近年の歴史において、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックほど、世界中の国々に自らの脆弱性を突きつけた出来事はありませんでした。特に日本においては、治療薬やワクチンの開発・生産の多くを海外に依存しているという現実が、国民生活と経済活動に大きな影響を及ぼしました。この経験は、医薬品の安定供給が単なる経済政策の問題ではなく、国民の健康と生命を守り、ひいては国家の安全保障に直結する極めて重要な課題であることを、改めて浮き彫りにしたものです。この厳しい教訓から、日本政府は将来起こりうる新たな感染症の脅威に備えるため、国家として腰を据えた長期的な戦略を策定する必要に迫られました。
その具体的な行動として、2021年6月1日に閣議決定されたのが「ワクチン開発・生産体制強化戦略」です 1。これは、有事の際にワクチンを迅速に国内で開発し、生産できる体制を構築することを目的とした、国家的なプロジェクトの始動を意味していました。この戦略が外交や安全保障の観点からも極めて重要であると位置づけられたことからも、政府の強い決意がうかがえます 2。この壮大な構想を実現するために、政府は令和3年度補正予算で約2,274億円、さらに令和4年度補正予算で1,000億円という、巨額の資金を投じることを決定しました 3。
この戦略の中核をなす独創的な概念が、「デュアルユース」という考え方でした。これは、整備される製造施設が二つの目的を持つことを意味します。つまり、感染症が流行していない「平時」においては、企業がそれぞれのニーズに応じて抗体医薬品などの商業用バイオ医薬品を製造し、経済活動を維持します。そして、パンデミックのような「有事」が発生した際には、国からの要請に基づき、その生産ラインを迅速にワクチン製造へと切り替えるのです 2。
この仕組みは、非常に巧みに設計されていました。なぜなら、有事専用のワクチン工場を維持することは、平時には稼働せず莫大な維持費だけがかかるため、経済的に成り立ちにくいという根本的な課題を抱えているからです。デュアルユースという仕組みは、平時の商業生産によって施設の維持管理費を賄い、従業員の技術や経験を常に高いレベルで保つことを可能にします。これにより、いざという時に即座に高品質なワクチンを大量生産できる体制を、経済的な合理性を持たせつつ確保することができるのです 4。
さらに、政府の戦略は単にワクチンを製造する工場を建設するだけに留まりませんでした。ワクチン製造という複雑なプロセス全体を国内で完結させるため、包括的なエコシステム、すなわち生態系のように相互に関連し合う産業基盤を構築することを目指したのです。このため、経済産業省が主導する「ワクチン生産体制強化のためのバイオ医薬品製造拠点等整備事業」では、ワクチン原薬の製造拠点だけでなく、サプライチェーンを構成するあらゆる段階への支援が行われました。例えば、mRNAワクチンという新しい技術に対応する製造拠点として、ARCALIS(アルカリス)株式会社などが採択されました。また、製造されたワクチンの原薬を最終的な注射剤として製品化する「製剤化・充填」という極めて重要な工程を担う拠点として、シオノギファーマ株式会社や武州製薬株式会社、Meiji Seika ファルマ株式会社などが支援の対象となりました。
それだけではありません。ワクチン製造に不可欠な部素材の国内供給網を強化するため、非常に多岐にわたる企業が採択されました。
例えば、製造工程で不純物を除去するためのウイルス除去フィルターを製造する旭化成メディカル株式会社、ワクチンを入れるガラス製の容器であるバイアルを供給する岩田硝子工業株式会社や大和特殊硝子株式会社、不二硝子株式会社。細胞を培養するための培地を開発する極東製薬工業株式会社や富士フイルム株式会社。製造装置の心臓部とも言えるシングルユースのバイオリアクターやミキサーを手掛ける佐竹マルチミクス株式会社。医薬品の精製に用いられるクロマトグラフィー充填剤を製造するJNC株式会社やワイエムシィ株式会社。製造ラインで液体を輸送するためのチューブやホースを供給する十川ゴム株式会社や株式会社トヨックス。そして、mRNAワクチンの構成要素となる5'-cap(ファイブプライムキャップ)試薬などを開発するナティアス株式会社や、遺伝子治療薬の原料となるプラスミドを製造する日本マイクロバイオファーマ株式会社など、専門性の高い技術を持つ数多くの企業がこの国家プロジェクトに参加しました。
このように、川上から川下まで、サプライチェーンの隅々に至るまで国内での生産体制を強化することで、日本は将来の健康危機に対して、より強靭で自己完結的な備えを築こうとしたのです。
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期待の提携 ― モデルナ、日本における製造拠点計画の始動
日本の国家戦略が本格的に動き出す中、世界的なバイオテクノロジー企業であるモデルナ社が、この壮大な計画に参加することへの期待が大きく高まりました。そして2023年9月20日、経済産業省が「ワクチン生産体制強化のためのバイオ医薬品製造拠点等整備事業」の第2次公募の結果を発表した際、その期待は現実のものとなります。モデルナ社の日本法人であるモデルナ・ジャパン株式会社が、神奈川県を事業実施場所とするワクチン製造拠点の整備事業者として、正式に採択されたのです。この第2次公募では、全体で23件、総額約955億円規模の事業が採択されており、モデルナ社のプロジェクトはその中でも特に注目を集めるものでした。
この採択が発表された当初、モデルナ・ジャパンは「採択については嬉しく思っており、今後、政府との協力のあり方について話し合いをしてきたい」とコメントし、計画への意欲を示していました。具体的な工場の規模やスケジュールについてはまだ明らかにされませんでしたが、その構想の壮大さの一端が示されたのは、翌2024年10月に神奈川県藤沢市の湘南ヘルスイノベーションパーク(湘南アイパーク)で開催されたパネルディスカッションでのことでした。このイベントには、モデルナ社の最高経営責任者(CEO)であるステファン・バンセル氏自らが登壇し、日本における製造拠点計画のビジョンを語ったのです。
バンセルCEOが明らかにした計画は、単なるワクチン工場を建設するというレベルを遥かに超えるものでした。彼が示したビジョンは、mRNAワクチンの製造工程を川上から川下まで一貫して行える、統合的な拠点を日本に築くというものでした。具体的には、ワクチンの有効成分であるmRNA原薬を製造するだけでなく、それを最終的な製品へと仕上げる製剤化の工程までを、この新しい工場で完結させる計画でした。これは、日本国内で完成品のワクチンを迅速に供給する能力を持つことを意味し、政府が目指す国内自給体制の確立に大きく貢献するものでした。
さらに、バンセルCEOは、この工場の持つべき重要な特性として「柔軟性」を強調しました。建設される工場は、特定のワクチンだけを製造するために設計されるのではなく、モデルナ社が持つmRNA技術の汎用性を最大限に活かすことができるよう、様々な種類のmRNAワクチンや、さらにはがん治療薬などを含む将来のmRNA医薬品の製造にも対応できる設計になるというのです。これは、将来出現するかもしれない未知の病原体「Disease X」にも迅速に対応できる体制を構築するという、日本政府のデュアルユース戦略の理念と完全に合致するものでした。工場の生産能力についても、「日本における需要は満たせる量の製造はできる」と述べ、日本の国内ニーズに十分応えられる規模を想定していることを示唆しました。
この計画が特に戦略的であったのは、製造拠点の立地です。湘南アイパークには、モデルナ社が2023年1月に買収したモデルナ・エンザイマティクス(旧オリシロジェノミクス)の研究開発拠点も設置される計画でした。つまり、同じ場所に最先端の研究開発拠点と大規模な生産拠点を併設することで、研究、開発、そして生産という一連の流れをシームレスに、つまり途切れることなく繋げ、効率を最大化することを目指していたのです。この構想は、モデルナ社が単に日本を製造拠点の一つとして見ていたのではなく、研究開発から生産までを一貫して行う重要な戦略的パートナーとして位置づけていたことを示していました。当初、この提携は、日本のワクチン戦略にとって、まさに理想的な形で実現した旗艦プロジェクトのように見えたのです。
計画の転換点 ― モデルナが下した「辞退」という決断
大きな期待と共に始動したモデルナ社の日本におけるmRNA原薬製造拠点計画は、しかし、その壮大なビジョンが語られてから一年も経たないうちに、大きな転換点を迎えることになります。2025年7月18日、モデルナ・ジャパン株式会社は、多くの関係者にとって驚きとなる発表を行いました。それは、経済産業省の補助事業として採択されていた、湘南アイパークにおけるmRNA原薬製造拠点の整備計画を、これ以上進めないという決定でした。日本のワクチン国産化戦略の中核を担うと期待されていた一大プロジェクトが、突如として白紙に戻された瞬間でした。
モデルナ・ジャパンが発表したプレスリリースの中で、この決定の理由として挙げられたのは、「昨今の事業環境を踏まえて」という一文でした。しかし、この「事業環境」が具体的に何を指すのかについての詳細な説明はありませんでした。同社の広報担当者は、メディアの取材に対し、「経済産業省と相談の上で決定した」と述べ、これが一方的な決定ではなく、政府側とのコミュニケーションを経た上でのものであることを示唆しました。同時に、「理由とした事業環境についての詳細の言及は控える」とコメントし、その背景にある具体的な要因については口を閉ざしました。
この突然の計画中止に対して、事業を所管する経済産業省の反応は、非常に抑制的で慎重なものでした。同省の担当者は、「経産省の事業に採択された企業が計画通りに事業を進められないケースは無くはない」と述べ、このような事態が前代未聞ではないという一般論に終始しました。そして、「本件についてコメントすることは避けたい」として、モデルナ社の決定に対する評価や、今後の対応についての具体的な言及を避けたのです。
このような政府と企業双方の抑制の効いた対応は、注目に値します。国家的な重要性を持つ大規模プロジェクトの中止という重大な事態にもかかわらず、そこには非難の応酬や対立といった雰囲気は全く見られませんでした。モデルナ社が「経済産業省と相談の上で」と述べ、経済産業省が「コメントは避ける」と応じた一連のやり取りは、これが敵対的な契約破棄や交渉決裂といった事態ではなく、双方がある程度の相互理解のもとに、計画を静かに収束させるという、いわば「管理された別離」であったことを強く示唆しています。このことは、公にされていない「事業環境の変化」という理由が、両者にとって無視できない、やむを得ないものとして認識されていた可能性を物語っています。
そして、この発表において最も重要な点は、モデルナ社が計画辞退のニュースと同時に、ある明確なメッセージを発したことでした。同社の広報担当者は、「日本から撤退するわけではない」と力強く強調したのです。そして、「COVID-19以外の感染症やがんなどを対象としたmRNA医薬の研究開発に注力し、今後もしっかりと日本で事業を展開する」と続けました。この発言は、単なる言い訳やその場しのぎのコメントではありませんでした。これは、モデルナ社が日本での事業戦略を根本的に見直し、大規模な「製造」から、より付加価値の高い「研究開発」へと軸足を移すという、明確な意思表示だったのです。つまり、この辞退という決断は、日本市場からの全面的な撤退を意味するのではなく、日本における役割と投資のあり方を、より戦略的に再定義する大きな転換点であったと言えるのです。
「事業環境の変化」を読み解く ― 市場と政治の不確実性
モデルナ社が公式に述べた「昨今の事業環境の変化」という言葉。この曖昧な表現の背後には、同社が大規模な製造拠点への投資を断念せざるを得なくなった、二つの大きな構造的変化が存在していました。一つはワクチン市場そのものの劇的な変化であり、もう一つは同社の母国であるアメリカにおける政治的な不確実性の高まりです。これら二つの要因が、まるで挟み撃ちのようにプロジェクトの将来性を圧迫し、当初の計画の前提を根底から覆してしまったのです。
第一の要因は、市場環境の変化です。このプロジェクトが構想された2023年頃は、まだ新型コロナウイルス感染症の記憶が生々しく、世界中がワクチンの安定供給を渇望していました。しかし、2025年になると、パンデミックは世界的に収束し、ワクチンの緊急需要は大幅に減少していました。特に日本市場において決定的だったのは、政府が2025年度から新型コロナウイルスワクチンの定期接種に対する公費助成を廃止する方針を固めたことです 7。これは、国が大規模な予算を投じて国民のワクチン接種を推進するという、パンデミック下の特殊な状況が終わりを迎えたことを意味します。この決定により、モデルナ社が建設する工場にとって、最も確実で大規模な顧客であったはずの日本政府による大量購入という、安定した収益の柱が失われることになりました。
もちろん、ワクチン市場全体が縮小したわけではありません。RSウイルスワクチンや帯状疱疹ワクチンなど、新たな製品の登場によって市場は成長を続けると予測されています 8。しかし、これらのワクチンの需要は、パンデミック時のように全国民を対象とするものではなく、より限定的で細分化されています。そのため、デュアルユース工場の「平時」の稼働を支える商業生産の収益性が、当初の想定よりも見込みにくくなったのです。かつては国家的要請と商業的利益が一致していたこのプロジェクトは、市場の変化によって、その経済的な魅力が大きく損なわれてしまいました。
第二の要因は、モデルナ社の本拠地であるアメリカで高まっていた政治的・規制上のリスクです。トランプ政権下で保健福祉省(HHS)の長官に、ワクチンに対してかねてから批判的な見解を持つことで知られるロバート・F・ケネディ・ジュニア氏が指名されたことは、ワクチン業界全体に衝撃を与えました 12。彼は長官に就任すると、その姿勢を具体的な行動で示しました。その最も象徴的な例が、米疾病対策センター(CDC)の予防接種実施諮問委員会(ACIP)の全委員を解任し、新たなメンバーに入れ替えるという前代未聞の決定です。ACIPは、科学的知見に基づき、アメリカのワクチン接種スケジュールなどを勧告する重要な専門家組織であり、そのメンバーを政治的な理由で一斉に交代させることは、国の公衆衛生政策の根幹を揺るがしかねない事態でした 14。
この動きは、モデルナ社のような、事業の根幹をワクチンに置く企業にとって、計り知れないリスクを意味します。自国の規制当局のトップが、自社の主力製品に対して懐疑的、あるいは敵対的ともとれる姿勢を示している状況は、将来の製品承認プロセス、安全基準、公的な推奨などにどのような影響を及ぼすか全く予測がつきません。このような自国における巨大な政治リスクを抱える中で、海外の、しかも政府との長期的な契約に基づく大規模な設備投資に踏み切ることは、企業経営の観点から見て極めて危険な賭けとなります。
結論として、モデルナ社の辞退という決断は、決して気まぐれや短期的な判断によるものではありませんでした。それは、収益の柱であった市場の確実性が低下する一方で、事業の根幹を揺るがしかねない政治的リスクが急上昇するという、二つの大きな逆風に直面した結果下された、合理的な経営判断だったのです。2023年に採択された時点では戦略的な好機に見えたこのプロジェクトは、わずか2年の間に、そのリスクとリターンのバランスが劇的に悪化し、企業として継続することが困難な事業へと変貌してしまっていたのです。
撤退ではない ― モデルナ・エンザイマティクスと未来のmRNA医薬
モデルナ社が政府補助金事業である製造拠点計画を辞退したというニュースは、一見すると同社の日本市場に対するコミットメントの後退、あるいは「撤退」の兆候と捉えられがちです。しかし、この出来事の深層を理解するためには、同時並行で進んでいたもう一つの重要なプロジェクトに目を向ける必要があります。そのプロジェクトの存在こそが、モデルナ社の決断が単なる撤退ではなく、日本における事業戦略をより高度な次元へと転換させる「戦略的ピボット」であったことを物語っています。
そのもう一つのプロジェクトとは、同じ湘南アイパークの敷地内で建設が進められていた、モデルナ・エンザイマティクス社の研究・製造拠点です。モデルナ社が製造拠点計画の辞退を発表した際にも、このモデルナ・エンザイマティクスの拠点は計画通りに進行していることが明確にされました。発表時点で建物の工事はすでに完了し、研究設備の導入が進められており、2025年内には本格的に稼働を開始する見込みであると明らかにされたのです。
ここで注目すべき最も重要な事実は、このモデルナ・エンザイマティクスの拠点が、辞退された製造拠点計画とは異なり、「公的な資金は一切使用していない」という点です。つまり、これは政府の補助金に依存したプロジェクトではなく、モデルナ社が自社の資金を投じて進める、純粋な民間投資事業なのです。この事実は、モデルナ社の戦略的意思決定の核心部分を浮き彫りにします。同社は、外部環境の変化によって採算性や将来性が不透明になった政府主導の「受託製造」事業からは手を引く一方で、自社の将来の競争力を左右する中核的な「研究開発」事業への投資は、むしろ強化・継続するという明確な選択を行ったのです。
この戦略的な投資の対象であるモデルナ・エンザイマティクスは、元々はオリシロジェノミクス株式会社という名の、日本の大学発のスタートアップ企業でした。モデルナ社は2023年1月、このオリシロジェノミクス社を約8500万ドル(当時の為替レートで約110億円から116億円相当)という大規模な金額で買収し、自社の子会社として迎え入れました 15。この買収は、単に事業規模を拡大するためのものではありませんでした。モデルナ社の公式発表によれば、この買収の目的は、オリシロ社が持つ独自の技術を獲得することによって、「モデルナの一連のプラットフォーム技術を強化」し、「治療薬およびワクチンのポートフォリオ拡大をサポート」することにあるとされています 19。
つまり、モデルナ社は、日本の革新的な技術そのものに大きな価値を見出し、それを自社のグローバルな研究開発戦略の根幹に組み込むために、巨額の投資を行ったのです。この文脈で一連の出来事を捉え直すと、その意味は全く異なって見えてきます。モデルナ社は、日本から撤退するのではありません。むしろ、日本との関わり方を、より戦略的で付加価値の高いものへと進化させたのです。政府の要請に応じてワクチンを大量生産する「製造委託先」という立場から、自社の未来を切り拓くための核心的なイノベーションを生み出す「研究開発パートナー」へと、日本が持つ役割を格上げしたと言えるでしょう。この戦略転換は、モデルナ社が日本の科学技術力、特にバイオテクノロジー分野における独創性を高く評価していることの、何よりの証左なのです。
革新技術の獲得 ― 無細胞DNA合成が拓く新たな領域
モデルナ社が、政府の補助金事業を辞退してまで、自社資金によるモデルナ・エンザイマティクスへの投資を優先した理由。その答えは、同社が買収によって手に入れた技術、すなわちオリシロジェノミクス社が開発した画期的な「無細胞DNA合成技術」の圧倒的な戦略的価値にあります。この技術がなぜそれほどまでに重要なのかを理解するためには、まず従来のmRNAワクチンの製造プロセスを振り返る必要があります。
mRNAワクチンを製造する上で、全ての出発点となるのが「鋳型(いがた)」です。設計図となる遺伝子情報が組み込まれた、環状の二本鎖DNA、いわゆる「プラスミドDNA」がその鋳型にあたります。この鋳型DNAを基にして、酵素反応によってmRNAが大量に合成されるのです。従来、この不可欠なプラスミドDNAを増やすためには、大腸菌などの生きた細菌を利用する方法が一般的でした。目的のプラスミドDNAを大腸菌に導入し、大腸菌を培養して増殖させることで、中のプラスミドDNAも同時に複製・増幅させるという手法です。この方法は確立された技術ではあるものの、生きた細胞を使うがゆえのいくつかの課題を抱えていました。時間と手間がかかること、培養プロセスが複雑であること、そして最終的に大腸菌由来の不純物を完全に取り除くための高度な精製工程が必要になることなどです。
これに対し、オリシロジェノミクス社が発明した技術は、この製造プロセスの常識を覆すものでした。それは、大腸菌のような生きた細胞を一切使わずに、試験管の中で酵素の働きだけを利用してプラスミドDNAを合成・増幅するという「無細胞合成系」の技術です 15。この技術は、mRNAワクチンの製造工程に革命をもたらす可能性を秘めていました。モデルナ社のステファン・バンセルCEOが「大変スマートな技術だ」と称賛し、「プラスミドDNAをバクテリアを使わずに製造できるのは重要だ」と繰り返し述べたことからも、その革新性の高さがうかがえます。
この無細胞合成技術がもたらす利点は、多岐にわたります。第一に、スピードと効率です。生きた細胞の培養という時間のかかるステップを省略できるため、開発から製造までの期間を劇的に短縮できます。第二に、純度と安全性です。大腸菌由来の不純物が混入するリスクが原理的にないため、より純度の高いプラスミドDNAを得ることができ、製造プロセス全体の安全性が向上します。そして第三に、拡張性です。製造規模の拡大や、異なる種類のプラスミドDNAへの切り替えが、従来の培養法に比べてはるかに容易かつ迅速に行えます。これは、様々な種類のワクチンや治療薬を次々と開発・製造する必要があるモデルナ社にとって、計り知れない価値を持つ利点です。この技術は、プラスミドDNAの製造工程と、その下流にあるmRNAの合成工程(これも酵素反応で行われる)を、完全に一貫した「無細胞」の酵素反応プロセスとして繋げることを可能にし、製造全体のシームレス化と効率化を実現するのです。
モデルナ社によるオリシロ社の買収は、自社でゼロから研究開発を行う「R&D(Research & Development)」に代わる、新しいイノベーションの獲得手法である「A&D(Acquisition & Development)」の典型的な成功例と見ることができます 18。つまり、長年の研究の末に日本で生まれた、すでにその有効性が証明されている画期的な技術を、資金力のあるグローバル企業が買収によって獲得し、自社の開発パイプライン全体を加速させるという戦略です。この買収によって、モデルナ社は将来のmRNA医薬品開発における重要な基盤技術を自社のものとしました。これは、単に日本に一つの工場を建てるという話ではなく、mRNAというプラットフォーム全体の競争力を根本から引き上げる、極めて戦略的な一手だったのです。この技術こそが、モデルナ社が短期的な製造契約よりも、長期的な技術的優位性を確保することを選んだ、その理由の核心にあります。
日本のワクチン戦略とモデルナのこれから
モデルナ・ジャパンによるワクチン製造拠点計画の辞退という一連の出来事は、単に一つの事業計画が中止になったという表面的な事実以上に、多くの深い示唆を含んでいます。これは、パンデミック後の世界における国家の安全保障戦略、グローバル企業の経営判断、そして最先端科学技術の価値が、いかに複雑に絡み合っているかを映し出す象徴的な事例と言えるでしょう。この出来事が、日本のワクチン戦略とモデルナ社の双方に何をもたらしたのかを総括することで、その本質的な意味が明らかになります。
まず、日本の国家戦略への影響を考えてみましょう。世界的なmRNAワクチンのパイオニアであるモデルナ社という、非常に知名度の高いパートナーが計画から離脱したことは、日本のワクチン国産化戦略にとって一つの後退であったことは間違いありません。しかし、これを戦略全体の失敗と結論づけるのは早計です。政府が推進する「ワクチン生産体制強化のためのバイオ医薬品製造拠点等整備事業」は、特定の企業一つに依存するのではなく、多様な技術や企業群に投資を分散させる「ポートフォリオ」として設計されていました。実際に、モデルナ社以外にも、ARCALIS社をはじめとするワクチン製造拠点や、製剤化・充填拠点、そして数多くの部素材メーカーなど、多数の国内企業がこの事業に参画し、計画を進めています 22。政府の資料によれば、この事業を通じてワクチン製造拠点が8ヶ所、製剤化・充填拠点が4ヶ所、さらに治験薬製造拠点や部素材の生産拠点の整備が進められており、国内のワクチン生産能力を着実に構築していくという目標そのものは、引き続き追求されています 22。したがって、一つのピースが欠けたとしても、国内自給体制を構築するという戦略の全体像が崩れたわけではないのです。
一方で、モデルナ社の視点に立つと、この決断は失敗ではなく、極めて合理的かつ迅速な「戦略的再配置」であったと評価できます。同社は、COVID-19市場の縮小と米国内の政治的不確実性という二つの大きな逆風を受け、政府補助金に依存する大規模製造事業の将来性を見直しました。そして、そのリスクとリターンを冷静に分析した結果、リソースをより確実で、より価値の高い分野に集中させるという経営判断を下したのです。
その集中させるべき価値の高い分野こそが、日本で生まれた革新的な技術でした。モデルナ社は、政府との製造契約からは手を引く一方で、自社の未来の成長を牽引する可能性を秘めた、オリシロジェノミクス社の無細胞DNA合成技術を中核とする研究開発拠点への投資は継続・強化しました。これにより、モデルナ社のグローバル戦略における日本の位置づけは、劇的に変化しました。単なる「ワクチンの製造拠点候補地」から、同社の競争力の源泉となる「基盤技術を生み出すイノベーションの中心地」へと、その役割が格上げされたのです。
最終的に、この一連の出来事は、日本とモデルナ社の双方にとって、変化する環境に適応するための戦略的な再調整であったと結論づけることができます。日本は、一つの大規模プロジェクトのパートナーを失いましたが、その代わりに、自国の科学技術力が世界のトップ企業にとって不可欠な価値を持つことを再確認しました。そしてモデルナ社は、事業ポートフォリオを合理化し、日本の革新技術を自社の成長エンジンとして明確に位置づけることで、次の10年を見据えた競争基盤をより強固なものにしたのです。これは、パンデミックがもたらした激動の時代において、国家と企業がそれぞれにとって最適な針路を模索した結果であり、両者の関係がより成熟し、新たな協力の形へと進化していく過程の一コマとして、長く記憶されることになるでしょう。
引用文献
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- ワクチン生産体制強化のためのバイオ医薬品製造拠点等整備事業, https://www.meti.go.jp/policy/investment/pdf/02_bio.pdf
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- ワクチン開発・生産体制強化戦略に基づく ワクチン研究開発等の推進状況について, https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/taisakusuisin/dai17_2025/gijisidai_4.pdf
- ワクチン生産体制強化のためのバイオ医薬品製造拠点等整備事業 | ミライサポート, https://www.mirasapo.jp/subsidy/46607
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- 開業医6割超「コロナ定期接種、助成終了に賛成」 | m3.com, https://www.m3.com/news/iryoishin/1270080
- ワクチン市場 2025 | 調査レポート | 富士経済グループ, https://www.fuji-keizai.co.jp/report/detail.html?code=122412914
- ワクチン市場の調査を実施 | プレスリリース - 富士経済, https://www.fuji-keizai.co.jp/press/detail.html?cid=25059
- 治療ワクチンの市場規模、共有|レポート2025-2033 - Global Growth Insights, https://www.globalgrowthinsights.com/jp/market-reports/therapeutic-vaccines-market-109588
- ワクチンの市場規模、シェア、傾向、成長、レポート、2032, https://www.fortunebusinessinsights.com/jp/%E6%A5%AD%E7%95%8C-%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88/%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3%E5%B8%82%E5%A0%B4-101769
- ケネディ氏、ワクチンの安全性と有効性を「直ちに」調査 トランプ次期政権で - CNN, https://www.cnn.co.jp/usa/35225834.html
- ロバート・ケネディ・ジュニア氏“ワクチンに否定的”報道に強く反論 トランプ政権の厚生長官に指名され議会公聴会出席|TBS NEWS DIG - YouTube, https://www.youtube.com/watch?v=klVjduweLH4
- ケネディ米保健福祉省長官、ワクチン諮問委員17人全員解任 ..., https://www.cnn.co.jp/usa/35234050.html
- 主な卒業企業一覧 - 東京大学 産学協創推進本部, https://www.ducr.u-tokyo.ac.jp/activity/venture/graduation_list.html
- 7/5(水) 「産学連携/技術投資セミナー~ゲノム技術スタートアップ オリシロのモデルナへのM&A Exitの軌跡~」 - 一般社団法人日本ベンチャーキャピタル協会, https://jvca.jp/event/37624.html
- 米・モデルナ 東京拠点のオリシロジェノミクス社を8500万ドルで買収 戦略的補完で研究開発を加速, https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=74163
- あのモデルナが日本のバイオスタートアップを約116億円で買収した理由とは?加速する新たなM&A手法「A&D」, https://journal.macloud.jp/posts/article_0026
- モデルナ、オリシロジェノミクス株式会社を買収へ | Moderna, Inc.のプレスリリース - PR TIMES, https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000081.000064549.html
- モデルナ、オリシロジェノミクス株式会社を買収へ - Pioneering ..., https://www.modernatx.com/ja-JP/press-release/2023/20230104
- モデルナ、オリシロ買収で新薬開発加速へ – M&A HACK - 合同会社SFS, https://sfs-inc.jp/ma/11696/
- 次の感染症危機に備えた取組の進捗状況について ... - 内閣官房, https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/taisakusuisin/dai17_2025/gijisidai_full_1.pdf
- ワクチン生産体制強化のためのバイオ医薬品製造拠点等整備事業 - 経済産業省, https://www.meti.go.jp/information_2/publicoffer/review2024/kokai/2024kikinsheet05.pdf