世界の製薬業界が頭を悩ませているテーマがあります。それは、アメリカが打ち出す新たな関税政策の行方です。特に中国を主なターゲットとした一連の制裁関税が再び強化されるとの観測は、ただでさえ複雑なサプライチェーン(部品の調達から製品が消費者に届くまでの流れ)を抱える製薬業界にとって、決して対岸の火事ではありません。
中間製品や完成品の価格が上がり、原材料の調達コストも膨らむ…そんな事態は、企業の経営に大きな影響を与えかねません。グローバルな物流網の再構築といった大きな課題も突きつけられる可能性があります。
この記事では、世界の主要製薬企業10社に注目。各社がこの関税問題をどのように受け止め、何を語り、そして未来に向けてどのような手を打とうとしているのか、その本音に迫ります。
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日本企業は多くが「沈黙」 アステラス製薬が一歩踏み出す
まず、日本の大手製薬企業5社(武田薬品工業、大塚ホールディングス、第一三共、エーザイ、アステラス製薬)の動向を見てみましょう。この中で、アメリカの関税がもたらす影響について、はっきりと口にしたのはアステラス製薬だけでした。
アステラス製薬は、2025年度の業績予想について「先行きが不透明な外部環境の変化なども考慮して、本業の儲けを示すコア営業利益の目標値を設定した」と説明。その不確定要素の中に「関税リスク」も含まれていることを認めました。ただし、具体的な金額への影響については、「大まかな試算は織り込んだものの、非常に流動的」として、詳細な数字の公表は見送っています。
これは非常に興味深い動きと言えるでしょう。なぜなら、武田薬品工業、大塚ホールディングス、第一三共、エーザイの他の4社は、このタイミングで関税問題について一切言及していないからです。このことから、多くの日本企業は、現時点では関税リスクを公の場で議論する段階には至っていない、あるいは、あえて触れないという戦略を選んでいる可能性がうかがえます。
見方を変えれば、アメリカ国内に製造拠点が少ない、あるいは日本国内での生産に大きく依存しているといった事業構造が、関税の影響を直接的に受けにくい要因になっているのかもしれません。しかし、その構造自体が、いつかリスクに変わるかもしれない…そんな時代が近づいていることは、心に留めておく必要がありそうです。
海外勢のリアルな反応:備える企業、見極める企業
一方、海外の製薬大手――ファイザー、ジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)、ノバルティス、ロシュ、サノフィ――に目を向けると、関税問題への対応の温度差がはっきりと現れ始めています。ロイター通信も2025年5月6日付の記事で、製薬会社が関税を避けるためにアメリカへの医薬品輸入を3月に急増させたと報じており、業界全体の関心の高さがうかがえます。
具体的な金額を示したJ&Jの危機感
最も具体的に関税の影響額を示したのは、ジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)です。同社のCFO(最高財務責任者)は、2025年度の業績見通しに約4億ドル(日本円でおよそ600億円規模)もの関税負担を織り込んでいると発表しました。特に医療機器部門での負担が大きいとされていますが、それでも製品価格への転嫁は避け、自社内でのコスト吸収を目指す方針です。CEO(最高経営責任者)は「関税がサプライチェーンに深刻な混乱を引き起こす可能性がある」とも述べており、かなり慎重な姿勢を示しています。
ファイザーの柔軟な構えと「備え」
これに対し、ファイザーはやや柔軟な姿勢を見せています。同社のCEOは、「我々はできる限りの準備を進めている。在庫を積み増すことで、短期的な関税リスクには対応できる」と語りました。ただし、将来的にアメリカの通商政策がどのように変化するかは見通せないとして、2025年の業績ガイダンス(企業が公表する業績予想)には、関税の影響を明確には盛り込んでいないとしています。
ここには、「備えはするものの、影響を明言することは避ける」という、一種のリスク管理としてのしたたかな戦略が垣間見えます。実際、製薬業界では、製品価格への転嫁よりも、在庫戦略の見直しや物流網の再設計を優先する傾向があると言われています。
スイス勢の冷静な対応:ノバルティスとロシュ
スイスを拠点とするノバルティスとロシュは、また少し異なる視点から関税問題に対処しようとしています。BioSpaceの記事も、ロシュがトランプ前大統領時代の関税を乗り切る上で「非常に良いポジション」にいるものの、M&A(企業の合併・買収)には影響が出る可能性を指摘しています。
ノバルティス:「影響は管理可能」
ノバルティスは、アメリカ国内での製造拠点の拡充を進めています。同社のCEOは「関税の影響はコントロール可能であり、過度に心配する必要はない」と語っており、すでに対策は打っており、大きな懸念はないというスタンスです。
ロシュ:「影響は限定的」だがM&Aには懸念
一方、ロシュのCEOは、「関税の影響を受ける製品はごくわずかであり、そのほとんどがアメリカ国内での製造でカバーできている」と自信を見せました。ただし、M&Aに関しては、「関税の先行きが不透明だと、投資判断が難しくなる」と述べ、取引コストの増加やリスクを警戒している様子もうかがえます。
両社に共通しているのは、アメリカ国内に自前の製造能力を持っていることを背景に、比較的冷静なトーンを保っている点です。
サノフィの慎重な予防線
最後に紹介するフランスのサノフィは、関税に関する直接的なコメントは慎重に避けつつも、「起こりうるシナリオは分析済みであり、現時点では業績ガイダンスの範囲内に収まっている」と述べています。Investing.comが報じた同社の2024年第4四半期の決算説明会でも、CFOは関税について「コメントは難しい」としながらも、すでにアメリカ国内での製造比率が高い体制を整えていることを強調。将来的なリスクについては、段階的な価格調整や生産拠点の見直しを通じて対応していく姿勢をにじませています。
製薬業界の今後は? 静かなる備えと、声には出さない対応
今回の調査を通して見えてきたのは、「公に言及していないからといって、備えていないわけではない」という事実です。むしろ、多くの企業が水面下で、在庫の積み増し、製造拠点の再編、アメリカへの投資拡大といった形で、着実に対策を進めていると考えられます。
その一方で、日本企業の姿勢は、やや受け身に映るかもしれません。関税という外部からの変化に対して、どれだけの対応力を持っているのか、あるいは既存のビジネスモデルの柔軟性をどう活かしていくのか――その真価が問われる局面と言えるでしょう。
いずれにしても、世界の政治や通商環境の不確実性が高まる中で、「関税」というキーワードが、今後ますます企業の経営戦略の中心的な課題となっていくことは間違いありません。製薬業界は、これまでのように「静かなる物流の支配者」としての立場を維持し続けるのか、それとも政治経済の荒波に揉まれながら、地政学的な変化にも対応できる新たなプレーヤーへと進化していくのか。その動向から、今後も目が離せません。