皆さんは、現代の医療がいかに複雑であるかを考えたことがあるでしょうか。そこには何百万人もの患者、何千もの病気、そして数えきれないほどの治療法が存在します。この膨大な情報を、私たちはどのように整理し、理解すればよいのでしょうか。そして、質の高い医療を確保しながら、公正な費用の支払いを実現するにはどうすればよいのでしょうか。
その答えは、「標準化」にあります。私たちがコミュニケーションのために標準化された言語を用いるように、医療の世界でも、複雑な医療行為を誰もが理解できる共通の形式に変換するための「標準化されたコード」が不可欠です。これらのコードは、患者さんの診断から治療、そして医療費の計算に至るまで、医療のあらゆる場面で正確な情報伝達を可能にする、医療界の共通言語と言えます。
この記事では、その共通言語を構成する中心的な四つの仕組みについて、一から丁寧に解説していきます。
一つ目は、病気を分類するための世界的な言語である「ICD-10」。二つ目は、医薬品を分類するための世界的な言語である「ATCコード」。三つ目は、日本の臨床現場とこれらの世界基準とを結びつける、極めて重要な「翻訳者」の役割を果たす「標準病名マスター」。そして最後に、これらの標準化された情報を用いて病院への支払額を計算する、日本の洗練された支払い制度「DPC/PDPS」です。
これからご紹介するのは、単なる技術の話ではありません。これらの仕組みが、いかにして互いに連携し、私たちの医療の安全性、効率性、そして公平性を支える不可欠な社会基盤となっているのか、その全体像をご紹介いたします。
Table of Contents
病気の解読-ICD-10への深い探求
保健統計のための世界的な使命
医療情報の標準化に関する最初の話題として、まず「ICD-10」から始めましょう。
ICDとは、「疾病及び関連保健問題の国際統計分類(International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems)」の略称であり、世界保健機関(WHO)が管理する国際的な基準です 1。その最も重要な目的は、異なる国や異なる時代に集められた死亡(死因)や疾病(病気)に関するデータを、体系的に記録、分析、解釈し、そして比較可能にすることにあります 1。これにより、世界中の健康問題の動向を正確に把握し、対策を立てることが可能になるわけです。
この取り組みの歴史は古く、日本も1900年には最初の国際死因分類(ICD-1)を導入しており、国際的な保健統計の進展に早くから貢献してきました 1。現在、世界中で広く利用されているのはその第10回改訂版である「ICD-10」で、1990年にWHO総会で承認され、日本では1995年から適用されています 1。このように、ICD-10は長い歴史を持つ、国際的に確立された分類体系です。
ICD-10コードの構造
では、ICD-10コードは具体的にどのような構造になっているのでしょうか。このコード体系は、人間が罹患しうる全ての病気や傷害を、網羅的に整理するための巨大な図書館の目録に似ています。まず、全ての病気は22の大きな「章」に分類されています 4。それぞれの章にはアルファベット一文字が割り当てられており、例えば「C」で始まるコードは「新生物(腫瘍)」、「F」で始まるコードは「精神および行動の障害」といった具合に、大まかな領域を示します 2。
ICD-10の分類は階層的になっています。コードの基本は、アルファベット1文字と数字2文字からなる「3桁分類」で、これがおおよその病気のカテゴリーを表します 4。さらに詳細な情報が必要な場合は、小数点の後に4桁目の数字を追加することで、より具体的な病態を示すことができます。例えば、「気分[感情]障害(F30-F39)」という大きな分類の中で、「中等症うつ病エピソード」のような特定の診断を表現するためには、この4桁のコードが用いられます 7。
この分類体系の規模は非常に大きく、3桁分類だけで約2,000項目、4桁分類まで含めると、全体で約14,000項目もの膨大な数のコードが存在します 1。これにより、多種多様な病状を詳細に記録することが可能になっています。
日本におけるICD-10の役割
日本において、ICD-10はどのような役割を担っているのでしょうか。厚生労働省は、WHOのICD-10に準拠した「疾病、傷害及び死因の統計分類」を、統計法に基づく国の公式な統計基準として定めています 1。これは、人口動態統計や患者調査といった国の重要な公的統計調査において、病気の分類は全てこの基準に沿って行われることを意味します 1。
しかし、その用途は統計作成だけにとどまりません。ICD-10は医療の臨床現場にも深く浸透しており、病院でのカルテ管理や、医療費の請求(レセプト)においても、診断をコード化するための基礎として広く活用されています 7。
ここで一つ、重要な点を指摘しなければなりません。ICD-10は、その成り立ちからして、あくまで集団のデータを比較分析するための「統計分類」であるということです。一方で、臨床現場の医師は、個々の患者が持つ特有の症状や検査結果といった、より豊かで詳細な情報に基づいて診断を下します。医師の主眼は、データベースに最適なコードを見つけることよりも、目の前の患者を治療することにあります 7。このため、臨床的な診断の細かなニュアンスと、統計のために作られたコードの画一的な枠組みとの間には、時としてズレが生じることがあります。この、統計分類を臨床現場で使うことから生じる一種の「翻訳」の問題こそが、後に説明する「標準病名マスター」がなぜ日本で必要とされたのかを理解する上で、非常に重要な鍵となるんです。
医薬品の索引-ATC分類体系の理解
ATC分類体系とは
ICD-10が病気を分類するための国際基準であったのに対し、次にお話しする「ATC分類」は、医薬品を分類するための国際的な標準です。ATCとは「解剖治療化学分類(Anatomical Therapeutic Chemical classification system)」の略称で、WHOの医薬品統計法協力センターが管理しています 10。
この分類体系の目的は、医薬品を「どの臓器や器官に作用するのか(解剖学的)」、「どのような治療目的で使われるのか(治療学的)」、そして「どのような化学的特徴を持つのか(化学的)」という三つの観点から体系的に整理することです。これにより、医薬品の使用状況に関する研究や、国ごとの医薬品消費量の監視、さらには医療の質の評価などが、世界共通の基準で行えるようになります [User Query]。
5段階の分類レベル
ATCコードの最大の特徴は、その精緻な5段階の階層構造にあります。この構造を理解するために、具体的な医薬品を例にとって、そのコードを分解してみましょう。ここでは、糖尿病の治療薬として広く使われる「メトホルミン」を取り上げます。この薬のATCコードは「A10BA02」です 11。
第一レベルは、コードの先頭にあるアルファベット1文字で、「解剖学的メイングループ」を示します。メトホルミンの場合、「A」は「消化管および代謝に作用する薬物」という大きなグループを意味します 11。
第二レベルは、続く2桁の数字で、「治療サブグループ」を表します。「10」は、第一レベルのグループの中で、特に「糖尿病治療薬」であることを示しています 11。
第三レベルは、次のアルファベット1文字で、「薬理学的サブグループ」を定義します。「B」は、糖尿病治療薬の中でも「インスリンを除く血糖降下薬」という、より専門的な分類です 11。
第四レベルは、さらに続くアルファベット1文字で、「化学的サブグループ」を特定します。「A」は、血糖降下薬の中でも化学構造に基づいた「ビグアナイド系」というグループに属することを示します 11。
そして最後の第五レベルは、末尾の2桁の数字で、個々の「化学物質」そのものを指し示します。「02」が、まさしく「メトホルミン」という有効成分を表しているんです 11。
このように、一つのコードをたどるだけで、その薬の作用部位から具体的な成分までを正確に知ることができます。この体系的な構造が、ATCコードを非常に強力なツールにしているんですね。
標準化された医薬品言語の重要性
なぜこのような標準化された医薬品言語が必要なのでしょうか。それは、国や地域によって医薬品の商品名(ブランド名)が全く異なるためです。ATCコードを用いることで、研究者や政策立案者は、商品名に惑わされることなく、有効成分に基づいた正確な医薬品の使用実態を国際的に比較・分析できます 10。
例えば、ある国では「A」という商品名で売られている薬と、別の国で「B」という商品名で売られている薬が、実は同じ有効成分を持つ場合、ATCコードは両者に共通のものを付与します。これにより、世界規模での医薬品利用動向の把握や、医薬品の安全性評価が可能になるわけです。ただし、WHOが管理するこのATC分類とは別に、類似した分類法も存在するため、データを扱う際にはどの基準に基づいているかを確認することが重要です 11。
ここで、前の章で学んだICD-10との関係を考えてみましょう。ICD-10が「どの病気か」を特定し、ATCコードが「どの薬か」を特定する、この二つは補完的な関係にあります。この二つのコードを組み合わせることで、「ある特定の病気(ICD-10コード)の患者に、どのような薬(ATCコード)が処方されているか」という、非常に価値の高いデータセットが生まれます。これは、治療法の地域差を分析したり、適応外使用の実態を調査したり、医薬品開発や公衆衛生政策の策定に役立てられたりするなど、医療の質向上と効率化に大きく貢献する、強力な分析の基盤となるんですね。
日本のインターフェース-標準病名マスターの極めて重要な役割
なぜ「マスター」が必要なのか?用語の問題
これまでに、病気を分類する国際基準「ICD-10」と、医薬品を分類する「ATCコード」について見てきました。しかし、日本の医療現場では、これら国際基準を円滑に利用するために、もう一つ、極めて重要な仕組みが存在します。それが「標準病名マスター」です。
なぜ、このような日本独自の「マスター」が必要なのでしょうか。その答えは、第1章の最後に触れた、臨床現場で使われる言葉と統計用コードとの間の「ズレ」にあります。実際の医療現場では、一つの同じ病気であっても、医師や医療機関によって様々な言葉で表現されることがあります。例えば、「胃潰瘍」という病名は、「消化性潰瘍」や「gastric ulcer」など、複数の同義語や類似表現で記録される可能性があります 15。
このような用語の揺れは、特に医療費の請求(レセプト)のような事務処理においては、混乱や誤解の原因となりかねません。そこで、この問題を解決するために開発されたのが「標準病名マスター」(「傷病名マスター」とも呼ばれます)です 15。これは、医療機関が公式な記録や請求に用いるべき、標準化された病名の用語とそのコードを網羅したリストです。その目的は、全ての医療機関が診断を記録する際に、一貫性のある統一された用語を使用することを保証することにあります [User Query]。
ICD-10と診療報酬への連携
標準病名マスターが持つ最も重要な機能は、そこに収載されている全ての標準病名に、公式なICD-10コードが一つ一つ対応付けられている点です 15。医師が電子カルテなどのシステムで、マスターに収載された標準病名を選択すると、対応するICD-10コードが自動的に記録される仕組みになっています。
この直接的な連携は、日本の医療保険制度における診療報酬請求(レセプト)システムにとって不可欠です。厚生労働省は、レセプトに記載する傷病名は、このマスターに収載されているものを使用するよう定めています 16。つまり、標準病名マスターは、単なる用語集ではなく、日本の医療費請求における「公式言語」としての役割を担っているんです 18。
動的で協調的なシステム
標準病名マスターは、一度作られて終わり、という静的なものではありません。それは、医療の進歩と共に進化し続ける、動的なシステムです。このマスターは、2001年から2002年にかけて、厚生労働省と社会保険診療報酬支払基金が連携し、日本医学会の監修のもとで開発されました 15。
重要なのは、その維持管理体制です。マスターは、年に4回など定期的に改訂作業が行われています 15。この改訂は、新しい知見に基づく病名の追加、現場の医療者からの要望、あるいは誤記の修正などを反映させるためのものです。改訂作業を行う委員会には、日本医師会や各分野の臨床医、政府関係者などが参加しており、マスターが常に臨床的な妥当性と事務的な正確性を保つよう努めています 15。その結果、収載される病名数は年々増加しており、2003年時点の約19,500件から、後年には22,600件を超えるまでに成長しています 15。
ここで、これまでの話を統合し、この仕組みの持つ本質的な意味を考えてみましょう。医師が下す臨床的な判断は、まず標準病名マスターから特定の「病名」を選択するという行為に集約されます 16。そして、その病名が選択された瞬間、対応する「ICD-10コード」が自動的に割り振られます 15。このICD-10コードこそが、次の章で詳しく説明する「DPC(診断群分類)」を決定する上で最も重要な要素となります 20。そして、そのDPC分類が、最終的に病院が受け取る診療報酬額を左右するわけです 21。
つまり、ここには「臨床判断 → 標準病名マスターでの病名選択 → ICD-10コードの割り当て → DPC分類の決定 → 病院への支払い額の確定」という、一連の強固な因果関係が存在します。臨床現場での一見単純な病名の選択という行為が、病院の経営にまで直接的な影響を及ぼす、強力な規制的・経済的ツールとして機能しているんです。この連鎖を理解することが、日本の医療情報システムの核心を掴む鍵となります。
実践における相乗効果-コードの相互関係
これまでの章で、ICD-10、ATCコード、そして標準病名マスターという三つの重要な仕組みを個別に見てきました。ここでは、それらが実際の医療現場でどのように連携し、機能するのかを、具体的な患者さんのシナリオを通して追体験してみましょう。
ある患者さんが、胸の痛みと息切れを訴えて病院を訪れたと想像してください。
まず最初のステップは、診断と記録です。診察と検査の結果、担当医はこの患者さんを「急性心筋梗塞」と診断します。そして、電子カルテシステム上でこの診断名を記録しようとします。その際、医師はフリーテキストで入力するのではなく、システムに統合された標準病名マスターの中から、「急性心筋梗塞」という公式な標準病名を選択します。
次に、自動的なコード化が行われます。医師がこの標準病名を選択した瞬間、システムは二つの重要な情報を自動的に記録します。一つは、標準病名マスターが定める日本国内の病名コード、そしてもう一つが、国際的に通用する「ICD-10コード」(この場合はI21で始まるカテゴリーのいずれか)です。この操作により、患者さんの診断記録は、国内的にも国際的にも標準化された形式で保存されることになります 15。
続いて、治療と医薬品のコード化です。医師は治療のために、ベータ遮断薬やアスピリンのような抗血小板薬など、いくつかの医薬品を処方します。病院のシステムは、これらの処方情報を記録します。この医薬品情報は、ATC分類体系と照合することが可能です。例えば、処方されたアスピリンは、そのATCコード「B01AC06」によって、「血小板凝集抑制薬」という薬理作用を持つ薬剤として正確に分類・記録されます 13。
最終的に、標準化された記録が完成します。この一連のプロセスを経て、患者さんの電子カルテには、非常に情報価値の高い、標準化されたデジタル記録が作成されました。そこには、国内で統一された形式の診断名(標準病名マスター由来)があり、それは世界共通の病気分類コード(ICD-10)と結びついています。さらに、実施された治療内容、特に処方された医薬品は、世界共通の医薬品分類コード(ATC)によって分類することが可能です。
このようにして作成された標準化された記録は、多様な目的で活用される準備が整いました。それは、患者さんの治療を引き継ぐ他の医療者への正確な情報伝達、厚生労働省への統計報告、そして何よりも、次の章で詳しく解説する、医療費の支払い額を計算するための根拠データとなります。この一連の流れこそが、日々の医療現場でコード体系が織りなすシナジー(相乗効果)なんです。
医療費の計算-DPC/PDPSの枠組み
病院への新しい支払い方式
標準化された医療情報がどのように作成されるかを見てきたところで、次はその情報がどのように使われるのか、特に医療費の支払いにどう結びつくのかを見ていきましょう。ここで登場するのが、「DPC/PDPS」という日本の急性期入院医療における中心的な支払い制度です 21。
まず、この少し複雑な名称を解き明かします。DPCは「Diagnosis Procedure Combination(診断群分類)」の略で、これは患者さんを分類するための「分類方法」そのものを指します。一方、PDPSは「Per-Diem Payment System(1日当たり包括支払い方式)」の略で、これはDPCで分類された患者さんに対して適用される「支払い方法」を意味します 22。
この制度は、従来の医療行為を一つ一つ積み上げて計算する「出来高払い方式」とは大きく異なります。DPC/PDPSは、医療の標準化、透明性の向上、そして医療提供の効率化を促す目的で、2003年に82の主要な病院から導入が開始されました 20。その導入に先立ち、1990年代後半から行われた試行研究では、1入院当たりの包括払いよりも、1日当たりの包括払いの方が実際の医療コストをより良く反映することが示され、現在の制度設計につながりました 25。
DPC-患者の分類
DPC/PDPSの根幹をなすのは、まず患者さんをどのグループに分類するか、というDPCのプロセスです。このシステムは、入院患者を約4,500種類にも及ぶカテゴリーのいずれか一つに分類します [User Query]。この分類は、単一の情報だけで決まるわけではありません。その名の通り、複数の情報の「組み合わせ(Combination)」によって決定されます 21。
その組み合わせの要素は主に以下の通りです。
第一に、入院期間中に最も医療資源を投入した「主たる傷病名」。これは、前の章で学んだICD-10コードに基づいて定義されます 20。
第二に、入院中に行われた主要な「手術」や「処置」。
第三に、併存していた他の病気(副傷病)や、入院中に発生した合併症の有無。
第四に、年齢や重症度といった患者さん自身の状態を示す要素です 20。
これらの要素を組み合わせることで、非常に詳細なDPCコードが決定されます。このコードは、臨床的によく似た状態にあり、同程度の医療資源を消費すると予測される患者さんのグループを表しているんです 21。
PDPS-包括と出来高の混合型支払い
患者さんがDPCによって分類されると、次はその分類に基づいて医療費が計算されます。この支払い方法は、純粋な定額払いではなく、「包括評価部分」と「出来高評価部分」という二つの要素を組み合わせた混合型(ハイブリッド)であることが特徴です 22。
一つ目の「包括評価部分」は、DPC分類ごとに定められた1日当たりの定額の医療費です。これは入院の基本的な費用をカバーしており、入院基本料(室料など)、基本的な検査や画像診断、ほとんどの投薬や注射、そして1,000点未満の軽微な処置などが含まれます 20。この1日当たりの定額料金は、入院期間中ずっと一定ではありません。治療が最も集中的に行われる入院初期に最も高く設定され、患者さんの状態が安定するにつれて段階的に低くなっていく仕組みになっています 20。
二つ目の「出来高評価部分」は、従来通りの出来高払いで計算されます。こちらには、医師の専門的な技術料の色彩が強い、高額な医療行為が含まれます。具体的には、手術、麻酔、放射線治療、そして1,000点以上の高額な処置などです 20。この仕組みがあることで、病院側が必要な高コスト治療の実施をためらうことがないよう配慮されています。
病院ごとの調整
支払い額の計算には、もう一つ重要な最終段階があります。包括評価部分の1日当たり定額料金は、全ての病院で同じというわけではありません。その金額に、各病院の機能や特性を反映させるための「医療機関別係数」が掛け合わされます 20。
この係数は、いくつかの要素で構成されています。まず、大学病院本院群など、病院の種別を反映する「基礎係数」。次に、看護師の配置を手厚くしているかといった、基本的な体制を評価する「機能評価係数I」。そして最も複雑なのが「機能評価係数II」です。この係数は、病院の努力や役割を多角的に評価するもので、在院日数を短縮する努力(効率性)、より重症で複雑な患者を治療しているか(複雑性)、幅広い診療科を備えているか(カバー率)、そして救急医療やがん診療など、地域医療において重要な役割を果たしているか(地域医療係数)といった点を評価し、診療報酬に反映させます 20。
このDPC/PDPSの精緻な仕組みを俯瞰すると、それが単に医療費を支払うための事務的な制度ではないことが分かります。入院初期を手厚く評価し、在院日数が長引くと1日当たりの単価が下がる料金設定は、病院に対して効率的な医療を提供し、在院日数を短縮するよう促す強い経済的インセンティブとなります。さらに、医療機関別係数、特に機能評価係数IIは、単なるコスト削減だけでなく、より質の高い、あるいは地域にとって必要な医療を提供する病院を経済的に評価する仕組みです。つまり、DPC/PDPSは、支払いを通して病院の経営戦略や医療提供体制のあり方そのものに影響を与え、国が目指す医療政策の方向へと誘導する、洗練された行動経済学的なツールとして機能しています。
現実世界への影響-DPC/PDPSへの視点
DPC/PDPSという精巧な制度が、医療の現場にどのような影響を与えているのでしょうか。ここでは、病院側と患者側、双方の視点から、その利点と課題を公平に見ていくことにします。
病院側の視点
まず、病院にとっての利点から見ていきましょう。最大の利点の一つは、収入の予測が立てやすくなることです。支払いの一部がDPC分類ごとの定額となるため、病院は経営計画をより安定的に立てることが可能になります [User Query]。また、この制度は効率的な医療提供を経済的に報いるため、在院日数の短縮や業務の効率化を進める強い動機付けとなり、結果として病院の収益性や病床の回転率が向上する可能性があります 21。さらに、DPCデータを国に提出する義務があるため、自院の診療実績を全国の平均的なデータと比較分析でき、診療の質や経営の改善点を発見するための客観的な指標を得ることができます 26。
一方で、課題も存在します。包括評価部分は定額であるため、出来高であれば実施していたかもしれない検査や治療が、病院の収益を圧迫することを理由に抑制される、いわゆる「過少診療」に陥るリスクが指摘されています 28。また、1日当たりの単価が逓減する仕組みは、在院日数を短縮する強い圧力となります。しかし、患者さんの病状や退院後の受け入れ先の問題などで、どうしても入院が長引いてしまうケースでは、病院にとって不採算となる可能性があります 28。特に、地方の小規模な病院にとっては、在院日数の短縮が病床稼働率の低下に直結し、経営を不安定にさせる一因となることも懸念されています 26。
患者側の視点
次に、患者さんにとっての利点と課題を見てみましょう。利点としては、医療費の透明性と予測可能性が挙げられます。医療費の大部分が1日当たりの定額に基づいているため、入院前に大まかな自己負担額を予測しやすくなる場合があります 26。また、この制度が医療の標準化を促進することで、過剰な投薬や不必要な長期入院が減り、どの病院にかかっても、ある程度質の担保された適切な医療を受けやすくなるという側面もあります 29。
しかし、患者さんにとっても課題はあります。DPC/PDPSでの支払いが、必ずしも従来の出来高払い方式より安くなるとは限りません。病名や入院日数によっては、かえって医療費が高くなるケースも存在します 30。また、病院側が在院日数の短縮を目指すあまり、患者さんが心身ともに十分に回復したと感じる前に退院を促される、いわゆる「早期退院」のリスクも考えられ、場合によっては再入院につながる可能性も指摘されています 26。さらに、DPCで入院している期間中に、入院の主目的とは異なる、緊急性の低い別の病気の治療を希望しても、その治療は包括評価の対象外であるため、病院側が難色を示し、退院後に外来で対応するよう求められることがあります 27。
これらの利点と課題を総合すると、DPC/PDPSが日本の医療にもたらした最も根源的な変化が見えてきます。それは、自己進化する巨大な「データエコシステム」の創出です。DPC/PDPSに参加する病院は、全ての入院患者に関する詳細な臨床データや診療行為データを国に提出することが義務付けられています 20。厚生労働省は、この全国から集まる膨大な実世界のデータを中央で分析し、「DPC評価分科会」といった場でその結果を議論します 23。そして、その分析結果に基づいて、DPC分類の見直しや、診療報酬単価、各種係数の調整といった、制度自体の改定を次年度に向けて行います 20。
ここには、「医療の提供 → 詳細なデータの生成 → 国による中央集権的な分析 → 制度自体の改善・改定 → 医療提供の変化」という、絶え間ないフィードバックループが存在します。DPC/PDPSは、単なる支払い制度にとどまらず、日本の医療の現状をリアルタイムで可視化し、そのデータに基づいて自らを更新し続ける、国家規模の壮大な医療政策研究プロジェクトとも言えるんですね。この動的な性質こそが、日本の病院医療全体の未来を形作っていく、最も強力な駆動力となっています。
まとめ:医療のためのデータエコシステム
この記事を通じて、私たちは現代医療の根幹を支える四つの仕組みを巡る旅をしてきました。個々のコードの意味から始まり、それらがどのように組み合わさり、最終的に医療費の支払いを決定する洗練された制度を構築しているかを見てきました。
最後に、これら全ての仕組みの相互関係を改めて確認し、その全体像が持つ意味を考えてみましょう。
まず、「ICD-10」が病気を定義するための世界共通の言語を提供しました。次に、「ATCコード」が医薬品を定義するための世界共通の言語を提供しました。そして、「標準病名マスター」が、日本の臨床現場で使われる多様な言葉と、これらのグローバルな基準とを結びつける、不可欠な翻訳サービスの役割を果たしていることを見ました。最後に、「DPC/PDPS」が、これら全ての標準化された情報を活用し、医療の質と効率性を考慮した価値志向の支払い枠組みを構築していることを理解しました。
ここで到達する最も重要な結論は、これらが並行して存在する四つの別個のシステムではない、ということです。そうではなく、これらは深く統合された、一つの巨大な「データエコシステム」を形成しています。医師の臨床的な観察から始まる情報は、標準化と分類という幾重もの層を通過し、医療制度の財政的・政策的な中枢へと、途切れることなく流れていきます。
この、様々な利点と課題を内包する統合された枠組みは、医療の質、国民皆保険制度における公平なアクセス、そして経済的な持続可能性という、時に相反する目標の間の均衡を模索する、日本の医療制度の現代的なアプローチそのものを象徴しています。そしてそれは、自らが生成する膨大なデータによって駆動され、常に変化し続ける「生きているシステム」です。このシステムの今後の進化こそが、日本の医療の未来を規定していくことになるでしょう。
参考情報
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- 【用語解説】今さら聞けない!包括払いってなに?DPC制度の概要と仕組み | コトセラ, https://www.cotocellar.com/contents/detail/360
- DPC/PDPSについて - 独立行政法人国立病院機構 霞ヶ浦医療センター, https://kasumigaura.hosp.go.jp/about/dpc-pdps.html
- 包括払い方式(DPC/PDPS)について | 患者さん - 大和市立病院, https://www.yamatocity-mh.jp/patient/hospitalization/payment/dpc/