日本のバイオ産業における導出契約数は、ここ数年は減少傾向をたどっています。これは、一時的な市場の冷え込みというよりは、業界構造が変わりつつあることを示唆しています。
この変化がスタートアップにもたらす課題は、「キャピタル・キャズム」、すなわち事業化に至るまでの資金調達の谷が、深刻化していることです。かつては、有望な科学的知見があれば、動物実験などの非臨床段階という比較的早いステージでも、大手製薬企業との提携を通じて開発資金を確保することができました。しかし、現在、そのモデルは過去のものとなりつつあります。製薬企業が提携のハードルを格段に引き上げた結果、スタートアップは自らの力で、より多くの資金を調達し、より長く開発を続け、臨床試験で薬の有効性を示す証拠、いわゆる概念実証(Proof of Concept, POC)を取得することを求められるようになったというわけです。
この厳しい状況は、日本のバイオスタートアップ業界に一種の淘汰圧として作用し、業界再編を促しています。豊富な資金力を持つ一部の企業か、あるいは極めて資本効率の高い経営ができる企業だけが、製薬企業が求める後期開発段階まで生き残ることができる時代が来たということです。これは、スタートアップを支援するベンチャーキャピタル(VC)に対しても、より大規模で、より長期的な視点に立った投資を実行するという、新たな役割と責任を求めることになります 1。
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大手製薬が求める「価値」の変容
バイオスタートアップの導出契約数がなぜこれほどまでに減少しているのでしょうか。その答えは、パートナーとなる大手製薬企業側が直面している経営課題と、それに伴う研究開発戦略の抜本的な転換にあります。ここでは、製薬企業が提携に慎重になった背景を解き明かし、その結果としてスタートアップに求められる「価値」がどのように変化したのかを詳しく見ていきましょう。
製薬大手を襲う二重の圧力
現在、日本の大手製薬企業は二つの大きな圧力に苛まれています。一つは、これまで収益の柱であった主力製品の特許が切れ、後発医薬品との競争に晒されることで収益が急激に落ち込む「パテントクリフ」という世界共通の課題です 3。もう一つは、日本市場に特有の圧力、すなわち毎年のように行われる薬価改定です 6。特に、特許が切れた後も長く使われてきた長期収載品の薬価が厳しく引き下げられる制度は、企業の収益基盤を大きく揺るがしています 7。
こうした厳しい経営環境に対応するため、多くの製薬企業は聖域とされてきた研究開発費の削減に踏み切らざるを得なくなりました。2024年の夏にかけて、複数の国内製薬企業が研究開発部門の従業員をも対象に希望退職を募ったことは、この流れを象徴する出来事でした。これは、自社でゼロから新薬の種を探す早期の研究機能を縮小し、その役割を外部のスタートアップに委ねるという、大きな戦略転換の現れなのです。
リスクの外部化と分業体制の確立
製薬企業は、自社での早期研究を縮小する一方で、外部からの有望な医薬品候補(パイプライン)の導入には依然として意欲的です。しかし、その導入戦略は劇的に変化しました。かつては1億円規模の初期段階のパイプラインを10品目導入するという「数撃てば当たる」的なアプローチも可能でした。しかし、今では開発ステージが進み、安全性と有効性がある程度確認された10億円規模のパイプラインを、吟味に吟味を重ねて1品目だけ導入するという、集中と厳選の戦略に移行しています。
この動きは、製薬業界における「リスクの外部化」という構造を明確に示しています。成功確率が低く、莫大な費用と時間がかかる創薬の初期段階、すなわち科学的な発見から初期の臨床開発までのリスクを、スタートアップとその支援者であるベンチャーキャピタルに委ねる、という意味です。そして大手製薬企業は、そこで有望だと証明された資産を買い取り、後期開発からグローバルな販売・マーケティングという、自社が最も得意とする領域に経営資源を集中させる。このような、業界全体での「分業体制」が確立されつつあるんですね。この傾向は世界的なものであり、ブロックバスターと呼ばれる大型医薬品の実に68%が、今や社外からのライセンス導入によって生まれているとされています 8。
この構造変化の結果、大手製薬企業がスタートアップに求める「価値」は、二つの異なる方向性へと明確に分かれました。一見すると矛盾しているように見えるこの二つの道筋こそが、現代のバイオスタートアップが目指すべき成功への分かれ道です。
一つ目の道は、従来型の技術を用い、臨床試験で有効性の証明(POC)を取得することで、その資産の「成熟度」を極限まで高めることです。この場合、製薬企業が評価するのは、臨床開発における成功確率の高さ、すなわち「確実性」という価値です。
二つ目の道は、全く新しい概念に基づく治療法、すなわち「新規モダリティ」によって、既存の治療パラダイムを根底から覆す可能性を提示することです。この場合、製薬企業が評価するのは、単一の製品候補の価値ではなく、将来の医薬品市場を席巻するかもしれない、全く新しい創薬プラットフォームへの「戦略的価値」です。
この二つの道は、一見すると正反対です。片やリスクを極限まで低減させた「成熟度」を求め、片やリスクは高いが未来の可能性に賭ける「新規性」を求める。しかしこれは矛盾ではなく、製薬企業が自社のポートフォリオを管理する上で、短期的な収益確保と長期的な競争力維持という二つの目的を同時に達成しようとする二元戦略です。スタートアップにとって、自社の技術がどちらの道に適しているのかを冷静に見極め、それに合わせた事業戦略を構築することが、この厳しい時代を航海する上で不可欠な最初のステップとなるでしょう。
臨床的価値証明への険しい道のり
大手製薬企業が提示する一つ目の成功への道、それは「成熟度」で勝負することです。これは、従来から存在する低分子医薬や抗体医薬といった技術を用い、自社の力で臨床試験を進め、ヒトでの有効性と安全性に関する確固たるデータを取得するという、いわば創薬の王道です。しかし、その道のりはかつてなく険しくなっています。ここでは、この「成熟の道」を歩む上で何が求められるのか、そしてその中でいかにしてパートナーシップを勝ち取るのかを、具体的な事例を通じて探っていきましょう。
この道を歩むスタートアップが直面する最大の壁は、前述した「キャピタル・キャズム」です。臨床試験、特に有効性を証明する第2相試験や第3相試験を遂行するには、数十億円から時には数百億円という莫大な資金が必要となります。かつてのように、非臨床段階で製薬企業から資金を得ることが難しくなった今、スタートアップはこの巨額の資金を自力で調達し、開発を主導しなければなりません。これは、経営陣に科学的な知見だけでなく、高度な資金調達能力と、経験豊富な臨床開発チームを早期から組織内に持つことを要求します 9。
このような厳しい環境下で、どのようにしてパートナーシップを築くことができるのでしょうか。その一つの答えを示唆するのが、キッズウェル・バイオの100%子会社であるS-Quatre(エスカトル)と持田製薬との契約事例です。
2025年3月、S-Quatreと持田製薬は、他家(他人)の乳歯から採取した歯髄幹細胞(SHED)を用いた再生医療等製品「SQ-SHED」に関する共同事業化契約を締結しました 10。この契約は、小児脳性まひと外傷性脳損傷という、精神・神経疾患領域を対象とするものです。S-Quatreが開発するSQ-SHEDは、独自の製法で培養された細胞医薬品であり、骨髄や脂肪由来の一般的な間葉系幹細胞(MSC)と比較して、神経の成長や血管の新生を促す遺伝子の発現が活発であるという特徴を持っています。
この契約が非常に興味深いのは、これが全くの新規提携ではなかったという点です。実は、キッズウェル・バイオと持田製薬は、2020年3月の段階で、同じSQ-SHEDを用いて消化器領域の希少疾患を対象とするライセンス契約を既に結んでいました。つまり、今回の契約はゼロからのスタートではなく、既存のパートナーシップを基盤とした「提携の拡大・深化」という形を取っているのです。
この事実は、私たちが「成熟度」という言葉を捉え直すきっかけを与えてくれます。このケースにおいて、持田製薬が評価した「成熟度」とは、単にSQ-SHEDという製品候補の臨床データだけではなかったはずです。むしろ、2020年からの約4年間にわたる共同作業を通じて築き上げられた、パートナーシップそのものの「成熟度」が、今回の新たな投資判断において決定的な役割を果たしたと考えることができます。
持田製薬は、この4年間でS-Quatreの技術プラットフォームの信頼性、製品の製造プロセスの安定性、そして何よりも、共に仕事を進めるパートナーとしてのS-Quatreの組織能力を、身をもって確認することができました。技術的なリスクと、パートナーとして信頼できるかという人的なリスクの両方が、この長年の協業によって大幅に低減されていたのです。
したがって、持田製薬にとって2025年の契約は、未知の技術を持つ未知の企業と提携するというハイリスクな賭けではありませんでした。それは、既に価値を認め、信頼関係を構築したパートナーと共に、その有望な技術プラットフォームの応用範囲を新たな疾患領域へと広げるという、計算された戦略的投資だったのです。
この事例から、成熟の道を歩むスタートアップが取り得る戦略が浮かび上がってきます。それは、「ランド・アンド・エクスパンド(Land and Expand)」戦略です。まずは、比較的ハードルの低い領域や、小規模な契約でも構わないので、大手製薬企業との最初の足がかり(Land)を築くことに全力を注ぐのです。そして、その提携を通じて自社の技術の価値と、パートナーとしての信頼性を証明します。その上で、築き上げた信頼関係をテコにして、より大規模で、より価値の高い新たな契約へと提携を拡大(Expand)していく。このアプローチは、一度に巨大な壁を乗り越えようとするのではなく、段階的に価値を証明し、パートナーと共に成長していくという、現実的かつ強力な戦略と言えるでしょう。成熟の道は険しいですが、信頼という名の橋を架けることで、着実に目的地へとたどり着くことができるのです。
次世代モダリティが拓く早期提携の可能性
製薬企業が提示するもう一つの成功への道、それは「新規性」で勝負することです。これは、既存の治療法とは全く異なる作用機序を持つ、次世代の技術(モダリティ)を武器に、治療パラダイムそのものを変革する可能性を提示する道です。この道を歩むスタートアップは、臨床試験での概念実証(POC)という高いハードルを飛び越え、比較的早期の段階で戦略的なパートナーシップを勝ち取る可能性があります。ここでは、この「新規性の道」がなぜ存在するのか、そして成功の鍵は何かを、具体的な事例を通してご紹介していきます。
近年の創薬の世界では、低分子医薬や抗体医薬といった従来型のモダリティに加え、核酸医薬、細胞治療、遺伝子治療など、多様な新規モダリティが次々と登場し、医薬品開発の主戦場となっています 12。あるスタートアップの経営者が「新しいモダリティは国内の製薬企業からの期待が大きく、比較的早期の開発段階で導出できている」と語るように、大手製薬企業はこれらの革新的な技術プラットフォームを、競合他社に先駆けて確保したいという強い動機を持っています。
この動機を理解する上で鍵となるのが、「乗り遅れる恐怖(Fear of Missing Out, FOMO)」という心理です。もし、ある新規モダリティが将来の医療を席巻するほどの画期的な技術であった場合、その流れに乗り遅れることは、企業にとって存亡に関わる戦略的失敗となりかねません。そのため、たとえ個々の製品候補のリスクは高くとも、その技術プラットフォーム全体への算入の糸口を手に入れるためであれば、通常の投資基準を超えた早期の戦略的投資を厭わないのです。
この「新規性の道」を象徴する典型的な事例が、EVerMed(エバメド)と杏林製薬との間で結ばれた契約です。EVerMedは、細胞が分泌する微小なカプセルである細胞外小胞(EV)、特にエクソソームを用いた治療薬を開発する、東京慈恵会医科大学発のスタートアップです 14。同社の設立は2024年4月という、非常に若い企業でした 15。
しかし、EVerMedは設立からわずか数ヶ月後の2024年8月に、開発中のエクソソーム製剤「EM-001」に関するオプション契約を杏林製薬と締結することに成功します 15。このEM-001は、特発性肺線維症(IPF)という治療法が限られた難病を対象としており、健常な人の気道上皮細胞から作られます。その作用機序は、病気の患者で減少している特定のマイクロRNA(miRNA)をエクソソームによって肺に届け、補充することで、線維化を抑制し呼吸機能の改善を目指すという、極めて画期的なものでした 15。
この契約で最も注目すべき点は、EM-001がまだ動物実験などの段階、すなわち「非臨床段階」にある時点で締結されたことです。これは、製薬企業が後期開発品を求めるという大きな潮流の中での例外事例と言えます。
契約の形態も示唆に富んでいます。これは、製品の権利を完全に譲渡するライセンス契約ではなく、「オプション契約」でした 17。杏林製薬は、まず契約一時金を支払って、将来、日本国内におけるEM-001の開発・販売権を独占的に取得できる「権利」を確保します。そして、EVerMed社が開発を進め、将来有望なデータが出た段階で、杏林製薬はその権利を行使して本格的なライセンス契約へと移行し、さらなるマイルストーンやロイヤルティを支払うことになります 15。
このオプション契約という仕組みは、製薬企業側のリスク管理手法として参考になるものです。杏林製薬は、比較的小さな初期投資で、エクソソームという将来有望なプラットフォームへの戦略的な足がかりを確保できます。もし開発がうまくいけば、優先的にその果実を手にすることができる。一方で、もし開発が難航すれば、損失は初期のオプション料に限定されます。
この事例は、新規性の道を歩むスタートアップにとって教訓を与えてくれます。それは、自社の技術を単一の医薬品候補としてではなく、多様な応用可能性を秘めた「プラットフォーム」として提示することの重要性です。EVerMedが杏林製薬に売ったのは、EM-001という一つの製品だけではありません。彼らが売ったのは、「エクソソームという革新的な技術を用いて、これまで治療が困難だった呼吸器疾患に立ち向かう」という未来へのビジョンと、そのビジョンを実現するための戦略的な選択肢(オプション)だった、ということですね。
したがって、スタートアップが自社のモダリティを選択することは、単なる科学的な決定ではありません。それは、どのような時間軸で、どのようなリスクを取り、どのような物語でパートナーを惹きつけるかという事業戦略の決定そのものと言えます。「成熟の道」が過去の実績という名の信用で勝負するならば、「新規性の道」は未来の可能性という名の期待で勝負する。どちらの道を選ぶかが、そのスタートアップの運命を大きく左右することになるでしょう。
「失敗」の再定義 ― 権利返還から生まれる新たな資産価値
バイオスタートアップの旅路は、常に成功の連続とは限りません。大手製薬企業に導出したパイプラインの開発が、様々な理由で中止され、権利が「返還」されることは、決して珍しいことではありません。かつて、このような権利返還は事業の終わりをも意味しかねない、致命的な失敗と見なされていました。しかし、近年の市場環境の変化は、この「失敗」の概念そのものを大きく変えようとしています。ここでは、一度は契約終了となった資産が、そこから得られた知見を武器に、新たな価値ある資産として生まれ変わる「再導出」という戦略の重要性について、二つの対照的な事例をご紹介します。
事例1:ツーセル社 ― 臨床データが導く再起の道筋
「失敗」からの復活劇を鮮やかに演じてみせたのが、広島大学発のスタートアップであるツーセル社の事例です。この物語は、臨床試験の失敗が必ずしも終わりではなく、むしろ次なる成功への貴重な道標となり得ることを教えてくれます。
物語は2016年に遡ります。ツーセルは、自社で開発する同種他家(他人の細胞を用いる)の滑膜間葉系幹細胞由来3次元人工組織「gMSC1」について、中外製薬とライセンス契約を締結しました 19。中外製薬のもとで開発は進み、膝関節の外傷性軟骨損傷などを対象とした第3相臨床試験が実施されました。しかし、2023年3月に公表された試験結果は、残念ながら主要な評価項目を達成することができませんでした 20。この結果を受け、両社は同年4月にライセンス契約の解消を発表。gMSC1に関する全ての権利はツーセルに返還されることになったんです 22。通常であれば、最終段階である第3相試験の失敗は、その医薬品候補にとって再起不能の宣告にも等しいもの、と言えるでしょう。
しかし、ツーセルの経営陣は諦めませんでした。主要評価項目では統計的な有意差を示せなかったものの、副次的な評価項目においてはgMSC1の有効性を示唆するデータが得られていたのです。このデータは、「どのような患者に、どのように使えば最も効果的か」という、次の一手につながる極めて貴重な学びを同社にもたらしました。
この学びを基に、ツーセルは新たな開発計画を策定します。以前とは異なる「欠損型の変形性膝関節症」を新たな標的疾患として設定し、臨床試験の設計についても規制当局である医薬品医療機器総合機構(PMDA)との協議を進めました。そして2025年6月、この新たな戦略が実を結びます。ツーセルは、gMSC1について、科研製薬と日本国内における新たなライセンス契約を締結しました 21。この契約は、契約一時金や開発マイルストーンなど合計で最大約70億円に達する可能性のある、以前の契約を上回る規模の大型契約と言えます 28。
このツーセルの事例が示す最も重要な教訓は、臨床試験の「失敗」によって得られた、ヒトにおける安全性や有効性のヒントを含む「臨床データパッケージ」そのものに、絶大な資産価値があるということです。中外製薬が資金を提供して実施した第3相試験は、結果として、gMSC1を単なる「科学的に興味深いコンセプト」から、ヒトでの挙動がある程度明らかになった「臨床経験のあるアセット」へと昇華させました。この「失敗から得られたデータ」こそが、次のパートナーである科研製薬にとってのリスクを大幅に低減させ、巨額の投資を判断する上での強力な後押しとなったわけです。
これは、日本のバイオエコシステムにおいて、「臨床試験で再評価されたアセット」という新たな資産クラスが確立されつつあることを示しています。スタートアップにとって、提携先との契約交渉において、万が一の契約終了時にも、パートナーが実施した臨床試験の全てのデータへのアクセス権と権利を完全に確保しておくことが、いかに重要であるかを物語っています。失敗は、終わりではありません。それは、次の挑戦のための最も価値ある教科書となり得ます 29。
事例2:コーディア社 ― パートナーの戦略転換という新たなリスク
アセットが返還される理由は、臨床試験の結果だけではありません。スタートアップ自身の努力とは無関係に、パートナー企業の経営戦略の変更という、コントロール不能な要因によっても起こり得ます。Chordia Therapeutics(コーディア・セラピューティクス)社の事例は、この新たなリスクに直面した際の、冷静な対応の重要性を示しています。
Chordia社は2020年12月、自社が創製したMALT1阻害薬「CTX-177」について、小野薬品工業と全世界における権利を許諾する大型のライセンス契約を締結しました 31。小野薬品のもとで開発は進められ、2022年8月からは米国で再発・難治性のリンパ腫患者を対象とした第1相臨床試験が開始されていました 32。
しかし2025年4月、Chordia社は小野薬品から、CTX-177の開発を中止するとの通知を受けたと発表しました 32。ここで極めて重要なのは、その中止理由です。小野薬品は、この決定が「臨床データの評価に基づいて開発中止を決定したわけではない」と明言し、あくまで「戦略上の理由」であると説明しました 32。
その背景として、小野薬品が2024年6月に完了した、米国のバイオ医薬品企業Deciphera Pharmaceuticals社に対する約24億ドル(当時の為替レートで約3700億円)という大規模な買収が影響していることが考えられます 37。この買収により、小野薬品は複数の後期開発段階にある有望ながん領域のパイプラインを獲得しました 39。その結果、社内の研究開発ポートフォリオを全面的に見直す必要に迫られたということです。臨床開発費が高騰する中、限られた経営資源をどこに集中させるかという厳しい選択の結果、まだ開発の初期段階である第1相にあったCTX-177は、優先順位が下げられ、開発中止という判断に至ったのではないかと推察されています。
この事例は、現代のスタートアップが直面する新たなリスク、すなわち「パートナーのポートフォリオ・リスク」を浮き彫りにします。自社のプロジェクトの科学的な有望性や臨床データの良し悪しとは全く関係なく、パートナー企業のM&A戦略という巨大な外部要因によって、プロジェクトの運命が左右され得るということですね。これは、提携先を選ぶ際のデューデリジェンス(事前調査)において、科学的な相性だけでなく、相手企業の財務状況やM&A戦略といった経営の安定性や方向性まで、より深く見極める必要があることを示唆しています。
この事例から私たちが学ぶべきことは、最初の契約交渉の段階で、戦略的理由による契約終了の可能性を想定し、その際に迅速かつ完全に権利と全てのデータを返還してもらうための条項を盛り込んでおくことの重要性です。それが、この予測不可能な時代における、スタートアップの生命線の一つとなります。
再編の先に待つ未来 ― 日本のバイオエコシステムが備えるべきこと
本記事を通じて、私たちは日本のバイオスタートアップを取り巻く事業環境が、単に厳しさを増しているだけでなく、より成熟し、洗練されたものへと質的に変化している様を見てきました。かつてのように、早期段階の科学的発見が次々と大型契約に至る楽観的な時代は終わりを告げました。しかし、この逆風は、日本のバイオエコシステム全体をより強く、より戦略的に進化させるための、健全な淘汰圧として機能していると捉えることができます。
本記事を振り返ると、まず、導出契約の市場が、数を重視する「ボリュームモデル」から、一つ一つの資産の価値を厳しく見極める「バリューモデル」へと移行したことが挙げられます。この変化は、製薬企業が直面するパテントクリフや薬価引き下げといった経営圧力に起因しており、彼らは研究開発のリスクを外部化し、臨床的に価値が証明された、より成熟したアセットを求めるようになりました。
この市場の変化は、スタートアップに対して、大きく分けて二つの成功経路を提示しています。一つは、従来型のモダリティを用い、自社で多大な資金と時間をかけて臨床試験を乗り越え、確固たる臨床的価値証明(POC)というデータを手に入れる「成熟度の道」です。もう一つは、エクソソーム製剤のように、既存の治療法を覆す可能性を秘めた全く新しいモダリティに賭け、その「新規性」と将来性によって、乗り遅れることを恐れる製薬企業との早期の戦略的パートナーシップを勝ち取る道です。
さらに、「再導出」という新たな戦略の台頭です。ツーセルやChordia Therapeuticsの事例が示すように、パートナー企業からの権利返還は、もはや事業の終わりを意味しません。むしろ、得られた貴重な臨床データを新たな資産として活用し、より適切な適応症や、よりコミットメントの強いパートナーを見つけ出すことで、失敗を成功へと転換させるレジリエンス(再起力)が、これからのスタートアップにとって不可欠な経営能力となっています。パートナー企業のM&A戦略に起因する「パートナー・リスク」にも、冷静かつ戦略的に対処する能力が求められます。
そのためには、スタートアップ自身の努力だけでなく、エコシステム全体の進化が不可欠です。ベンチャーキャピタルは、より大規模で長期的な視点に立った資本を供給し、臨床開発段階までを支えきる覚悟が求められます 41。大学や研究機関は、単に技術を移転するだけでなく、事業化を見据えた戦略的な知財管理や、ビジネス人材の育成にも力を入れる必要があります。
目の前にある課題は確かに大きいですが、それを乗り越える過程で、日本のバイオ産業はより強靭で、世界市場で真に価値を認められる、次世代の企業群を育てていくに違いありません。この厳しい冬の時代は、日本のバイオエコシステムが真の成熟期を迎えるための、避けては通れない試練と言えるでしょう。
引用文献
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- 2025年のベンチャーキャピタル市場予測:5つの注目トレンド,https://www.wellington.com/jp-jp/professional/insights/2025-venture-capital-outlook-jp
- バイオスタートアップの研究開発戦略:再現性問題の克服やチーム作りの秘訣について,https://beyondnextventures.com/jp/insight/biotech-startups-strategy