ビジネス全般

短期利益の追求が新薬を殺す。製薬企業の抱えるジレンマ

2025年8月19日

製薬企業が担う使命は、本来、非常に長期的で崇高なものです。それは、一つの新薬を世に送り出すために10年以上の歳月と莫大な費用を投じ、病に苦しむ人々のために革新的な治療法を追求することにあります。しかし、この長く険しい研究開発の道のりは、現代の資本市場が企業に求める要求と、しばしば根本的な矛盾を抱えることになります。資本市場は、四半期ごとという短い時間軸で、目に見える形で着実な成果、すなわち株主への利益還元を求めるからです。

この中心に存在する二つの重要な指標が、株主総利回り、いわゆるTSRと、一株当たり利益、すなわちEPSです。TSRは、株価の上昇による利益と配当金を合わせた総合的な投資リターンを示すため、投資家にとっては企業価値を測る究極の尺度と見なされています 1。そして、そのTSRを押し上げるための強力な駆動力となるのがEPSです。EPSが順調に伸びていれば、市場はその企業を成長力のある健全な企業と評価し、結果として株価が上昇しやすくなります。このため、企業の経営陣は、投資家の期待に応え、株価を向上させるためにEPSの最大化に多大な努力を払うことになるわけです 2

これらの指標が、企業の経営状態を測るための重要な道具であることは間違いありません。しかし、その数値を追い求めることが経営の自己目的化してしまうと、事態は一変します。特に「EPS至上主義」とも呼べるような風潮が強まると、経営判断に深刻な歪みが生じかねません。つまり、企業の本来の目的であるはずの、長期的な視点に立った研究開発投資や、それを通じて患者へ新たな価値を提供するという使命が後回しにされ、短期的な財務数値を良く見せるための施策が優先されてしまうのです。

この問題の根底には、手段と目的の倒錯があります。本来、EPSやTSRといった指標は、企業が革新的な医薬品を創出し、社会に貢献するという目的をどれだけうまく達成し、それを経済的な成功に結びつけているかを測るための「手段」であるはずでした。しかし、経営者の報酬や市場からの評価が、この指標そのものに過度に、そして直接的に連動するようになると、経営陣のインセンティブは変化します 3。長期的な視点で困難な研究開発に取り組むよりも、自社株買いのような財務的な手法で直接EPSの数値を操作する方が、手っ取り早く、かつ合理的な選択に見えてしまうのです。結果として、目的を測るための代理指標であったはずのEPSが、経営における最終的な「目的」そのものへとすり替わってしまいます。

本記事の概要

  • EPS至上主義が製薬企業の経営をいかに歪め、その代償として何が支払われているのかを深く掘り下げていきます。
  • 財務指標をめぐるメカニズムの分析から始め、グローバルおよび日本の主要な製薬企業が直面する具体的な事例を検証し、この風潮がもたらすイノベーションへの真の代償を明らかにします。
  • 企業が本来の指針を取り戻し、持続的な成長を遂げるための道筋を探ります。

短期志向を煽るメカニズム ― 財務工学と経営者報酬の関係

なぜ製薬企業の経営は、かくも短期的な視点に陥りやすいのでしょうか。その背景には、資本市場の期待に即効的に応えるための「財務工学」の魅力と、経営者自身の利害を短期業績に直結させる「役員報酬制度」という、二つの強力なメカニズムが存在します。これらは互いに影響し合い、企業の目を長期的な価値創造から逸らさせてしまう共犯関係にあるのです。

財務工学 ― 自社株買いという即効薬

経営陣が短期的にEPSを向上させたいと考えたとき、最も魅力的で手軽な手段の一つが自社株買いです。自社株買いとは、企業が自社の発行済み株式を市場から買い戻す行為を指します。これにより、市場に流通する株式の総数が減少するため、たとえ企業全体の純利益が変わらなくても、一株当たりの利益、すなわちEPSは計算上、自動的に上昇します。これは、経営陣にとって、業績が伸び悩んでいる時期でさえ「目標数値を達成した」と市場にアピールできる、非常に便利な道具となります。

この手法が、単なる理論上の選択肢ではなく、製薬業界でいかに大規模に行われてきたかは、具体的なデータが雄弁に物語っています。ある学術的な調査によれば、米国のS&P500指数を構成する主要な製薬企業18社は、2009年から2018年までの10年間で、合計3,350億ドルもの巨額の資金を自社株買いに投じていました。驚くべきことに、この金額は、同期間にこれらの企業が将来の成長のために費やした研究開発費(R&D)の総額5,440億ドルを上回るわけではないものの、その1.14倍にも相当する株主還元(自社株買いと配当の合計)が行われていたのです 5。別の研究でも、1999年から2018年にかけて、世界の製薬大手15社の多くが、研究開発費よりも多くの資金を自社株買いと配当に費やしていたことが示されています 6

もちろん、株主へ利益を還元すること自体は、企業の重要な責務の一つです。しかし、問題はそのバランスと機会費用にあります。自社株買いに投じられた莫大な資金は、本来であれば、次世代の画期的な医薬品を生み出すための研究開発に再投資される可能性があった資本です。経営陣が短期的な株価上昇やEPS達成という成果を優先するあまり、不確実で時間はかかるものの、将来大きな価値を生むかもしれない研究開発への投資機会を逸しているとすれば、それは企業にとっても社会にとっても大きな損失と言えるでしょう。

経営者報酬という鎖

経営判断をさらに短期志向へと傾けるもう一つの強力な要因が、経営トップの報酬体系です。多くの製薬企業では、役員報酬が年度ごとの業績目標や、株価、TSRといった市場指標の達成度と密接に連動する仕組みを導入しています。例えば、日本の大手であるアステラス製薬では、年次の業績目標達成度に応じた賞与に加え、3年間のTSR成長率を評価する株式報酬プランが採用されています。これは、株価が低迷すれば経営陣の報酬に直接的な打撃が及ぶことを意味しており、経営陣自身が「株主期待に応えられていない」と公言するほど、株主価値の向上が強烈なプレッシャーとなっています。

このように、自らの報酬がEPSや株価と強く結びついていると、経営者はごく自然に、それらの数値を短期的に改善する施策へと傾倒しやすくなります。ある経営コンサルティングの報告によれば、多くの経営者は、配当を増やすよりも自社株買いの方がEPSを手っ取り早く押し上げ、株価にも即効性があると信じているため、自社株買いを好む傾向が強いとされています。この背景には、まさに「EPS至上主義」と呼ぶべき思考様式があり、EPSの成長に連動してストックオプションなどの役員報酬が増加する構造が、その行動を後押ししているのです 4

この報酬体系がもたらす最も深刻な問題は、それが企業の本来の目的、すなわち患者中心のイノベーションや持続的な成長といった長期的目標と衝突する可能性がある点です。経営陣が四半期ごとの目標達成に追われるあまり、成功すれば画期的だが失敗のリスクも高い創薬プロジェクトを「短期的な採算が合わない」という理由で中止したり、すぐには利益に結びつかない基礎研究への投資を敬遠したりするようになれば、それは企業の未来の成長の種を自ら摘み取っていることに他なりません。学術的な研究においても、経営者の報酬契約期間が短いほど、短期的な利益をかさ上げするような会計処理を行う傾向が強まることが示唆されています 9

さらに、この短期志向の問題は、単に経営陣の個人的なインセンティブに起因するだけではありません。それは市場全体の構造的な課題とも言えます。ある経済モデルが示すように、短期主義は「自己実現的な予言」として機能する可能性があります 3

まず、投資家が「あの企業は短期的な利益を重視するだろう」と予想すると、彼らはその企業の長期的な価値ではなく、短期的な業績に関する情報収集に力を入れるようになります。長期プロジェクトに投資するつもりがない企業の未来を分析しても意味がないからです。次に、この市場の動きは企業側にフィードバックされます。株価が短期的な情報しか反映しなくなると、取締役会は株価連動報酬を使って経営者に長期的な投資を促すことが困難になります。その結果、企業は市場が注目し、評価してくれる短期的なプロジェクトに資源を集中せざるを得なくなります。これが、市場が最初に抱いた「短期志向だろう」という予想を、結果的に裏付けることになるのです。

この悪循環は、企業が長期的な投資から遠ざかり、市場が企業の将来性を見通す力を失うという、双方にとって不幸な均衡状態を生み出します。この連鎖を断ち切るには、企業側からの極めて強い長期志"へのコミットメントと、短期的な利益を追求する投資家から、企業の将来価値を信じる長期的な大株主へと、対話の相手をシフトさせていく努力が不可欠となるのです 3

グローバル製薬企業 ― 短期圧力との戦い

短期的な市場の圧力と、創薬という長期的な事業の現実との間で、世界の製薬大手はどのように舵取りを行っているのでしょうか。ここでは、三つのグローバル企業、ファイザー、メルク、そしてロシュを例にとり、それぞれが直面する課題と戦略を比較分析することで、IR指標への向き合い方が経営に与える影響の光と影を浮き彫りにします。

ファイザー:巨額利益の後の資本配分を巡る苦悩

ファイザーの事例は、短期的な株主の期待に応えようとする経営が、いかに迷走しかねないかを示す典型例と言えます。同社は、新型コロナウイルスのワクチンと治療薬によって歴史的な成功を収め、莫大なキャッシュを手にしました。しかし、その後の業績見通しが不透明になると株価は急落し、パンデミック以前の水準にまで戻ってしまいました。この状況に対し、アルバート・ブーラCEOは、将来の成長を確保するため、矢継ぎ早に大型のM&A(合併・買収)を敢行しました。その代表例が、2023年のがん治療薬メーカー、シージェンの430億ドルでの買収です。

しかし、市場の反応は冷ややかでした。2024年になると、著名なアクティビストファンド(物言う株主)であるスターボード・バリューが、ファイザーの株式を10億ドル相当取得し、経営への介入を開始しました 10。スターボードの主張の核心は、ファイザーの「資本配分の失敗」にありました。彼らは、ファイザーがコロナ禍で得た巨額の利益を、2022年以降で総額700億ドル近くにも上るM&Aに費やしたにもかかわらず、株価や業績が向上していない点を厳しく批判しました 11。スターボードによれば、これらの投資から期待されるリターンは業界平均を大きく下回るものであり、研究開発の失敗や甘い業績予測と相まって、経営陣は株主価値を毀損した責任を問われるべきだと主張したのです 10

ファイザーの経営陣は、コスト削減計画や事業の再編を進めていることを強調し、スターボードの主張には「大きく異なる見解」を持っていると反論しました 13。しかしこの一件は、企業が将来の成長不安という短期的な市場の圧力に応えようとして大型投資に踏み切っても、それが必ずしも評価されず、かえって経営の自由度を奪われかねないという厳しい現実を浮き彫りにしました。行動しなければ株主から突き上げられ、行動してもその成果がすぐに出なければ、また別の形で突き上げられるという、まさに「八方塞がり」のジレンマです。

メルク:特許の崖を乗り越えるための準備

一方、メルクは、より長期的な視点を持ちつつも、短期的な市場の懸念に巧みに対処しようとしています。同社の最大の経営課題は、売上高の4割以上を占めるメガヒット抗がん剤「キイトルーダ」が2028年に迎える特許切れ、いわゆる「パテントクリフ(特許の崖)」です 14。投資家は、この巨大な収益源が失われることへの不安を募らせています。

このプレッシャーに対し、ロバート・デービスCEOは、投資家に向けて「キイトルーダの特許切れは崖ではなく、丘のようなものだ」と語り、急激な売上減少ではないことをアピールしています 16。その自信の背景には、複数の周到な戦略があります。第一に、「プロダクトホッピング」と呼ばれる手法です。これは、既存の点滴製剤から、より利便性の高い皮下注射製剤へと患者を移行させる戦略です。この新しい製剤は新たな特許で保護されているため、2042年頃まで独占期間を延長できる可能性があり、後発医薬品(バイオシミラー)の参入による影響を和らげることができます 16

第二に、積極的なパイプライン強化です。メルクは、自社の研究開発に加え、有望な技術を持つ企業を次々と買収しています。例えば、呼吸器疾患領域を強化するために100億ドル規模でベローナ・ファーマを買収するなど、キイトルーダへの過度な依存から脱却し、収益源を多様化させるための布石を着実に打っています 14

メルクの戦略は、長期的な研究開発投資の重要性を理解しつつも、特許の崖という短期的なイベントがもたらす市場の不安をいかにマネジメントするか、という観点から非常に示唆に富んでいます。彼らは、将来の成長ストーリーを具体的に示すことで投資家を安心させ、同時に、特許戦略のような防御的な手法も駆使して、現在の収益基盤を守り抜こうとしているのです。これは、長期ビジョンと短期的な株主の期待を両立させようとする、したたかな経営手腕の表れと言えるでしょう。

ロシュ:長期主義という経営哲学

ファイザーやメルクとは対照的なアプローチを取るのが、スイスの製薬大手ロシュです。ロシュは、その一貫した「長期志向」の経営哲学で知られています。同社のウェブサイトには、「私たちは長期的な投資に焦点を当て、より大きなリスクを取り、世界中の人々の健康を改善する革新的な方法を探求します」と明記されています 18。この哲学は、具体的な数字にも表れています。ロシュは毎年、売上高の約20%前後という、業界でも突出して高い比率の資金を研究開発に投じ続けています。これは、短期的な利益よりも、将来の革新的な医薬品の創出を最優先する姿勢の証左です。

ロシュの経営が特徴的なのは、株主価値の最大化「だけ」を追求するのではなく、患者、医療関係者、従業員、社会といった全てのステークホルダーへの価値提供をバランス良く目指している点です。同社は、「全てのステークホルダーにとって価値を創造し、選択されるパートナーであり続けることにコミットしている」と宣言しており、投資家への競争力のあるリターンの提供も、この包括的な価値創造の一部として位置づけられています 18

この長期主義を支える背景の一つに、創業家一族が経営に強い影響力を持つという特殊な株主構成があります。これにより、四半期ごとの業績に一喜一憂することなく、長期的な視野に立った大胆な投資判断が比較的しやすい環境が整っていると言われています。その結果として、近年、5年間で500億ドルを米国の研究開発や製造拠点に投資するという大規模な計画を発表するなど、具体的な行動でその哲学を示しています 19

もちろん、そのロシュでさえ、近年の売上成長の鈍化や競合の台頭により株価が伸び悩む局面もあり、短期的な市場の圧力と無縁でいられるわけではありません。しかし、経営の根幹に「科学の進歩を追求し、患者に届ける」という揺るぎない目的を据えることで、市場の短期的な変動に過度にとらわれることなく、持続的なイノベーションへの投資を可能にしているのです。ロシュの事例は、企業の存在意義(パーパス)を明確に掲げることが、いかに長期的な競争力の源泉となりうるかを示唆しています。

日本企業のジレンマ ― グローバル化と効率化の狭間で

グローバルな競争環境が激化する中、日本の製薬企業もまた、株主からの期待という強い圧力にさらされています。特に近年、日本企業全体でROE(自己資本利益率)の向上や資本効率を重視する経営が求められるようになり、製薬各社も例外なく、EPSやTSRといったIR指標を強く意識した経営へとシフトしています。しかし、その過程で、各社の研究開発戦略や組織のあり方には、様々なジレンマや痛みが伴っています。

武田薬品工業:大型買収がもたらした光と影

武田薬品工業が2018年にアイルランドの製薬大手シャイアーを約6.8兆円という巨額で買収したことは、日本の製薬業界における画期的な出来事でした。この買収によって、武田薬品は一気に世界のトップ10製薬企業へと躍り出ましたが、その野心的な飛躍は、同時に巨大な代償を伴いました。買収の正当性を市場に示すため、経営陣は買収後の財務規律、特にコスト削減に対して極めて強いプレッシャーにさらされることになったのです。

武田薬品は、買収後3年以内に年間14億ドル以上のコストシナジー(相乗効果)を生み出すと公約しました。問題は、その削減計画の中に、年間6億ドルもの研究開発費の削減が含まれていたことです。これは、重複する開発パイプラインの整理や研究拠点の統合による効率化という名目でしたが、両社の合算研究開発費からこれほど巨額の費用を削るという決断は、将来のイノベーションの源泉を損ないかねない危険な賭けでした。

実際に、この統合プロセスにおいて、武田薬品は全従業員の6~7%に相当する人員の削減を発表し、そのうち約3分の1は研究開発部門の人員が対象となりました。この大胆なリストラは、巨額の有利子負債の返済や、買収によるEPSの希薄化を避けたいという短期的な財務目標を達成するためには必要な措置と判断されたのかもしれません 22。しかし、その裏側では、優秀な研究者の流出リスクや、組織の研究開発文化そのものが揺らぐという、目に見えない大きなコストが発生していた可能性があります。武田薬品の事例は、グローバル企業へと変貌を遂げる過程で、短期的な財務指標の維持と長期的な研究開発力の強化という二つの目標のバランスを取ることが、いかに困難であるかを生々しく示しています。

アステラス製薬:特許の崖への先を見越した備え

アステラス製薬は、主力製品である前立腺がん治療薬「イクスタンジ」の特許が数年後に満了するという、明確な経営課題に直面しています。同社は、この「パテントクリフ」が到来する前に、収益性の高い企業体質へと転換すべく、先手を打って全社的な構造改革に乗り出しました。それが「SMT(サステナブル・マージン・トランスフォーメーション)」と呼ばれる施策です。

SMTの目標は、2020年代半ばまでに1,200億から1,500億円規模の固定費を削減することであり、研究開発費を含む全部門のコスト構造を抜本的に見直すことを目指しています 24。株主総会では、投資家から「イクスタンジ後に規模縮小は避けられない。経営陣の報酬や従業員の給与・人員をもっと削減すべきではないか」といった厳しい声が上がるなど、市場からの効率化圧力は極めて強いものがあります。

もちろん、アステラス製薬はコスト削減一辺倒というわけではありません。2021年に策定された「経営計画2021」では、がん領域や遺伝子治療といった将来の成長が見込める分野への集中投資を明確に打ち出しています 27。しかし、その一方で、限られた経営資源を有望分野に振り向けるため、国内外の研究所の再編や、伝統的ではあるものの収益性が低いと判断された研究プログラムからの撤退といった、痛みを伴う決断も下してきました。これは、将来の特許切れという危機を見据え、業績が好調なうちに構造改革を断行することで、市場の信頼を維持し、株主が期待する高い利益率を確保しようとする戦略的な動きです。アステラス製薬の例は、短期的な業績が良いからといって安住するのではなく、将来のリスクを先読みして自ら変革を起こすことで、資本市場との対話を有利に進めようとする日本企業のしたたかな戦略を示しています。

第一三共:選択と集中の先に見出した光明

近年の第一三共は、抗体薬物複合体(ADC)と呼ばれる技術を用いた画期的な抗がん剤「エンハーツ」の大成功により、世界中から注目を集めています。この成功は、長期的な視点に立った研究開発投資が見事に結実した好例と言えるでしょう 29。しかし、同社もまた、過去には短期的な業績不振の圧力から、苦渋のリストラを迫られた経験を持っています。

2015年前後、第一三共はかつて買収したインドの後発医薬品メーカー、ランバクシー社の品質問題に起因する巨額の損失を被り、経営の立て直しが急務となりました。この経営危機を受け、同社は大規模な構造改革を断行します。その一環として、研究開発体制もグローバルに見直され、2016年には英国の研究所を、翌2017年にはインドのグルガオンにある研究開発センターを閉鎖するという決断を下しました。会社側は、この閉鎖の目的を「研究開発費用の削減と、有望なパイプラインへのリソース再配分」と説明しましたが、これは裏を返せば、経営不振時には研究開発部門が真っ先にコスト削減の対象とされたことを意味します。

この苦しい時期を経て、第一三共は経営資源を「がん」という領域に集中させる「選択と集中」の戦略へと大きく舵を切りました 31。そして、その戦略が見事にエンハーツのような画期的な成果へと結びついたのです。この物語は、一つのサクセスストーリーとして語られますが、その過程で、将来有望な新薬の種が眠っていたかもしれない研究所を閉鎖したという事実を忘れてはなりません。短期的な企業の生存のためには必要な判断だったかもしれませんが、もし閉鎖された研究所から別の新薬候補が生まれていた可能性を考えると、目先の利益やEPSを守るための決断が支払った代償は、決して小さくはなかったはずです。第一三共の復活劇は、短期的な圧力によって強いられた痛みを伴う改革が、結果として長期的な成功につながるという、皮肉でありながらも力強い教訓を示しています。

EPS至上主義が支払う真の代償

これまで見てきたように、EPSやTSRといったIR指標を過度に追求する経営は、企業の健全な成長を蝕む様々な副作用を伴います。その代償は、単なる機会損失にとどまらず、企業の根幹を揺るがし、最終的には全てのステークホルダーに不利益をもたらす可能性があります。ここでは、その代償を「研究開発力の低下」「M&A圧力の増大」「ステークホルダーからの信頼喪失」という三つの側面に整理して、その深刻さを明らかにします。

研究開発という成長エンジンの毀損

短期的な利益目標を達成するための最も安易な手段として、しばしば研究開発費が削減の対象となります。研究開発投資は、その成果が実を結ぶまでに長い年月を要し、しかも成功が保証されているわけではないため、会計上は「コスト」として扱われがちです。そのため、四半期ごとの利益を確保したい経営陣にとって、研究開発予算は削減しやすい項目に見えてしまうのです。

武田薬品工業がシャイアー買収後に年間6億ドルもの研究開発費削減を計画した例や、第一三共が経営不振時に海外の研究所を相次いで閉鎖した例は、その典型です。これらの決断は、一時的な収益改善や財務体質の強化には貢献したかもしれません。しかし、その裏側では、将来の成長の源泉となるはずだった新薬候補のパイプラインが細り、長年かけて築き上げてきた研究チームが解散し、優秀な科学者が企業を去っていくという、計り知れないほどの長期的な価値が失われています。イノベーションの種を蒔き、育てるには時間がかかります。短期的な利益のためにその種を摘み取ってしまう行為は、数年後の収穫を自ら放棄するに等しいのです。

M&Aへの過度な圧力と高リスク化

自社の内部で新しい薬を生み出す力、すなわち有機的な成長力が衰えると、経営陣は外部から即戦力となる製品や技術を買ってくることで成長を補おうとします。これがM&Aへの圧力が増大する背景です。特許切れによる売上減少が目前に迫っていたり、開発中の新薬が失敗したりすると、市場からの「何か手を打て」というプレッシャーは頂点に達し、経営陣を大型M&Aへと駆り立てます。

ファイザーの事例は、この圧力がいかに危険な結果を招きうるかを示しています。コロナ禍後の成長鈍化を補うため、同社はシージェン買収などに巨額の資金を投じましたが、市場からは「現金の使い道を誤っている」と批判され、結果的にアクティビストの介入を招くことになりました 10。M&Aは成長戦略の有効な選択肢の一つですが、短期的な株価やEPSの向上を焦るあまり、高値での買収に踏み切ったり、統合後のシナジーを過大に見積もったりすれば、それは大きな失敗に終わります。巨額ののれん代の減損や、統合に伴う組織の混乱は、株主にとっても従業員にとっても不幸な結果しかもたらしません。

ステークホルダーからの信頼喪失

IR指標の追求に没頭するあまり、企業が自らの「存在意義」を見失ってしまうと、それは最も重要な資産であるステークホルダーからの信頼を根本から損なうことにつながります。

まず、患者や医療関係者からの信頼です。製薬企業が株主への利益還元ばかりを優先し、本来であれば有望な治療法の開発に向けられるべき資金を自社株買いに費やすような姿勢は、彼らの目には医療へのコミットメントを欠くものと映るでしょう 6。米国では、「株主への還元に熱心なあまり、真のイノベーションがおろそかになっている」という批判が、実際に社会的な問題として高まっています。

次に、従業員の信頼です。業績の浮沈によって研究プロジェクトが中止されたり、リストラが断行されたりするような企業風土では、従業員の士気は低下します。特に、長期的な視点と知的好奇心を持って研究に打ち込みたいと考える優秀な科学者ほど、そのような環境に見切りをつけ、会社を去ってしまう可能性が高まります。

そして皮肉なことに、株主である投資家からの信頼さえも失いかねません。経営陣が市場の期待に応えようと無理に高い業績目標を掲げ、それが達成できなかった場合、その失望は経営陣への信頼を大きく揺るがします。ファイザーが2023年に業績予想を大幅に下方修正した際、アナリストから「投資家の信頼を失わせるものだ」と厳しく指摘されたのは、その好例です。短期的な業績への過度なコミットメントは、長期的には株主との健全な信頼関係をも破壊し、結果として企業価値を低下させるというパラドックスを孕んでいるのです。

おわりに:パーパス経営への回帰

製薬ビジネスの本質は、一つの新薬を世に送り出すために10年以上の歳月と莫大な投資を要する、極めて長期的な営みです。一方で、資本市場は四半期という短い単位での成長や株価の上昇を求め、その性質はますます短期化しています。この時間軸の根本的なミスマッチこそが、現代の製薬企業が抱える経営上の最大の悩みと言えるでしょう。企業は、株主の期待に応えるために短期的な成果を追い求めますが、その処方箋が、かえって将来の成長力を削いでしまうというジレンマに直面しているのです。

では、この短期と長期の板挟み状態から抜け出す道はあるのでしょうか。その鍵は、経営の目的、すなわち企業の「羅針盤」をどこに設定するのかを、改めて問い直すことにあります。EPSやTSRは、あくまで企業活動の成果を測るための重要な「計器」であり、航海の「目的地」そのものではありません。製薬企業にとっての本来の目的地、それは「患者に価値ある医薬品を届け、社会の健康水準を向上させること」であるはずです。この根源的な目的を見失わない経営こそが、遠回りに見えても、結果的に長期的な企業価値と株主へのリターンを最大化する唯一の道ではないでしょうか。

事実、新型コロナウイルスのパンデミックにおいて大きな成功を収めた企業の中には、社会が直面する喫緊の課題解決に貢献するという、計り知れないほどの社会的価値を創出した結果として、株主にも莫大な利益をもたらした例があります。逆に、目先のEPS向上にとらわれすぎた企業は、いつしかイノベーションの種を枯らしてしまい、数年後には成長力を失って、市場から見放されてしまうかもしれません。

幸いなことに、近年、投資家の側にも変化の兆しが見られます。短期的な利益だけでなく、企業の持続的な価値向上や、環境・社会・ガバナンス(ESG)といった非財務的な側面を重視する機関投資家が増えつつあります。こうした潮流は、企業が短期志向の株主の声ばかりに耳を傾けるのではなく、長期的な視点を持つ投資家や、従業員、社会といったより広いステークホルダーとの間で、建設的な対話を築く好機となり得ます。経済産業省が提唱する「パーパス経営」、すなわち企業の存在意義に基づいた経営や、欧米で議論が進む「ステークホルダー資本主義」といった考え方は、まさにこの文脈において、製薬業界にも重要な示唆を与えてくれるでしょう 32

結論として、IR指標そのものが悪なのではありません。それは企業の健全性を測り、経営に規律をもたらす重要なツールです。株主の期待に応えることも、上場企業としての当然の責務です。しかし、その計器の針を動かすこと自体が目的となり、経営の羅針盤が本来向かうべき方向を見失ってしまうのであれば、本末転倒です。EPS至上主義が支払うことになる真の代償を直視し、短期的な市場の要求と、創薬という長期的な使命との間で、賢明なバランスを取る戦略を粘り強く追求すること。それによってのみ、製薬企業は、患者にとっても、そして株主にとっても、真に価値ある持続的な成長を実現できるのではないでしょうか。

引用文献

  1. 機関投資家の議決権行使基準にも入っている「株主総利回り(TSR)」とは、どういう指標か?,  https://countryx.jp/ma-watch/ma_glossary/tsr/
  2. 元P&Gトップマーケターが語る「グローバルエクセレントカンパニーで重要視されるTSRとは何か」,  https://diamond.jp/articles/-/292561
  3. Executive Compensation and Short-Termism - CSEF,  https://www.csef.it/IMG/pdf/jmp_alessiopiccolo.pdf
  4. Are Executive Compensation Plans in the Pharmaceutical Industry Flawed,  https://incentives-solutions.com/are-executive-compensation-plans-in-the-pharmaceutical-industry-flawed/
  5. Financialization of the U.S. Pharmaceutical Industry | Institute for New Economic Thinking,  https://www.ineteconomics.org/perspectives/blog/financialization-us-pharma-industry
  6. High drug prices are not justified by industry's spending on research and,  https://eprints.lse.ac.uk/117809/1/HIGHDRUG_manuscript_24NOV_clean.pdf
  7. High drug prices are not justified by the pharma industry's claims about - research and development spending and innovation - The BMJ,  https://www.bmj.com/sites/default/files/attachments/bmj-article/pre-pub-history/second_response_24.11.22.pdf
  8. Drug prices not justified by industry's research and development spending - BMJ Group,  https://bmjgroup.com/drug-prices-not-justified-by-industrys-research-and-development-spending/
  9. Duration of Executive Compensation | Olin Business School,  http://apps.olin.wustl.edu/faculty/Thakor/Website%20Papers/Duration%20of%20Executive%20Compensation.pdf
  10. Starboard Value CEO says Pfizer's board should hold management accountable,  https://katcountry989.com/2024/10/22/starboard-value-ceo-says-pfizers-board-should-hold-management-accountable/
  11. Pfizer avoids board nominations from Starboard as proxy fight rolls on: Bloomberg,  https://www.fiercepharma.com/pharma/pfizers-board-left-untouched-annual-meeting-proxy-fight-starboard-rolls-bloomberg
  12. With activist investment rising, Pfizer's battle with Starboard reflects the industry's post-pandemic tumble | PharmaVoice,  https://www.pharmavoice.com/news/activist-investment-pfizer-starboard-pharma-covid/730470/
  13. Pfizer answers Starboard challenge with beat-and-raise quarter | BioPharma Dive,  https://www.biopharmadive.com/news/pfizer-third-quarter-beat-raise-paxlovid-starboard-challenge/731286/
  14. Merck's Upside Potential: Beyond The Keytruda Cliff | Nasdaq,  https://www.nasdaq.com/articles/mercks-upside-potential-beyond-keytruda-cliff
  15. Merck's SWOT analysis: stock faces keytruda patent cliff, gardasil challenges - Investing.com,  https://www.investing.com/news/swot-analysis/mercks-swot-analysis-stock-faces-keytruda-patent-cliff-gardasil-challenges-93CH-4140974
  16. Merck's New Keytruda Shot Is a Rare Real-Time 'Product Hop' (1) - Bloomberg Law News,  https://news.bloomberglaw.com/ip-law/mercks-new-keytruda-shot-is-a-rare-real-time-product-hop
  17. Merck's $10 Billion Gamble: Can Respiratory Diversification Offset Keytruda's Patent Cliff?,  https://www.ainvest.com/news/merck-10-billion-gamble-respiratory-diversification-offset-keytruda-patent-cliff-2507/
  18. Our strategy - Roche,  https://www.roche.com/about/strategy
  19. Roche to invest USD 50 billion in pharmaceuticals and diagnostics in the United States over the next five years,  https://www.roche.com/media/releases/med-cor-2025-04-22
  20. Roche Commits to $50B in U.S. Manufacturing and R&D Investments as Pharma Tariffs Loom - MedCity News,  https://medcitynews.com/2025/04/roche-pharmaceutical-manufacturing-research-tariffs-rhhby/
  21. Roche's $50B US investment to include upcoming Boston CVRM site - Fierce Biotech,  https://www.fiercebiotech.com/biotech/roches-50b-us-investment-will-include-upcoming-boston-cvrm-site
  22. 武田薬品工業【4502】シャイアー買収による変化と業績が苦戦する理由 - note,  https://note.com/ijnrdx/n/na275c811a8ca
  23. 武田薬品工業【4502】シャイアー社買収による変化と今後の業績拡大のカギは? - | 日興フロッギー,  https://froggy.smbcnikko.co.jp/57318/
  24. 2024年度第3四半期決算概況,  https://finance-frontend-pc-dist.west.edge.storage-yahoo.jp/disclosure/20250204/20250203561487.pdf
  25. 2024年度決算概況,  https://www.astellas.com/en/system/files/dc4b928d9e/4q2024_pre_jp.pdf
  26. アステラス製薬株式会社,  https://www.astellas.com/en/system/files/1ece2d68c2/4q2024_script_jp.pdf
  27. 経営計画2021 | アステラス製薬 - Astellas Pharma Inc.,  https://www.astellas.com/jp/about/csp2021
  28. アステラス製薬の新たな挑戦 - オントラック,  アステラス製薬の新たな挑戦
  29. 第一三共・奥澤社長兼CEO 第5期中計KPI達成に意欲 売上収益は2兆円予測 第6期中計策定に早くも熱視線 - ミクスOnline,  https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=78261
  30. "ENHERTU (Trastuzumab Deruxtecan) DESTINY-Breast11 Phase 3 Positive Topline Results in HER2 Positive Early Breast Cancer&qu - Daiichi Sankyo,  https://www.daiichisankyo.com/files/news/pressrelease/pdf/202505/20250507_E.pdf
  31. 第一三共 中計見直し がん事業強化策を加速 国内MRは2200人堅持 早期退職募集せず,  https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=65558
  32. “インパクト指標”を活用し、パーパス起点の対話を促進する 【概要】 - 経団連,  https://www.keidanren.or.jp/policy/2022/060_gaiyo.pdf
  33. パーパス経営の企業事例8選!必要な条件から取り組み方まで詳しく解説,  https://www.jmam.co.jp/hrm/column/0084-purpose-kesei-case.html

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