製薬業界の皆さん、そしてこの業界に注目する投資家の皆さん。今、私たちの足元で、地殻変動とも言える大きな変化が起きているのはご存じですね。
これは、単なる貿易政策の変更ではありません。グローバル化を前提として数十年にわたり築き上げられてきた、医薬品開発と製造の根幹を揺るがすパラダイムシフトです。
当然ながら、この変革の震源地は米国です。トランプ大統領が発表した「解放の日(Liberation Day)」関税は、輸入品に対して「25%以上」という懲罰的な関税を課す可能性を示唆しました 1。この発表は、第二次世界大戦後の世界経済の枠組みを揺るがしかねない、「スムート・ホーリー関税法以来、最も広範な関税引き上げ」と評されるほどの衝撃をもって受け止められました 2。
この地政学的な激震は、製薬業界が長年自問してきた戦略的な問いの優先順位を、根底から覆してしまったと言えるでしょう。
これまで業界の価値を定義してきたのは、まず「その薬は何か?(What is the drug?)」という科学的な問い、すなわち有効性と安全性でした。
次に、「その薬はいくらか?(How much should it cost?)」という経済的な問い、すなわち価格とアクセスが議論の中心となりました。
しかし今、これらの問いを覆い尽くすほど重要性を増しているのが、「その薬はどこで創るべきか?(Where should it be made?)」という、地政学的な問いなのです。
この問いは、単なる生産拠点の最適化という経営課題をはるかに超えています。それは、国家安全保障、経済ナショナリズム、そしてグローバルサプライチェーンの脆弱性といった、より大きなテーマと直結しています。
本記事では、業界のプレーヤーたちが、この地政学的な戦略のもとで、いかにして生き残りをかけているのか、そして、この変化が今後の投資戦略にどのような示唆を与えるのかを、考えていきます。これは、医薬品が単なる「薬」から、国家戦略の重要な「駒」へと変わりつつあることを意味しています。
Table of Contents
製薬業界を定義してきた3つの問い
今日の変化を理解するためには、製薬業界がこれまでどのような問いに直面し、対応してきたのかを振り返る必要があります。業界の戦略は、大きく3つの時代を経て変遷してきました。それぞれの時代が、次の時代の土台となってきました。
有効性と安全性:「その薬は何か?」
従来より、製薬業界は科学のフロンティア的位置づけにいます。そして、かつて議論の中心は、製品そのものの性能、つまり「有効性と安全性」という、純粋かつ力強い問いに集約されていました。画期的な新薬を世に送り出すことこそが企業の存在価値であり、市場価値を決定づける唯一の指標でした。
製造場所は、あくまで効率性を追求するための物流面での検討事項に過ぎず、戦略的な意味合いはほとんどありませんでした。
この時代を象徴するのが、慢性骨髄性白血病(CML)の治療を劇的に変えたイマチニブ(グリベック)です。この分子標的薬は、CML患者の寛解率を飛躍的に高め、多くの命を救いました。その価値は、臨床試験で示された圧倒的な有効性によってのみ語られ、世界中の患者と医師から喝采を浴びたのです 3。
記憶に新しいところでは、新型コロナウイルスのパンデミックにおけるmRNAワクチンの登場も、典型的な事例と言えるでしょう。ファイザー(Pfizer)やモデルナ(Moderna)が開発したワクチンは、「前例のないスピードと効率性」で開発・承認され、その高い予防効果によって世界的な危機に立ち向かう希望となりました 5。当時、世界が注目したのはワクチンの有効率や副反応の発生率であり、そのワクチンが米国で製造されていようが、欧州で製造されていようが、議論の本質ではなかったということです。
この「有効性の時代」は、製薬企業と社会との間に一つの「社会契約」を築き上げました。それは、「企業が科学的革新を成し遂げれば、社会はそれを高く評価し、相応の対価を支払う」というものです。
しかし、この契約は、一つの暗黙の前提の上に成り立っていました。それは、地政学的に安定したグローバルな世界です。最高の科学はどこででも生まれ、どこへでも届けられる。この安定期が、皮肉にも次の時代に露呈するグローバルな相互依存関係を育んでいったのです。
経済性とアクセス:「その薬はいくらか?」
科学の進歩は、やがて治療の可能性を大きく広げると同時に、かつてないほどの高額な医薬品を生み出しました。ここで、業界は新たな問いに直面します。「その薬の値段をいくらにすべきか?」。
どんなに優れた薬でも、国の医療財政を圧迫するようになれば、政府や保険者は抵抗せざるを得ません。議論の舞台は、研究の場から会計の場へと移っていきました。
この時代を象徴するのが、CAR-T細胞療法やアルツハイマー病治療薬レカネマブのような超高額治療です。CAR-T療法は、1回の治療で50万ドルから100万ドルもの費用がかかることがあり、医療制度の支払い能力の限界を試すものとなりました 7。アルツハイマー病の新薬レカネマブもまた、その費用対効果をめぐって厳しい目が向けられています 9。
この経済的圧力への対応として、各国の規制当局は費用対効果評価(HTA)という新たなツールを導入し始めました。その最も劇的な例の一つが、日本における免疫チェックポイント阻害薬オプジーボ(ニボルマブ)の薬価引き下げです。当初、非常に高額で承認されたオプジーボは、適応拡大によって対象患者数が急増し、日本の医療財政を揺るがすほどのインパクトを持つと試算されました。
これに対し、日本政府は緊急的な薬価改定を行い、価格を50%も引き下げるという前例のない措置を取りました 11。これは、医薬品の価値がもはや有効性だけでなく、財政的な持続可能性によっても厳しく評価される時代の到来を告げる出来事でした。日本のHTA制度は、その後もICER(増分費用効果比)といった指標を用いて、新薬の価格プレミアムを調整する仕組みとして定着しています 13。
この「経済性の時代」がもたらした圧力は、製薬企業の経営戦略に決定的な影響を与えました。価格競争とマージン圧迫に直面した企業は、コスト削減を至上命題とし、グローバルなサプライチェーンの最適化をさらに推し進めました。製造拠点は、税制優遇のある国や人件費の安い国へとシフトしていきます。
例えば、アイルランドの低い法人税率は多くの製薬企業を惹きつけ、世界の医薬品製造ハブとしての地位を確立しました 15。また、中国やインドは、安価な労働力と製造能力を武器に、ジェネリック医薬品や原薬(API)の主要な供給国となりました 1。
このグローバルな最適化は、経済合理性の観点からは極めて論理的な帰結でした。しかし、それは同時に、特定の国や地域への依存度を高め、サプライチェーンを脆弱にするという、隠れたリスクを増大させることにもなってしまいました。そして、この脆弱性こそが、次の「地政学の時代」である今、業界を襲う危機の震源地となっています。
地政学の時代:「どこで創るべきか?」
今、私たちは第3の時代、すなわち「地政学の時代」の真っ只中にいます。かつては安定していると信じられていた国際秩序は揺らぎ、医薬品のサプライチェーンは単なるロジスティクスの問題から、国家安全保障上の重大なリスクへと変貌を遂げました。「どこで創るか」という問いは、もはやコストや効率性だけでは答えられない、極めて政治的な問いとなったのです。
この時代の幕開けを告げたのが、2025年4月2日に発表されたトランプ大統領の「解放の日」関税です。この包括的な関税計画では、EUからの輸入品に20%の関税が課される可能性が示され、医薬品は当初こそ除外されたものの、業界はそれが「時間の問題」であると受け止めました 17。
この脅威に対する欧州製薬業界の反応は、迅速かつ衝撃的なものでした。欧州製薬団体連合会(EFPIA)は、EUのフォン・デア・ライエン委員長に対し、このままでは欧州から米国への大規模な投資流出が避けられないと警告したのです。その試算は具体的かつ深刻でした。今後5年間で、実に1,032億ユーロ(約113億ドル)もの研究開発および設備投資がEUから米国へ流出する可能性があり、直近の3ヶ月だけでも165億ユーロ(約18億ドル)の投資が危機に瀕しているというのです 20。理由は至ってシンプルです。「関税がかかるEUに工場を置くメリットはない」からです。
この状況は、製薬業界が新たな交渉のカードを手に入れたことも意味します。関税という外部からの脅威は、業界が長年EUに対して抱えてきた不満を解消するための絶好の機会となりました。業界は、この危機を逆手にとり、EUに対して長年要求してきた政策変更を迫ったのです。それは、規制緩和、知的財産権の保護強化、そしてより高い薬価設定といった、ビジネス環境の抜本的な改善要求でした 21。
つまり、米国の保護主義的な動きは、単に貿易コストを上げるだけでなく、製薬企業と各国の政府との力関係そのものを変え、企業の立地戦略、投資判断、そして国家間の競争のあり方を根本から再定義する引き金となったのです。
医薬品の価値は、もはやその科学的・経済的価値だけでは測れません。その製造地が持つ地政学的な価値、あるいはリスクが、企業の将来を左右する最も重要な要素として顕在化したと言えます。
「解放の日」の衝撃と業界の動き
トランプ政権による「解放の日」関税の発表は、製薬業界に巨大な衝撃波をもたらしました。それは、単なるコスト増の懸念にとどまらず、数十年にわたって構築されてきたグローバルな製造・供給体制の前提を覆すものでした。
この未曾有の課題に直面し、業界は生き残りをかけて二正面作戦を展開します。一つはEUに対する活動、もう一つは米国政府との交渉です。
この二正面作戦は、一見すると矛盾しているように見えるかもしれません。しかし、それは業界が置かれた複雑な状況を反映したものです。EUに対しては「投資を引き揚げざるを得なくなる」ということで政策変更を提案し、米国に対しては「国民生活に混乱が生じる」という懸念をもとに現実的な妥協点を探る。これは、地政学リスクが企業戦略に反映されつつあることを示唆しています。
提案と交渉。この二つの動きを詳しく見ていくことで、製薬業界がこの地政学的リスクをいかに乗り切ろうとしているのか、その姿が浮かび上がってきます。
二正面作戦:EUへの圧力と米国への懐柔
関税の脅威が現実味を帯びる中、製薬業界はある行動を開始しました。それは、米国とEUという異なる相手に対して、全く異なるアプローチを取るというものでした。
まず、EUに対しては、公然かつ強硬な姿勢で臨みました。EFPIAを代表とする業界団体は、EU首脳部との会合や書簡を通じて、「このままでは欧州の製薬産業は空洞化する」という強い警告を発しました 24。32社の製薬企業CEOが連名でフォン・デア・ライエン委員長に送った書簡は、その象徴です。
彼らは、米国の関税に対抗するためにEUが「迅速かつ抜本的な政策変更」を行わなければ、開発・製造拠点の米国への流出は避けられないと訴えました 23。そして、その要求リストには、関税対策という短期的な問題だけでなく、業界が長年求め続けてきた構造的な改革が含まれていました。
具体的には、複数国にまたがる臨床試験の承認プロセスを簡素化・迅速化する「単一承認モデル」の導入、医薬品の規制データ保護期間を10年に延長すること、そして希少疾患用医薬品の市場独占期間を現行の10年から12年に延長することなど、知的財産保護の強化を強く求めたのです 23。
さらに、欧州の薬価抑制策がイノベーションを阻害していると批判し、より魅力的な商業環境の整備、すなわち薬価の引き上げを暗に要求しました 21。これは、米国の関税という「外圧」を、EUに対する「内圧」へと転換し、長年の懸案事項を解決しようとする動きでした。
一方で、米国政府に対しては、より現実的で懐柔的なアプローチを取りました。公然と反対するのではなく、水面下でのロビー活動を通じて、被害を最小限に抑えるための交渉に注力したのです。業界の主な要求は、関税の完全な撤廃ではなく、「段階的な導入(phased-in)」でした 26。その論拠として、製薬業界は「国民生活への影響」を巧みに利用しました。急激な関税導入は、医薬品のコスト増につながり、それが薬価に転嫁されれば米国民の負担が増大する。さらに、サプライチェーンの混乱は医薬品不足を引き起こし、患者のアクセスを脅かす可能性があると主張したのです 1。これは、国民の反発や選挙への影響を避けたい政権側の思惑を突いた交渉術でした。
また、業界は物理的な制約も主張しました。製薬業界団体PhRMAによると、新たな製造施設を米国に建設するには、規制当局の承認プロセスも含め、5年から10年という長い時間と、最大で20億ドルもの莫大な投資が必要です 26。したがって、即時に関税を課されても、製造拠点をすぐに米国内に移すことは物理的に不可能だと訴えました。この現実的な事情を提示することで、関税導入のペースを緩めるよう働きかけたのです。
このような二正面作戦は、製薬業界が地政学的な変動を単なるリスクとしてではなく、自らの活動を推進するための機会として捉えていることを示しています。EUには改革を迫り、米国には現実を説明してダメージを軽減する。これらが、現代の製薬企業に求められる新たな生存術かもしれません。
サプライチェーン:空輸と備蓄
地政学的な緊張が高まり、関税という具体的な脅威が目前に迫る中、製薬企業はロビー活動と並行して、物理的なサプライチェーンを守るための対応に乗り出しました。長期的な製造拠点の移転は時間がかかるため、まずは短期的な混乱を乗り切るための緊急措置が取られたのです。
その最も顕著な動きが、医薬品の「備蓄」と「空輸」の急増です。関税が課される前に、できるだけ多くの製品を米国内に運び込もうとする動きが加速しました。特に、米国へのブランド医薬品の最大の輸出国であるアイルランドからの輸入量は、その動きを如実に示しています。2025年3月には、アイルランドからの医薬品輸入額が前年同月比で5倍に急増するという異常事態が発生しました 1。これは、多くの企業が関税発動を見越して、在庫を前倒しで米国に積み増していることを示す明確な証拠です。ある報道によれば、2025年の第1四半期だけで、アイルランドの対米医薬品輸出額は2,250億ユーロに達しましたが、関税導入が現実味を帯びた4月には、前月比で62%も急落しました 28。この乱高下は、企業がいかに貿易政策の動向に神経を尖らせ、短期的なオペレーションを調整しているかを物語っています。
さらに、一部の企業は、通常であればコストの高い航空輸送へと切り替えるという異例の手段に打って出ました。海上輸送に比べて時間的な確実性が高い空輸を利用してでも、関税が課される前に製品を米国内に確保しようとしたのです 26。これは、関税によるコスト増が、高価な航空運賃を上回るほどの経営インパクトを持つと判断されたことを意味します。
これらの動きは、製薬企業のサプライチェーンがいかにグローバルに相互依存しているか、そしてそのサプライチェーンがいかに政治的リスクに対して脆弱であるかを浮き彫りにしました。例えば、Novo Nordiskの肥満症治療薬Wegovyの原薬の一部はデンマークで、Merckのがん免疫療法薬KeytrudaやAbbVieのしわ治療薬Botoxはアイルランドで製造されています 29。これらの製品は、最終的には世界最大の市場である米国に供給されます。欧州で製造された原薬や最終製品が、関税の壁によって米国市場から締め出されるリスクは、企業の収益に直結する死活問題です。2023年には、EUから米国への医療・医薬品輸出額が約900億ユーロに達しており、この巨大な貿易フローが途絶えれば、その影響は計り知れません。
備蓄や空輸は、あくまで時間稼ぎのための一時的な対症療法に過ぎません。しかし、この短期的な混乱は、製薬業界が直面している問題の根深さを示唆しています。それは、効率性を極限まで追求した結果、地政学的な変動に対する耐性を失ってしまったグローバルサプライチェーンの構造的な脆弱性です。この脆弱性をいかに克服し、より強靭な供給網を再構築できるか。それが、この「地政学の時代」における企業の課題となっているのです。
地政学的戦略:主要プレイヤーたちの駆け引き
米国の関税政策が投じた一石は、単に米国とEUの二国間関係に波紋を広げただけではありません。それは、世界の製薬産業という巨大な市場の全プレイヤーを巻き込み、それぞれの戦略的な立ち位置を問い直す、複雑な交渉の始まりとなりました。この交渉では、各国が自国の利益を最大化するために、独自の強みと弱みを抱えながら駆け引きを繰り広げています。
EUは、その巨大な市場と規制力を背景にしながらも、制度的な硬直性に苦しんでいます。アイルランドは、長年の強みであった税制優遇策が地政学的なリスクに変わるという皮肉な状況に直面。一方、EUを離脱した英国は、規制の機敏性を強みとして、チャンスを狙っています。そして、米国の最大のライバルであり、同時に不可欠なパートナーでもある中国はというと、戦略的にこの危機を乗り越えようとしています。
これらの主要プレイヤーたちが、どのような思惑を持ち、どのようなカードを切ろうとしているのか。その動きを一つひとつ読み解くことで、製薬業界を取り巻く地政学的な力学の全体像が見えてきます。
EUのジレンマ:制度的疲労と対応の遅れ
欧州連合(EU)は、この地政学的な危機において、巨大な市場と規制力を持つ強力なプレイヤーであると同時に、深刻なジレンマに陥っています。その根底にあるのは、長年にわたる「制度的疲労」と、それに起因する対応の遅れです。
米国の関税という直接的な脅威に対し、EUの対応は鈍く、具体性に欠けるものでした。欧州委員会が提案した対抗措置は、米国産の大豆やオートバイ、ナッツなどへの25%の報復関税という、古典的な貿易戦争と同様のものでした 30。しかし、このような報復合戦は、製薬業界を含む自らのサプライチェーンにもさらなる混乱をもたらしかねない諸刃の戦術です。医薬品のサプライチェーンは米国と欧州で高度に相互依存しているため、貿易摩擦の激化は双方にダメージを与える可能性があります。
さらに深刻なのは、製薬業界からの悲鳴に対するEUの反応です。EFPIAが1,000億ユーロを超える投資流出のリスクを警告し、「迅速かつ抜本的な改革」を求めたのに対し、EU側から示されたのは、具体的な関税対策ではなく、「構造改革」という使い古された言葉だけでした 20。業界が求めた規制緩和や知的財産保護の強化といった要望は、決して新しいものではなく、何年も前から訴え続けてきたEUの制度的な課題そのものです 23。この危機に際しても、EUが即効性のある対策を打ち出せず、長年の課題解決に後退してしまう姿は、その制度的な硬直性と対応能力の限界を露呈するものでした。
このEUの状況は、いくつかの要因によってさらに悪化しています。まず、EUの意思決定プロセスは27の加盟国の合意形成を必要とするため、本質的に時間がかかり、機敏な対応が困難です 31。米国のトランプ政権がトップダウンで迅速に政策を決定するのとは対照的です。
また、EUは近年、医薬品の価格抑制に力を入れており、製薬企業との関係は必ずしも良好ではありませんでした。さらに、EUは「欧州医薬品戦略」や「重要医薬品法」といった新たな規制の導入を進めており、これが業界にとってはさらなる負担となる可能性もあります 32。例えば、改正都市排水処理指令に基づく新たな手数料は、製薬企業に追加で数十億ユーロのコストを課すものと試算されています 23。
このように、EUは米国の保護主義という「外圧」と、自らの制度的疲弊および産業界との緊張関係という「内圧」の双方に苛まれています。このままでは、競争力の源泉であるはずの製薬産業が、より魅力的な米国市場へと流出していくのを、ただ指をくわえて見ているだけになりかねません。
英国やアイルランドのような、よりフットワークの軽い政策を打ち出せる国々との競争にもさらされる中、EUがこの危機を乗り越え、イノベーションの拠点としての地位を維持できるかどうかは、その対応のスピードと大胆さにかかっています。
アイルランドの gilded cage(金ぴかの檻): 「超飽和」の危険
アイルランドは、長年にわたりグローバル製薬企業の欧州拠点として成功を収めてきました。その成功の礎は、12.5%という極めて低い法人税率です 16。この魅力的な税制に惹かれ、ファイザー、ノバルティス、メルク、イーライリリーといった世界の巨大製薬企業がこぞって製造・研究開発拠点を設立し、アイルランドは米国へのブランド医薬品の単独最大の輸出国へと上り詰めました 1。しかし、その成功モデルが今、地政学的な激変によって「金ぴかの檻」となり、国そのものを脆弱な立場に追い込んでいます。
この檻の格子を揺るがしている最大の要因は、トランプ大統領の直接的な批判です。彼は、アイルランドの税制を名指しで非難し、「アイルランドは我々の製薬会社を奪っていった」「たかだか人口500万の島が米国を握っている」と述べ、アイルランドからの輸入品に対して最大200%もの関税を課す可能性を示唆しました 33。これは、アイルランドの経済モデルそのものに対する正面からの攻撃です。
さらに悪いことに、この外部からの脅威は、内部からの構造変化と同時に進行しています。長年、多国籍企業の利益移転に利用されてきた「ダブルアイリッシュ」と呼ばれる税の抜け穴は、国際的な圧力により2020年に完全に廃止されました 35。そして、OECD主導のグローバルな合意により、法人税の最低税率を15%とする新たな国際ルールが導入され、アイルランドもこれを受け入れざるを得なくなりました 16。これにより、アイルランドの最大の武器であった税制上の優位性は損なわれつつあります。
この状況を、アイルランド財政諮問委員会は「超飽和(super saturation)」という用語を用いて警告しています 37。これは、ごく少数の多国籍企業からの法人税収に国家財政が過度に依存している、極めて不安定で持続不可能な状態を指します。具体的なデータを見ると、そのリスクは明らかです。2023年には、法人税収全体の実に38%を、わずか3社の米国系多国籍企業が占めていました 37。国の歳入の4分の1以上を占める法人税の大部分が、ほんの数社の外国企業によって支えられているのです。
この「超飽和」状態は、アイルランドにとって喫緊の課題です。米国の関税というショックと、グローバルな税制改革という慢性的な課題が、今まさに同時に襲いかかっている状況です。
税制上のメリットが薄れれば、企業がアイルランドに留まる理由は弱まります。そこに関税というペナルティが加われば、企業がアイルランドから資本を引き揚げるインセンティブは飛躍的に高まります。2025年初頭にアイルランドからの医薬品輸出が急増した後、関税の脅威が現実味を帯びるたとたんに急減したという事実は、この脆弱性を如実に示しています 28。アイルランドの繁栄を支えてきた「金ぴかの檻」は、今や外からも内からも閉じられようとしている状況です。
英国のポストBrexitギャンブル:規制の機敏性と価格の硬直性
欧州連合(EU)から離脱した英国は、ポストBrexit時代における新たな国家戦略として、ライフサイエンス分野を経済成長の柱に据えようとしています。その最大の武器は、EUの共通規制から解放されたことによる「規制の機敏性」です。英国の医薬品・医療製品規制庁(MHRA)は、より迅速で柔軟な規制プロセスを導入することで、英国を世界で最も魅力的な研究開発拠点の一つに変えようとしています 38。
その具体的な取り組みは、目覚ましいものがあります。例えば、臨床試験の承認プロセスを大幅に簡素化し、申請から最初の被験者への投与までの期間を従来の250日から150日へと短縮する目標を掲げています 38。また、規制当局の審査と倫理委員会の審査を並行して行う「統合レビュープロセス」を法制化し、承認までの時間をさらに短縮しようとしています 39。さらに、政府はゲノミクスやヘルスデータ研究に数億ポンドを投じ、英国を2035年までに米国、中国に次ぐ世界第3位のライフサイエンス大国にするというビジョンを掲げています 40。
しかし、この戦略は、英国自身が抱える「内部矛盾」によって、足元から崩れ去る危険性をはらんでいます。それは、革新的な医薬品の研究開発を奨励する一方で、その医薬品の市場価値を厳しく抑制する「価格の硬直性」です。具体的には、英国の国民保健サービス(NHS)の薬価制度、特にVPAG(自発的価格設定・アクセス・成長スキーム)と呼ばれる制度が、大きな足かせとなっています 43。
VPAGは、製薬企業に対し、NHSへのブランド医薬品売上の一部を政府に払い戻すことを義務付ける制度ですが、近年、その払い戻し率が急騰しています。2025年には、企業の売上の最大で3分の1近く(23.5%~35.6%)にも達する見込みで、これはフランス(5.7%)やドイツ(7%)といった欧州の主要国と比較して、突出して高い水準です 44。この「懲罰的」とも言える払い戻し率は、製薬企業にとって事実上の「追加税」として機能し、英国市場の魅力を大きく損なっています。
この結果、英国の戦略は自己破壊的な状況に陥っています。世界で最も研究開発しやすい環境を整えながら、世界で最もビジネスをしにくい市場の一つを作り出してしまっているのです。この矛盾は、すでに具体的な形で表れています。2023年に払い戻し率が急騰して以降、AbbVieやEli Lillyといった大手製薬企業がVPAGからの脱退を表明し、英国での新薬上市を遅らせる事態となっています 40。ある調査では、このまま高い払い戻し率が続けば、英国は2033年までに110億ポンドもの研究開発投資を失う可能性があると警告されています 44。
英国のポストBrexitにおける戦略は、規制の機敏性というアクセルと、価格の硬直性というブレーキを同時に踏み込んでいるようなものです。この根本的な矛盾を解決しない限り、ライフサイエンス大国への道は非常に険しいものとなるでしょう。
中国:ライバルかつ欠かせないパートナー
米中間の地政学的な緊張が高まる中、中国は製薬業界のグローバルな舞台において、とても複雑で矛盾に満ちた役割を担っています。「敵対者」でありながら「不可欠なパートナー」でもあるという、二つの顔を持つのが中国です。この二重性を理解することなくして、現代の製薬業界の地政学を語ることはできません。
まず、「敵対者」としての側面です。中国は、米国の関税政策の主要なターゲットとされています。特に、米国のジェネリック医薬品の約40%に使用されている中国製の原薬(API)に対しては、最大で245%という懲罰的な関税が課される可能性が示唆されています 46。これは、米国の医薬品供給網の根幹を揺るがしかねない重大な脅威です。安価な中国製APIへの依存は、米国の医療制度にとってアキレス腱であり、国家安全保障上の脆弱性と見なされています 1。
しかし、その一方で、中国は「不可欠なパートナー」としての地位を急速に確立しています。かつての「世界の工場」というイメージはもはや過去のものです。「Made in China 2025」という国家戦略の下、中国はバイオテクノロジー分野で驚異的な進歩を遂げ、今やイノベーションの源泉となっています 48。
最新のデータによれば、大手製薬企業が外部から導入(インライセンス)する革新的な新薬の28%~30%は、今や中国のバイオテック企業が生み出したものです。その取引額は2024年に415億ドルに達し、前年から66%も急増しました 50。特に、抗体薬物複合体(ADC)やCAR-T細胞療法といった次世代の治療法において、中国は世界のパイプラインの半分以上を占めるほどの存在感を示しています 51。
この状況は、西側諸国、特に米国にとって大きなジレンマを生み出しています。国家安全保障の観点からは中国への依存を減らす「デカップリング」が叫ばれる一方で、企業の競争力とイノベーションの観点からは中国との連携が不可欠だからです。このため、多くの専門家は、完全なデカップリングは「政治的な幻想」に過ぎないと指摘しています 53。
現実の世界で起きているのは、デカップリングではなく、より巧妙な「戦略的デリスキング」です。西側企業は、中国との関係を断ち切るのではなく、リスクを管理しながら協業を続ける道を探っています。その代表的な戦略が、中国のバイオテック企業から有望な新薬候補の権利をライセンスし、中国以外の地域での開発・商業化を西側企業が担うという「共生関係(symbiotic relationship)」です 50。このモデルは、中国企業にとっては自国市場の制約を超えてグローバルな収益を得る機会となり、西側企業にとってはコストを抑えつつ最先端のイノベーションにアクセスする手段となります。
また、中国企業自身も、合弁会社の設立や現地企業との提携といった形で、関税のリスクを軽減し、グローバル市場へのアクセスを維持しようと、したたかな戦略を展開しています 54。
このように、米中関係は単純な対立構造では捉えきれません。サプライチェーンの基盤を支える製造拠点として、そして最先端のイノベーションを生み出す研究拠点として、中国は世界の製薬業界にとって不可欠な存在であり続けています。この複雑な状況をいかに乗り切るかが、今後の企業の競争力を大きく左右することになるでしょう。
企業の戦略:グローバルサプライチェーンの再編
地政学的な激震は、国家レベルの戦略だけでなく、個々の企業の戦略にも大きな変革を迫っています。かつてはコストと効率性で最適化されていたグローバルな製造・供給網は、今やリスク管理と強靭性(レジリエンス)という新たな指標で再設計されなければなりません。
ここでは、主要な製薬企業がこの新しい時代にどのように適応しようとしているのか、その具体的な戦略を比較分析します。米国の巨大企業が「米国回帰」という大胆な賭けに出る一方、欧州の巨人たちはグローバルネットワークの「強靭化」で対抗しようとしています。これらの動きから、次世代のサプライチェーン戦略の輪郭が浮かび上がってきます。
「米国回帰と再投資」戦略:米国大手製薬企業の国内回帰
米国の関税という直接的な脅威と、「アメリカ・ファースト」を掲げる政治的な圧力に直面した米国の製薬大手は、一斉に「米国回帰と再投資」という明確な戦略へと舵を切りました。これは、単に関税を回避するための防御的な動きではありません。数十億ドル規模の国内投資を公約することで、自らを米国経済と国家安全保障の担い手として位置づけ、政治的なリスクを軽減しようとする戦略です。
その動きは、具体的な投資額となって表れています。Johnson & Johnsonは、今後4年間で550億ドルという巨額の資金を米国の製造・研究開発に投じる計画を発表しました。これには、ノースカロライナ州に建設される新たなバイオ医薬品製造施設などが含まれ、過去4年間の投資額から25%増という大規模なものです 56。しかし、その一方で同社は、既存の中国関連の関税などにより、2025年には4億ドルのコスト負担を見込んでいることも明らかにしており、リスクの大きさを物語っています 58。
Eli Lillyもまた、今後5年間で270億ドルを投じて米国内に4つの新工場を建設するという計画を打ち出しました 27。Pfizerのアルバート・ブーラCEOは、関税が現実のものとなれば「生産を米国に移す準備はできている」と述べ、米国内に13の既存工場と注射剤の「巨大な生産能力」があることを強調しています 56。業界全体を見渡せば、米国の製薬企業は今後10年間で総額1,500億ドルもの国内製造投資を約束しており、これはまさに「大規模な米国回帰」と呼べる動きです 60。
これらの巨額投資の発表は、単なるサプライチェーン戦略を超えた、高度な政治的メッセージとしての側面を持っています。米国政府の最大の関心事が「国内雇用の創出と製造業の復活」である以上、それに積極的に協力する姿勢を示すことは、企業にとって最も有効な「政治的な盾」となるのです。数億、数十億ドル規模の投資を約束することで、企業は政権からの厳しい追及をかわしやすくなり、関税の免除や段階的な導入といった、より有利な条件を引き出すための交渉材料を得ることができます。
つまり、彼らの「米国回帰」は、サプライチェーンを物理的にデリスキング(リスク低減)すると同時に、自らを政権の政策目標達成における「パートナー」へと変えることで、政治的なリスクをもヘッジしようとする、二重の目的を持った戦略です。これは、地政学の時代において、企業がいかに政治と一体化して生き残りを図っているかを示す、象徴的な事例と言えるでしょう。
「強靭なネットワーク」モデル:欧州の巨人たちの要塞化
米国の関税の脅威に対し、欧州の製薬大手は、米国の同業他社とは異なる戦略的アプローチを取っています。彼らの戦略は、特定の国への「回帰」ではなく、グローバルな「ネットワークの強靭化」です。欧州企業にとって、生産拠点を自国やEU域内に集中させることは、米国の関税問題の解決にはなりません。むしろ、米中対立や英国の離脱など、多方面から押し寄せる地政学的なリスクに対応するためには、特定の地域への依存を減らし、世界中に分散した、柔軟で回復力のある供給網を構築することが不可欠です。
この戦略を最も象徴的に示しているのがAstraZenecaです。同社は、新型コロナウイルスのパンデミックの際に、生産と流通を並行する二つのネットワークで管理する「デュアルサプライチェーン」戦略を導入し、世界的な危機下でもワクチンの安定供給を実現しました 61。このモデルは、一つの供給網が寸断されても、もう一方がそれを補うことでリスクを吸収するという、レジリエンス(強靭性)の思想に基づいています。同社のリスク報告書では、「地政学的な緊張」や「第三者サプライヤーへの依存」が重要な経営リスクとして常に挙げられており、それに対する備えが経営の中核に据えられていることがわかります 62。
Novartisもまた、同様の思想を明確に打ち出しています。同社の年次報告書では、「継続する地政学的・経済的な変動性を鑑み、サプライチェーンの混乱に耐え、全体的な強靭性を向上させるため、グローバルな生産・流通ネットワークをさらに強化している」と述べられています 64。具体的には、変化する環境に迅速に適応できる「アジャイルなフットプリント(事業基盤)」を構築し、RLT(放射性リガンド療法)やRNAといった新たな技術プラットフォームへの投資を通じて、自社の能力を多様化させています 64。
肥満症治療薬で世界を席巻するNovo Nordiskも、そのリスク管理フレームワークの中で「地政学的な不安定性、貿易紛争、各国の国内製造要求」を主要なリスクとして認識しています。そして、その緩和策として、「地政学的な動向の監視、政策決定への積極的な関与、そしてサプライチェーンの多様化」を挙げています 65。同社は、デンマーク、フランス、中国、そして米国といった世界各地の既存施設を大幅に拡張するために巨額の投資を行っており、これは特定の地域に依存しないグローバルな生産能力の増強を目指す動きに他なりません 66。
欧州企業の戦略は、彼らが置かれた地政学的な現実を反映しています。彼らは、単一の国家の保護主義に対処するのではなく、グローバルなシステム全体の不安定性に対応しなければなりません。そのため、彼らの戦略は本質的に、国家への「集中」ではなく、グローバルな「分散」と「多様化」を目指すものとなるのです。これは、サプライチェーンがもはやコスト効率の対象ではなく、地政学的なリスクを吸収するための戦略的な要塞と見なされていることを示しています。
レジリエンスの新ルール:生き残りのためのフレームワーク
大手製薬企業が繰り広げる戦略的な動きと、専門家たちの分析を統合すると、地政学の時代におけるサプライチェーン管理の新たなルールが浮かび上がってきます。もはやレジリエンス(強靭性)は、コスト管理の裏にある二次的な関心事ではありません。それは、企業の競争優位性を直接左右する、第一級の戦略目標となっています。
この新たな動きは、コンサルティング会社マッキンゼーが提唱する「4つの柱」によって整理することができます 68。
第一の柱は、「エンドツーエンドの透明性」です。これは、自社の工場だけでなく、原材料を供給する一次サプライヤー、さらにはその先の二次、三次のサプライヤーに至るまで、サプライチェーン全体を可視化することを意味します。企業は、AIやデジタルツインといった最新技術を駆使して、バリューチェーン全体のリスクをリアルタイムで監視し、脆弱性を特定する必要があります。例えば、ある重要部品のサプライヤーが、自然災害のリスクが高い地域に集中しているといった事実を把握することが、第一歩となります 68。
第二の柱は、「定期的なストレステストと再評価」です。透明性によってサプライチェーンが可視化されたら、次に行うべきは、潜在的なリスクが現実になった場合にどのような影響が及ぶかをシミュレーションすることです。関税の導入、パンデミックによる工場の閉鎖、地政学的紛争による輸送ルートの寸断など、様々なシナリオを想定したストレステストを実施し、その財務的・運営的インパクトを定量化します。これにより、企業はどこに最も大きな脆弱性を抱えているかを理解し、対策の優先順位をつけることができます 68。
第三の柱は、「衝撃への曝露の削減」です。これは、特定のリスクに対する脆弱性を具体的に低減させるための行動です。最も一般的な戦略は、サプライヤーの多様化(マルチソーシング)です。単一のサプライヤーや、同じ地域に集中した複数のサプライヤーに依存するのではなく、地理的に分散した複数の供給源を確保します。また、生産拠点を消費市場の近くに移す「ニアショアリング」や、万一の事態に備えて在庫を多めに確保する「ジャストインケース」型の在庫管理も有効な手段です。さらに、製品の設計段階や規制当局への申請段階で、代替可能な原材料や部品の仕様をあらかじめ盛り込んでおくことで、有事の際の柔軟性を高めることができます 68。
そして第四の柱が、「経営戦略としてのサプライチェーン・レジリエンス」です。サプライチェーンのリスク管理は、もはや現場のオペレーション部門だけの仕事ではありません。それは、CEOや取締役会が直接関与し、企業の全体戦略に組み込まれるべき経営課題です。リスク管理委員会を設置するなど、明確なガバナンス体制を構築し、全社的なリスク評価と対策の実行に責任を持つことが求められます 68。
これらの取り組みは、専門家たちが提唱する「国家安全保障の視点を持った経営」とも一致します 69。ジョンズ・ホプキンス大学やランド研究所などの研究機関も、官民が連携して医薬品供給網の脆弱性を評価し、強靭なシステムを構築する必要性を訴えています 53。
この新しいルールが示すのは、根本的な哲学の転換です。無駄を徹底的に排除し、効率を最大化する「ジャストインタイム」の思想から、不確実性に備え、衝撃を吸収する能力を重視する「ジャストインケース」の思想へ。この転換を成功させることができるかどうかが、これからの製薬企業の命運を分けることになるでしょう。
まとめ: 「ディフェンシブ銘柄」の再定義
本記事で詳述してきた地政学的な大きな変革は、製薬業界の構造を根本から変えつつあります。そして、それは投資家がこのセクターを評価する際の視点に再定義を迫るものです。かつて「ディフェンシブ(守備的)銘柄」と呼ばれた製薬株の定義は、もはや時代遅れと言わざるを得ません。
伝統的に、製薬株がディフェンシブと見なされてきたのは、その需要が景気サイクルに左右されにくいと考えられていたからです。不況下でも人々は必要な薬を買い求めるため、売上が安定しているとされてきました 72。しかし、この定義は、需要サイドの安定性のみに焦点を当てたものであり、供給サイドのリスクをほとんど考慮していません。今日の地政学的な変動は、この供給サイドにこそ、最大のリスクが存在することを白日の下に晒しました 60。
もはや、優れた新薬パイプラインや高い収益性だけでは、企業の長期的な安定性を保証することはできません。どれだけ素晴らしい薬を持っていても、それを安定的に製造し、世界中の患者に届けることができなければ、その価値は失われてしまいます。貿易戦争、関税、サプライチェーンの寸断といった新たなリスクは、企業の収益を根底から揺るがす力を持っています。
したがって、2020年代における真の「ディフェンシブな製薬株」とは、単に優れた薬を持つ企業ではなく、優れたサプライチェーンを持つ企業と言えます。投資家は、もはや臨床試験の結果や特許の状況、株価収益率(PER)を分析するだけでは不十分です。これからは、サプライチェーン・アナリストであり、地政学リスク・アナリストとしての視点を持つことが不可欠となります。
この新しい時代において、製薬企業を評価するための新たな投資基準は、以下の3つの要素に集約されるでしょう。
第一に、「製造拠点の多様性」です。その企業の工場はどこにあるのか?中国や、今やリスク要因となりつつあるアイルランドといった、地政学的にリスクの高い地域への集中度はどの程度か?米国、EU、そしてその他の地域(Rest of World)で、生産能力のバランスは取れているか?グローバルなネットワークを持つAstraZenecaやNovartisのような企業は、特定の国に大規模な投資を行う米国企業よりも、将来の未知のリスクに対して柔軟に対応できる可能性があります。
第二に、「サプライチェーンの強靭性(レジリエンス)」です。その企業は、重要な原薬(API)を複数の供給元から調達する「マルチソーシング」を実践しているか?予期せぬ事態に備えた「バッファー在庫」を確保しているか?サプライチェーン全体を可視化し、ストレステストを行うためのデジタル技術に投資しているか?マッキンゼーが提唱するようなレジリエンスの原則を、経営戦略として実行しているかどうかが問われます 68。
そして第三に、「地政学的な洞察力とロビー活動能力」です。その企業は、ワシントンやブリュッセルといった政治の中心地で、複雑な政治力学を読み解き、自社の利益を守るための交渉を効果的に行う能力を持っているか?今回、業界が米国政府に対して「段階的な関税導入」を働きかけ、EUに対して「規制改革」を迫ったように、政策決定プロセスに影響を与える能力は、今や企業の重要な無形資産です 23。
これらの新しい基準に照らして、Pfizer、Johnson & Johnson、AstraZeneca、Novartisといった主要企業を評価する必要があります。例えば、PfizerやJohnson & Johnsonは、巨額の米国投資によって政治的なリスクをヘッジしようとしていますが、その効果は未知数です。一方で、AstraZenecaやNovartisは、グローバルに分散したネットワークによって、特定の地域のリスクを吸収する能力が高いかもしれません。
もはや、「どこで薬が創られるか」は、単なる物流の問題ではありません。それは、企業の価値そのものを定義し、その長期的な生存可能性を示す、最も重要な指標となりました。この新しい現実を受け入れ、投資判断に組み込むことができるかどうか。それが、これからの製薬セクターにおける投資の成否を分けることになるでしょう。
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