ビジネス全般

2026年、薬代が10倍に?OTC類似薬の保険外しが家計と健康を直撃

2025年8月13日

私たちの暮らしと健康を支える日本の公的医療保険制度が、今、極めて大きな転換点を迎えようとしています。その中心にあるのが、政府が検討を進めている「OTC類似薬の保険適用除外」という政策です。早ければ2026年度にも実施が目指されているこの政策は、市販薬(Over-the-Counter drug, OTC)として薬局でも購入できる成分を含む医療用医薬品、約7,000品目を公的医療保険の対象から外すというものです 1

これは単なる制度の一部見直しではありません。風邪薬や湿布薬、保湿剤といった、多くの国民が日常的に医師から処方されてきた薬が、ある日を境に全額自己負担となる可能性を意味します。この変更は、日本の医療アクセス、医療費の負担構造、そして国民皆保険制度が長年守ってきた「いつでも、どこでも、誰でも安心して医療を受けられる」という基本理念そのものに、深く関わる重大なテーマなのです。

表面的な目標と隠された論点

政府がこの政策を推進する表向きの理由は、大きく二つあります。一つは、増え続ける国民医療費の抑制です。そしてもう一つが、「セルフメディケーション」の推進、つまり、軽微な身体の不調は自分自身で手当てするという考え方を国民に広めることです 1。確かに、財政の持続可能性は国家的な課題であり、個人の健康意識を高めることの重要性も否定できません。

しかし、この政策を巡る議論は、そうした表面的な目標のはるか先に、より本質的な論点を内包しています。それは、公的保険でカバーすべき「必要な医療」とは何かという定義の問い直しであり、個人の責任である「自助」と、社会全体で支え合う「公助」の境界線をどこに引くのかという、社会保障の根幹を揺るがす問いでもあります。医療費削減という目標のために、患者の経済的負担増や健康リスクの増大という代償を払うことは許されるのか。この問いこそが、本政策が社会に突きつけている論点といえるでしょう。

この記事では、このOTC類似薬の保険外しという複雑な問題を、多角的に解き明かしていくことを目的とします。この記事を通じて、読者の皆様がこの重要な問題を深く理解するための一助となれば幸いです。

なぜ今、「保険外し」なのか?〜政策の背景〜

医療費抑制という国家的な課題

この政策がこれほどまでに注目を集める根本的な背景には、日本の医療財政が直面する、避けては通れない厳しい現実があります。日本の国民医療費は、高齢化の進展などを背景に増大を続け、2023年度には44兆円を超える規模に達しました。今後も、特に85歳以上の後期高齢者人口が2040年頃のピークに向けて増加し続けると見込まれており、医療費のさらなる増大は避けられない状況です 6

このような財政状況の中で、政府や財務省は長年にわたり医療費を抑制するための様々な方策を模索してきました。その中で、今回対象となっているOTC類似薬は、特に注目される領域でした。なぜなら、このカテゴリーに分類される医薬品の薬剤費だけで、年間約1.0兆円に上ると試算されているからです。これは国民医療費全体の約2.3%に相当する巨大な金額であり、もしこの部分を削減できれば、財政的なインパクトは非常に大きいと考えられています 4。つまり、OTC類似薬の保険外しは、単なる思いつきではなく、医療費抑制という国家的な課題に対する、具体的かつ効果が大きいと期待される「切り札」の一つとして、以前から有力視されてきた政策なのです。

政治的推進力:維新の会の提言と三党合意

長年くすぶっていたこの政策案が、一気に現実味を帯びてきた背景には、特定の政党による強力な政治的推進力がありました。特に、日本維新の会は、このOTC類似薬の保険適用除外を党の重要政策として掲げ、積極的に政府・与党に働きかけてきました 1。同党は、国民の社会保険料負担を軽減するための「身を切る改革」の一環として、年間4兆円の医療費削減プランを提言しており、その中でOTC類似薬の保険外しは1兆円の削減効果があると試算し、中心的な役割を担うものと位置づけています 7

国会審議の場では、同党所属の猪瀬直樹参議院議員らが中心となり、「風邪程度で医師の診察は本来不要なはずだ」と主張し、ヒルドイドやロキソニンなど具体的な医薬品名を挙げながら、これらを保険給付から除外するよう繰り返し迫りました 7。このような維新の会の強い働きかけは、少数与党という国会の状況も相まって、大きな政治的影響力を持つに至りました 4

そして2025年、この動きは決定的な段階を迎えます。自由民主党、公明党、そして日本維新の会の三党が、社会保障改革に関する協議を行い、OTC類似薬の保険給付の見直しを2026年度から実施することを目指すという内容で合意したのです 2。この三党合意によって、OTC類似薬の保険外しは、単なる一政党の提案から、政府の公式な検討課題へと格上げされ、「骨太の方針2025」にも明記されることになりました 2。ただし、その合意文書には「こどもや慢性疾患を抱えている方、低所得の方の患者負担などに配慮しつつ」といった慎重な文言も盛り込まれており、推進派と慎重派の間での政治的な緊張関係も垣間見えます 5。この政策の浮上は、純粋な医療政策的判断というよりも、特定の政治力学が働いた結果であるという側面を色濃く持っているのです。この決定過程が、医療関係者の一部からは「密室協議」であると批判される一因ともなっています 11

「セルフメディケーション推進」という大義名分

政府がこの政策を国民に説明する際に用いる、最も重要な公的理由が「セルフメディケーションの推進」です 1。これは、自分の健康は自分で守るという意識を高め、軽い症状であれば医師の診察を受けずに、薬局などで購入できる市販薬(OTC医薬品)で対処することを奨励する考え方です。実際に、諸外国と比較して、日本では市販薬の利用割合が低いというデータもあり、セルフメディケーションの進展にはまだ伸びしろがあるとされています 12

この考え方に基づけば、OTC類似薬を保険適用から外すことは、患者が安易に医療機関に頼るのではなく、まずは市販薬で対応するという行動変容を促すきっかけになると期待されます。しかし、この「セルフメディケーション推進」という大義名分に対しては、医療界から強い懸念が示されています。日本医師会などは、日本人の健康や医療に関する知識、いわゆるヘルスリテラシーが必ずしも高くない現状で、自己判断による市販薬の使用を推し進めることの危険性を指摘しています 13

さらに、この政策は真の健康増進を目的としたものではなく、実態は医療費削減という財政的な目的を達成するための手段として「セルフメディケーション」という言葉が利用されているのではないか、という批判も根強くあります 15。つまり、国民の健康を守るためのセルフメディケーションではなく、国の財政を守るためのセルフメディケーションになってしまうのではないか、というわけです。この点は、政策の是非を考える上で極めて重要な論点と言えるでしょう。

諸外国の先行事例:ドイツとイギリスの教訓

医療費の抑制と公的保険のあり方に関する悩みは、日本だけが抱える問題ではありません。世界各国の医療先進国もまた、同様の課題に直面し、様々な改革を試みてきました。これらの先行事例は、日本の将来を考える上で貴重な教訓を与えてくれます。

例えばドイツでは、2004年の医療制度改革の一環として、成人に対するOTC医薬品の処方が公的医療保険の償還対象から外されました 17。これは、医療費の急増に歯止めをかけるための大胆な措置であり、薬剤に対する患者の一部負担も価格に応じて引き上げられるなど、痛みを伴う改革でした 18。この改革を機に、ドイツの薬局ではOTC医薬品の相談販売が薬剤師の重要な業務の一つとなり、セルフメディケーションを支える専門家の役割がより重視されるようになりました 17

一方、イギリスの国民保健サービス(NHS)は、設立当初、処方箋薬はすべて無料でしたが、財政的な圧力から自己負担制度が導入された歴史を持ちます 19。現在でもイングランドでは処方箋一枚あたりに定額の自己負担が課されています。ただし、イギリスの医療は近年、深刻な人手不足や長い待機時間といった問題を抱え、医療崩壊の危機にあるとも指摘されており、財源の確保がいかに難しい課題であるかを示唆しています 21

また、フランスでは、医薬品の効果や重篤性などに応じて、国が負担する償還率を複数段階に設定するという、よりきめ細やかな制度を導入しています 22。これらの国々の経験は、医療費抑制策には様々なアプローチがあり得ること、そしてどの道を選んでも、必ず何らかの長所と短所が伴うことを教えてくれます。日本の改革を議論する際には、こうした海外の事例から得られる知見を十分に踏まえる必要があるでしょう。

患者の財布と健康を揺るがす波紋

薬代が10倍以上に?〜家計を直撃する経済的負担〜

この政策が実施された場合、患者が最初に直面するのは、これまでとは比較にならないほどの急激な経済的負担の増加です。現在、医療機関で処方される薬は、公的医療保険が適用されるため、患者の自己負担は原則として費用の1割から3割で済んでいます。しかし、保険適用から外れると、患者は薬の代金を10割、つまり全額自己負担で支払わなければならなくなります。

その影響は、具体的な例を見るとより鮮明になります。例えば、多くの人が腰痛や肩こりで使用する鎮痛消炎剤のロキソニンテープ7枚は、現在3割負担であれば120円程度の自己負担ですが、保険適用外となれば市販薬の価格である約2,000円を支払う必要が生じ、負担は約17倍にもなります。アレルギー性鼻炎の治療薬であるアレジオン錠も、処方薬であれば24日分で約160円の負担だったものが、市販薬では約2,000円となり、負担は10倍以上に膨れ上がります 5。さらに深刻なのは、皮膚の炎症を抑えるリンデロンVs軟膏のような薬で、100gの処方では現在の約1,000円から、市販価格の約20,000円へと、実に20倍もの価格上昇が見込まれるケースもあります。

この負担増は、特に慢性的な疾患を抱える患者にとって、日々の生活を直撃する深刻な問題となります。例えば、アトピー性皮膚炎の治療で保湿剤のヒルドイドクリームを継続的に使用している患者の場合、年間で5万7,000円以上もの追加負担が発生するという試算もあります。これは、子育て世代や年金で暮らす高齢者、低所得者層の家計にとって、決して軽視できない金額です。

さらに、この政策は、自治体が独自に行っている「子ども医療費助成制度」や、国が難病患者の医療費を補助する「公費負担医療制度」の効果をも無力化してしまうという側面も持っています。これらの助成制度は、あくまで保険診療を対象としているため、OTC類似薬が保険適用から外れた瞬間に、助成の対象からも外れてしまうのです 2。結果として、これまで医療費の心配が少なかった子どもや難病患者も、高額な薬代を全額自己負担で支払わなければならなくなる可能性があります。これは、少子化対策や社会的な弱者支援という国の大きな方針とも逆行する事態を招きかねません 2

受診控えが招く健康リスクの増大

経済的な負担の増大は、単に家計を圧迫するだけでなく、より深刻な問題、すなわち「受診控え」を引き起こし、国民の健康を危険に晒す可能性があります。薬代が高くなるのであれば、病院に行くのをやめよう、あるいは薬をもらうのを控えよう、と考える人が増えるのは自然な流れです。実際、ある調査では、年収が低い層ほど、金銭的な負担を理由に医療機関の受診を抑制する傾向が強いことが示されています 24

日本医師会をはじめとする多くの医療専門家団体は、この受診控えがもたらす健康リスクに強い警鐘を鳴らしています 14。一見すると軽い症状に見えても、その背後には重篤な病気が隠れているケースは決して少なくありません。例えば、ただの腰痛だと思って市販のロキソニンテープで痛みを和らげていた患者が、実際には帯状疱疹だったという場合を考えてみましょう。もし受診を控えてしまったら、帯状疱疹の治療に不可欠な抗ウイルス薬の処方を受ける機会を逃してしまいます。その結果、症状が悪化し、耐え難い神経痛などの後遺症に長く苦しむことになるかもしれません。

このように、適切な初期診断・初期治療の機会を失うことは、病気の重症化を招き、最終的にはかえってより高額な医療費が必要となる事態にもつながりかねません。日本医師会がこの問題を「命の危険」に関わるものだと警告しているのは、こうした背景があるからです 26

さらに、自己判断による市販薬の使用が増えることで、副作用や誤用による事故の増加も懸念されます。特に日本では、健康や医療に関する情報(ヘルスリテラシー)を適切に理解し活用する能力が、諸外国に比べて低いという指摘もあります 13。そのような状況で、医師の診断なしに薬を選ぶ人が増えれば、症状に合わない薬を使ったり、飲み合わせの悪い薬を併用してしまったりする危険性が高まります。これは、国民の安全を脅かす、極めて憂慮すべき事態と言えるでしょう。

広がる医療格差

この政策がもたらすもう一つの深刻な帰結は、「医療格差」の拡大です。経済的な理由で必要な薬の購入や医療機関の受診を断念する人が増えれば、健康は個人の経済力によって左右されるものになってしまいます。高額な市販薬を購入できる人は適切な対処ができますが、そうでない人は痛みを我慢したり、不適切な処置で症状を悪化させたりするしかありません。これは、医療アクセスにおける不平等を助長し、社会全体の健康水準を低下させる恐れがあります 14

この政策は、結果として、病気という同じ困難に直面しながらも、所得によって受けられる医療の質に差が生まれるという、二極化した社会構造を生み出しかねません。これは、誰もが安心して医療を受けられる社会を目指してきた、日本の国民皆保険制度の理念そのものを根底から揺るがす問題です。医療費削減という目的のために、国民の間に新たな分断と格差を生み出すことが、果たして許されるのでしょうか。この問いは、社会全体で真剣に考えるべき重い課題です。

混乱の最前線〜医療現場が直面する新たな課題〜

患者への説明責任という新たな重圧

政策が変更されるとき、その影響の矢面に立たされるのは、常に現場の人間です。OTC類似薬の保険外しが実施されれば、医師や薬剤師は、患者一人ひとりに対して、これまでとは全く異なる、困難な説明責任を負うことになります。長年にわたって当たり前のように保険で処方されてきた薬について、「来月からこの薬は保険が効かなくなりますので、全額自己負担で市販薬を買ってください」と伝えなければならないのです。

特に、アトピー性皮膚炎でヒルドイドを、あるいは慢性的な痛みで湿布薬を、生活に不可欠な薬として長期間使用してきた患者に対して、この事実を突然告げることは、患者にとって大きな衝撃であると同時に、伝える側の医療者にとっても計り知れないストレスとなります 27。患者からは当然、「なぜ今まで使えていた保険が使えなくなるのか」「どうして自分だけが負担しなければならないのか」といった疑問や不満、時には怒りの声が上がるでしょう。

これらの質問に一つひとつ丁寧に対応し、患者の納得を得るためには、膨大な時間と労力が必要となります。限られた診察時間の中で、本来の医学的な診療に加えて、このような制度変更に関する説明に多くの時間を割かなければならなくなれば、外来診療全体の効率性は著しく低下します。結果として、他の患者の待ち時間が長くなるなど、医療サービスの質の低下にもつながりかねません。これは、医療現場の疲弊を招き、医師と患者の信頼関係をも損ないかねない、深刻な問題なのです。

処方パターンの変化と意図せざる医療費増大

医療現場で起こる変化は、患者への説明負担の増加だけではありません。医師の処方パターンそのものが変化し、結果として政策の目的とは全く逆の「医療費の増大」を招くという、皮肉な事態が起こる可能性も指摘されています。

多くの医師は、患者の経済的な負担を目の当たりにすれば、それを少しでも和らげたいと考えるでしょう。その結果、保険適用外となったOTC類似薬の処方を避け、代わりに保険が適用される別の薬を処方するという選択をする可能性があります 4。問題は、その代替薬が、もともとのOTC類似薬よりも高価な薬である場合が少なくないことです。

このような処方のシフトが多くの医療機関で起これば、国全体で見たときに、OTC類似薬の保険外しによって削減されるはずだった医療費が、高価な代替薬の費用増によって相殺されてしまう、あるいは逆に総医療費が増加してしまうという「本末転倒」な結果になりかねません 4。これは、政策の有効性そのものを根底から揺るがす、極めて重要なリスクです。

システム改修の技術的・経済的負担

現代の医療は、電子カルテやレセプト(診療報酬明細書)コンピュータといったITシステムによって支えられています。OTC類似薬の保険外しは、この医療のインフラにも大きな影響を及ぼします。約7,000種類にも及ぶ膨大な数の医薬品について、保険適用の可否を瞬時に判断し、会計処理を正確に行うためには、既存のシステムを大規模に改修する必要があります 28

このシステム改修は、技術的にも経済的にも、医療機関や薬局にとって大きな負担となります。どの薬が対象で、どの薬が対象外なのかを正確に識別するロジックをシステムに組み込み、在庫管理や会計システムと連携させる作業は、決して簡単なことではありません。特に、潤沢な資金やIT専門スタッフを持たない中小規模のクリニックや個人経営の薬局にとっては、改修にかかるコストや、専門業者への対応依頼は深刻な経営課題となるでしょう。

万が一、システムの対応が遅れたり、不具合が発生したりすれば、会計ミスや患者への誤った請求といったトラブルが頻発する恐れもあります。制度開始までに十分な準備期間が確保されなければ、現場は大きな混乱に見舞われることになります。これは、政策の円滑な施行を妨げる、見過ごすことのできない実務的な障壁です 28

「混合診療」という法的ジレンマ

この政策が抱える課題の中で、最も複雑なものの一つが「混合診療」を巡る法的なジレンマです。日本の公的医療保険制度には、「混合診療の原則禁止」という大原則があります。これは、一つの医療行為(例えば、診察から処方までの一連の流れ)の中で、保険が適用される「保険診療」と、適用されない「自由診療」を混在させてはならない、というルールです。

OTC類似薬が保険適用から外れた場合、この原則が大きな壁として立ちはだかります。医師による診察は保険診療ですが、その結果として処方されるOTC類似薬は保険外(自由診療)となります。この二つが同じ診察の中で行われると、混合診療と見なされ、健康保険法の規定により、診察料も含めたすべての費用が全額自己負担となってしまうリスクがあるのです 29

この法的な問題を回避するための策として、政府内で検討されているのが「選定療養費制度」の活用です 10。これは、保険外併用療養費制度の一種で、差額ベッド代などのように、保険診療と併用が認められている特定のサービスについて、その部分だけを自己負担とする仕組みです。この制度をOTC類似薬に適用すれば、診察料は保険適用のまま、薬代だけを全額自己負担にすることが法的に可能になります。

しかし、この解決策に対して、医療界からは強い警戒の声が上がっています。選定療養制度は、本来、患者が快適性などを求めて自ら「選択」するサービスを対象としたものであり、治療に不可欠な医薬品に適用するのは制度の趣旨を逸脱した「乱用」であるという批判です 10。反対派は、一度この方法が定着してしまうと、政府が医療費を削減したいと考える他の医薬品や医療技術が、次々とこの仕組みを使って保険から外されていく「脱保険の橋頭堡(きょうとうほ)」、あるいは「打ち出の小槌」になりかねないと危惧しています 10。これは、なし崩し的に国民皆保険制度が侵食され、形骸化していく危険な道筋である、というわけです。この法的問題は、単なる技術的な課題ではなく、日本の医療保険制度の未来を左右する、極めて重要な論点といえるでしょう。

社会全体への影響と政策への疑問符

医薬品不足問題の深刻化

この政策がもたらす影響は、患者や医療機関の内部にとどまりません。社会全体、特に医薬品の安定供給という、国民の健康を支える基盤そのものを揺るがす可能性があります。現在、多くの患者が医療機関で処方してもらっているOTC類似薬が保険適用外となれば、それらの薬を市販薬として薬局で購入しようとする需要が、ある日を境に爆発的に増加することが予想されます。

この急激な需要のシフトに、製薬会社の生産体制や医薬品の流通網が即座に対応できるとは限りません。その結果、ロキソニンテープやヒルドイドといった、これまでも需要が高かった人気製品を中心に、全国的な品薄や在庫切れが頻発する事態が懸念されます。特に、医薬品の在庫を潤沢に確保することが難しい地方の小規模な薬局などでは、患者が必要な時に必要な薬を手に入れられないという状況が深刻化する恐れがあります。SNS上では、すでに「薬が買えなくなるのではないか」という患者からの不安の声が上がっており、これは決して杞憂ではありません。医薬品の安定供給は国民の命と健康を守るための生命線であり、この政策がその基盤を揺るがすリスクを内包していることは、十分に認識されるべきです。

医療費削減効果への根本的な疑問

そもそも、この政策が掲げる最大の目標である「医療費の削減」が、本当に達成できるのかどうかについては、根本的な疑問符が付きます。政府や推進派は、OTC類似薬にかかる年間約1.0兆円の薬剤費が削減できる可能性があると主張しています 4。しかし、この数字はあくまで理論上の最大値に過ぎません。

前述したように、多くの医師が患者の経済的負担を考慮し、保険適用外となった安価なOTC類似薬の代わりに、保険が適用される高価な代替薬を処方するようになる可能性があります 4。このような処方シフトが広範囲で起これば、削減されるはずだった医療費は、高価な代替薬の費用増によって大きく相殺されてしまいます。最悪の場合、削減効果がほとんどなくなってしまう、あるいは逆に国全体の総医療費が増加するという本末転倒な結果すら考えられるのです。

このように、政策の最終的な経済効果は極めて不透明であり、期待されているほどの医療費削減が実現できるという保証はどこにもありません。国民に大きな負担と健康リスクを強いる一方で、その最大の目的である財政効果すら定かでないとすれば、この政策を急いで実施することの妥当性そのものが、厳しく問われるべきでしょう。

薬機法改正との矛盾:「処方箋は必要、でも保険は使えない」最悪のシナリオ

この政策を巡る議論の中で、最も不可解で、国民にとって不利益となりかねないのが、厚生労働省が同時に進めている別の法律、すなわち「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律(薬機法)」の改正案との間に存在する矛盾です。

現在、一部の薬局では「零売(れいばい)」という形態で、医師の処方箋なしに医療用医薬品を販売することが慣行として行われています。これに対し、厚生労働省は安全性の観点から、この零売を厳格化する薬機法の改正を検討しています。この改正案が成立すると、OTC類似薬を含む多くの医療用医薬品は、「やむを得ない場合」を除き、医師の処方箋がなければ販売できなくなります 1

ここで、二つの政策が同時に実現した場合の状況を考えてみましょう。一方では、OTC類似薬が保険適用から外されます。もう一方では、その薬を購入するために医師の処方箋が法的に義務付けられます。これは、患者にとって「処方箋は必要、でも保険は使えない」という、まさに最悪のシナリオです 4

患者は、薬を手に入れるためだけに、まず医療機関を受診し、診察料を払って処方箋を発行してもらう必要があります。そして、その処方箋を持って薬局へ行き、今度は保険が一切効かない高額な薬代を全額自己負担で支払わなければなりません。これは、時間的にも経済的にも、患者に最大の負担を強いる仕組みです。政府が推進しようとしている「セルフメディケーション」の理念、つまり、手軽に自分の健康を管理するという考え方とは、全く逆の方向を向いています 4。このように、政府内で進められている異なる政策が互いに矛盾し、結果として国民の利便性を著しく損なうという事態は、政策決定過程における全体的な整合性の欠如を象徴していると言えるでしょう。

反対の声と日本の医療の行方

医療界・患者団体からの総意としての反対

OTC類似薬の保険外しという政策案に対して、医療の現場を担う専門家や、実際に治療を受けている患者の立場から、極めて広範かつ強力な反対の声が上がっています。これは、一部の団体による限定的な動きではなく、医療界の総意に近い、統一された反対運動であると言えます。

まず、医師を代表する日本医師会は、会長自らが記者会見の場で繰り返し、この政策が患者と医療機関の双方に不利益をもたらし、医療現場を混乱させると強く表明しています 13。同様に、全国の薬局や薬剤師で組織される日本薬剤師会も、公式に反対の見解を示しています 31。さらに、診療所の医師らで構成される全国保険医団体連合会(保団連)も、患者負担の増大や医療の質の低下を理由に、最も強硬な反対論者の一つとして活動しています 32

こうした専門家団体だけでなく、患者の立場からも切実な声が上がっています。特に、アトピー性皮膚炎の患者団体である日本アトピー協会は、この政策が実施されれば、多くの患者が莫大な経済的負担によって治療の継続を断念し、重症化する人が増加するのは明らかだと訴えています 32。同協会や他の患者・家族らは、政策の再考を求める要望書や、数万筆、時には十数万筆にも上る反対署名を厚生労働省に提出するなど、具体的な行動を通じてその窮状を訴え続けているのです 11。このように、医療を提供する側と受ける側の両方から、これほどまでに一致した反対意見が表明されているという事実は、この政策が現場の実態からいかに乖離しているかを示唆しています。

反対論の核心:「国民皆保険の理念」の形骸化

これら多くの団体が掲げる反対論の核心には、共通するいくつかの重要な論点があります。第一に、患者負担の急激な増加は、社会全体で病気や怪我のリスクを支え合うという「公助」の精神からの後退であり、容認できないという点です。第二に、経済的な理由による受診控えを助長し、自己判断による不適切な市販薬の使用を増やすことで、国民の健康と安全を危険に晒すという、医療安全保障上の懸念です 14

そして、これらの根底にある最も本質的な批判は、この政策が日本の「国民皆保険制度の理念」そのものを形骸化させてしまうという危機感です。日本医師会の松本会長らが指摘するように、日本の医療保険制度の根幹は、国民が必要かつ適切な医療を、経済的な心配をすることなく、保険給付の範囲内で受けられることを保障する点にあります 13。しかし、今回の政策は、財政的な目標を優先するあまり、軽症と見なされた疾患に対する給付を切り捨てるものです。これは、国民皆保険というセーフティネットに穴を開け、その理念を内側から侵食していく行為に他ならない、というのが反対論の最大の主張なのです 13。彼らは、医療費削減という目的のために、国民の生命と健康を犠牲にするような政策決定は決してあってはならないと、強く訴えています。

政策の行方と代替案の模索

こうした医療界や国民からの強い反対を受け、政府も当初の計画通りに政策を進めることは困難な状況にあります。実際、今国会での合意形成は断念され、実施目標は2026年度以降へと先送りされました。しかし、政策そのものが撤回されたわけではなく、今後も政府と反対派との間で、厳しい交渉が続くことが予想されます 1

では、反対派は単に現状維持を主張しているだけなのでしょうか。そうではありません。彼らは、医療費抑制の必要性自体は認めつつも、その方法として、多くの国民に影響が及ぶ給付削減ではなく、より構造的な改革を進めるべきだと主張しています。例えば、日本医師会は、2040年を見据えた長期的な視点から、医療提供体制そのものを再構築するビジョンを提言しています。これには、高度急性期医療を担う病院と、回復期や在宅医療を支える病院・診療所の役割分担を明確化し(「治す医療」と「治し支える医療」の連携)、地域ごとに最適な医療・介護提供体制を構築していくといった、より本質的な効率化策が含まれています 6

また、保団連は、医療費を抑制するのではなく、むしろ無保険者をなくし、窓口負担を引き下げることで、誰もが安心して医療にかかれる体制を強化することが、結果的に国民の健康を守り、社会を安定させると主張しています 35。これらの代替案は、安易な給付カットに頼るのではなく、医療制度全体の質と効率性を高めることで持続可能性を確保しようとする、より建設的なアプローチと言えるでしょう。今後の政策議論は、こうした代替案も含めて、より広い視野で行われる必要があります。

おわりに:求められる「国民のための」医療改革とは

拙速な導入がもたらす危険性

OTC類似薬の保険適用除外という政策は、医療費削減という目標を掲げながらも、その実現には数多くの課題とリスクを伴います。対象となる約7,000品目の具体的なリストや、混合診療を回避するための運用ルールといった、制度の根幹に関わる部分さえ未だに明確化されていないのが現状です。

このような準備不足の状態で拙速に導入を強行すれば、その結果は火を見るより明らかです。患者は突然の負担増に戸惑い、経済的な理由から必要な治療を諦めるかもしれません。医療現場では、患者への説明やシステムの改修に追われ、本来の診療業務が麻痺するほどの混乱が生じるでしょう。そして、期待された医療費削減効果も、高価な代替薬への処方シフトによって水泡に帰す可能性があります。

これは、誰にとっても望ましくない結末です。医療費削減という目標は理解できるものの、国民の健康と医療現場の安定を犠牲にしてまで、急いで実施すべき政策では断じてないのです。

慎重な政策運営への提言

では、私たちはどのような道を歩むべきなのでしょうか。求められるのは、拙速な改革ではなく、国民と医療現場の声に真摯に耳を傾ける、慎重な政策運営です。もしこの政策を進めるのであれば、少なくとも以下の三つの措置をセットで、かつ十分な準備期間を設けて実施することが不可欠です。

  • 第一に、対象となる医薬品のリストを早期に公開し、国民と医療機関が十分な時間をかけて準備できるようにすること。
  • 第二に、経済的な理由で治療が中断されることがないよう、低所得者や慢性疾患の患者に対する手厚い補助金や負担軽減措置を制度として確立すること。
  • 第三に、社会的な影響を最小限に抑えるため、一度に全ての品目を対象とするのではなく、影響の少ない品目から段階的に導入を進めること。

これらの配慮なくして、国民の理解と協力を得ることは不可能でしょう。

医療費削減と国民皆保険の調和

日本の医療が、財政的な持続可能性の確保という大きな課題に直面していることは紛れもない事実です。しかし、その解決策が、国民皆保険制度という、先人たちが築き上げてきた貴重な社会的資産を損なうものであってはなりません。真の医療改革とは、単なるコストカットではなく、医療の質とアクセスを維持・向上させながら、いかにして制度を未来へとつないでいくかという、より高い次元の知恵が問われるものです。

今回のOTC類似薬を巡る議論は、私たち日本社会が、どのような医療の未来を選択するのかを問う、一つの重要な試金石です。目先の財政数字にとらわれるのではなく、全ての国民が安心して健やかに暮らせる社会とは何かという原点に立ち返り、透明性の高いプロセスのもとで、全ての関係者が納得できる改革の姿を模索していくこと。それこそが、今、私たちに求められている最も重要な責務なのです。

引用文献

  1. 薬機法改正とOTC類似薬の保険適用除外|大阪府医師会, https://www.osaka.med.or.jp/doctor/doctor-news-detail?no=20250625-3112-6&dir=2025
  2. 【骨太の方針2025・OTC類似薬の保険外し】早期に実現可能なもの ..., https://hodanren.doc-net.or.jp/info/news/2025-06-13-2/
  3. 後半:2025.3.6予算委員会猪瀬直樹議員「高齢者で、ちょっとま、暇つぶしに病院行って、なんとなく湿布薬もらってくると、これだけで保険がかかるわけですね」の神質疑です。|yama - note, https://note.com/kokubunji_sumi/n/n8696f55978c6
  4. OTC類似薬議論のポイント - 日本総研, https://www.jri.co.jp/file/report/viewpoint/pdf/15607.pdf
  5. 【自民・公明・維新の3党合意・OTC類似薬の保険外し】負担軽減どころか患者負担が”激増”する, https://hodanren.doc-net.or.jp/info/news/2025-06-12/
  6. 2040 年頃に向けた医療提供体制の総合的な改革に関する意見 案 - 厚生労働省, https://www.mhlw.go.jp/content/10801000/001357466.pdf
  7. OTC類似薬―国民皆保険制度の崩壊に繋がる改悪を許すな, https://aichi-hkn.jp/statement/20179
  8. OTC類似薬の保険除外で1兆円削減可能 - 猪瀬直樹・参議院議員に聞く Vol.2 | m3.com, https://www.m3.com/news/iryoishin/1273818
  9. 【社会保障改悪の自公維3党協議】日本維新の会が28有効成分の薬の保険給付外し迫る, https://hodanren.doc-net.or.jp/info/news/2025-04-24/
  10. 2025/5/7 政策部長談話「脱保険の橋頭堡となる危険性大 選定療養によるOTC類似薬の保険外しを警鐘する」 | 神奈川県保険医協会とは | いい医療.com, https://www.hoken-i.co.jp/outline/h/202557otc.html
  11. 日常生活が犠牲に 保険外しやめて/OTC類似薬 厚労相要請/患者家族ら - 日本共産党, https://www.jcp.or.jp/akahata/aik25/2025-07-11/2025071101_03_0.html
  12. 市販品類似薬に係る保険給付の見直し, https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/reform/wg1/271029/shiryou1-2-3.pdf
  13. 日医・松本会長 財政審のOTC類似薬の保険給付見直し「容認する ..., https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=77469
  14. OTC類似薬の保険適用除外、日医が示した3つの懸念点|医師向け ..., https://www.carenet.com/news/general/carenet/60153
  15. OTC類似薬の保険適用除外「重大な危険を伴う」、日医 - m3.com, https://www.m3.com/news/iryoishin/1258067
  16. 日医・松本会長 「OTC医薬品の原理・原則を軽視し、経済性に過度に偏った施策は許されない」と表明 - ミクスOnline, https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=78532
  17. ドイツの薬局・薬剤師レポート - m3.com, https://www.m3.com/news/open/iryoishin/387132
  18. ドイツの医療保険制度改革 - 国立社会保障・人口問題研究所, https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/17209403.pdf
  19. 人々の健康を支える - NHS - - 英国ニュースダイジェスト, http://www.news-digest.co.uk/news/features/24314-nhs.html
  20. 国民保健サービス - Wikipedia, 国民保健サービス - Wikipedia
  21. イギリスの医療崩壊|イギリス医療と看護師を取り巻く問題 - なないろ, https://mari7iro.com/nhs-nurse-issues/
  22. 薬剤費を取り巻く施策動向 3.1.諸外国の保険収載制度及び薬価改定ルールの整, https://www5.cao.go.jp/keizai3/2017/08seisakukadai13-8.pdf
  23. 【OTC類似薬の保険外し】子どもや慢性疾患患者の負担増否定せず―厚労大臣会見, https://hodanren.doc-net.or.jp/info/news/otc_250617/
  24. 患者に寄り添った制度改革のポイントとは? | MRIオピニオン(2025年5月号) | ナレッジ・コラム, https://www.mri.co.jp/knowledge/opinion/2025/202505_2.html
  25. 選定療養によるOTC類似薬の 保険外しを警鐘する - 神奈川県保険医協会, https://www.hoken-i.co.jp/backnumber/1b0ac31b8f7120637920920a4b055665de95e205.pdf
  26. 社会保険料の削減を目的としたOTC類似薬の保険適用除外やOTC医薬品化に強い懸念を表明, https://www.med.or.jp/nichiionline/article/012078.html
  27. 「OTC類似薬巡る問題、理解が不十分」松本日医会長が警鐘 - m3.com, https://www.m3.com/news/iryoishin/1281288
  28. 薬局界激震!OTC類似薬保険適用除外で変わる調剤業務の未来 - 薬局 ..., https://pharmacydx.com/news/1626
  29. 【財政審】OTC類似薬の保険適用の在り方、「新たな選定療養」として薬剤費自己負担の案, https://www.dgs-on-line.com/articles/2982
  30. 公的医療保険の 給付範囲の見直しについて - 内閣府, https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/reform/committee/20200323/shiryou4_1.pdf
  31. 【日本薬剤師会】OTC類似薬の保険外し政策に反対表明 - ドラビズ on-line, https://www.dgs-on-line.com/articles/2887
  32. OTC類似薬の保険外し「検討中止を」 - CBnewsマネジメント, https://www.cbnews.jp/news/entry/20250710185721
  33. 【25年参院選】維新・国民・参政はOTC類似薬保険除外を公約, https://hodanren.doc-net.or.jp/info/news/2025-07-09/
  34. 日医・松本会長 財政審・建議に「医療の削減ありきの主張は納得できない」 技術革新含めた財源確保を - ミクスOnline, https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=78432
  35. 患者負担の軽減を/志位委員長、保団連会長と懇談 - 日本共産党, https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-02-13/2009021302_05_0.html
  36. 無保険の解消など緊急提言/医団連 - 京都府保険医協会, 無保険の解消など緊急提言/医団連 - 京都府保険医協会

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