現代の日本の製薬業界は、かつてないほど厳しい環境に置かれています。この状況は、一企業の問題ではなく、業界全体が直面する構造的な課題から生じています。この記事は、そうした逆風の中で、デジタルトランスフォーメーション、すなわちDXで新境地を切り拓こうとする会社、塩野義製薬の取り組みをご紹介するものです。同社の取り組みは、単なる一企業の事例を超え、変化の時代における生存と成長のための普遍的な教訓を示してくれます。
まず、製薬業界を取り巻く環境の厳しさについて具体的に見ていきましょう。最も大きな圧力となっているのが、政府主導で繰り返される薬価の引き下げです 1。これにより、製薬企業が新薬から得られる収益性は継続的に低下しています。同時に、日本の急速な高齢化は、医療サービスの需要を増大させる一方で、国の財政を圧迫し、さらなる医療費抑制への圧力を高めるという矛盾した状況を生み出しています 1。
これに加えて、技術的な課題も深刻です。経済産業省が警鐘を鳴らす「2025年の崖」という問題があります。これは、多くの企業で基幹システムが老朽化、複雑化、そしてブラックボックス化し、維持管理費が高騰するだけでなく、新しいデジタル技術の導入を阻害し、国際競争力の低下を招くというものです 2。製薬企業も例外ではなく、部門ごとにIT基盤が分断されるサイロ化や、業務アプリケーションの属人化といった課題を抱えており、これがデータに基づいた迅速な意思決定やイノベーションの足かせとなっています 2。
このような環境下では、従来通りの優れた医薬品を開発し、提供するというビジネスモデルだけでは、持続的な成長は困難です。企業は、製品そのものだけでなく、自社の存在意義や事業プロセスそのものを根本から変革する必要に迫られています 3。
この厳しい状況を背景として、塩野義製薬の取り組みはひときわ強い輝きを放っています。同社は、経済産業省と東京証券取引所が共同で選定する「DX注目企業」に3年連続で選定されるなど、その先進的な活動は業界の内外から高く評価されています。この事実は、同社が単に課題を認識しているだけでなく、それに対して大胆かつ明確な、そしてデジタル技術に裏打ちされたビジョンを持って果敢に対応していることの証です。
塩野義製薬のDXは、目先のコスト削減や業務効率化といった守りのための方策ではありません。むしろ、業界が直面する危機を、自らを根本的に再発明するためのきっかけとして活用する、極めて積極的な価値創造戦略です。多くの企業が現状維持に苦慮する中で、塩野義製薬はDXを単なる防御の盾ではなく、新たな未来を切り拓くための攻めの剣として捉えています。この積極的な姿勢こそが、同社を「注目企業」たらしめているわけです。
Table of Contents
ビジョン — HaaS企業への変革
塩野義製薬の全てのDX戦略を理解する上で、まず押さえなければならないのが、同社が掲げる揺るぎない経営ビジョンです。このビジョンこそが、同社のあらゆる意思決定を導く羅針盤の役割を果たしています。その核心にあるキーワードが、「HaaS(Healthcare as a Service)企業への変革」です 5。
このHaaSという概念は、同社が2020年に策定した中期経営計画「Shionogi Transformation Strategy 2030 (STS2030)」の中で明確に示された、グループの未来像です 7。これは、従来の「創薬型製薬企業」、つまり医療用医薬品を開発し販売することを中心としてきた事業形態からの脱却を意味します。そして、医薬品の提供にとどまらず、人々の健康に関わる一連のプロセス、すなわち予防、診断、治療、さらには治療後の予後管理までを包括的にサポートする、多様なヘルスケアサービスを提供する「ヘルスケアプロバイダー」へと生まれ変わることを宣言する野心的なビジョンです 5。
では、なぜ塩野義製薬は「HaaS」という答えにたどり着いたのでしょうか。その背景には、製薬業界の構造的な課題があります。薬価改定によって医薬品そのものの価値が相対的に低下していく中で、企業が成長を続けるためには、「薬を超える」新しい価値を創造しなければなりません。HaaSは、患者さんや社会が抱えるより広範な「困りごと」を解決することを目指すものです 7。例えば、病気になる前の予防、早期発見のための診断、治療効果を最大化するための服薬管理、そして治療後の生活の質を維持するためのサポートなど、医薬品だけではカバーしきれない領域に新たな価値を見出そうとしています。これは、従来の薬価制度の影響を受けにくい、新たな収益源を確立する戦略でもあるのです。
さらに重要なのは、HaaS戦略がDXの位置づけを根本的に変えた点です。従来の製薬企業にとって、DXは研究開発の効率化や営業活動の支援といった、あくまで業務を補助するツールでした。しかし、HaaS企業を目指すとなると話は全く異なります。予防や診断、予後管理といった継続的なサービスを提供するためには、顧客の健康データを収集し、分析し、それに基づいてパーソナライズされた情報や介入を提供するデジタル基盤が絶対に必要となります。つまり、HaaS企業であるためには、DXネイティブな企業でなければなりません。
このように、経営陣がHaaSというビジョンを掲げたことは、DXを単なるIT部門の改善プロジェクトから、会社の存続と成長をかけた全社的な戦略の中核へと昇華させる、極めて巧みな一手だったと言えます。それは、大規模な組織変革や投資に対する「なぜそれが必要なのか」という問いへの答えを与えました。全社員のベクトルを、デジタル技術の活用が前提となる一つの目標へと向かわせたんですね。この明確なビジョンこそが、塩野義製薬の変革の旅路を照らす、強力な光となっていると言えます。
DX推進本部とデータサイエンス部
壮大なビジョンを掲げるだけでは、変革は絵に描いた餅に終わってしまいます。塩野義製薬がHaaS企業への変革に本気であることを示す何よりの証拠は、そのビジョンを現実に変えるための強力な実行部隊、すなわち専門組織の構築にあります。ここでは、変革を駆動するまさに心臓部である、DX推進体制の全貌を詳しく見ていきましょう。
その第一歩として、塩野義製薬は2021年7月に、社長直轄の組織として「DX推進本部」を新設しました 10。経営トップの直下に置かれたこの組織は、DXが単なる一部門の取り組みではなく、全社的な経営課題であることを明確に示す象徴的な一手でした。そして、このDX推進本部の傘下に、当時としてはまだ日本企業で珍しかった「データサイエンス部」を設置したんです 10。
このデータサイエンス部の役割は、単なるデータ分析に留まるものではありません。同社は、この部署のミッションを「データ活用を通じてこれまでにない知見を見つけ出し、自社のビジネス課題、ひいては社会課題に答えを出すプロフェッショナル集団」であり、さらに重要なことに「ビジネスを創る存在」であると定義しています 12。これは、データサイエンス部が、IT部門の延長線上にあるサポート部隊ではなく、事業創造に直接的に関与し、会社の収益に貢献する戦略部門として位置づけられていることを意味します。
この組織設計の巧みさは、その内部構造にも表れています。データサイエンス部は、高度な解析やアルゴリズム開発を担う「データサイエンスユニット」と、その分析の元となる高品質なデータを収集、管理、整備する「データエンジニアリングユニット」の2つの機能で構成されています 11。これは、高度な分析(攻め)と、それを支える堅牢なデータ基盤(守り)の両方が不可欠であるという、データ活用の本質を深く理解した上での戦略的な布陣です。
そして、塩野義製薬のDX推進体制は、ここで歩みを止めることなく、さらなる進化を遂げます。2025年4月1日付で実施された組織改編は、同社のDX戦略が新たなステージへと移行したことを示す、非常に重要な動きです 13。
この改編で特に注目すべきは、二つの新しい組織の新設です。一つは、DX推進本部の傘下に設置された「DX新規事業推進室」です 14。この組織は、その名の通り、DXやITに関連した新規事業を専門に担うことを目的としています 14。これは、これまで蓄積してきたデジタル技術やデータ活用のノウハウを、社内の業務効率化だけでなく、直接的に収益を生み出す新たなビジネスとして結実させようという明確な意志の表れです。
もう一つは、ヘルスケア戦略本部の傘下に新設された「デジタルマーケティング推進室」です 14。この組織の役割は、マーケティング戦略の立案と推進において、デジタル活用をより体系的に進めることです 14。これは、個別のデジタル施策を場当たり的に行うのではなく、顧客とのあらゆる接点においてデータを活用し、一貫性のある質の高いコミュニケーションを戦略的に構築しようとする動きです。
この2025年の組織改編は、塩野義製薬のDXが成熟の段階に入ったことを示唆しています。2021年のDX推進本部とデータサイエンス部の設立が、DXを推進するための専門的な能力、いわば「筋肉」を構築する「能力構築フェーズ」であったとすれば、2025年の新組織設立は、その筋肉を使って具体的な価値、すなわち収益や市場でのインパクトを創出する「価値獲得フェーズ」への移行を意味します。これは、DXを一過性のプロジェクトとして終わらせず、事業の根幹に深く、そして恒久的に組み込んでいこうとする、長期的かつ洗練されたロードマップの存在を物語っています。ビジョンを組織に落とし込み、そしてその組織を事業の成長に合わせて進化させていく。このダイナミズムこそが、塩野義製薬の変革を支える組織的な強さの源泉なのです。
ビジョンを現実に変える実行力 — DXアクションの具体的事例
ビジョンを掲げ、組織を整えるだけでは十分ではありません。変革の成否は、具体的な行動と、それによって生み出される目に見える成果にかかっています。塩野義製薬は、壮大なビジョンを着実に現実のものとするため、数々の具体的なDXアクションを実行に移してきました。ここでは、その中でも特に象徴的で、同社の実行力を示す三つの事例を深く掘り下げていきます。
創薬の常識を覆す — 「人工知能解析プログラマ」の衝撃
医薬品開発は、10年以上の歳月と莫大な費用を要する、長く険しい道のりです。その中でも、新薬の有効性と安全性を証明する臨床試験から得られる膨大なデータを解析するプロセスは、極めて専門的な知識を必要とし、開発全体のボトルネックの一つとなっていました 16。従来、この作業は、統計解析の専門家が、事前に作成された解析設計書を一つひとつ読み解き、手作業で膨大な量のプログラムを作成するという、多大な時間と労力を要するものでした。また、人間が介在する以上、ヒューマンエラーのリスクも常に付きまといます 16。
この根深く、そして重要な課題に対し、塩野義製薬のデータサイエンス部は、アナリティクス分野のリーディングカンパニーであるSAS Institute Japanとの協業を通じて、画期的な解決策を生み出しました。それが、「人工知能解析プログラマ」システムです 16。
このシステムの仕組みは、過去に蓄積された膨大なデータをAIに学習させることにあります。具体的には、過去の臨床試験で作成された解析設計書、実際に使われたプログラム、その実行ログ、そして最終的に出力された結果といった、多種多様な形式の情報をAIに読み込ませるのです 16。これによりAIは、どのような設計書に対して、どのようなプログラムを作成すればよいのかというパターンを学習します。その結果、新たな臨床試験の解析用プログラムを準自動で作成することが可能になりました 16。
このシステムの導入がもたらした成果は目覚ましいものでした。ヒューマンエラーのリスクを低減させただけでなく、臨床試験1回あたりの標準的な解析作業時間を、約30%も削減することに成功したのです 16。そして驚くべきことに、このシステムは単なる実験的な試みに留まらず、既に実際の業務プロセスに深く組み込まれ、日常的に活用されています 16。
この「人工知能解析プログラマ」の事例は、DXを成功に導くための極めて重要な示唆に富んでいます。大規模な変革に対する社内の支持を得るためには、初期段階での目に見える成功体験が不可欠です。塩野義製薬は、全社的なデジタル化といった曖昧な目標ではなく、研究開発部門の誰もがその大変さを理解している、具体的で痛みを伴う課題をターゲットにしました 17。そして、「作業時間30%削減」という、誰もが納得できる定量的で具体的な成果を叩き出したのです 16。この成功は、DX推進本部の能力を社内に証明し、懐疑的な人々を沈黙させ、DXというアジェンダに対する信頼と協力を勝ち取るための、極めて強力な社内向けマーケティングとなりました。一つの成功が、次なるより大きな挑戦への支持とリソースを生み出す。この好循環を作り出したことこそ、このプロジェクトの最大の戦略的価値と言えるでしょう。
全社の力を引き出す土台作り — データ基盤整備と人材育成
華々しいAIプロジェクトも、その根底を支える良質なデータと、それを使いこなす人材がいなければ、まさに宝の持ち腐れとなってしまいます。塩野義製薬は、DXの真の価値は、一部の専門家だけでなく、組織全体がデータを活用できるようになった時に初めて発揮されることを深く理解しています。そのため、一見地味ではありますが、変革の成否を左右する最も重要な土台作り、すなわちデータ基盤の整備と全社的な人材育成に、地道かつ継続的に力を注いでいます。
その中核をなすのが、「Central Data Management(CDM)構想」と呼ばれる全社的なデータ活用戦略です 11。多くの大企業がそうであるように、塩野義製薬もかつては研究、開発、生産、営業といった各部門がそれぞれ独自のシステムを持ち、データが組織の壁によって分断される「サイロ化」という課題を抱えていました。CDM構想は、この壁を打ち破り、社内に散在するデータを一元的に集約、管理し、誰もが必要な時に安全かつ容易にアクセスできる環境を構築することを目的としています 19。具体的には、Data Hub(データハブ)とData Warehouse(データウェアハウス)を構築し、バリューチェーン全体を横断する形でデータを連携させ、その品質を高める取り組みを進めています 19。また、この基盤構築には、アマゾン ウェブ サービス(AWS)のようなスケーラブルなクラウド技術を積極的に活用し、変化に迅速に対応できる柔軟な環境を実現しています 20。
しかし、どれほど優れたデータインフラを整備しても、それを使う「人」が育っていなければ意味がありません。塩野義製薬のDX戦略が優れているのは、この技術への投資と人への投資を、常に両輪として捉えている点です。データサイエンティストやデータエンジニアといった高度な専門人材の採用・育成に力を入れるのはもちろんのこと、全ての社員のデータリテラシー、すなわちデータを読み解き、活用する能力の底上げに全社を挙げて取り組んでいます 10。
その象徴的な取り組みが、「SHIONOGI DATA SCIENCE FES」です 10。これは、元々2017年からグループ社員向けに開催されてきたデータサイエンスに関する社内イベントでした。その目的は、データリテラシーの向上はもちろんのこと、部署の垣根を越えた協創や新たな価値創造を促進することにありました 10。そして特筆すべきは、2023年からはこのイベントを社外にも公開し始めたことです 10。これは、自社の知見をオープンに共有することで、社内だけでなく、業界全体のレベルアップに貢献しようという、非常に先進的な姿勢の表れです。このイベントは年々規模を拡大し、2024年の開催時には約1,100名が参加するほどの注目を集めています 22。
多くの企業が最新の分析ツールを導入しながらも、その活用に苦しむのは、データ基盤の不備と人材育成の不足という二つの壁に突き当たることが原因です。塩野義製薬の戦略は、この二つの課題に真正面から取り組む、極めて全方位的なアプローチです。CDM構想によって「質の高いデータ」を確保し、DATA SCIENCE FESに代表される人材育成施策によって「データを使いこなせる文化」を醸成する。この堅実な両面作戦こそが、一部の専門家によるトップダウンの分析に留まらない、全社員が自律的にデータを活用する真のデータ駆動型企業への変革を支える、確かな土台となっているのです。
自前主義からの脱却 — オープンイノベーションによる成長加速
HaaS企業への変革という壮大な目標を、自社だけの力で達成しようとすることは非現実的です。現代の複雑で変化の速いヘルスケアの世界では、必要な技術や知識、リソースを全て自社で賄う「自前主義」は、もはや成長の足かせとなりかねません。塩野義製薬のDX戦略が際立っているもう一つの理由は、その現実を直視し、外部の優れたパートナーの力を最大限に活用する「オープンイノベーション」を積極的に推進している点にあります。これは、自社だけでは成し得ないスピードとスケールで変革を加速させるための、極めて戦略的な選択です。
その代表例が、株式会社日立製作所との戦略的パートナーシップです。この協業関係は、段階的に深化してきた点に特徴があります。最初のステップは2021年10月、塩野義製薬が自社のITシステムの運用・保守といった業務を日立グループに委託することから始まりました 25。これは、定型的なIT業務を信頼できるパートナーに任せることで、自社のDX推進本部のリソースを、より戦略的な企画立案や新たなソリューションの創出といった付加価値の高い業務に集中させるための、賢明な判断でした。
そしてこの関係は、2025年1月、新たなステージへと進化します。両社は、データと生成AIを活用して、医薬品・ヘルスケア業界全体に向けた革新的なサービスを共同で創出するための、より踏み込んだ業務提携に合意したのです 25。この新たな提携は、三つの大きな柱から構成されています。第一に、業界全体の課題であるデータのサイロ化を解決するための、高度なマスターデータマネジメント(MDM)システムの共同開発と普及。第二に、日立のAI技術と塩野義製薬の「人工知能解析プログラマ」開発のノウハウを融合させた、業務効率化ソリューションの開発。そして第三に、PHR(Personal Health Record)と呼ばれる個人の健康記録を活用し、企業の健康経営を支援するサービスの開発です 25。これは、単なる技術協力に留まらず、両社の強みを持ち寄り、業界全体の変革をリードするエコシステムを構築しようという壮大な試みです。
オープンイノベーションのもう一つの重要な側面は、スタートアップ企業との連携です。塩野義製薬は、HaaSビジョンの実現に不可欠な新しいサービス領域を開拓するため、米国のAkili社のような先進的なスタートアップと積極的に提携しています 29。Akili社は、デジタルセラピューティクス(DTx)と呼ばれる、ソフトウェアやアプリを用いた新しい治療法の開発を手掛ける企業です。塩野義製薬は、同社が開発した小児の注意欠如・多動症(ADHD)患者向けのゲーム形式の治療用アプリ(米国製品名:EndeavorRx)の日本および台湾における独占的な開発・販売権を獲得しました 29。そして、日本での臨床試験を経て、この治療用アプリ「SDT-001」の製造販売承認を申請するに至っています 33。これは、従来の医薬品の枠を超えた新しい治療選択肢を患者さんに届けるという、HaaSの理念を具体化する象徴的な取り組みです。近年、契約内容の修正が行われるなど、フロンティア領域での協業のダイナミズムも見られますが 34、こうしたリスクを取りながらも新しい価値創造に挑戦する姿勢こそが、同社の特徴です。
塩野義製薬のオープンイノベーション戦略は、単に外部から技術を購入するだけの関係ではありません。日立製作所のような巨大テクノロジー企業とは業界の基盤を共に創り、Akili社のような俊敏なスタートアップとは新しい市場を共に開拓する。このように、パートナーの特性に応じて連携の形を変えながら、自社を核とした「協創」のエコシステムを築き上げています。この戦略こそが、HaaSという遠大な目標への道のりを着実に、そして力強く加速させているんですね。
塩野義製薬の挑戦から私たちが得るべき教訓
これまで塩野義製薬のDX推進活動を多角的に分析してきましたが、その挑戦の軌跡を振り返ると、業界を問わず、変革を目指すすべての組織にとって貴重な教訓が浮かび上がってきます。ここでは、その成功の要諦を、私たちが明日からの行動に活かすことのできる五つの原則として整理し、提示します。
第一の教訓は、「明確な北極星、すなわちビジョンの存在」です。塩野義製薬の全ての活動は、「HaaS企業への変革」という、経営トップが強い意志を持って掲げた壮大かつ明快なビジョンに導かれています 5。このビジョンは、なぜ今、大規模な変革が必要なのかという根源的な問いに対する説得力のある答えを全社員に与えました。それにより、組織全体のベクトルが一つに揃い、DX推進という困難な道のりにおいて、強力な追い風として機能したのです。
第二に、「戦略と実行を担う専門組織の確立」が挙げられます。ビジョンを実現するためには、それを具体的な計画に落とし込み、強力に実行するエンジンが必要です。塩野義製薬では、社長直轄の「DX推進本部」と、その中核をなす「データサイエンス部」がその役割を担いました 10。これらの組織は、単なるITサポート部門ではなく、事業創造に直接貢献する戦略部隊として明確に位置づけられ、全社の変革をリードする権限と責任を与えられました。
第三の原則は、「具体的な成果の積み重ねによる信頼の獲得」です。変革には、しばしば抵抗が伴います。その抵抗を乗り越え、協力者を増やしていくためには、目に見える成果を早期に示すことが極めて重要です。「人工知能解析プログラマ」の事例が示すように、現場が抱える具体的な課題を解決し、作業時間30%削減といった定量的な成果を出すことで、DXに対する社内の信頼と期待を醸成しました 16。小さな成功を積み重ねることが、やがて大きな変革を成し遂げるための確かな礎となるのです。
第四に、「『データ』と『人』という基盤への地道な投資」を忘れてはなりません。塩野義製薬は、最新技術の導入という華やかな側面だけでなく、その土台となるデータインフラの整備、すなわちCentral Data Management構想を着実に推進しました 11。同時に、それを使いこなす「人」の育成にも全社的に取り組み、「SHIONOGI DATA SCIENCE FES」などを通じて、組織全体のデータリテラシー向上を図りました 10。技術と文化の両面への地道な投資こそが、持続可能な変革を実現する上で不可欠です。
そして第五の教訓は、「自前主義からの脱却と協創の精神」です。同社は、自社だけですべてを成し遂げようとはしませんでした。日立製作所、SAS Institute Japan、そしてAkili社のようなスタートアップなど、外部のパートナーが持つ優れた技術や知見を積極的に取り入れ、「協創」という形で共に価値を創り出す道を選びました 18。このオープンな姿勢が、自社だけでは決して実現し得ないスピードとスケールでの変革を可能にしたのです。
これらの五つの原則、すなわち「ビジョン」「組織」「実行」「基盤」「文化」は、互いに密接に連携し、一つのシステムとして機能しています。塩野義製薬のDXが成功している理由は、これらの要素の一つひとつを丁寧にかつ統合的にマネジメントしている点にあります。この体系的なアプローチこそ、私たちが同社の挑戦から学ぶべき最も重要なエッセンスと言えるでしょう。
おわりに
本記事を通じて、塩野義製薬がDXを駆使して、いかにして自らを再定義しようとしているか、その壮大な挑戦の軌跡を追ってきました。同社の物語は、単に一つの製薬企業の変革事例に留まるものではありません。それは、成熟した産業に属する日本の企業が、デジタル時代の中でいかにして新たな価値を創造し、成長を続けていくことができるかを示す、一つの力強いモデルケースです。
塩野義製薬の旅路は、まだ目的地に到着したわけではありません。HaaS企業への変革は、今も続く壮大なプロセスです。しかし、その歩みは、明確なビジョンと揺るぎない戦略、そしてそれを着実に実行する組織と文化があれば、企業はこれほどまでに大きく変わることができるのだという、希望に満ちた証明でもあります。
DXの推進は、決して平坦な道のりではありません。技術的な課題、組織的な抵抗、そして文化的な変革の難しさなど、数多くの障壁が待ち受けています。しかし、塩野義製薬の事例は、私たちに重要な示唆を与えてくれます。それは、完璧な計画を待つのではなく、まず自社が置かれている状況と向き合い、進むべき方向を定め、そしてたとえ小さな一歩であっても、着実に前に進み始めることの重要性です。
この記事が、皆さまがそれぞれの立場で直面している課題を乗り越え、自らの組織の変革を推進していく上での、ささやかながらも確かなきっかけとなることを心から願っています。塩野義製薬の挑戦から得た学びを羅針盤として、未来を創るための次なる一歩を踏み出していきましょう。
引用文献
- 2025年現在の日本医薬業界の実情と展望 - Socratic Inc. Website -, 2025年現在の日本医薬業界の実情と展望 - Socratic Inc. Website
- 日本市場における製薬業界のデジタル化と未来 2025年の崖を克服するには | Veeva Japan, https://www.veeva.com/jp/veevablog/digitalization-and-the-future-of-the-pharmaceutical-industry-in-the-japanese-market/
- 製薬業界のM&A動向(2025年)メリットデメリット/事例/成功のポイントを解説 - CINC Capital, https://cinc-capital.co.jp/column/industry/ma-pharmaceutical
- 【3分でわかる】医薬品業界 2025 完全ガイド - note, https://note.com/hiradairaheipei/n/n8741febfec95
- 塩野義製薬 中計に掲げた「HaaS企業」実現へ組織改編 医薬事業本部は人員維持して7営業部を5営業部に - ミクスOnline, https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=73080
- HaaSとは?製薬企業に広まる新しい価値提供のかたち | Medinew [メディニュー], https://www.medinew.jp/articles/marketing/trend/haas-concept
- 中期経営計画 STS2030 Revision(2023~2030年度)|経営戦略 ..., https://www.shionogi.com/jp/ja/company/strategy/sts2030.html
- 塩野義製薬が「HaaS」企業への変革で重視する“外部パートナーとの協創” 下準備としてID管理に着手 - エンタープライズジン, https://enterprisezine.jp/article/detail/19341
- 中期経営計画 「SHIONOGI Transformation Strategy 2030(STS2030)」 Revision, https://www.shionogi.com/content/dam/shionogi/jp/investors/ir-library/presentation-materials/fy2023/STS%20Revision_final2.pdf
- 塩野義製薬 データサイエンス部, https://shionogicoltd.github.io/shionogi-data-science-dept-site/
- 塩野義製薬が取り組む「データサイエンス人材」の育成戦略 - 日本の人事部, https://jinjibu.jp/hrt/article/detl/techactivities/3431/
- データサイエンス職| 塩野義製薬 - Shionogi, https://www.shionogi.com/jp/ja/recruit/jobs/data-science.html
- 組織改編・新設と人事異動(4月1日付) 塩野義製薬 | 医薬通信社, 組織改編・新設と人事異動(4月1日付) 塩野義製薬 | 医薬通信社
- 組織改編・新設と人事異動について(2025年4月1日付)| 塩野義製薬, https://www.shionogi.com/jp/ja/news/2025/02/20250226.html
- 組織改編・新設と人事異動について(2025 年 4 月 1 日付) - Shionogi, https://www.shionogi.com/content/dam/shionogi/jp/news/pdf/2025/2%E6%9C%88/J_20250226.pdf
- SASと医薬品業界DX推進に向けたデータ解析コンサルティングサービス開始 塩野義製薬, SASと医薬品業界DX推進に向けたデータ解析コンサルティングサービス開始 塩野義製薬 | 医薬通信社
- AIの革新で加速する創薬の未来 - SAS, https://www.sas.com/ja_jp/customers/shionogi.html
- 塩野義製薬、臨床試験の解析資料作成を人工知能技術で準自動化 ..., https://enterprisezine.jp/article/detail/17216
- 【10月ユーザー会】 塩野義製薬株式会社様による登壇レポート記事 - kintoneapp BLOG, https://toyokumo-blog.kintoneapp.com/toyokumo-night1011-speaker1-t/
- AWS 導入事例:塩野義製薬株式会社, https://aws.amazon.com/jp/solutions/case-studies/shionogi/
- SHIONOGI DATA SCIENCE FES 2023 データサイエンスとのコラボが生み出す新しい価値 ーやりたいが繋が, https://www.shionogi.com/content/dam/shionogi/jp/news/pdf/2023/5%E6%9C%88/230530_DSFES%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88_%E5%89%8D%E5%8D%8A.pdf
- 塩野義製薬に学ぶ、売上シミュレーションによる営業活動の最適化事例 | Medinew [メディニュー], https://www.medinew.jp/seminars/reports/shionogi2024-salesforecast
- 塩野義製薬のデータサイエンス戦略と実践 データ駆動で目指すヘルスケアの未来 (1/3), https://enterprisezine.jp/article/detail/19340
- 塩野義製薬株式会社のデータサイエンス部が主催するオンラインセミナーです。 - Shionogi, 塩野義製薬株式会社のデータサイエンス部が主催するオンラインセミナーです。
- 塩野義製薬と日立、データと生成AIなどを活用した 革新的な医薬品・ヘルスケア業界向けサービス創出に向けた業務提携を開始 - Shionogi, https://www.shionogi.com/jp/ja/news/2025/01/20250122-3.html
- 塩野義製薬と日立製作所が提携 データ・生成AIなど活用し医薬品・ヘルスケア業界向けサービスを創る - エンタープライズジン, https://enterprisezine.jp/news/detail/21282
- 塩野義製薬と日立、データと生成AIを活用し、医薬品・ヘルスケア業界向けDXサービス創出に向け業務提携 | Biz/Zine, https://bizzine.jp/article/detail/11213
- 塩野義製薬 日立製作所と業務提携 データや生成AI活用で革新的新薬やヘルスケア業界向けサービス創出へ - ミクスOnline, https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=77761
- デジタル治療用アプリ AKL-T01、AKL-T02 の導入 ... - Shionogi, https://www.shionogi.com/content/dam/shionogi/jp/news/pdf/2019/1903072.pdf
- Akiliが塩野義製薬とのライセンス契約を締結 - 株式会社 DG ベンチャーズ, Akiliが塩野義製薬とのライセンス契約を締結 - 株式会社 DG ベンチャーズ
- 「デジタルヘルス」に求められる知財・特許戦略のポイントと注意, https://amp.tech-seminar.jp/43233
- デジタル治療用アプリ FDAがADHD改善で承認 塩野義製薬 - 医薬通信社, デジタル治療用アプリ FDAがADHD改善で承認 塩野義製薬 | 医薬通信社
- 日本初のADHDデジタル治療アプリ、塩野義製薬が承認申請 - 知財図鑑, https://chizaizukan.com/news/1KnUlljSSnCemVhDN66iqB/
- 500万ドルの長期債務を取り消して免除し、SDT-001(米国ではEndeavorRxとして販売されているAkiliのAKL-T01デジタルトリートメントの日本語ローカライズ版)に対して一定の支払いを行うことに合意しました。 - ウィブル証券, https://www.webull.co.jp/news-detail/10667469187695616