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【数式なし!】ベイズ統計とベイジアンネットワーク解説

2025年8月6日

「ベイズ統計」や「ベイジアンネットワーク」という言葉に、どこか難解で、専門家だけが使う特別な道具という印象を抱いているかもしれません。しかし、ベイズ的思考は、実は私たちの日々の思考や学習の過程を驚くほど素直に表現したものなんです。ベイズ的思考の核心は、新しい経験や情報に触れるたびに、私たちの「信念」を合理的に更新していく、という学習のプロセスそのものにあります 1

この物語は18世紀のイギリスに始まります。トーマス・ベイズという、牧師でありながら数学者でもあった人物が、この考え方の基礎を築きました 4。彼が生きた18世紀は、啓蒙思想が花開いた「理性の時代」として知られていますが、同時に、確実な知識とは何か、人間の理性の限界はどこにあるのかという深い問いに満ちた、知的探求と懐疑の時代でもありました 8

それまでの「確率」という言葉は、権威ある人物が認めた意見の「もっともらしさ」といった程度の意味合いで使われることが多かったのですが、この時代を境に、不確実性を数学的に扱う学問へと姿を変えていきました 9

ベイズの定理は、まさにこうした時代の要請に応えるかのように、不確実な状況下で合理的に推論するための論理的な体系を提示したのです。それは単なる数学的な発見ではなく、知識の根拠を問うという、啓蒙時代の中心的な課題に対する一つの答えでした。

ベイズ自身の論文は、彼の死後、友人のリチャード・プライスによって出版されました 12。その時点では、この定理が後世にどれほど大きな影響を与えるか、誰も想像していなかったことでしょう。しかし、このささやかな理論の種は、時を経て、第二次世界大戦における暗号解読や沈没した潜水艦の探索といった国家の命運を分ける問題から、現代の人工知能開発に至るまで、極めて重要な役割を果たすことになります 12

この記事では、信念を数値で表現し、新たな証拠によってそれを合理的に更新し、そしてその考え方を用いて医療や金融、さらには私たちの日常生活におけるより良い意思決定を行う、という方法を見ていきます。

これは単なる統計学の一分野を学ぶことではありません。複雑で不確実な世界を、より明晰に理解するための、新しい思考術を手に入れること、と言っても過言ではないでしょう 2

信念を形作る三つの柱 ― 事前確率、尤度、事後確率

ベイズ的思考の仕組みを理解するために、一つの物語を追いながら、その中心的な三つの概念を学んでいきましょう。この物語は、私たちの直感が時にいかに誤りやすいか、そしてベイズの論理がそれをどのように正してくれるかを示してくれます。ここで取り上げるのは、医学の世界でよく知られた乳がん検診の問題です。この問題を数式ではなく、「10,000人のうち…」という具体的な人数で考えることで、ベイズの定理の本質が自然と見えてくるはずです 13

物語の始まりは、40歳の女性が定期的なマンモグラフィ検診を受ける場面です。この検診の結果を知る前に、まず問うべき問いがあります。「この年代の女性が、乳がんである可能性はどのくらいあるのでしょうか」。これは、特定の個人についての新しい情報を得る前に私たちが持っている、最も基本的な情報に基づいた確率です。これを事前確率と呼びます。多くの医学的研究から、この年代の女性が乳がんである確率は、およそ1パーセントであると分かっています 13。これが私たちの出発点、つまり、新しい証拠を考慮に入れる前の最初の信念の度合いです。

さて、この女性の検診結果が「陽性」であったとします。この「陽性」という結果は、私たちの信念をどの程度変化させるべきなのでしょうか。ここで重要になるのが、証拠の「質」や「重み」です。これを評価する尺度が尤度です。尤度を正しく理解するには、二つの側面から考える必要があります。一つは、もし女性が本当に乳がんだった場合に、検査が正しく「陽性」と判定する確率です。この検査では、その確率は80パーセントだとしましょう 13。もう一つは、もし女性が乳がんではなかった場合に、検査が誤って「陽性」と判定してしまう確率、つまり偽陽性の確率です。この検査では、その確率は約9.6パーセントだとします 13。尤度とは、ある仮説(この場合は「乳がんである」)が正しいとした場合に、観測されたデータ(「陽性という結果」)がどれほど得られやすいかを示す指標なのです。

多くの人が、陽性という結果を聞くと、がんである確率も80パーセント近くなるのではないかと直感的に考えてしまいます。実際に、多くの医師でさえそのように答えるという調査結果があります 14。しかし、ベイズの論理に従って、一歩ずつ考えてみましょう。

ここに10,000人の女性がいると想像してください 15。事前確率が1パーセントなので、このうち100人が実際に乳がんを患っており、残りの9,900人は健康です。

まず、乳がんを患っている100人について考えます。この検査の尤度から、100人のうち80人が正しく「陽性」と判定されます。これが真の陽性です。

次に、健康な9,900人について考えます。偽陽性率が9.6パーセントなので、9,900人のうち約950人が誤って「陽性」と判定されてしまいます。

結果として、「陽性」と判定される女性は、合計で80人足す950人、つまり1,030人になります。

最後の問いはこうです。「陽性と判定されたこの1,030人のうち、実際に乳がんだったのは何人でしょうか」。答えは80人です。したがって、検査結果が陽性だったという事実が分かった後で、その女性が実際に乳がんである確率は、1,030人中の80人、つまり約7.8パーセントということになります。

この、新しい証拠を踏まえて更新された確率のことを事後確率と呼びます。事後確率は、私たちの最初の信念である事前確率と、新しい証拠の重みである尤度を論理的に組み合わせた結果なのです 3。事前確率が事後確率へと更新されるこのプロセスは

ベイズ更新と呼ばれ、これこそが、ベイズ的思考が「学習する思考法」であると言われる理由です 2

二つの統計学の物語 ― ベイズと頻度論

統計学という学問は、一枚岩ではありません。その根底には、確率という概念をどう捉えるかについて、大きく異なる二つの考え方が存在します 18。一つは、私たちが学校で学ぶことの多い「頻度論的統計学」、もう一つがこの記事で考えている「ベイズ統計学」です。この二つの思想の違いを、同じ事件を捜査する二人の探偵の対話として見ていきましょう。

まず、二人の探偵は「確率」という言葉の定義からして異なります。頻度論の探偵にとって、確率とは、同じ試行を何度も繰り返したときに、ある出来事が起こる割合、つまり頻度のことです。それは世界の客観的な性質だと考えます 21。彼は「もしこの事件を百万回やり直せたとすれば、この証拠はどのくらいの割合で現れるだろうか」と考えます。

一方、ベイズ論の探偵にとって、確率とは、ある仮説に対する個人の信念の度合い、つまり確信度を数値で表したものです 21。それは主観的な、知識の状態を反映したものなのです。彼は「私が見てきた証拠をすべて踏まえた上で、この容疑者が犯人であると、私はどの程度確信しているだろうか」と自問します。

この根本的な違いは、未知のものをどう扱うかという姿勢にも表れます。頻度論では、私たちが知りたい真の値(例えば、ある集団の真の平均身長)は、固定された一つの値であると考えます。私たちがそれを知らないだけで、その値自体が揺らぐことはありません。ランダムなのは、そこから抽出されるデータの方だと考えます 23

対照的に、ベイズ論では、私たちが観測したデータは固定された事実と見なします。不確実なのは、そのデータを生み出したであろう未知のパラメータの方であり、それを確率的に揺れ動くものとして扱います。私たちの目的は、データを得るたびに、そのパラメータに対する信念の分布を更新していくことなのです 2

この違いがもたらす最も大きな帰結は、二人の探偵が最終的に提出する報告書の内容が全く異なることです。科学者が本当に知りたいのは、「このデータが得られたという条件の下で、自分の仮説が正しい確率はどのくらいか」ということでしょう。しかし、頻度論的な統計手法が提供するp値などが答えるのは、「もし仮説が間違っているとしたら、このようなデータが得られる確率はどのくらいか」という問いです。これは、科学者が本当に聞きたい問いとは微妙に、しかし決定的にずれています 26

ベイズ論の探偵は、この問いに直接答えることができます。「この証拠を考慮した結果、容疑者が犯人である確率は95パーセントに更新されました」と。この直接性が、ベイズ的アプローチが多くの分野で支持される大きな理由の一つです 20

ここで、「ベイズ論は事前確率という主観的なものを持ち込むから科学的ではない」という批判がしばしばなされます 2。しかし、ベイズ論の探偵はこう反論するかもしれません。「頻度論の探偵も、どの証拠に注目するか、どの捜査手法を選ぶかといった点で、多くの主観的な判断を下している。ただ、それが明示されていないだけだ」と。ベイズ的アプローチは、出発点となる仮定(事前確率)を明確にすることで、むしろ議論の透明性を高めている、と考えることもできるのです 21

原因と結果 ― ベイジアンネットワーク

前の章では、一つの信念を新しい証拠によって更新する方法を学びました。しかし、現実の世界は、多くの出来事が複雑に絡み合って構成されています。ある出来事が別の出来事を引き起こし、その出来事がさらに別の出来事に影響を与える、というような因果関係の連鎖です。このように、多数の変数が相互に影響し合うシステム全体をモデル化し、推論を行うための強力な道具がベイジアンネットワークです 28

ベイジアンネットワークの骨格をなすのは、有向非巡回グラフ、通称DAGと呼ばれる視覚的な表現方法です 29。このグラフは、いくつかの単純なルールで構成されています。

まず、システム内の変数や出来事をノードと呼ばれる円で表します。例えば、「雨が降る」「スプリンクラーが作動する」「芝生が濡れる」といった事象が、それぞれ一つのノードになります 31

次に、これらのノード間を有向の矢印で結びます。この矢印は、直接的な影響や因果関係の流れを示します。「雨が降る」というノードから「芝生が濡れる」というノードへ矢印を引くことで、「雨は芝生を濡らす原因となりうる」という関係を表現します 29

そして最後に、このグラフは非巡回でなければなりません。これは、矢印をたどっていったときに、出発したノードに再び戻ってくるような閉じたループが存在しない、という意味です。ある出来事が、それ自身を引き起こす原因の祖先になることはない、という私たちの直感的な理解を反映したルールです 31

このDAGを用いることで、複雑な因果関係をいくつかの基本的な構造の組み合わせとして理解することができます。ここでは、その代表的な四つの構造を、具体的な例と共に見ていきましょう 33

一つ目は連鎖です。これは、ある原因が結果を生み、その結果がさらに次の原因となる、一方向の因果の流れです。例えば、「テレビCMを増やす(A)と、ブランドの認知度が上がる(M)。その結果、売上が増加する(B)」という関係がこれにあたります。

二つ目は分岐です。これは、一つの原因が、二つ以上の異なる結果を同時にもたらす構造です。例えば、「気温が上がる(C)と、アイスクリームの売上が増え(A)、同時に海水浴客の数も増える(B)」という場合です。このとき、アイスクリームの売上と海水浴客数には相関が見られますが、一方がもう一方の原因ではありません。両者は「気温」という共通の原因、専門的には交絡因子を共有しているのです。

三つ目は合流点です。これは、二つ以上の独立した原因が、共通の一つの結果に影響を与える構造です。例えば、「学生の才能(A)と努力(B)が、共に奨学金を得られる可能性(D)に影響する」という関係です。この構造では、才能と努力は元々独立していますが、奨学金を得たという結果を知ることで、二つの原因の間に関係性があるかのように見えてしまうことがあります。

ベイジアンネットワークは、このようなDAGの構造に、それぞれのノード間の条件付き確率の情報を組み込んだものです。「芝生が濡れる」というノードは、「雨が降った場合に濡れる確率」「スプリンクラーが作動した場合に濡れる確率」といった具体的な数値情報を持っています。私たちが「芝生が濡れている」という新しい事実をネットワークに与えると、その情報は矢印を伝ってシステム全体に広がり、ベイズ更新の原理に従って、他のすべてのノードの確率が自動的に再計算されるのです 28

因果推論の革命 ― 「見る」から「行う」へ

統計学の世界には古くから伝わる戒めがあります。それは「相関は因果を含まず」という言葉です 35。前の章で見たように、アイスクリームの売上と海水浴客の数に強い相関があったとしても、それはアイスクリームを売ることが海水浴客を増やす原因であることを意味しません。伝統的な統計学は、こうした相関関係を見つけ出すことには長けていましたが、そこから一歩進んで、何が原因で何が結果なのかを判断するための正式な言語を持っていませんでした 38

この状況に大きな変革をもたらしたのが、計算機科学者ジューディア・パールが提唱した「因果推論」の枠組みです。彼の功績はしばしば「因果革命」と呼ばれます 38。パールは、私たちが因果について問いかけるとき、そこには三つの異なるレベルが存在すると指摘しました。これを因果のはしごと呼びます 41

はしごの最初の段は「見る」です。これは、データの中にあるパターンや相関を観察するレベルです。「アイスクリームの売上と海水浴客数は、どのように関連しているか」という問いがこれにあたります。多くの機械学習システムは、このレベルで機能しています。

はしごの二段目は「行う」です。これは、単に観察するだけでなく、意図的に何か行動を起こしたときの結果を予測するレベルです。「もし、商品の価格を二倍にしたら、売上はどうなるだろうか」という問いがこれにあたります。これに答えるには、ただ過去のデータを見るだけでは不十分です。

そして、はしごの最上段は「想像する」です。これは、現実に起こらなかったもう一つの世界を想像し、「もしも」の問いに答えるレベルです。「あの患者は、実際には薬を飲んで回復したが、もし薬を飲んでいなかったら、どうなっていただろうか」という問いがこれにあたります。これは因果推論の中で最も高度で、難しい問いです。

パールがもたらした革命の核心は、この「行う」、つまり介入という行為を数学的に定式化したことにあります。そのための概念的な道具が「do-演算子」です 41

例えば、「価格が高いときの売上の確率」という言葉には二つの意味があります。一つは、過去のデータの中から価格が高かった時期を探し出し、そのときの売上を見ることです。これは「見る」レベルの問いであり、観察の確率です。しかし、このデータは交絡因子の影響を受けているかもしれません。例えば、価格が高かったのは需要も高い休日だけだった、という可能性です。

もう一つは、「もし私たちが価格を強制的に高く設定したら、売上はどうなるか」という問いです。これが「行う」レベルの問いであり、介入の確率です。do-演算子は、この介入を表現します。因果グラフ(DAG)の上でdo(価格を高くする)という操作を行うことは、価格のノードに向かうすべての矢印を断ち切り、その値を外部から強制的に設定することに相当します。これにより、交絡因子の影響を排除し、価格が売上に与える純粋な因果効果を見ることができるのです。

さらに、パールは「do-カルキュラス」と呼ばれる一連の論理規則を確立しました。これは、特定の条件が満たされれば、介入に関する問い(doを含む表現)を、私たちが持っている観察データだけで答えられる問いに数学的に変換できることを示したものです 43。これこそが、観察データという「はしごの一段目」から、因果関係という「二段目」へと登ることを可能にする、魔法の架け橋なのです。

現実世界で使われているベイズ的思考

これまで学んできたベイズ的思考の原理が、私たちの身の回りの世界でどのように機能しているのか、具体的な物語を通して見ていきましょう。これらの事例は、ベイズの論理が単なる理論ではなく、現実の問題を解決するための実践的な道具であることを示してくれます。

最初の物語は、医師の診断の現場です。一人の患者が複雑な症状を訴えて来院したとします。医師は、最初の問診と診察から、いくつかの可能性のある病名を思い浮かべます。この時点でのそれぞれの病気の可能性が、医師の頭の中の「事前確率」です。次に、血液検査や画像診断など、新しい検査が行われます。その結果の一つ一つが新たな「証拠」となり、医師はベイズの論理(意識的か無意識的かは別として)を用いて、それぞれの病気の確率を更新していきます。例えば、ある検査結果がAという病気ではよく見られるが、Bという病気では稀である場合、Aの事後確率は上がり、Bの事後確率は下がります。このようにして、医師は可能性を絞り込み、最終的な診断へと至るのです。実際の医療現場では、肝臓がんの進行モデルを構築し、どの治療法が患者の未来にとって最善かを確率的に推論するといった応用も行われており、より個人に合わせた医療の実現に貢献しています 46

二番目の物語は、私たちのメールボックスを守るスパムフィルターです。新しいメールアカウントを作ったばかりのとき、フィルターはまだ何も学習していません。その事前確率は、ごく一般的なものです。しかし、私たちがメールを「スパム」として報告するたびに、フィルターは学習を始めます 47。「無料」「当選」といった特定の単語や、送信元の情報などを分析し、それらの特徴がスパムメールに含まれる確率を更新していくのです。これは、まさにベイズ更新そのものです。私たちがデータ(迷惑メールの指摘)を与えるたびに、フィルターの「何がスパムであるか」という信念(事後確率)はより洗練され、日を追うごとに賢くなっていきます 50

三番目の物語の舞台は、マーケティングの世界です。ある企業が、自社の顧客をより深く理解したいと考えているとします。彼らはベイジアンネットワークを使い、顧客の購買行動に影響を与える様々な要因(年齢、収入、過去の購入履歴、広告への反応など)をモデル化します 51。そして、特定の顧客グループの情報(例えば「この地域に住んでいる顧客」)をネットワークに入力します。すると、ネットワークは他のノードの確率を再計算し、「新商品を購入する可能性」などがどのように変化するかを示してくれます。これにより、企業はより効果的なターゲット広告を打つなど、データに基づいた意思決定を下すことができるのです 53

最後の物語は、金融システムの不正検知です。銀行のシステムは、日々膨大な数の取引を処理しています。ある取引が不正である事前確率は非常に低いですが、システムは常に新たな証拠に目を光らせています 54。例えば、普段とは異なる国からの高額な送金、深夜の異常な取引パターンといった証拠が観測されると、システムはリアルタイムでその取引が不正である事後確率を更新します。もし、この確率が定められた閾値を超えた場合、即座に警告が発せられ、取引が一時停止されるのです。これは、変化し続ける環境の中で、リスクを動的に評価し、迅速に対応するベイズ的思考の力が最大限に発揮される例と言えるでしょう 34

ベイズ思想の今までとこれから

ここまで、ベイズ的思考の強力さとその応用範囲の広さを見てきました。しかし、どのような優れた道具にも、その限界や課題は存在します。ここでは、ベイズ思想が直面している挑戦や、今なお続く論争について考えます。これにより、この枠組みをより深く、そしてバランスの取れた視点から理解することができるでしょう。

最初の挑戦は、事前確率の設定という、ベイズ統計学の根幹に関わる問題です。もし、信頼できる過去のデータや専門的な知見がない場合、私たちは最初の信念である事前確率をどのように設定すればよいのでしょうか。不適切な事前確率を選んでしまうと、たとえその後の計算が正しくても、誤った結論に至る危険性があります 55。この問題に対処するため、「無情報事前分布」という、できるだけ中立的な立場を取ろうとする事前確率を用いることもありますが、どのような事前分布を選ぶかということ自体が、分析者の判断を含む行為であることに変わりはありません 2。この「主観性」をどう扱うかは、ベイズ統計学における実践的かつ哲学的な大きな課題であり続けています 57

次に、古い証拠のパラドックスとして知られる、興味深い哲学的問題があります。科学の歴史を振り返ると、新しい理論が、その理論が登場する以前から知られていた謎の現象を見事に説明することで、高く評価される例が数多くあります。例えば、アインシュタインの一般相対性理論が、長年謎だった水星の軌道のずれを正確に説明したことは、理論の正しさを裏付ける強力な証拠と見なされました。しかし、厳密なベイズの論理を適用すると、奇妙な結論が導かれます。なぜなら、水星の軌道のずれという「証拠」は、理論が提出される時点ですでに観測されていた既知の事実、つまり確率が1の出来事だったからです。ベイズ更新は、新しい証拠によって確率を更新するプロセスであるため、確率が1の証拠は、理論の事後確率を事前確率から一切変化させません。つまり、ベイズの論理では、既知の事実を説明しても、それは理論の確証にはならない、ということになってしまうのです。これは、科学的発見の価値をどう評価するかという、私たちの直感とベイズの形式的な論理との間に横たわる、深い溝を示しています 59

最後に、計算コストの問題にも触れておく必要があります。現実世界の複雑な問題をベイジアンネットワークでモデル化した場合、その事後確率を正確に計算するために必要な計算量は、しばしば膨大なものになります。現代のベイズ革命が実現可能になったのは、ひとえにコンピュータの計算能力の向上と、マルコフ連鎖モンテカルロ法(MCMC)のような、複雑な計算を近似的に実行するための優れたアルゴリズムが開発されたおかげです 60。これらの技術がなければ、ベイズ的アプローチの多くは、理論的には美しくとも、実践的には手の届かないものだったでしょう。

最後に、本記事のテーマに立ち返りたいと思います。ベイズ的思考は、最終的な答えを与えるものではなく、学び続けるためのプロセスそのものです。ある分析で得られた事後確率は、次の分析における新たな事前確率となります。それは、新しい証拠に直面するたびに、私たちの世界に対する理解を謙虚に、そして合理的に更新し続ける、終わりのない知的な旅路なのです。この記事で手にした新しい思考のレンズが、皆さんのこれからの学びと意思決定の確かな助けとなることを願っています。

参照情報

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  2. ベイズ統計とは?その仕組みやメリット、活用事例をわかりやすく解説, https://www.ai-souken.com/article/bayesian-statistics-overview
  3. ベイズの定理 とは?誰でも理解できるようにわかりやすく解説 - HeadBoost, https://www.headboost.jp/bayes-theorem/
  4. AI(人工知能)に使われる18世紀の確率論!ベイズ理論を理解しよう - お多福ラボ, https://otafuku-lab.co/aizine/bayes-theory0625/
  5. ベイズ定理: 牧師からデータ科学の星へ【東京情報大学・嵜山陽二郎博士のAIデータサイエンス講座】, https://statg.com/kiso/thomasbayes.html
  6. ベイズ統計学による心理学研究のすゝめ(1) - ちとせプレス, https://chitosepress.com/2016/02/04/1070/
  7. トーマス・ベイズ - Wikipedia, トーマス・ベイズ - Wikipedia
  8. Doubt and Certainty in the Age of Enlightenment - JHU Press, https://www.press.jhu.edu/newsroom/doubt-and-certainty-age-enlightenment
  9. The emergence of probability - Andrea Saltelli, https://www.andreasaltelli.eu/file/repository/Jan_Hacking_Emergence_Probability.pdf
  10. Probability and statistics | History, Examples, & Facts - Britannica, https://www.britannica.com/science/probability
  11. History of probability - Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_probability
  12. 心理学ワールド 90号 人を区別する トーマス・ベイズ師の貢献 | 日本 ..., https://psych.or.jp/publication/world090/pw01/
  13. (Excerpts Of) An Intuitive Explanation of Bayesian Reasoning | PDF - Scribd, https://www.scribd.com/doc/115748029/CMBA0261-01-Bayesian-01
  14. An Intuitive Explanation of Bayes Theorem 1-4-2011 | PDF | Mammography - Scribd, https://www.scribd.com/doc/163888411/An-Intuitive-Explanation-of-Bayes-Theorem-1-4-2011
  15. An Intuitive Explanation of Bayes's Theorem — LessWrong, https://www.lesswrong.com/posts/XTXWPQSEgoMkAupKt/an-intuitive-explanation-of-bayes-s-theorem
  16. ベイズ統計学とは?事前確率と事後確率を用いた推論の基礎からRでの実装まで徹底解説!, https://rdatascience.com/statistics/basic/3756/
  17. ベイズの定理とは? 10分でわかりやすく解説 - ネットアテスト, https://www.netattest.com/bayes-theorem-2024_mkt_tst
  18. ベイズ統計 vs. 古典的統計学:違いと実用例をわかりやすく解説 - DataStreet, https://statistical.jp/wn2/
  19. 頻度主義とベイズ統計、何が違う?|コグラフ株式会社 データアナリティクス事業部 - note, https://note.com/cograph_data/n/n60d479d64e0e
  20. Frequentist against Bayesian statistics: tug of war! - PMC, https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC9732191/
  21. [教材] 今更だが, ベイズ統計とは何なのか. - ill-identified diary, https://ill-identified.hatenablog.com/entry/2017/03/17/025625
  22. ベイズ統計と機械学習~理論編 - COLORS - AMBL, https://colors.ambl.co.jp/bayesian-statistics/
  23. ベイズ統計学の考え方〜ベイズ論と頻度論の違い〜 |AVILEN, https://avilen.co.jp/personal/knowledge-article/bayesian-statistics-basic/
  24. 推測統計(頻度論)とベイズ統計 - To be Data Scientist, https://munemakun.hatenablog.com/entry/statistics/bayesian/ml_bayesian
  25. ベイズ統計とは?普通の統計と何が違う?徹底解説! - Udemy メディア, https://udemy.benesse.co.jp/data-science/data-analysis/bayesian-statistics.html
  26. The Bayesian vs Frequentist debate : r/AskStatistics - Reddit, https://www.reddit.com/r/AskStatistics/comments/xqdl7m/the_bayesian_vs_frequentist_debate/
  27. 頻度主義統計学 vs ベイズ統計学 どちらを使うべき? - Edanz, https://jp.edanz.com/blog/frequentist-bayesian-statistics
  28. 依存関係・因果関係の視覚化に使われるベイジアンネットワークとは? - MSIISM, https://www.msiism.jp/article/what-is-bayesian-network.html
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  30. "矢印"をつかって因果関係を視覚的に整理する:因果ダイアグラム(DAG)入門①〜なぜDAGが必要なのか〜 - Unboundedly, https://www.krsk-phs.com/entry/DAG1
  31. 有向非巡回グラフ(DAG)とは - IBM, https://www.ibm.com/jp-ja/think/topics/directed-acyclic-graph
  32. DAG (Directed acyclic graph) - 有向非巡回グラフ - なべ's blog, https://nave-kazu.hatenablog.com/entry/2015/11/30/154810
  33. DAG(有向非巡回グラフ)でマーケティング施策の因果構造を理解 ..., https://xica.net/xicaron/use-dags-to-understand-causality-in-marketing/
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  47. 【用語解説】ベイジアンネットワークとは? - AILANDs, https://dc-okinawa.com/ailands/bayesian-network/
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  49. 迷惑メールフィルタを作ろう! #数学 - Qiita, https://qiita.com/maxima/items/eb4035666fbf407872f1
  50. ベイジアンフィルタリングとは? 10分でわかりやすく解説 | ネット ..., https://www.netattest.com/bayesian-filtering-2024_mkt_tst
  51. コールセンターで実践!ベイジアンネットワークを活用したデータ分析とは, https://gigxit.co.jp/blog/blog-15349/
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  56. 04 事前分布・基本的なベイズ推論(1), https://www2.kobe-u.ac.jp/~bunji/files/lecture/bayes/bayes-04-prior.pdf
  57. ベイズ統計 10 モデル比較・周辺尤度, https://www2.kobe-u.ac.jp/~bunji/files/lecture/bayes/bayes-10-model-comparison.pdf
  58. ベイズ原理はどうして⽣ まれたのか?, http://www.ai.lab.uec.ac.jp/wp-content/uploads/2018/04/73b34e77ffd575b3f9bba404e8bd2461.pdf
  59. Problems with Bayesianism: A Socratic Dialogue — LessWrong, https://www.lesswrong.com/posts/mRaeAdKBnySdLHfwd/problems-with-bayesianism-a-socratic-dialogue
  60. ベイズ統計 06 マルコフ連鎖モンテカルロ法(1), https://www2.kobe-u.ac.jp/~bunji/files/lecture/bayes/bayes-06-MCMC1.pdf
  61. マルコフ連鎖モンテカルロ法 : 新しい応用分野と手法の発展, https://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~kyodo/kokyuroku/contents/pdf/1614-16.pdf
  62. マルコフ連鎖モンテカルロ法と - 統計数理研究所, https://www.ism.ac.jp/editsec/toukei/pdf/44-1-049.pdf
  63. マルコフ連鎖モンテカルロ法を誰でも理解できるようにわかりやすく解説 - HeadBoost, https://www.headboost.jp/markov-chain-montecarlo/

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