の動きを遠隔地の若手作業員がリアルに体感しながら学ぶことができます。さらに将来的には、脳と機械を直接つなぐブレイン・マシン・インターフェース(BMI)の活用により、身体的なハンディキャップを克服したり、複雑な情報を直感的に理解したりすることも可能になると期待されています。
エンターテインメントの分野も劇的に変化します。ホログラフィックコミュニケーションが実用化され、遠く離れた場所にいる人が、立体映像として目の前に現れ、自然な会話を交わすことが当たり前になります。スポーツ観戦や音楽ライブでは、スタジアムの特等席からの視点や、アーティストのすぐそばにいるかのような視点を自由に選び、超高精細な映像と超高音質な音響によって、これまでにない究極の没入感を体験できるようになるでしょう。リアルタイム性が極めて高いため、バーチャル空間の観客がリアルなイベントに影響を与えたり、その逆もまた然りという、現実と仮想が融合した新しい楽しみ方が生まれます。
これらの体験は、Beyond 5Gが持つ超高速・大容量、そして超低遅延という性能があって初めて可能になります。人間の五感に違和感を与えないためには、膨大な量のデータを瞬時に、かつ遅延なく伝送する必要があるからです。Beyond 5Gは、人間とデジタル世界の関わり方を根底から変え、私たちの体験をより豊かで、より自由なものへと解き放つ可能性を秘めているのです。
社会を自律的かつ最適に動かす
Beyond 5Gは、個人の体験だけでなく、社会システム全体のあり方も大きく変革します。AIや膨大なセンサーデータを活用し、社会の様々な仕組みを自律的に、そして最も効率的な状態に最適化していく未来が描かれています。
その象徴的なユースケースが、「超相互制御型ネットワーク」です。これは、例えば交通システムにおいて、自動車や信号機、道路インフラなどが常に相互に通信し、協調しあうことで、交通渋滞や信号待ちそのものを発生させないようにする仕組みです。各車両が周辺の状況をリアルタイムに把握し、AIが最適な速度や車間距離を判断して自動制御することで、都市全体の交通の流れが滑らかになります。これにより、移動時間の短縮や燃料消費の削減はもちろん、交通事故の撲滅にも繋がると期待されています。
また、「超リアルタイム最適化」は、あらゆる分野での無駄をゼロにすることを目指す概念です。例えば、食品のサプライチェーンにおいて、生産地から小売店の棚、さらには家庭の冷蔵庫に至るまで、あらゆる段階の在庫状況や消費者の需要を高精度のAIがリアルタイムで予測します。この予測に基づき、生産量や配送ルート、店舗への補充タイミングが自動的に最適化されることで、食品ロスという大きな社会課題を根本から解決できる可能性があります。これは食品に限らず、エネルギー、水資源、製造業における資材管理など、様々な分野に応用が可能です。
産業界、特に製造業や物流業では、Beyond 5Gは革命的な変化をもたらします。スマート工場では、多種多様なセンサーやIoT機器が製造ラインのあらゆるデータを収集し、それらを基にAIが生産工程を自動で生成・最適化します。これにより、個々の顧客の要望に応じたカスタマイズ生産や、需要変動に合わせた柔軟な少量多品種生産が、高い効率で実現できるようになります。建設現場では、熟練技術者が遠隔地からVRゴーグルを通じて現場の状況をリアルタイムに確認し、建設機械やロボットを精密に操作することで、人手不足の解消と安全性の向上を両立させます。物流倉庫では、無数の荷物に付けられたRFタグやセンサーによって、その位置や状態が常に追跡・管理され、ロボットが自動で仕分けや搬送を行います。ドローンや自動運転トラック、さらには自律航行する船舶が連携し、荷物が最も効率的なルートで届けられるようになります。
これらの社会システムを実現するためには、超高速・大容量、超低遅延に加えて、「超多数同時接続」という性能が不可欠です。都市や工場、物流網に設置された膨大な数のセンサーやデバイスが、同時にネットワークに接続され、途切れることなくデータを送受信できなければならないからです。さらに、これらのシステムが自律的に判断し、動作するためには、ネットワーク自体にも高度な「自律性」が求められます。Beyond 5Gは、社会の隅々まで神経網のように張り巡らされ、その全体を一つの生命体のように、賢く、効率的に動かしていくための基盤となるのです。
強靭で普遍的なインフラを築く
Beyond 5Gが目指す社会の根幹には、いかなる状況下でも「つながる」ことが保証され、そして日本の国土の「どこでも」つながるという、強靭で普遍的な通信インフラの存在があります。これは、日々の利便性のためだけでなく、国家の安全保障や国民の生命を守る上でも極めて重要なテーマです。
その核心となる概念が、「超フェイルセーフ・ネットワーク」です。これは、大規模な自然災害や深刻なシステム障害が発生した際にも、通信サービスが途絶えることなく、あるいは瞬時に回復する能力を持つネットワークを指します。例えば、一部の基地局や通信ケーブルが物理的に損傷した場合でも、ネットワーク自身がその状況を自律的に検知し、通信経路を自動的に迂回させたり、代替手段を確保したりすることで、通信機能を維持します。AIがネットワーク構成や電力供給方法を柔軟かつ自律的に変更し、常に最適な状態で稼働し続けるのです。これにより、災害時の情報伝達や救助活動、そして被災者の生活に不可欠な通信というライフラインを守ることができます。
そして、この強靭性を日本全国、さらには地球規模で実現するための鍵となるのが、「非地上系ネットワーク(NTN: Non-Terrestrial Network)」です。NTNとは、従来の地上基地局網に加えて、宇宙空間を周回する衛星や、地上約20kmの成層圏を飛行する無人航空機「HAPS(High Altitude Platform Station)」などを統合的に活用するネットワークのことです 6。地上基地局の設置が困難な山間部や離島、広大な海上や上空を含む、文字通り日本の国土の100%をカバーする通信カバレッジの拡張を目指します 10。
NTNのユースケースは多岐にわたります。まず、デジタルデバイド(情報格差)の解消です。これまで通信環境に恵まれなかった地域でも、都市部と同等の高速通信サービスが利用可能になり、「デジタル田園都市国家構想」の実現を強力に後押しします。また、災害時には、地上の通信インフラが被災した場合でも、上空からの通信によって被災地の通信を迅速に確保し、企業のBCP(事業継続計画)対策としても重要な役割を果たします。さらに、空飛ぶクルマやドローン、自動運転船といった新たなモビリティに対しても、上空や海上を移動中に切れ目のない通信サービスを提供できます。
特にHAPSは、1機で直径最大200kmという広範囲をカバーでき、通信衛星よりも地上に近いため通信の遅延が少ないという特長があります 12。天候の影響も受けにくく、災害時には被災地の上空に迅速に展開することも可能です 10。ソフトバンクなどの企業は、2026年にも日本でHAPSの商用サービスを開始することを目指しており、これはBeyond 5G時代における3次元的なネットワーク構築の先駆けとなります 14。
Beyond 5Gは、地上網と非地上網をシームレスに統合し、いつでも、どこでも、そして何があっても途切れない、究極の信頼性と普遍性を持つ社会基盤を構築します。これを実現するためには、「拡張性(カバレッジ)」と「超安全・信頼性」という要求条件が極めて重要になるのです。
未来を支える技術の柱 – Beyond 5Gネットワークの全体像と条件
「性能」の定義を書き換える – 新たな七つの要求条件
Beyond 5Gの姿を具体的に理解するためには、まず、この次世代ネットワークにどのような性能が求められているのかを知る必要があります。Beyond 5Gは、従来の5Gが掲げた目標をさらに進化させるだけでなく、社会からの新たな要請に応えるための、全く新しい性能指標を加えています。これらは七つの要求条件として整理されており、Beyond 5Gが目指す技術的な到達点を明確に示しています 2。
まず、5Gの主要な特長であった三つの性能を、さらに極限まで高めることが求められます。一つ目は「超高速・大容量」です。これは、8K映像のリアルタイム伝送や、精緻なデジタルツインの構築など、膨大なデータを瞬時にやり取りするために不可欠です。二つ目は「超低遅延」です。自動車の自動運転や工場のロボットの遠隔制御、遠隔手術といった、わずかな遅延も許されないミッションクリティカルな応用を実現するための鍵となります。三つ目は「超多数同時接続」です。スマートシティやスマート工場に設置される無数のセンサーやIoTデバイスが、一斉にネットワークに接続される社会を支えるための性能です。これらは5Gからの進化の系譜にありますが、Beyond 5Gではその性能が桁違いに向上することが期待されています。
そして、Beyond 5Gを真に次世代のインフラたらしめるのが、新たに追加された四つの社会的な要求条件です。その筆頭が「超低消費電力」です。前章で述べた通り、通信トラヒックの爆発的な増加に伴う消費電力の増大は、カーボンニュートラルを目指す社会にとって深刻な課題です。Beyond 5Gでは、通信性能を飛躍的に向上させながらも、ネットワーク全体の消費電力を現在の100分の1程度にまで抑えるという、極めて挑戦的な目標が掲げられています 2。
次に「拡張性(カバレッジ)」です。これは、非地上系ネットワーク(NTN)の活用により、山間部や離島、海上、空、宇宙に至るまで、あらゆる場所で通信を可能にすることを意味します。日本の国土を100%カバーし、デジタルデバイドを解消するとともに、災害時の強靭性を確保するための重要な要件です。
六つ目は「自律性」です。ネットワークがますます複雑化・大規模化する中で、AI技術などを活用し、ネットワーク自身が状況を判断して、障害の自己修復や通信品質の自己最適化などを自動で行う能力が求められます。これにより、運用コストを削減しつつ、安定したサービス提供が可能になります。
最後の七つ目は「超安全・信頼性」です。サイバー攻撃の脅威が増大し、将来の量子コンピュータによって現在の暗号が解読されるリスクも指摘される中、ネットワークのセキュリティを最高レベルに保つことが不可欠です。また、災害時でも通信が途絶えない強靭性も、この要求条件に含まれます。これは、経済安全保障の観点からも極めて重要な性能です。
これら七つの要求条件は、Beyond 5Gが単なる技術の進化ではなく、持続可能で、強靭で、誰もが安心して利用できる社会基盤を構築するという、明確な意志の表れなのです。
新しいネットワークの構造(アーキテクチャー)
これら七つの要求条件を満たすために、Beyond 5Gのネットワークは、従来とは異なる新しい構造(アーキテクチャー)で構想されています。それは、特定の技術やサービスごとに縦割りで作られていたネットワークを、一つの統合されたプラットフォームとして捉え直すという、大きな発想の転換に基づいています。この全体像は、サービス、ネットワークプラットフォーム、ネットワークインフラ、そしてデバイスという四つの層で構成されるモデルとして整理することができます。
最下層に位置するのが「ネットワークインフラ」層です。ここには、光ファイバー網や無線基地局、衛星やHAPSといった、通信の物理的な伝送路が含まれます。この層で最も重要な変革は、後述する「オール光ネットワーク」や「光電融合技術」の実用化です。これにより、これまでのネットワーク機器のあり方を根本から変える、超高性能で汎用的なハードウェアが実現される見込みです。
その上の「ネットワークプラットフォーム」層では、ネットワークインフラ層のハードウェアと、ネットワークを制御するソフトウェアが分離されます。これにより、移動通信網(無線)、固定通信網(有線)、衛星ネットワークといった異なる種類のネットワークを、あたかも一つの大きなリソースプールのように扱うことが可能になります。そして、「マルチネットワークオーケストレーター」と呼ばれる高度な制御システムが、これらの多様なネットワークリソースを自律的に統合・制御します。例えば、利用者の要求に応じて、最適なネットワークを動的に組み合わせ、必要な品質を保証する「ネットワークスライス」を提供したり、ネットワーク機能そのものをサービスとして提供する「エクストリームNaaS(Network as a Service)」を実現したりします。このようなネットワークのオープン化、分散化、共有化、そして統合こそが、Beyond 5Gのアーキテクチャーを特徴づける最も重要な概念となります。
最上層の「サービス」層では、この統合されたネットワークプラットフォームの上で、革新的なサービスが提供されます。様々な産業分野のデジタルツインが相互に連携したり、超テレプレゼンスや超サイバネティクスといった新たな体験が生まれたりする場となります。
このように、Beyond 5Gのアーキテクチャーは、物理的なインフラからサービスに至るまで、全体が有機的に連携し、ソフトウェアによって柔軟かつ自律的に制御される、新しいネットワークの姿を描き出しているのです。
未来を築く基盤技術
Beyond 5Gの新しいアーキテクチャーを実現するためには、いくつかの革新的な基盤技術が不可欠です。これらの技術は、七つの要求条件を満たし、日本の戦略の根幹をなすものです。
その中心に据えられているのが、「オール光ネットワーク(APN: All-Photonics Network)」と、その核心をなす「光電融合技術」です 18。これは、NTTが提唱するIOWN(Innovative Optical and Wireless Network)構想の中核をなす技術であり、日本のBeyond 5G戦略の切り札とも言える存在です 18。現在のネットワークでは、光ファイバーで送られてきた光信号を、ルーターなどの機器内部で一度電気信号に変換して処理し、再び光信号に戻して送り出すという処理が繰り返されています。この「光-電気-光変換」は、通信の遅延や消費電力の大きな要因となっています。オール光ネットワークは、この光電変換を可能な限りなくし、光信号のまま伝送・交換処理を行うネットワークです。さらに光電融合技術は、これまで電子回路で行っていたチップ内の信号処理までも光で行うことを目指すもので、これにより通信の大幅な高速化・大容量化と、目標である「100分の1」という超低消費電力を同時に実現しようという、まさにゲームチェンジングな技術なのです。
次に重要なのが、すでに触れた「非地上系ネットワーク(NTN)」です。衛星通信やHAPSは、もはや地上網を補完する存在ではなく、Beyond 5Gネットワークのアーキテクチャーに最初から組み込まれた不可欠な構成要素です 11。これにより、日本全土をカバーするシームレスな通信環境が実現され、災害時の強靭性や、空や海における新たなビジネスの創出に貢献します。
三つ目は、「オープンネットワーク」技術です。これは、O-RANアライアンスなどの活動に代表されるように、これまで特定の通信機器ベンダーが独占的に提供してきた基地局などの仕様をオープンにし、様々なベンダーの機器を自由に組み合わせてネットワークを構築できるようにする考え方です 22。これにより、通信事業者は特定のベンダーに縛られる「ベンダーロックイン」から解放され、コスト削減や技術革新が促進されます。これは、日本の通信機器市場における国際競争力を高める上でも重要な戦略です。
そして、長期的な視点で構想されているのが「量子ネットワーク」です。これは、量子力学の原理を利用した次世代のネットワークであり、特にセキュリティ分野での活用が期待されています。将来、高性能な量子コンピュータが実用化されると、現在の暗号技術が解読されてしまう危険性が指摘されています。これに対し、盗聴が原理的に不可能とされる「量子暗号通信(QKD: Quantum Key Distribution)」は、究極のセキュアネットワークを実現する技術として注目されています。日本は、国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)を中心にこの分野の研究開発を進めており、Beyond 5Gの先の未来を見据えた「超安全・信頼性」を確保するための重要な技術と位置づけています。
これらの基盤技術は、互いに深く関連し合っています。オール光ネットワークがネットワーク全体の性能と電力効率を根本から変革し、NTNがそのカバレッジを三次元的に拡張し、オープンネットワークがその上で多様なプレイヤーの参入を促し、そして量子ネットワークがその安全性を究極的に保証する。この技術の組み合わせこそが、Beyond 5Gの全体像を形作っているのです。
日本の勝算 – 研究開発の重点化と加速化戦略
集中と選択の戦略 – 三つの重点研究開発プログラム
Beyond 5Gを巡る国際的な開発競争は、まさに総力戦の様相を呈しています。このような状況下で、限られた研究開発資源を全ての技術分野に均等に投下することは非効率的であり、勝利に結びつきません。そこで日本は、自国の勝算を高めるために、「選択と集中」の考え方に基づき、国として特に注力すべき研究開発課題を戦略的に絞り込みました。その選定にあたっては、「日本の強み」「技術的難易度」「自律性確保」「国家戦略上の位置づけ」といった複数の観点から総合的な分析が行われました。その結果、三つの「重点研究開発プログラム」が国の総力を挙げて取り組むべき柱として設定されたのです 17。
一つ目の柱は、「オール光ネットワーク関連技術」です。これは、日本のBeyond 5G戦略の核となる技術です。前章で述べたように、この技術は超高速・大容量化と超低消費電力化を両立させる切り札であり、日本の産業界が強みを持つ光部品や光伝送技術を最大限に活かせる分野です。特許分析などからも、この分野では日本の産学官による研究開発が世界を先行していると評価されており、集中的な投資によって日本の優位性を確固たるものにできる可能性が高いと判断されました。NTTが主導するIOWN構想の推進は、このプログラムの具体的な現れです 18。
二つ目の柱は、「非地上系ネットワーク(NTN)関連技術」です。この技術は、日本の国土の100%をカバーするという、国家的な課題を解決するために不可欠です。災害大国である日本にとって通信インフラの強靭化は最重要課題の一つであり、また、地方創生を目指すデジタル田園都市国家構想の実現にも直結します。HAPS(高高度プラットフォーム)の活用など、この分野でも日本企業が先行的な取り組みを進めており、新たな成長市場を創出するポテンシャルが高いことから、重点分野として選ばれました 10。
三つ目の柱は、「セキュアな仮想化・統合ネットワーク関連技術」です。この分野は、ネットワークの柔軟性や運用効率を高める上で重要ですが、特許出願状況などを見ると、海外企業が先行しており、日本が必ずしも強みを持つ分野とは言えません。しかし、だからこそ戦略的に重要となります。もしこの分野の技術を他国に完全に依存してしまうと、日本の通信ネットワークの自律性や安全性が脅かされる「経済安全保障」上のリスクが生じます。そのため、他国に過度に依存することなく、自国のネットワークを安定的に運用できる能力を確保する観点から、重点的な研究開発投資が必要と判断されたのです。
この三つの柱は、日本の強みを伸ばし、弱点を補い、そして国家的課題を解決するという、明確な戦略的意図を持って選ばれています。この重点化戦略こそが、国際競争を勝ち抜くための日本の基本設計図なのです。
加速化戦略 – 研究室から社会へ
優れた技術を開発するだけでは、国際競争には勝てません。その技術をいかに早く社会に実装し、世界に示すことができるかが、市場獲得の鍵を握ります。日本の産業界は、これまで優れた基礎研究力を持ちながらも、その成果の事業化やグローバル展開で後れを取ることが少なくありませんでした。この「死の谷」を乗り越え、Beyond 5Gで世界の主導権を握るために、日本は研究開発と社会実装を一体で進める「加速化戦略」を打ち出しました。
この戦略の象徴的なマイルストーンとして位置づけられているのが、2025年に開催される「大阪・関西万博」です。万博は、単なる成果発表の場ではありません。それは、世界中から注目が集まるこの機会を、開発のペースを強制的に早めるための「締め切り」として、そして日本の先進技術の有用性を世界に発信する絶好の「ショーケース」として活用するという、極めて戦略的な狙いを持っています 25。この万博を起点として、Beyond 5G関連技術の社会実装を本格化させる計画です。
加速化戦略のもう一つの重要な柱が、「早期かつ順次の社会実装」という考え方です。これは、全ての技術が完成する2030年を待つのではなく、開発が完了したものから順次、2025年以降、既存のネットワークに組み込んでいく(マイグレーションしていく)というアプローチです。例えば、まずデータセンター間を結ぶネットワークにオール光ネットワーク技術を導入し、次にそれを都市部のコアネットワークへ広げ、段階的にエリアを拡大していくといったシナリオが描かれています。この手法には、技術の有効性を早期に実社会で検証できる、利用実績を積み重ねることで国際標準化を有利に進められる、そして市場投入を早めることで投資回収を迅速化できる、といった多くの利点があります。
この加速化を実現するためには、政府一体での強力な推進体制が不可欠です。Beyond 5Gは、もはや総務省だけの所管事項ではありません。例えば、オール光ネットワークに不可欠な低消費電力デバイスの開発は経済産業省と、HAPSの運用に必要な航空制度の整備は国土交通省と、そして衛星システム全般の研究開発は内閣府の宇宙政策委員会と、といったように、関係府省が緊密に連携しながら政府一体で取り組むことが明記されています。
さらに、この野心的な研究開発を支えるための資金的な裏付けも強化されています。国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)に、複数年度にわたる安定的な研究開発を可能にするための恒久的な基金が創設されました 17。これにより、民間企業や大学は、短期的な成果に追われることなく、腰を据えて長期的かつ大規模な研究開発に取り組むことが可能になります。実際に、この基金を活用して、オール光ネットワーク技術やNTN技術、次世代エッジクラウド技術など、重点分野における多数の研究開発プロジェクトがすでに始動しています 28。
この加速化戦略は、日本の技術開発のあり方そのものを変革しようとする試みです。研究室の中だけで完結させず、明確な目標と期限を設定し、早期に社会実装することで、技術を磨き上げ、世界市場での勝利へとつなげていく。その強い意志が、この戦略には込められているのです。
研究開発ロードマップ
日本のBeyond 5G戦略は、具体的な時間軸、すなわちロードマップに沿って推進されます。このロードマップは、いつまでに、どのような技術を確立し、社会実装していくかという目標工程を明確にしたものです。
まず、研究開発のフェーズです。2022年度頃から、三つの重点研究開発プログラムを中心とした本格的な研究開発が始まっています。特に、国の大型プロジェクトとして位置づけられたこれらのプログラムには、今後5年程度、2027年頃までを集中的な取り組み期間として、国費が重点的に投入されます。この期間に、オール光ネットワークやNTN、セキュアな仮想化ネットワークの基盤となる要素技術を確立し、世界に先駆けて実用化の目処をつけることが目標です。
次に、社会実装と成果発信のフェーズです。このロードマップの大きな転換点となるのが、2025年です。この年の大阪・関西万博において、それまでの研究開発成果が、産学官一体となって世界に向けて発信されます。これは、日本の技術力をグローバルにアピールする最初の大きな舞台となります。そして、この万博を皮切りに、開発された技術のネットワークへの実装が順次開始されます。例えば、2024年度頃から、特定エリアでオール光ネットワーク技術などを活用した先進的なユースケースの検証が行われ、2025年度以降、その成果が実際のネットワークに導入され始めます。
そして、展開と普及のフェーズへと移行します。2026年度以降は、オール光ネットワーク技術や仮想化技術の機能がさらに拡充され、適用エリアが段階的に拡大していきます。同時に、NTN技術との組み合わせによって、日本全国、さらにはグローバルへとカバレッジを広げていく取り組みが進められます。これらの技術が社会の隅々まで浸透し、多くの人々や産業がその恩恵を受けられるようになる2030年代の本格的なBeyond 5G時代の到来を目指します。
このロードマップは、研究開発、国際標準化、社会実装、そして海外展開という、Beyond 5G戦略を構成する全ての要素が、時間軸の上でどのように連携し、推進されていくかを示しています。基礎研究から始まり、技術を確立し、社会で試し、そして世界に広げていくという一連の流れを、計画的かつ戦略的に進めていくための道しるべなのです。
世界市場での主導権を握るために – 知財・国際標準化戦略
「オープン&クローズ」という二刀流
Beyond 5Gにおける国際競争で勝利を収めるためには、優れた技術を開発するだけでは不十分です。その技術を、知的財産(IP)としていかに守り、国際標準(デファクトスタンダード)としていかに世界に普及させるかという、高度な戦略が不可欠となります。日本がこの知財・国際標準化競争を勝ち抜くために掲げているのが、「オープン&クローズ戦略」と呼ばれる二刀流のアプローチです 17。
まず、「オープン(協調)領域」の戦略です。これは、ネットワークを構成する機器間の接続仕様(インターフェース)など、多くの企業が協力して利用する基盤的な部分については、積極的に仕様を公開し、オープンな標準として確立していくアプローチです。その代表例が、O-RANアライアンスが推進するオープンな基地局仕様です 24。なぜオープン化を進めるのか。それは、現在の通信インフラ市場が、一部の巨大な海外ベンダーによる独占的な供給体制になっているからです。特定のベンダーの製品でなければ接続できない「ベンダーロックイン」の状態は、通信事業者にとってコスト増や選択肢の制限につながり、新規参入を目指す日本企業にとっては高い壁となります。オープンな標準を推進することで、この壁を打ち破り、様々なベンダーが公平に競争できる市場環境を創出することを目指しているのです。これは、多様なビジネスが生まれる土壌を作ると同時に、有志国と連携して、特定の国や企業に依存しない、安全で開かれたネットワークのビジョンを世界に広めるという、地政学的な狙いも持っています。
一方で、日本の競争力の源泉となるべき核心部分については、「クローズ(競争)領域」として、徹底的に守りを固めます。これは、重点研究開発プログラムで生み出される、他国にはない独自のコア技術、例えばオール光ネットワークを実現するための特定の光電融合デバイスの製造技術や、特殊な材料技術などを指します。これらの技術は、安易に公開するのではなく、特許権として強力に権利化したり、場合によっては製造ノウハウとして秘匿化したりすることで、他社が容易に模倣できないようにします。このクローズ戦略によって確保された技術的な優位性こそが、日本企業の国際競争力の源泉となり、交渉の切り札となるのです。
このように、オープン戦略で協力の輪を広げ、多くのパートナーを巻き込みながら市場を形成し、その中でクローズ戦略によって自社の競争優位性を確保する。この二つの戦略を巧みに使い分けることこそが、日本の知財・国際標準化戦略の神髄なのです。
国際標準を巡る戦い
Beyond 5Gの技術仕様は、特定の企業や国だけで決められるものではありません。ITU(国際電気通信連合)や3GPP(Third Generation Partnership Project)といった国際標準化機関での議論を通じて、世界共通のルールとして策定されます。この国際標準化の議論を主導し、自国に有利な仕様を盛り込むことができるかどうかが、将来の市場での勝敗を大きく左右します。日本は、この標準化を巡る戦いにおいて、明確な目標と戦略を持って臨んでいます。
国家として掲げられた野心的な目標は二つあります。一つは、Beyond 5Gの実現に不可欠な特許、いわゆる標準必須特許(SEP: Standard Essential Patent)のシェアで10%以上を獲得・維持すること。これは、5G時代に世界トップクラスの企業が達成した水準に匹敵します 5。もう一つは、Beyond 5Gに関連するインフラ市場(ソフトウェアやサービスを含む)において、30%程度の世界シェアを確保することです 29。これらの高い目標を達成するためには、研究開発の初期段階から国際標準化を見据えた活動が不可欠です。
具体的な戦術としては、国際標準化機関での議論に早期から積極的に参画し、日本の目指すネットワークアーキテクチャーの考え方を粘り強く提案していくことが挙げられます。特に、携帯電話の技術仕様を策定する最も重要な標準化団体である3GPPでは、Beyond 5G(6G)の最初の仕様が「リリース21」として2028年頃に策定される見込みです 17。日本は、そこに至る前の「リリース19」(2025年頃)や「リリース20」(2027年頃)の段階から、官民一体となって重点研究開発プログラムの成果をインプットし、議論をリードしていくことを目指しています。例えば、オール光ネットワークの電力効率の高さや、NTNとの連携の重要性などを、具体的な技術データと共に提案し、それらがBeyond 5Gの必須要件として採用されるように働きかけていくのです。
また、標準化の対象は、単なる通信性能だけではありません。環境エネルギー問題への貢献といった、世界的な課題解決に繋がる指標も重視します。例えば、ネットワークの省電力性能を評価する新たな基準などを提案し、日本の強みである環境技術を国際標準に反映させることで、普及を促進していく戦略です。このためには、通信分野だけでなく、環境やエネルギー分野の標準化動向も見極め、関係省庁が連携して取り組む必要があります。国際標準化は、技術力だけでなく、交渉力や協調、そして戦略性が問われる、まさに知的な総力戦なのです。
知的財産(IP)のランドスケープと戦略的提携
効果的な知財・標準化戦略を立案するためには、まず、自国と競合国の技術的な強みと弱みを客観的に把握することが不可欠です。そのための手法が、「IPランドスケープ」と呼ばれる、特許情報の分析です。「Beyond 5G新経営戦略センター」では、Beyond 5Gに関連する技術分野について、世界中の特許出願状況を網羅的に分析し、日本の立ち位置を明らかにしています。
この分析結果は、日本の重点研究開発プログラムの妥当性を裏付けています。例えば、「オール光ネットワーク関連技術」の分野では、日本の企業や研究機関からの特許出願件数が他国と比較して非常に多く、研究開発が進んでいることが明確に示されました。これは、日本がこの分野で世界をリードできるポテンシャルを持っていることの証左です。一方で、「セキュアな仮想化・統合ネットワーク関連技術」の分野では、海外企業の出願が多く、日本が強みを発揮しにくい状況であることも明らかになりました。
このような分析結果は、前述の「オープン&クローズ戦略」を具体化する上で極めて重要です。強みを持つ「オール光ネットワーク」や「HAPS活用」といった技術は、クローズ戦略の対象として核心部分の特許を固め、日本の競争力の源泉とします。一方で、弱みのある「仮想化技術」などについては、自前主義に固執するのではなく、オープン戦略を基本とし、国際共同研究などを通じて最適な海外企業をパートナーとして技術力を補い、高めていくことが賢明な選択となります。
この戦略を成功させるためには、国内外の企業が幅広く参画するアライアンスやフォーラムの活用が鍵となります。例えば、NTTが主導する「IOWNグローバルフォーラム」は、オール光ネットワーク技術の普及と標準化を目指す国際的な枠組みであり、すでに多くの海外有力企業が参加しています 18。また、オープンな無線アクセスネットワークの実現を目指す「O-RANアライアンス」や、HAPSの事業化を推進する「HAPSアライアンス」なども、日本の技術を世界に広めるための重要なプラットフォームです 22。これらの場で戦略的なパートナーシップを築き、日本の技術を組み込んだエコシステムをグローバルに形成していくことが、市場獲得に向けた重要なステップとなるのです。
さらに、Beyond 5Gの国際標準化活動を円滑に進め、日本のプレゼンスを強化するためには、人材の育成も急務です。国際会議で議論をリードできる専門家や、技術と経営の両方を理解し戦略を組み立てられる幹部人材を、国と企業が一体となって育成していく必要があります。国の研究開発プロジェクトの評価において、企業の知財・標準化戦略や人材育成への取り組みを評価項目に加えるなど、企業のインセンティブを高める施策も講じられていきます。
おわりに – 産学官一体での挑戦
壮大な国家戦略の総括
本記事では、2030年代の未来社会を見据えた、日本の「Beyond 5G戦略」の全体像を多角的に解き明かしてきました。この戦略が、単なる次世代の通信技術開発計画ではなく、経済、社会、安全保障、そして環境という、日本が直面する根源的な課題に対する包括的な回答であることがお分かりいただけたかと思います。
まず、この戦略が「誰もが活躍できる社会」「持続的に成長する社会」「安心して活動できる社会」という三つの社会像を指針としていることを見てきました。これらのビジョンは、デジタル田園都市国家構想や経済安全保障、カーボンニュートラルといった政府全体の重要政策と深く結びついており、Beyond 5Gが社会変革のための強力な手段として位置づけられていることを示しています。
次に、超テレプレゼンスや超サイバネティクスといった個人の体験を拡張するユースケースから、スマート工場や自動運転といった産業・社会システムを革新するユースケース、さらには国土の100%をカバーする非地上系ネットワーク(NTN)の活用まで、Beyond 5Gが実現する具体的な未来像を概観しました。これらのユースケースは、日本の人口減少や災害への脆弱性といった固有の課題を克服しようとする明確な意図を反映しています。
その未来を実現するための技術的な裏付けとして、超高速・大容量といった従来の性能向上に加え、超低消費電力や拡張性、自律性、超安全・信頼性といった新たな七つの要求条件が設定されていることを確認しました。そして、これらの要求を満たすためのネットワークアーキテクチャーと、その核心をなす「オール光ネットワーク」「非地上系ネットワーク」「オープンネットワーク」「量子ネットワーク」といった基盤技術について解説しました。特に、日本の強みを活かして競争のルール自体を変えようとする、オール光ネットワークへの戦略的な集中は、この戦略の最も重要な特徴です。
そして、この壮大な構想を絵に描いた餅に終わらせないための実行計画として、「研究開発戦略」と「知財・国際標準化戦略」が両輪として存在します。研究開発戦略では、「オール光ネットワーク」「非地上系ネットワーク」「セキュアな仮想化・統合ネットワーク」という三つの重点プログラムに資源を集中させ、大阪・関西万博を起爆剤として社会実装を加速させるという、明確な戦略が示されました。知財・国際標準化戦略では、「オープン&クローズ戦略」を駆使して、国際標準化の議論を主導し、日本の技術的優位性と市場シェアを確保するという、野心的な目標が掲げられています。
これらはすべて、個別に行われるのではなく、深く相互に連携した、一つの壮大で首尾一貫した国家プロジェクトなのです。
未来への道筋 – 産学官への呼びかけ
この壮大な戦略を成功に導くためには、日本の総力を結集し、産学官がそれぞれの役割を果たしながら、一体となって挑戦を続ける必要があります。本記事が示した方向性を踏まえ、関係者一人ひとりが行動を起こすことが、今、求められています。
まず、産業界に対しては、この国家戦略の大きなビジョンを自社の経営戦略に取り込み、重点研究開発分野への積極的な投資と、世界市場を見据えた事業展開を期待します。特に、通信事業者や通信機器ベンダーは、IOWNグローバルフォーラムやO-RANアライアンスといった国際的な枠組みに積極的に参画し、日本の技術を核としたグローバルなエコシステムの構築を主導する役割を担っています。また、製造、医療、物流、金融といった様々な分野の企業は、Beyond 5Gを自社のデジタルトランスフォーメーションを加速させる好機と捉え、新たなユースケースの創出やサービス開発に挑戦することが重要です。
次に、学術界、すなわち大学や公的研究機関には、Beyond 5Gの実現に不可欠な基礎研究のフロンティアを切り拓き続けるとともに、未来を担う人材の育成という重要な使命があります。特に、光技術、無線技術、ネットワーク理論、AI、量子技術といった多岐にわたる分野で、世界をリードする研究成果を生み出し続けることが期待されます。また、企業や公的機関と連携し、学生が実践的な研究開発やプロジェクトマネジメントを経験できる共創の場を提供することで、次世代の技術者や国際標準化を担う戦略家を育てていくことが不可欠です。
そして、政府、特に総務省には、この国家戦略全体を強力に推進・加速化する司令塔としての役割が求められます。必要となる研究開発投資の継続的な拡充や、安定的な研究開発を可能にする制度の整備はもちろんのこと、関係府省との連携を密にし、政府一体での取り組みを主導しなければなりません。また、研究開発の成果を確実に社会実装や海外展開に繋げるため、「社会実装戦略」や「海外展開戦略」の具体化を、産業界と協力して進める必要があります。さらに、国際標準化や知財を巡る国際競争がますます激化する中、非公開の検討体制を構築し、オープン&クローズ戦略をより精緻化していくことも急務です。
終わりなき挑戦 – ダイナミックなロードマップ
最後に、強調しておきたいのは、このBeyond 5G戦略は、一度策定されたら終わりという静的な計画書ではないということです。技術の進展は日進月歩であり、国際情勢も刻一刻と変化します。この戦略が真に有効であり続けるためには、常に国内外の最新動向を注視し、新たな課題や環境変化に対応して、計画を柔軟に見直し、進化させていく必要があります。
そのための仕組みとして、情報通信審議会が、本記事で示された戦略の進捗状況を定期的にフォローアップし、必要に応じて更なる検討を行うことになっています。これは、Beyond 5Gの実現が、2030年、さらにはその先を見据えた、息の長い取り組みであることを示唆しています。
今、日本は、未来の社会基盤を自らの手で創造するという、大きな挑戦のスタートラインに立っています。この挑戦は、決して平坦な道のりではないでしょう。しかし、産学官が知恵と力を結集し、この指針が示す方向に向かって一丸となって進むならば、強靭で活力に満ちた2030年代の社会を、そしてその先の世界をリードする未来を、必ずや切り拓くことができるはずです。この記事が、その壮大な挑戦への理解を深める一助となることを願ってやみません。
参照情報
- 「Beyond 5Gに向けた情報通信技術戦略の在り方」記事(案) - RWE, https://real-world-evidence.org/ict-strategy-beyond-5g-r4-4-27/
- Beyond 5Gとは?6Gとの違いや技術動向・日本と諸外国の研究開発力の違いを解説 - フォルトナ, https://fortna.co.jp/ventures/beyond5g/
- 実力は5Gの10倍以上!「Beyond 5G」で社会はどうなる?|OPTAGE for Business, https://optage.co.jp/business/contents/article/20230614.html
- Beyond 5G 分野における標準化の取組について, https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/tyousakai/kousou/2021/dai4/siryou6.pdf
- Japan's Vision and Strategy for Beyond 5G and 6G in 2030s - Free 6G Training, https://www.free6gtraining.com/2023/01/japans-vision-and-strategy-for-beyond.html
- Beyond 5G推進戦略(骨子) <概要> - 総務省, https://www.soumu.go.jp/main_content/000682155.pdf
- Beyond 5G(6G)に向けた 情報通信技術戦略の推進 - IEICE, https://www.ieice.org/jpn_r/activities/kikakusenryakushitsuevent/assets/pdf/20220907_03.pdf
- Beyond 5G Future, https://b5g-rd.nict.go.jp/program/B5G_pamphlet_2022.03.pdf
- Beyond 5G推進戦略 (概要) - 総務省, https://www.soumu.go.jp/main_content/000702111.pdf
- HAPSは2026年に開始 衛星との連携で始まるNTN時代 - ビジネスネットワーク, https://businessnetwork.jp/article/21650/
- Vision toward Beyond 5G, https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/eng/presentation/pdf/Vision_toward_Beyond_5G.pdf
- 成層圏通信プラットフォーム「HAPS」 | 企業・IR - ソフトバンク, https://www.softbank.jp/corp/philosophy/technology/special/ntn-solution/haps/
- HAPS(ハップス)とは?意味や衛星通信との違い・実用化における課題を解説 - PEAKS MEDIA, https://www.peaks-media.com/7841/
- SoftBank Corp. to Launch Pre-commercial HAPS Stratospheric Telecommunications Services in Japan in 2026 | About Us, https://www.softbank.jp/en/corp/news/press/sbkk/2025/20250626_01/
- SoftBank to launch HAPS telecom services in Japan in 2026 - RCR Wireless News, https://www.rcrwireless.com/20250626/carriers/softbank-haps-japan
- SoftBank soars into stratosphere with Sceye HAPS in Japan - SAMENA Daily News, https://www.samenacouncil.org/samena_daily_news?news=106225
- Beyond 5G に向けた情報通信技術戦略の在り方 - 総務省, https://www.soumu.go.jp/main_content/000952936.pdf
- IOWN グローバルフォーラムの概況と今後の方向性 - BIPROGY, https://www.biprogy.com/pdf/tec_info/16305.pdf
- 普及活動 | IOWN - NTT Group, https://group.ntt/jp/group/iown/outreach.html
- IOWN Global Forum - Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/IOWN_Global_Forum
- IOWN|NTT R&D Website, https://www.rd.ntt/e/iown/
- O-RAN Alliance標準化動向 | 企業情報 - NTTドコモ, https://www.docomo.ne.jp/corporate/technology/rd/technical_journal/bn/vol27_1/007.html
- O-RAN Specifications, https://www.o-ran.org/specifications
- Open RAN 5G Radio Units: Network Solutions - NEC Corporation, https://www.nec.com/en/global/solutions/5g/O-RAN-Compliant-5G-Radio-Units.html
- Beyond 5Gに向けた総務省の取組について, https://www.digital.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/33243f7d-2cea-49e4-a6b0-1ec7ffb2643d/f2a1474f/20240122_meeting_network_outline_03.pdf
- Innovative ICT Fund Projects for Beyond 5G/6G, https://b5g-rd.nict.go.jp/en/aboutfund/
- Guide to the Innovative ICT Fund Projects for Beyond 5G/6G - NICT, https://www.nict.go.jp/en/data/pamphlet/lde9n200000078a4-att/beyond5G_en_1105.pdf
- 令和2年度から令和4年度までにおける 革新的情報通信技術 ... - NICT, https://www.nict.go.jp/disclosure/pdf/finalreportsummary.pdf
- Beyond 5G Promoting Strategy (Overview), https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/eng/presentation/pdf/200414_B5G_ENG_v01.pdf
- 世界をつなげる、“HAPSエコシステム” の構築へ。HAPSアライアンス、初の公式イベントを開催, https://www.softbank.jp/sbnews/entry/20211208_01