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15%薬価引下げの衝撃!レケンビと費用対効果評価制度の課題

現代の医療は、目覚ましい技術革新の時代にあります。これまで治療が困難であった病気に対して、画期的な効果を持つ新しい医薬品が次々と登場しています。例えば、がん治療の分野では、「オプジーボ」のような免疫チェックポイント阻害薬が登場し、治療の選択肢を劇的に広げました 1。これらの革新的な医薬品は、多くの患者さんやそのご家族に希望の光をもたらしています。

しかし、その一方で、私たちは新たな課題に直面しています。それは、革新的な医薬品が非常に高額であることが多く、国民皆保険制度を維持していく上で、その費用をどう負担していくかという問題です。医療技術の進歩という恩恵を最大限に享受しながら、同時に、医療保険制度の財政的な持続可能性をいかにして確保するのか。この問いは、現代の医療政策が抱える最も根源的なジレンマの一つと言えるでしょう。

この大きな課題を象徴する事例として、今、大きな注目を集めているのが、エーザイが米国のバイオジェン社と共同で開発したアルツハイマー病治療薬「レケンビ」(一般名:レカネマブ)です。この薬は、アルツハイマー病の進行そのものを抑制する効果が期待される、世界で初めての早期アルツハイマー病治療薬として登場しました。これは、長年待ち望まれていた大きな一歩です。

しかし、レケンビの薬価は、患者さん一人当たり年間で約298万円にも上り、将来的に多くの患者さんに使用された場合、医療費全体に与える影響は非常に大きいと予測されています。私たちは、レケンビのような革新的な医薬品の「価値」を、どのように測ればよいのでしょうか。その価値とは、単に臨床試験で示された病気の進行を遅らせる効果だけを指すのでしょうか。それとも、患者さんが自分らしい生活をより長く送れること、家族の介護負担が軽くなることといった、より広く社会的な側面まで含めて考えるべきなのでしょうか。

この難問に、日本社会として一つの答えを導き出すための仕組みが、「費用対効果評価制度」です 2。この制度は、医薬品や医療機器の価格が、その価値に見合っているかどうかを専門的に評価し、必要であれば価格を調整するものです。

この記事では、レケンビの事例を詳しく紐解きながら、日本の費用対効果評価制度が現在どのような仕組みで動いているのか、そして、この制度がどのような課題に直面しているのかを、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。レケンビを巡る議論は、単なる一つの医薬品の価格決定の問題にとどまりません。それは、私たちが未来の医療に何を求め、そのためにどのような負担を受け入れるのかという、社会全体の価値観を問い直す重要な機会でもあるのです。

日本の費用対効果評価制度を学ぶ

革新的な医薬品の価値をいかに評価するか。そのための日本の仕組みである「費用対効果評価制度」について、まずは基本的な考え方から理解していきましょう。この制度は、専門用語も多く複雑に感じられるかもしれませんが、その目的と仕組みを一つひとつ丁寧に見ていけば、決して難しいものではありません。

制度の目的と対象

費用対効果評価制度は、2019年4月から本格的に運用が始まりました 2。この制度の最も重要な特徴は、医薬品や医療機器が公的医療保険の対象となるかどうか(保険償還の可否)を判断するものではない、という点です。日本では、新しい医薬品はまず専門家による審査を経て承認され、薬価が決められて保険が適用されます。費用対効果評価は、その「後」に行われる手続きです。つまり、一度決められた価格を、その価値に見合っているかという観点から「補完的に調整する」役割を担っているのです 3

では、どのような医薬品がこの評価の対象になるのでしょうか。全ての医薬品が対象となるわけではありません。主に、非常に高額であったり、多くの患者さんに使われることで市場規模が大きくなると予測されたりする医薬品や医療機器が選ばれます 1。これは、医療保険財政への影響が大きい品目について、その価格の妥当性を特に慎重に検証しようという考え方に基づいています。ただし、患者数が極めて少ない希少疾患の治療薬などは、開発を妨げないようにとの配慮から、原則として対象から除外されます 2

価値を測る二つのものさし:「QALY」と「ICER」

費用対効果を評価するためには、「効果」と「費用」を客観的に測るための共通のものさしが必要になります。そこで用いられるのが、「QALY」(クオリー:質調整生存年)と「ICER」(アイサー:増分費用効果比)という二つの重要な考え方です。

まず、QALYについて説明します。これは、治療によって得られる健康上の利益を測るための指標です。QALYは、「生命の長さ」と「生命の質(QOL)」という二つの要素を組み合わせて算出されます。完全に健康な状態で1年間生存することを「1QALY」と定義します。もし、何らかの病気や副作用によって生活の質が低下している場合、その1年間は1よりも小さい値、例えば「0.8QALY」のように評価されます。そして、死亡した状態は「0QALY」となります 5。このQALYというものさしを使うことで、例えば、がんの治療と心臓病の治療といった、全く異なる病気の治療効果を同じ土俵で比較することが可能になるのです 8

次に、ICERです。これは、新しい治療法が、従来の治療法と比べてどれだけ効率的に健康上の利益(QALY)を生み出すかを示す指標です。少し分かりやすく言うと、「1QALY」という健康上の利益を追加で得るために、どれくらいの追加費用が必要になるか、という「1QALY当たりの価格」を表すものだと考えてください 1。例えば、ある新薬のICERが500万円だった場合、それは「従来の治療法よりも500万円多く費用をかけることで、1QALY分の健康な時間を得られる」ということを意味します。したがって、このICERの値が小さいほど、その治療は費用対効果に優れていると評価されます。日本では、このICERが500万円を下回るかどうかが、一つの基準値としてしばしば議論されます。ただし、がん治療薬など、生命に直結するような分野では、より高い基準値(750万円)が適用されることもあります 7

評価はどのように進められるのか

それでは、実際の評価プロセスはどのように進むのでしょうか。これは、大きく分けて5つのステップで構成されています 9

  1. 第一に、評価の対象となる品目が選定されます。
  2. 第二に、対象品目に選ばれた製薬企業が、自社の医薬品の費用対効果に関する分析データを作成し、国に提出します。これを「企業分析」と呼びます。
  3. 第三に、企業から提出されたデータを、国立保健医療科学院という公的な専門組織が中立的な立場から検証し、必要に応じて分析をやり直します。これが「公的分析」です。
  4. 第四に、厚生労働大臣の諮問機関である中央社会保険医療協議会(中医協)に設置された費用対効果評価専門組織が、企業分析と公的分析の結果を基に、倫理的・社会的な観点なども含めて総合的な評価案を取りまとめます。
  5. 最後に、この総合評価案に基づき、中医協であらかじめ定められたルールに従って、対象品目の薬価を引き下げるなどの価格調整が行われます 2

このように、日本の費用対効果評価制度は、一度保険適用された医薬品の価格を事後的に見直すという、諸外国の制度と比較しても特徴的な仕組みを持っています。一部の国では、費用対効果が悪いと判断されると保険適用の対象外となることもありますが、日本ではまず患者さんのアクセスを確保した上で、価格の妥当性を議論するという形をとっているのです 5。この「まずアクセスを確保し、後から価格を問う」という仕組みが、レケンビの事例において、議論の焦点を「価格調整の方法論」そのものへと集める大きな要因となりました。

レケンビ:画期的新薬と発展途上の制度

費用対効果評価制度の基本的な仕組みを理解したところで、いよいよ本題であるレケンビの事例を見ていきましょう。この事例は、画期的な新薬が、まだ発展途上にある評価制度と出会ったときに、どのような複雑な問題が生じるのかを具体的に示しています。

高まる期待と高額な薬価という現実

レケンビは、2023年9月に国内で製造販売が承認され、同年12月に薬価が決定、保険適用となりました 10。その薬価は、体重50kgの患者さんで計算すると年間約298万円となり、ピーク時の予測販売額は986億円に達すると見込まれました。この予測される市場規模の大きさから、レケンビは薬価収載と同時に費用対効果評価の対象となることが決まりました。これは、制度のルールに則った当然の決定でした。

しかし、レケンビの評価は、これまでの品目とは一線を画すものでした。なぜなら、この薬が持つ価値は、単に医療の枠内にとどまらない可能性を秘めていたからです。アルツハイマー病の進行を抑制することは、患者さん本人の生活の質を維持するだけでなく、家族など介護者の負担を軽減し、ひいては公的な介護サービスの費用を削減することにも繋がるかもしれません。こうした社会全体への貢献を、医療保険の枠組みの中でどのように評価すべきか。この点が、レケンビの評価における最大の論点の一つとなったのです。

レケンビのために設けられた二つの「特別ルール」

この前例のない医薬品を評価するにあたり、中医協は二つの特例的な対応、つまり「特別ルール」を設けることを決定しました。これは、既存の制度の枠組みだけでは、レケンビの価値を適切に評価することが難しいと、当局自身が認識していたことの表れでもあります。

一つ目の特別ルールは、「介護費用の取り扱い」です。従来の費用対効果評価では、治療によって医療費以外の費用、例えば介護費用がどれだけ削減されるか、という点は分析の対象に含まれてきませんでした。しかし、製薬業界はかねてより、介護負担の軽減といった社会的な価値も評価に含めるべきだと主張してきました 11。そこでレケンビの評価では、特例として、介護費用を分析に含めた場合と含めない場合の二つのシナリオで分析を行い、その両方の結果を中医協の総会で議論し、最終的な判断を下すことになったのです 12。これは、日本の費用対効果評価において初めての試みでした 13

二つ目の特別ルールは、「価格調整の範囲の拡大」です。通常、費用対効果評価の結果に基づく薬価の引き下げ幅は、その医薬品が薬価収載時に認められた「有用性系加算」という上乗せ部分の範囲内に限定されていました 3。しかし、レケンビについては、評価結果をより大きく薬価に反映させるため、この制限が取り払われました。具体的には、まず「ICERが500万円/QALYとなる理想的な価格」を計算し、その価格と現在の薬価との差額を算出します。そして、その差額の25%分を現在の薬価から引き下げる、という新しい計算方法が採用されたのです。ただし、この計算によって価格が過度に変動することを防ぐため、引き下げ幅は最大で現行薬価の15%まで、という上限(下限)が設けられました。これは、従来のルールを超えて、より大幅な価格調整を可能にするための措置であり、レケンビがいかに特別な存在として扱われていたかを示しています。

このように、レケンビの評価は、介護費用の考慮と価格調整範囲の拡大という二つの特例の下で進められることになりました。これらのルールは、レケンビの持つ複雑な価値を何とか評価しようという意欲の表れであると同時に、制度そのものがまだ柔軟な対応を模索している段階にあることを示唆しています。そして、この特例的な枠組みが、後に企業側と公的分析側の評価を大きく分けることとなっていくのです。

論点の核心:二つの分析が語る異なる物語

レケンビの費用対効果評価がこれほどまでに注目を集めた最大の理由は、製薬企業であるエーザイが提出した「企業分析」と、公的機関である国立保健医療科学院(のC2H)が行った「公的分析」との間に、あまりにも大きな隔たりがあったからです。同じ一つの医薬品を評価しているにもかかわらず、なぜこれほどまでに異なる結論が導き出されたのでしょうか。その鍵は、両者の分析における三つの根本的な違いにあります。ここでは、その相違点を一つずつ見ていくことにしましょう。

相違点1:分析モデルの選択

費用対効果評価では、臨床試験だけでは分からない長期的な影響を予測するために、コンピューターを用いたシミュレーションモデルが使われます。

エーザイは、企業分析において「マルコフモデル」という、この分野では一般的で広く使われている分析モデルを採用しました。マルコフモデルとは、患者さんが時間と共に「軽度認知障害(MCI)」から「軽度認知症」へ、そしてさらに重い状態へと移行していく様子を、確率を用いてシミュレーションする手法です。多くの慢性疾患の評価で実績のある、標準的なアプローチと言えます 8

これに対して、公的分析を行ったC2Hは、このマルコフモデルを使いませんでした。その理由としてC2Hは、「公的分析における全ての論点を反映させることが、モデルの制約から困難であった」と説明し、独自に新しい分析モデルを作成したと述べています。企業が採用した標準的なモデルではなく、公的分析側が独自に作成したカスタムメイドのモデルで評価が行われたこと。これは極めて異例の事態であり、両者の分析結果が乖離する第一の要因となりました。

相違点2:効果が続く期間の想定(18カ月の崖)

両者の見解が最も決定的に対立したのが、レケンビの有効性がどのくらいの期間続くと考えるか、という点でした。これは評価結果を根底から揺るがす、最も重要な論点です。

エーザイ側の主張はこうです。まず、18カ月間の第3相臨床試験(Clarity AD試験)で得られた有効性のデータを用います。その上で、試験終了後も希望する患者さんがレケンビの投与を継続した「非盲検継続投与試験(OLE)」のデータを組み合わせることで、投与を続けている限り、病気の進行を抑制する効果は持続すると考えました 15。そして、薬を投与しなかった場合に病気がどのように進行するかを推計するため、比較対象として米国のアルツハイマー病研究プロジェクト(ADNI)のデータを用いました。エーザイは、日本のJ−ADNIと米国のADNIのデータが示す病態の推移はほぼ一致しているという研究報告があることから、この比較は妥当だと主張しました。

一方、公的分析側の見方は全く異なりました。C2Hは、Clarity AD試験の18カ月間のデータのみを有効性の根拠として採用しました。そして、OLEのデータや、ADNIを比較対象とすることを「適切でない」として退けたのです。その理由として、長期的な効果を見るのであれば、適切な比較対照群を置いた試験データが必要であり、ADNIのような一般的な研究プロジェクトのデータを比較に用いるのは科学的に妥当ではない、と判断したためです。

この結果、公的分析のモデルでは、極めて保守的な前提が置かれることになりました。それは、「レケンビは投与期間である18カ月間だけ有効であり、その時点で病気の進行を5.3カ月抑制する効果がある。しかし、18カ月が経過し投与が終了した瞬間に、その効果は完全に失われる」というものです 15。これは、あたかも18カ月目に効果が崖から落ちるように消えてしまうという想定であり、「18カ月の崖」とも呼べる厳しい仮説でした。病気の進行を緩やかにする薬の効果が、投与終了と同時にゼロになるという想定は、臨床的な実感とはかけ離れているかもしれませんが、公的分析では「厳密な比較対照データがない以上、それ以上の効果は証明されていない」という立場が貫かれたのです。この時間の捉え方の違いが、評価結果に大きな差をもたらすことになります。

相違点3:介護者の生活の質(QOL)の評価方法

最後の相違点は、介護者の負担軽減をどのように評価に反映させるか、という点でした。

エーザイは、企業分析において、介護者の生活の質(QOL)の改善効果をそのまま分析に反映させる手法を採用したと説明しています 15。これは、患者さんの症状が抑制されることで、介護にあたる家族などの精神的、時間的な負担が軽くなるという価値を、直接的に評価しようとするアプローチです。

これに対し、公的分析では、ここでも独自の手法が用いられました。C2Hが考案したその手法は、レケンビの投与によってもたらされる介護負担の改善効果を、症状がまだ非常に軽い「軽度認知障害(MCI)」の期間に限定して反映させるというものでした 15。つまり、患者さんの病状が軽度認知症に進んだ後の介護負担の軽減効果は、評価の対象から除外されたのです。これもまた、レケンビが持つ社会的な価値を、より限定的に見積もる方向に作用しました。

このように、分析モデル、効果の持続期間、そして介護者QOLの評価という三つの主要な点において、企業分析と公的分析は全く異なる道を選びました。特に「18カ月の崖」という効果の想定は、レケンビの長期的な価値を事実上ゼロと見なすものであり、これが後の衝撃的な評価結果へと直結していくのです。

審判の時:15%の薬価引き下げ案とその波紋

企業分析と公的分析の間に横たわる深い溝。その上で、費用対効果評価専門組織はどのような結論を導き出したのでしょうか。2025年7月9日、中医協総会に提出された報告書は、多くの関係者にとって衝撃的な内容となりました。

介護費用を含めても変わらなかった結論

公的分析では、「18カ月の崖」という極めて保守的な前提が採用された結果、レケンビの費用対効果は非常に悪い、という評価になりました。具体的に言うと、算出されたICER(1QALYを得るための追加費用)は、基準値である500万円をはるかに超える1000万円以上の区分に該当するという結果でした 12

ここで重要になるのが、レケンビのために設けられた特別ルールです。このルールでは、「ICERが500万円/QALYとなる価格」を基準に価格調整を行うことになっていました。公的分析の結果に基づくと、この基準を満たすための理論上の薬価は、現行薬価の25%から35%程度という、極めて低い水準になってしまいました。

これは、現行薬価から7割近い大幅な引き下げが必要になることを意味します。しかし、ここでもう一つの特別ルール、すなわち「価格の引き下げは最大でも15%まで」という下限設定が効いてきます。必要な引き下げ幅が15%を大きく上回っていたため、適用される引き下げ率は自動的に上限である15%に決まりました。

そして、この結論は、分析に介護費用を含めた場合でも、含めなかった場合でも、全く同じだったのです。介護費用を含めるかどうかは、制度上初めての試みとして大きな注目を集めた論点でした 13。しかし、公的分析における他の前提条件、特に効果の持続期間に関する想定があまりにも厳しかったため、介護費用を含めることによるプラスの効果は、最終的な結論に影響を及ぼすには至りませんでした。議論の末に導入された論点が、結果的に無意味になってしまったのです。

この分析結果に基づき、C2Hはレケンビの薬価を15%引き下げるべきだとする評価案を中医協に提出しました。これにより、例えば200mg1瓶の薬価は現行の4万5777円から3万8910円に、500mg1瓶は11万4443円から9万7277円に引き下げられる見通しとなったのです 10

関係者の反応と広がる波紋

この評価案が公表されると、多くのメディアは「レケンビ、薬価15%引き下げへ」と一斉に報じました 10。この結果に対し、製造販売元であるエーザイは同日、会見を開いて反論しました。エーザイは、公的分析がレケンビの長期的な有効性や介護者のQOL改善効果を過小評価していると指摘した上で、「今回の費用対効果評価はレケンビの有効性、効能効果に影響を与えるものではない。レケンビがもたらす価値に対する適正な評価を引き続き求めていく」との声明を発表しました 10。これは、評価手法には承服できないものの、医薬品そのものの価値への自信は揺るがないという強い意志の表れでした。

結局のところ、介護費用を評価に含めるか否かという政策的な議論は、分析手法という技術的な問題の前に霞んでしまいました。公的分析で下された技術的な判断が、政策的な議論の結果を無力化してしまったのです。この事実は、費用対効果評価制度の運用において、専門家による分析手法の選択がいかに絶大な影響力を持つか、そしてそのプロセスが十分に透明化されていない場合にどのような問題が生じうるかを、明確に示しています。

浮き彫りになった制度的課題:公正な評価か、コスト削減の道具か

レケンビの事例は、単に一つの医薬品の価格を巡る技術的な論争にとどまらず、日本の費用対効果評価制度そのものが抱える、より根源的な問題を白日の下に晒しました。その問題とは、この制度が本来目指すべき「価値に基づく公正な評価」の仕組みとして機能しているのか、それとも単なる「医療費抑制のための道具」として使われているのではないか、という問いです。

客観性への疑問と産業界の不信感

まず問われるべきは、制度の客観性と公平性です。同じ医薬品を評価したにもかかわらず、企業分析と公的分析の結果がこれほどまでに大きく異なるという事実は、評価手法やデータの選び方次第で結論が大きく揺らぐという、制度の根幹にある危うさを示しています。特に、公的分析側が標準的なモデルではなく独自のモデルを構築し、臨床現場の実感とは異なるかもしれない保守的な前提を置いたことは、「結論ありき」で分析が進められたのではないかという疑念を招きかねません。

こうした懸念は、日本の製薬業界だけでなく、グローバルな製薬企業団体からも表明されています。米国研究製薬工業協会(PhRMA)や欧州製薬団体連合会(EFPIA)は、日本の費用対効果評価制度が、医薬品の多面的な価値を総合的に評価するのではなく、薬価引き下げのツールとして恣意的に利用されることへの懸念を繰り返し表明してきました 18。実際に、PhRMAの調査によれば、これまでに日本で費用対効果評価を終えた医薬品31品目のうち、23品目もの薬価が引き下げられたと報告されています。理論上は薬価が引き上げられる可能性もあるにもかかわらず、実際には一度も引き上げ事例がないという事実も、この制度が価格引き下げ方向に偏って運用されているという印象を強めています 1

イノベーションへの影響

このような状況が続けば、日本の医療の未来に深刻な影響を及ぼす可能性があります。製薬企業にとって、新薬開発には莫大な投資と長い年月が必要です。もし、開発に成功したとしても、その価値が公正に評価されず、予測不可能な形で大幅に価格が引き下げられるリスクが高いと判断されれば、企業は日本市場への革新的な新薬の投入をためらうようになるかもしれません 18。特に、アルツハイマー病のような複雑な慢性疾患に対する治療薬の開発は、長期的な効果の証明が難しく、費用対効果評価で不利な判断をされやすい分野です。その結果、日本の患者さんだけが最新の治療を受けられない「ドラッグ・ラグ」が再燃、あるいは深刻化する恐れも指摘されています。

一方で、政府は医療費の効率化を重視し、「骨太の方針2025」などにおいて、費用対効果評価の活用をさらに拡大していく方針を示しています。医療財政の持続可能性を確保したい政府の立場と、イノベーションの価値を適正に評価してほしい産業界の立場との間には、深い溝が存在しているのが現状です。

レケンビの事例は、この費用対効果評価制度が抱える「アイデンティティ・クライシス」を象徴しています。この制度の主たる目的は、国民の健康を最大化するために、限られた医療資源を最も価値のある技術へ合理的に配分することなのでしょうか。それとも、厚生労働省の管轄する医療保険財政のコストを抑制することが最優先されるのでしょうか。レケンビに下された評価は、少なくとも現時点では、後者の機能がより強く働いているのではないか、という印象を多くの関係者に与えました。この信頼性の問題こそが、制度が乗り越えるべき最大の壁と言えるでしょう。

信頼される評価制度への道筋

アルツハイマー病治療薬レケンビを巡る一連の議論は、日本の費用対効果評価制度が重大な岐路に立たされていることを明確に示しました。この制度が、医療の質の向上と財政の持続可能性を両立させるための信頼される仕組みとなるためには、いくつかの本質的な課題を克服する必要があります。

第一に、評価方法論の確立と安定化が急務です。レケンビの事例が示したように、分析者や分析モデルの選択によって評価結果が大きく変動する現状は、制度の予測可能性と公平性を著しく損ないます。誰が評価を行っても、ある程度近い結論が得られるような、科学的で堅牢な標準的評価手法を確立することが不可欠です。特に、長期にわたる治療が必要な慢性疾患について、臨床試験期間を超える効果をどのように科学的根拠に基づいて推計するのか、そのための明確なルール作りが求められます。

第二に、評価プロセスの透明性を抜本的に向上させる必要があります。今回の事例では、なぜ公的分析が企業分析とは異なる独自のモデルを採用したのか、なぜ長期有効性に関するデータを採用しなかったのか、その詳細な論理的根拠は、必ずしも十分に開示されているとは言えません。評価における重要な判断の根拠を、専門家だけでなく、国民や関係者が理解できる形で速やかに公開し、開かれた議論を可能にすることが、制度への信頼を醸成する上で不可欠です 4。密室での技術的な判断が、社会全体に大きな影響を及ぼす現在の仕組みは見直しが必要でしょう。

第三に、医薬品がもたらす「価値」を、より広い視野で捉える視点が必要です。治療によって患者さん本人の症状が改善するだけでなく、家族の介護負担が軽減されたり、社会参加が可能になったりすることには、大きな社会的価値があります 5。こうした多面的な価値を、いかにして科学的かつ安定的な方法で評価の枠組みに組み込んでいくか。レケンビの事例で試みられた介護費用の考慮は、その第一歩でしたが、結果として分析手法の問題に埋没してしまいました。この挑戦をここで終わらせるのではなく、さらに洗練された形で継続していくことが重要です。

費用対効果評価という考え方自体は、限られた医療資源を賢く使い、効率的に革新的な技術を導入していく上で、極めて重要な仕組みとなり得ます。しかし、その方法論や運用に多くの課題を抱えたまま、拙速に制度の適用を拡大することは、医療のイノベーションを阻害し、最終的には国民が受ける医療の質の低下を招きかねません。

レケンビが投げかけた問いは、重く、そして深刻です。この一件を、単なる一つの薬価問題として終わらせるのではなく、日本の医療の未来を形作るための重要な教訓として活かすこと。それこそが、今、求められている姿勢ではないでしょうか。透明で、公平で、そして多面的な価値を正しく評価できる制度を築くための、真摯な対話と改革が始まらなければなりません。

引用文献

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  2. 厚生労働省保険局医療課 令和6年度診療報酬改定の概要 【費用対 ...,https://www.mhlw.go.jp/content/12400000/001251541.pdf
  3. 費用対効果評価制度に関する意見 - 厚生労働省,https://www.mhlw.go.jp/content/12404000/001129471.pdf
  4. 日本における「医薬品の費用対効果評価」のより良い活用に向けて,https://hgpi.org/wp-content/uploads/HGPI_ExpertPolicyAdvocacyPlatform_Recommendations_20250502_JPN.pdf
  5. 医薬品の費用対効果評価について - 米国研究製薬工業協会(PhRMA),https://www.phrma-jp.org/hta/
  6. 109. いのちの値段︓QALYとICER,http://saigaiin.sakura.ne.jp/sblo_files/saigaiin/image/E38184E381AEE381A1E381AEE580A4E6AEB5E38080QALYE381A8ICER.pdf
  7. 費用効果分析に関連する用語の解説① | 領域情報 | アステラスメディカルネット,https://amn.astellas.jp/medical-information/analysis/analysis-3
  8. 医薬品の費用対効果について考えよう|MRの転職・求人情報【MR BiZ】,https://mr.ten-navi.com/interview/03/
  9. 費用対効果評価とは|AnswersNews Plus - Answers(アンサーズ),https://answers.ten-navi.com/newsplus/15326/
  10. NEWS AD治療薬「レケンビ」薬価15%引下げへ 中医協が費用対効果評価案を了承,https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=26703
  11. 日本の費用対効果評価制度のこれまでとこれから | ニューズレター 2023年5月号 No.215 - 製薬協,https://www.jpma.or.jp/news_room/newsletter/215/15pc.html
  12. 中医協総会 AD治療薬・レケンビの費用対効果 総合評価は薬価15%引下げ 初の介護費用扱い考慮 - ミクスOnline,https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=78651
  13. レケンビの費用対効果「低い」、ICERは1000万円/QALY以上 | m3.com,https://www.m3.com/news/iryoishin/1283528?promotionCode=ph-top
  14. マルコフモデルを分かりやすく解説!隠れマルコフモデルとの違いや具体例も紹介! - Jitera,https://jitera.com/ja/insights/71633
  15. 厚生労働省の中央社会保険医療協議会による「レケンビ®」の費用対効果評価について,https://www.eisai.co.jp/news/2025/news202545.html
  16. 認知症治療薬レケンビの費用対効果評価、「医療のみで評価」すべきか - GemMed,https://gemmed.ghc-j.com/?p=68029
  17. AD治療薬「レケンビ」薬価15%引下げへ 中医協が費用対効果評価案を了承,https://medical-saponet.mynavi.jp/news/newstopics/detail_4828/
  18. 【PhRMA/EFPIA共同発表】令和4年度費用対効果評価制度改革 ...,https://www.phrma-jp.org/pressroom/pressrelease/release2022/220119_pressrelease/
  19. 2025年度(令和7年度)薬価中間年改定、費用対効果評価 及び義務的な創薬支援基金に関する共同声明 / Joint Statement on FY2025 Off-Year Drug Price Revision Outcome, Cost-Effectiveness Evaluations and Mandatory Drug Discovery Support Fund | PhRMA – 米国研究製薬工業協会,https://www.phrma-jp.org/pressroom/pressrelease/release2024/241225_pressrelease/
  20. 認知症新薬の「費用対効果」 - 中医協ニュース,http://chuikyo.news/20230623-lecanemab/

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