2025年7月9日、世界の製薬業界に大きなニュースが流れました。米国の巨大製薬企業メルク(Merck & Co., Inc.、米国外ではMSDとして知られています)が、英国を拠点とするバイオ医薬品企業ヴェローナ・ファーマ(Verona Pharma plc)を、約100億ドルという巨額の資金を投じて買収する契約を締結したと発表したのです 1。この取引は、単なる企業買収という枠を超え、世界有数の製薬企業が自社の未来をどのように描き、来るべき厳しい時代を乗り越えようとしているのかを示す、極めて重要な戦略的決断として注目されています。
この買収劇の主役は、ヴェローナ・ファーマが開発し、2024年に米国食品医薬品局(FDA)から承認を得たばかりの新しい慢性閉塞性肺疾患(COPD)治療薬、「Ohtuvayre®(一般名:エンシフェントリン)」です 1。メルクの狙いは、この革新的な新薬を手に入れることにありました。しかし、その背景には、メルクが抱える深刻な経営課題と、製薬業界全体が直面する事業環境の変化が存在します。高金利や規制強化といった外部環境を背景に、製薬業界のM&A(合併・買収)は、かつてのような超大型案件よりも、戦略的に的を絞った「ちょうどよい規模」の案件が主流となりつつあります 4。今回のメルクによる買収は、まさにこの現代的なM&A戦略を象徴するケーススタディと言えるでしょう。
この買収が示唆するのは、単にメルクの製品ラインナップが一つ増えるということだけではありません。これは、製薬企業がM&A戦略において、不確実な未来への「賭け」から、より確実性の高い「投資」へと軸足を移しつつあることの現れでもあります。従来の医薬品開発では、まだ臨床試験の初期段階にある有望な候補物質を持つ企業を買収することが一般的でした。それは高いリターンを期待できる一方で、開発失敗という大きなリスクを伴うものでした。
しかし今回メルクが手に入れたOhtuvayre®は、すでにFDAの承認を受け、市場での販売も開始され、力強いスタートを切っている製品です 1。つまり、メルクは臨床試験の成功という不確実な要素に賭けたのではなく、すでにその価値が証明された資産の商業的成功を最大化するという、より確実性の高い道を選んだのです。これは、同社が直面する経営上の「確実な危機」に対し、「確実な収益源」で対抗しようとする、計算され尽くした戦略的判断に他なりません。
本記事では、この歴史的な買収劇を多角的に分析し、その科学的、戦略的、そして財務的な意味を深く掘り下げていきます。
Table of Contents
買収の核心 — 「Ohtuvayre®」とは何か
20年ぶりの新規作用機序 — Ohtuvayre®の科学的背景
今回の買収の中心に存在するOhtuvayre®(エンシフェントリン)は、単なる新薬ではありません。この薬剤は、COPDの治療領域において、実に20年以上ぶりに登場した全く新しい作用機序を持つ吸入薬であり、その登場は医療現場に大きな期待をもたらしています 1。この薬剤の科学的な価値を理解することが、メルクが100億ドルを投じた理由を解き明かす第一歩となります。
Ohtuvayre®の最大の特徴は、ホスホジエステラーゼ(PDE)という酵素の二つの異なるタイプ、すなわちPDE3とPDE4を同時に阻害する「二重阻害剤」であるという点にあります 6。私たちの体内で、サイクリックAMP(cAMP)という分子は、肺において重要な役割を担っています。具体的には、気管支の平滑筋を弛緩させて空気の通り道を広げたり、炎症反応を抑制したりする働きがあります 6。PDE酵素は、このcAMPを分解する役割を持っているため、PDEの働きを阻害すると、細胞内のcAMP濃度が上昇し、その有益な効果が増強されることになります。
Ohtuvayre®は、この原理を巧みに利用しています。PDE3を阻害することによって、主に気管支の平滑筋を弛緩させ、強力な「気管支拡張作用」をもたらします 6。これにより、COPD患者の息切れなどの症状が改善されます。一方で、PDE4を阻害することによって、肺の炎症に関わる免疫細胞の活動を抑制し、「非ステロイド性の抗炎症作用」を発揮します 6。COPDは慢性的な気道の炎症が病態の根幹にあるため、この抗炎症作用は疾患の進行を抑制する上で非常に重要です。さらに、この薬剤は線毛の運動を改善し、粘液の粘度を低下させることで、痰の排出を助ける効果も期待されています 8。
この「気管支拡張」と「抗炎症」という二つの効果を一つの分子で併せ持つという点が、Ohtuvayre®を画期的なものにしています。これまでのCOPD治療では、気管支拡張薬と、炎症を抑えるための吸入ステロイド薬(ICS)などを別々に、あるいは組み合わせて使用するのが一般的でした 6。Ohtuvayre®は、これらの重要な作用を単剤で提供できる可能性を秘めており、治療の選択肢を大きく広げるものです。特に、長期的なステロイド使用に伴う副作用を懸念する患者にとって、非ステロイド性の抗炎症作用を持つこの薬剤は、新たな希望となり得ます。
実は、PDE阻害薬という考え方自体は新しいものではありません。例えば、経口のPDE4阻害薬であるロフルミラストは、海外では以前からCOPD治療薬として承認されています 11。しかし、この薬剤は下痢などの消化器系の副作用が強く、その使用は限定的でした。また、日本では未承認となっています 12。Ohtuvayre®の真の革新性は、二重阻害という作用機序に加え、薬剤を直接肺に届ける「吸入薬」であるという点にもあります。吸入によって、薬剤を必要な場所に集中させ、全身への影響を最小限に抑えることができます。これにより、経口薬で問題となっていた副作用を軽減し、より多くの患者がその恩恵を受けられる可能性が生まれます。つまりOhtuvayre®は、既存のアイデアをより洗練させ、その弱点を克服した「賢い」薬剤であり、単なる「新しい」薬剤以上の価値を持っているのです。
市場での船出 — Ohtuvayre®の販売実績と評価
科学的に優れた薬剤であっても、市場に受け入れられなければ商業的な成功は望めません。その点において、Ohtuvayre®は目覚ましい成果を上げています。2024年6月に米国FDAの承認を取得し、同年8月から販売が開始されると、またたく間に医療現場に浸透していきました 1。その立ち上がりの勢いは、アナリストから「COPD治療薬の発売史上、最も力強いものの一つ」と評されるほどでした 2。
具体的な数字を見ると、その成功は明らかです。2024年の下半期だけで約4230万ドルの売上を記録し、2025年の第1四半期には、その額は7130万ドルへと急増しました 2。処方数の伸びも著しく、2024年末までに1万6000件以上の処方がなされ、2025年第1四半期には単独で約2万5000件の処方が発行されています 5。この薬剤を処方する医師の数も急速に増加しており、市場がいかにこの新しい治療選択肢を渇望していたかを物語っています。
この力強い市場導入の実績は、メルクが100億ドルという巨額の投資を決断する上で、決定的に重要な役割を果たしました。FDAの承認や良好な臨床試験データはもちろん重要ですが、それだけでは商業的な成功が保証されるわけではありません。医師が実際に処方してくれるか、保険会社が薬剤費を支払ってくれるかといった現実世界のハードルが存在します。Ohtuvayre®の発売後の実績は、これらのハードルをクリアできるという強力な証拠をメルクに提供しました。
つまり、メルクは有望な「可能性」を買ったのではなく、市場での価値がすでに証明された「資産」を手に入れたのです。このリアルワールドでの成功が、買収に伴う商業的リスクを大幅に低減させ、一見すると高額に見える買収価格を正当化する最後の決め手となったのです。アナリストたちは、この薬剤の年間のピーク売上高が30億ドルから40億ドルに達する可能性があると予測しており、メルクにとって短期的な収益貢献と長期的な成長の両方をもたらす重要な資産になると見られています 2。
戦略的背景と市場機会
「キイトルーダ依存」からの脱却 — メルクの成長戦略
メルクがヴェローナ・ファーマの買収に踏み切った最大の理由は、同社が直面する「パテントクリフ(特許の崖)」という深刻な経営課題にあります。これは、主力製品の特許が切れることで、後発のバイオシミラー(バイオ後続品)の参入を許し、売上が崖から落ちるように急減する現象を指します。メルクの場合、その崖の主役は、がん免疫療法薬「キイトルーダ(一般名:ペムブロリズマブ)」です 17。
キイトルーダは、メルクにとってまさに「金のなる木」であり、その成功は驚異的です。2024年には年間売上が295億ドルに達し、メルクの総収益の半分近く(約46%)を一人で稼ぎ出す、メガブロックバスターと呼ばれる巨大製品です 13。しかし、この栄光の時代には終わりが見えています。キイトルーダの主要な特許は2028年に満了を迎え、その後はバイオシミラーとの厳しい価格競争に晒されることが確実視されています 18。過去には、アッヴィ社のブロックバスターであったヒュミラが、特許切れからわずか数年で売上の60%近くを失った例もあり、その衝撃の大きさがうかがえます 18。このキイトルーダの穴を埋めることは、メルクにとって最重要の経営課題であり、ポートフォリオの多角化が急務となっていたのです。
今回のヴェローナ・ファーマ買収は、この課題に対するメルクの具体的な回答の一つです。そして、これは孤立した動きではなく、近年メルクが推し進めてきた一貫した戦略の一環と見ることができます。メルクは、がん領域への過度な依存から脱却し、事業の柱を複数持つことを目指しています。その中で特に注力しているのが、心血管・呼吸器領域と免疫領域です。事実、メルクは2021年にアクセレロン・ファーマを115億ドルで買収し、肺動脈性肺高血圧症治療薬「Winrevair」を獲得しました 2。また、2023年にはプロメテウス・バイオサイエンシズを108億ドルで買収し、免疫領域のパイプラインを強化しています 2。
今回のヴェローナ・ファーマ買収は、これらに続く約100億ドル規模の大型案件であり、心血管・呼吸器領域という第二の柱をさらに強固にするための、計算された一手なのです。この一連の動きは、メルクが「One Pipeline」戦略、すなわち自社研究開発と外部からの導入を組み合わせることで、持続的な成長を目指すという方針を明確に示しています 22。
しかし、Ohtuvayre®がキイトルーダの巨大な穴を単独で埋めることはできません。キイトルーダの年間売上約300億ドルに対し、Ohtuvayre®のピーク売上予測は約40億ドルです 2。この数字が示すように、メルクは一つの「魔法の弾丸」を探しているわけではないのです。むしろ、WinrevairやOhtuvayre®のような、それぞれが数十億ドル規模の売上を見込める複数の有力な製品を組み合わせることで、ポートフォリオ全体としてキイトルーダ後の時代を乗り切ろうとしています。
このアプローチは、一つの製品に会社の運命を賭けるよりも現実的で、リスクが分散された賢明な戦略と言えるでしょう。今回の買収は、そのための重要な、しかし最後ではない一つのピースなのです。アナリストたちが指摘するように、メルクは今後もさらなる事業開発の機会を模索し続ける必要があります 13。
見過ごされた巨大市場 — COPDという疾患
メルクが呼吸器領域に大きな投資をするもう一つの理由は、慢性閉塞性肺疾患(COPD)という疾患が、極めて大きく、かつ未開拓な市場機会を秘めているからです。COPDは、タバコの煙などの有害物質を長期間吸い込むことによって肺に炎症が起き、呼吸が困難になる病気です。世界では3億9000万人以上がこの病気に苦しんでおり、依然として世界の主要な死因の一つとなっています 23。
特に日本市場に目を向けると、そこには特有の大きな課題と機会が存在します。日本のCOPDの推定患者数は約530万人と非常に多いにもかかわらず、実際に医療機関で治療を受けている患者数は、厚生労働省の調査によると20万人から38万人程度に過ぎないと報告されています 24。これは、潜在的な患者の8割から9割以上が診断も治療も受けていない「未診断・未治療」の状態にあることを意味します 24。多くの人々が、年のせいだと思い込んでいる息切れや咳、痰が、実は治療可能な病気のサインであることに気づいていないのです。
この状況は、製薬企業にとって「市場シェア」を奪い合うだけでなく、「市場そのものを創造する」機会があることを示唆しています。既存の治療薬市場で競合他社からシェアを奪うことも重要ですが、メルクのような巨大企業は、その豊富な資金力と情報発信力を活かして、疾患啓発キャンペーンや医療従事者への教育活動を展開することができます。これにより、これまで医療システムの外にいた500万人もの潜在患者を掘り起こし、治療へと導くことで、市場全体のパイを大きく拡大させることが可能なのです。これは、小規模なバイオ企業であったヴェローナ・ファーマ単独では決して成し得なかったことです。
さらに、日本のCOPD患者には、欧米の患者とは異なる臨床的な特徴があることも指摘されています。日本の患者は、欧米の患者に比べて急な症状の悪化(増悪)の頻度は低いものの、心血管系の合併症が少なく、一方で低体重(低BMI)や栄養障害を抱えていることが多いとされています 24。また、日本の診療ガイドラインでは吸入ステロイド薬(ICS)の使用がより慎重であり、欧米ほど頻繁には用いられていません 24。
このような日本の患者特性は、Ohtuvayre®にとって追い風となる可能性があります。Ohtuvayre®が持つ気管支拡張作用と非ステロイド性の抗炎症作用は、増悪のリスクは低いものの持続的な症状に悩む患者や、ステロイドを使わずに炎症をコントロールしたいと考える医師と患者にとって、非常に魅力的な選択肢となり得ます。メルクは、その開発力を活かして日本人患者に特化した臨床データを構築し、Ohtuvayre®を日本の患者プロファイルに最適な治療薬として位置づける戦略的なマーケティングを展開することができるでしょう。これは単に新薬を発売する以上の、市場のニーズに深く根差した価値創造であり、買収の戦略的な意義をさらに高めるものです。
ディールの構造と評価
100億ドルの値付け — 買収価格の妥当性
メルクがヴェローナ・ファーマの買収に提示した金額は、総額約100億ドルです。具体的には、ヴェローナ・ファーマの米国預託株式(ADS)1株あたり107ドルで買い取るという条件でした 1。この価格は、買収発表前日の株価終値に対して23%のプレミアム(上乗せ価格)であり、2024年末時点の同社の時価総額の3倍近い水準に相当します 16。一見すると非常に高額な買い物に見えますが、市場関係者やアナリストの多くは、この価格を戦略的に妥当であり、むしろリスクの少ない投資であると肯定的に評価しています 16。
その評価の根拠は、主に三つの点に集約されます。第一に、買収対象であるOhtuvayre®が、開発段階にある不確実な候補物質ではなく、すでにFDAの承認を得て市場に投入され、力強い売上を記録している「発売済みの新薬」であるという事実です 2。これにより、買収後すぐに収益貢献が期待でき、投資回収の見通しが立てやすくなります。
第二に、この薬剤が持つ「適応拡大の可能性」です。Ohtuvayre®は現在、COPDを対象としていますが、同じく慢性的な炎症と気道障害を特徴とする非嚢胞性線維症性気管支拡張症など、他の呼吸器疾患への応用も期待されており、すでに臨床試験が進められています 2。もしこれらの適応拡大が成功すれば、薬剤の価値はさらに飛躍的に高まることになります。
第三に、そのユニークな作用機序による「競合の少なさ」です。前述の通り、Ohtuvayre®は気管支拡張作用と非ステロイド性抗炎症作用を併せ持つ初めての吸入薬です 7。呼吸器領域にはグラクソ・スミスクライン(GSK)やアストラゼネカといった強力な競合が存在しますが、Ohtuvayre®はそれらの製品とは異なるアプローチで患者のアンメット・メディカル・ニーズ(未だ満たされていない医療ニーズ)に応えることができるため、既存の治療で効果が不十分な患者にとっての新たな選択肢となり、独自の市場を確立できると見られています。
しかし、この100億ドルという評価額の本質を理解するためには、もう一歩踏み込んだ視点が必要です。この価格は、ヴェローナ・ファーマという企業が単独で生み出す価値に対して支払われたものではありません。これは、Ohtuvayre®という資産が「メルクの手に渡ることで生まれる価値」に対して支払われた価格なのです。ヴェローナ・ファーマのCEO自身が述べているように、メルクが持つ世界規模の販売網、業界をリードする臨床開発能力、そして強力な営業体制が加わることで、Ohtuvayre®のポテンシャルは最大限に引き出され、より多くの患者に届けられるようになります 1。アナリストが予測する40億ドルというピーク売上高も、メルクの力があってこそ達成可能となる数字です。つまり、メルクは自社の能力が生み出す相乗効果(シナジー)に対してプレミアムを支払ったのであり、その評価額は、メルク自身の実行能力への自信の表れでもあるのです。
円滑な統合を目指して — スキーム・オブ・アレンジメントとは
今回の買収は、その法的な手続きの面でも注目すべき特徴を持っています。この取引は、英国の会社法に基づく「スキーム・オブ・アレンジメント(Scheme of Arrangement、以下SOA)」という枠組みを用いて実施されます 7。これは、日本のM&Aではあまり馴染みのない手法かもしれませんが、友好的な企業買収を円滑に進める上で非常に優れた仕組みです。
SOAを簡単に説明すると、買収される側の企業(この場合はヴェローナ・ファーマ)が、自社の株主に対して会社の再編計画を提案し、その承認を求める裁判所が関与する手続きです 31。この計画が承認されるためには、非常に特徴的な二つの条件をクリアする必要があります。一つは、株主総会での議決権の75%以上の賛成を得ること、もう一つは、議決権を行使した株主の「頭数」で過半数の賛成を得ることです 31。これらの条件を満たし、最終的に裁判所の認可を得ることで、この計画は成立します。
この手続きの最大の利点は、一度承認されると、その決定が反対した株主や議決に参加しなかった株主を含む「すべての株主」を法的に拘束する点にあります 31。これにより、買収者は対象企業の株式を100%確実に取得することができます。これは「オール・オア・ナッシング(全か無か)」の結果をもたらすため、買収後に一部の株主が残り、完全な子会社化や事業統合の妨げとなるリスクを完全に排除できるのです。
SOAは、買収対象企業の取締役会が主導して進める手続きであるため、敵対的な買収には用いることができず、両社の合意に基づいた「友好的な買収」でのみ利用されます 31。今回のケースでも、メルクとヴェローナ・ファーマの両社の取締役会が全会一致でこの取引を承認しており、両社のCEOが共に買収の意義を語っていることからも、その協調的な性質がうかがえます 7。
メルクにとって、ヴェローナ・ファーマの事業を迅速かつ円滑に自社に統合し、Ohtuvayre®の販売戦略や追加の臨床開発を滞りなく進めることは極めて重要です。そのために、100%の支配権を確実に確保できるSOAという手法を選択したことは、非常に合理的な判断でした。この法的手続きの選択自体が、今回の買収が単なる資産の取得ではなく、両社の協力による価値創造を目指した、真に戦略的な統合であることを物語っています。
メルクの未来と呼吸器領域のこれから
米メルクによる英ヴェローナ・ファーマの買収は、多くの示唆に富む戦略的な一手でした。これは、同社が「ポスト・キイトルーダ」という避けては通れない未来に向けて打った、重要かつ計算された布石です。しかし、アナリストたちが指摘するように、これはメルクの挑戦の終わりではなく、むしろ新たな始まりに過ぎません 13。キイトルーダが残す巨大な収益の穴を埋めるためには、今後も継続的な事業開発努力が必要となるでしょう。
その中で、Ohtuvayre®という資産を今後どのように育てていくのかという点に、メルクの呼吸器領域における未来の展望が凝縮されています。その鍵を握るのが、現在開発が進められている「合剤」です。ヴェローナ・ファーマは、Ohtuvayre®(エンシフェントリン)と、長時間作用性抗コリン薬(LAMA)であるグリコピロレートを組み合わせた、新しい固定用量配合剤の開発を進めています。この合剤は現在、第II相臨床試験の段階にあります 36。
この動きは、極めて戦略的な意味を持ちます。現在のCOPD治療薬市場は、複数の作用機序を持つ薬剤を組み合わせた合剤が主流となっています。特に、LAMAと長時間作用性β2刺激薬(LABA)を組み合わせたLAMA/LABA配合剤や、それに吸入ステロイド薬(ICS)を加えた3剤配合剤が広く使われています 10。Ohtuvayre®が単剤として既存の治療への上乗せ効果を発揮することはすでに示されていますが、市場のリーダーたちと真っ向から競争するためには、利便性の高い固定用量配合剤の存在が不可欠です。
エンシフェントリンとグリコピロレートの合剤が実現すれば、それは「LAMAによる気管支拡張作用」と、「エンシフェントリンによる気管支拡張作用および非ステロイド性抗炎症作用」を併せ持つ、全く新しいタイプの治療選択肢となります。これは、既存の合剤とは一線を画すユニークなプロファイルであり、特にステロイドの使用を避けたい患者層に強く訴求する可能性があります。メルクは、まずOhtuvayre®単剤で市場での存在感を確立し、次いでこの強力な合剤を投入することで、呼吸器領域における自社の地位を盤石なものにしようという、明確な二段構えの戦略を描いているのです。
この買収劇は、現代の製薬企業が直面する厳しい経営環境下で、いかにして持続的な成長を確保していくかという問いに対する、一つの模範解答を示しています。天文学的な収益を上げるブロックバスターが生み出す潤沢なキャッシュを、いかに賢く再投資するか。メルクの答えは、一つの超大型の賭けに出るのではなく、科学的根拠に裏打ちされ、リスクがある程度低減された中規模の優良資産を、複数、かつ体系的にポートフォリオに加えていくというものでした。今回のヴェローナ・ファーマ買収は、その戦略を完璧に体現しています。
すでに市場で価値が証明された製品を獲得し、その製品が持つユニークな科学的特徴を活かして未開拓の市場ニーズに応え、さらに合剤開発によってフランチャイズを構築していく。これは単なる医薬品の買収ではなく、メルクの強みを最大限に活かした、未来への巧みな戦略的投資なのです。この決断が、メルクを、そして呼吸器疾患に苦しむ世界中の患者の未来を、どのように変えていくのか。私たちはその行方を注意深く見守っていく必要があります。
参照情報
- Merck To Acquire Verona Pharma and Expand its COPD Treatment Pipeline, https://www.pharmexec.com/view/merck-acquire-verona-pharma-expand-copd-treatment-pipeline
- Merck to buy Verona and its lung drug in $10B deal | BioPharma Dive, https://www.biopharmadive.com/news/merck-verona-acquire-deal-copd-ohtuvayre/752545/
- 米製薬大手メルク、英ベローナ買収で合意 約1.47兆円 - Moomoo, https://www.moomoo.com/news/post/55218710
- Cooley's 2024 Life Sciences M&A Year in Review: M&A Slims Down in 2024, but Will Appetites Grow in 2025?, https://cooleyma.com/2025/01/22/cooleys-2024-life-sciences-ma-year-in-review-ma-slims-down-in-2024-but-will-appetites-grow-in-2025/
- Verona Pharma Reports Strong Ohtuvayre™ Launch and Provides Preliminary Fourth Quarter and Full Year 2024 Financial Highlights, https://www.veronapharma.com/news/verona-pharma-reports-strong-ohtuvayre-launch-and-provides-preliminary-fourth-quarter-and-full-year-2024-financial-highlights/
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