ビジネス全般 公衆衛生学

なぜ今SPHなのか?社会が求める専門家と未来へのキャリアパス

2025年7月8日

現代社会は、従来の医療の枠組みだけでは対応が困難な、複雑かつ多様な健康課題に直面しています。この章では、日本においてなぜ新しい公衆衛生教育のモデルが必要とされたのか、その背景にある社会的要請を解き明かします。そして、その要請に応える形で創設された「専門職大学院」という独自の制度を定義し、日本の公衆衛生大学院(SPH)が誕生するまでの歴史的経緯をたどります。

日本の公衆衛生教育

現代社会が求める公衆衛生専門家

今日の日本社会は、健康や医療を取り巻く環境が大きく変化しています。少子高齢化の急速な進展は、医療制度や社会保障費に深刻な影響を及ぼし、持続可能なシステムの構築を急務としています。また、グローバリゼーションは、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のような新興・再興感染症のリスクを増大させ、国境を越えた健康危機管理能力の重要性を浮き彫りにしました。これらに加え、有害物質による環境リスクや食の安全問題など、人々の生命と健康を脅かす課題は枚挙にいとまがありません。

これらの課題は、個々の患者を治療する臨床医学的アプローチだけでは解決できません。むしろ、集団全体の健康を維持・増進し、疾病を予防するための、より大局的な視点、すなわち「俯瞰的・システム的な思考」が不可欠となります。これは、医療を単なる治療行為として捉えるのではなく、社会経済システム、環境、人々の行動様式といった多様な要因が絡み合う複雑な生態系として理解し、介入していくという考え方です。この根本的な発想の転換こそが、従来の医学教育とは異なる専門知識と実践能力を備えた、新しいタイプの専門家を社会が求めるようになった背景にあるのです。求められるのは、人口レベルでの予防と管理を主導できる人材であり、その育成が国家的な急務となりました。

専門職大学院制度:大学院の新しい形

社会からの高度専門職業人養成への強いニーズに応えるため、文部科学省は2003年度に「専門職大学院(Senmonshoku Daigakuin)」制度を創設しました。これは、伝統的な学術研究者養成を主目的とする大学院とは一線を画し、高度な専門性が求められる職業を担うための知識・能力を涵養することに特化した、全く新しい大学院の形です。

この制度は、日本の高等教育におけるパラダイムシフトであり、単なるカリキュラムの変更ではなく、制度設計そのものに大きな特徴があります。文部科学省が定める専門職大学院の制度上の特徴は、主に以下の3点に集約されます。

  1. 理論と実務の架橋を目指す実践的教育: 少人数での双方向・多方向的な授業、事例研究(ケーススタディ)、現地調査(フィールドワーク)といった実践的な教育方法を積極的に採用し、学術的理論と現場の実務とを結びつけることを基本理念としています。
  2. 柔軟な修了要件: 高度な実践能力の育成に主眼を置くため、学術論文の執筆やその審査を必須の修了要件としていません。これにより、学生は研究活動に偏ることなく、専門職としてのスキル習得に集中できます。
  3. 実務家教員の配置: 教員組織の中に、専攻分野において高度で専門的な実務経験を持つ「実務家教員」を一定割合以上配置することが義務付けられています。これにより、学生は現実社会の課題に即した生きた知識と経験を学ぶことができます。

この制度は、法曹(法科大学院)、会計、経営(ビジネス・スクール)、公共政策など多様な分野で導入され、公衆衛生分野もその重要な一翼を担っています。

表1:伝統的大学院と専門職大学院の比較

項目伝統的大学院専門職大学院
目的学術研究者の養成高度専門職業人の養成
教育内容学術理論の深化と研究手法の修得が中心理論と実務を架橋する実践的教育が中心
教員構成研究業績を重視した研究者教員が中心研究者教員に加え、実務家教員を一定数配置
修了要件修士論文・博士論文の提出と審査が必須論文審査は必須ではない
学位修士(学術)、博士(学術)など修士(専門職)、博士(専門職)など

この比較から明らかなように、専門職大学院は、研究者養成という単線的なキャリアパスから、社会の多様な現場でリーダーシップを発揮できる実践者養成へと、大学院教育の目的を意図的に複線化させるための制度的再設計であると言えます。

日本におけるSPH運動の黎明期

公衆衛生分野における専門職大学院の必要性は、制度創設以前から繰り返し指摘されてきました。1998年10月の大学審議会答申を皮切りに、1999年2月の21世紀医学・医療懇談会第4次報告、そして専門職大学院制度が具体化された後の2005年9月の中央教育審議会答申においても、その重要性が強調され続けました。

こうした政策的後押しを受け、日本の公衆衛生教育は新たな時代へと歩みを進めます。その先駆けとなったのが、2000年4月に設置された京都大学大学院医学研究科社会健康医学系専攻です。これが、日本における実質的な初の公衆衛生大学院(SPH)の誕生でした。翌2001年には、九州大学大学院医学系学府医療経営・管理学専攻が設置され、日本のSPHは東西の二大拠点を得ることになります。

これらの先駆的なプログラムは、2003年の文部科学省による専門職大学院設置基準の改正に伴い、正式に専門職大学院へと改組されました。その後、SPHの動きはさらに加速し、2007年度には東京大学大学院医学系研究科公共健康医学専攻が、そして2011年度には私立大学として初めて帝京大学大学院公衆衛生学研究科が、それぞれ専門職大学院として設置され、日本のSPH教育の基盤が確立されていきました。

日本の主要な公衆衛生大学院(SPH)ガイド

この章では、日本の主要な公衆衛生大学院を具体的に紹介します。まず、専門職大学院として公式な連携組織を形成する「公衆衛生専門職大学院連絡協議会」の会員校を詳述し、次に、それ以外の形態で質の高い公衆衛生教育を提供する著名な大学院プログラムを取り上げます。これにより、日本のSPHの全体像を多角的に理解することを目指します。

公衆衛生専門職大学院連絡協議会(JASPH)会員校

公衆衛生専門職大学院連絡協議会(Japan Association of Schools of Public Health, JASPH)は、日本の公衆衛生分野における専門職大学院教育の中核を担う機関の連携組織です。会員校は、専門職大学院としての理念を共有し、教育の質の向上と社会への貢献を目指しています 1。現在、以下の6大学が加盟しています 1

表2:JASPH会員校と取得可能学位の概要

大学名設置年取得可能学位(専門職)主要な専門分野
京都大学2000年社会健康医学修士(専門職)社会健康医学、疫学、医療経済学
九州大学2001年医療経営・管理学修士(専門職)医療経営・管理学(MHA)
東京大学2007年公衆衛生学修士(専門職)公共健康医学、国際保健、疫学
帝京大学2011年公衆衛生学修士(専門職)公衆衛生学(5つのコア分野)
聖路加国際大学2017年公衆衛生学修士(専門職)国際標準の公衆衛生学、英語プログラム
国際医療福祉大学2024年公衆衛生学修士(専門職)社会人向け遠隔教育

京都大学大学院 医学研究科 社会健康医学系専攻

  • 理念・焦点: 日本初のSPHとして、「社会健康医学(Social Health Medicine)」という広範な概念を教育・研究の核に据えています。個人の健康を生物学的側面だけでなく、社会的・環境的要因との関連の中で統合的に捉えることを目指します。
  • カリキュラム: その学際性は、17にも及ぶ多彩な分野構成に表れています。医療統計学、医療疫学、ゲノム疫学、医療経済学といった量的アプローチから、医療倫理学、健康情報学、医学コミュニケーション学といった質的・社会科学的アプローチまでを網羅しています 3。さらに、遺伝カウンセラー養成コースや、臨床医が研究手法を学ぶための臨床研究者養成(MCR)コースといった、特定の専門家を育成するプログラムも設けているのが特徴です 3
  • 取得学位: 社会健康医学修士(専門職)

九州大学大学院 医学系学府 医療経営・管理学専攻

  • 理念・焦点: 「医療を成立させるための学問」として、医療経営・管理に特化しています 5。いわゆる米国のビジネス・スクールのように、医療機関の持続可能な経営と質の高いサービス提供を実現できる高度専門職業人の育成を目的としています 5
  • カリキュラム: 医療コミュニケーション学、医療管理学、医療経営学、医療政策学の4分野を柱とし、医療機関の経営戦略、財務会計、人材管理、リスク管理など、極めて実践的な内容を学びます 5。対象者は、既に医療現場の第一線で活躍する医師、看護師、事務長などの社会人が多く、現場の課題解決に直結する教育が展開されています 6
  • 取得学位: 医療経営・管理学修士(専門職)。2018年からは、国際的に通用する学位であるMaster of Health Administration(MHA)を取得できるプログラムへと改編されています 2

東京大学大学院 医学系研究科 公共健康医学専攻

  • 理念・焦点: 公衆衛生分野における指導的・実践的役割を担うリーダーの養成を掲げています 7。国民や地域住民の健康課題解決に貢献する最先端の研究推進と、その成果を社会に実装できる人材育成が目的です。
  • カリキュラム: 学生が卒業時に備えるべき資質・能力(コンピテンシー)を明確に定義し、それに基づいた教育課程を編成している点が特徴です 7。カリキュラムは「疫学・数量分析」「保健医療領域の行動科学・社会科学」「保健医療の政策・マネジメント」の3つの科目群で構成され、学生は体系的に知識を修得できます 7
  • 独自の特徴: 北京大学(Peking University)、ソウル大学校(Seoul National University)との国際連携体制「PeSeTo」を構築しており、学生・教員の交流や共同研究が活発に行われています 7。これにより、学生は東アジアの視点から公衆衛生を学ぶ貴重な機会を得られます。
  • 取得学位: 公衆衛生学修士(専門職)

帝京大学大学院 公衆衛生学研究科

  • 理念・焦点: 日本で初めて医学研究科から独立した「独立専攻」の公衆衛生大学院として設立されました 8。研究者養成ではなく、保健医療システムに変革をもたらす「チェンジ・エージェント」となる実践家の育成を強く志向しています。
  • カリキュラム: 国際的な公衆衛生教育の標準である「疫学」「生物統計学」「社会行動科学」「保健政策・医療管理学」「産業環境保健学」の5つのコア分野を基盤としたカリキュラムを提供しています 10
  • 独自の特徴: ハーバード大学公衆衛生大学院との長年にわたる強力な連携が最大の特色です。毎年1月にはハーバード大学の教授陣を招聘した「ハーバード特別講義」が開講され、国内外から多くの受講者が集まる国際的な学びの場となっています 8
  • 取得学位: 公衆衛生学修士(専門職)

聖路加国際大学大学院 公衆衛生学研究科

  • 理念・焦点: 地域社会と世界のニーズに応え、国際的に活躍できる公衆衛生のスペシャリスト育成を目指しています 11
  • カリキュラム: 5つの特徴「Diversity(多様性)」「English-Based Degree Program(英語による学位取得)」「Practical Program(実践的プログラム)」「Work-Study-Life Balance(仕事・学業・生活の調和)」「Competency-Based Education(コンピテンシー基盤型教育)」を掲げています 11。特に、社会人学生が学びやすいよう、オンライン授業の活用や1年・2年・3年の柔軟な履修コース設定など、学習と生活の両立を支援する体制が充実しています 12
  • 独自の特徴: 米国公衆衛生教育協議会(CEPH)の認証取得を目指すなど、教育の国際通用性を強く意識した運営がなされています 12
  • 取得学位: 公衆衛生学修士(専門職)

国際医療福祉大学大学院 医学研究科 公衆衛生学専攻

  • 理念・焦点: 全国の社会人が学びやすい環境を提供することに重点を置いています 15。保健・医療・福祉分野の指導的人材の養成を目的としています。
  • カリキュラム: 平日の夜間や土日・祝日に授業を集約するとともに、eラーニングや同時双方向型のオンラインツールを積極的に活用しています 15。これにより、地理的な制約なく、働きながら学ぶことが可能です。
  • 構造: 全国に7つのキャンパスを持つ大学ですが、公衆衛生学専攻の拠点は東京赤坂キャンパスにあります 15
  • 取得学位: 公衆衛生学修士(専門職) 15

公衆衛生プログラムを提供するその他の主要大学院

JASPH加盟校以外にも、日本の公衆衛生教育において重要な役割を果たす大学院が多数存在します。これらの大学院は、専門職大学院とは異なる制度的枠組み(多くは伝統的な大学院の修士課程)の中で、質の高い公衆衛生学修士(MPH)プログラムを提供しています 2

表3:その他の主要な公衆衛生プログラムの特色

大学名プログラム名主要な特色・焦点取得可能学位
大阪大学公衆衛生学コース(MPHプログラム)健康問題の「上流」にある成因の探求修士(公衆衛生学)
慶應義塾大学健康マネジメント研究科公衆衛生と経営学の融合修士(公衆衛生学)
筑波大学公衆衛生学学位プログラム国際標準、英語による授業修士(公衆衛生学)
静岡社会健康医学大学院大学社会健康医学研究科社会健康医学に特化した単科大学院博士(社会健康医学)
順天堂大学公衆衛生学コース国際標準5分野、ヘルスコミュニケーション修士(公衆衛生学)

大阪大学大学院 医学系研究科 公衆衛生学コース

  • 焦点: 複雑化する健康問題の根本原因、すなわち「上流」にある成因に挑むことを掲げています 17。個人、集団、環境という多層的な視点から、疫学的手法を駆使して未来の健康を提案する実践科学を目指します。
  • カリキュラム: 医学系研究科医科学専攻のコースとして設置されており、疫学、統計学、社会科学、経済学など多面的なアプローチを統合します 18。北京大学、延世大学校との留学プログラム「キャンパス・アジア」も提供しています 18
  • 取得学位: 修士(公衆衛生学)、通称MPH 19

慶應義塾大学大学院 健康マネジメント研究科

  • 焦点: 「健康マネジメント」という独自の学際的領域を掲げ、公衆衛生学に経営学や政策学の視点を融合させています。
  • カリキュラム: 看護学、公衆衛生学、医療マネジメント学、スポーツマネジメント学の4つの専攻からなり、学生は自身の関心に応じて学際的に学ぶことができます 20。公衆衛生学専攻は、地域から地球規模までの健康課題解決に貢献できる人材育成を目的としています 20
  • 取得学位: 修士(公衆衛生学)および博士(公衆衛生学) 20

筑波大学 公衆衛生学学位プログラム

  • 焦点: 国際的に通用する公衆衛生のプロフェッショナル育成を強く意識しています 22
  • カリキュラム: 専門職学位プログラムとして、必修科目をすべて英語で開講している点が最大の特徴です 23。これにより、日本人学生だけでなく、世界中からの留学生にとっても学びやすい環境が提供されています 24。公衆衛生行政官、産業医、企業の研究者・管理者など、多様な人材の育成を目指します 23
  • 取得学位: 修士(公衆衛生学)、通称MPH 23

静岡社会健康医学大学院大学

  • 焦点: 2021年に開学した、全国で唯一の「社会健康医学」に特化した公立の単科大学院大学です 25。健康寿命の延伸に貢献する人材の養成を目的としています 26
  • カリキュラム: 疫学、医療統計学など伝統的な公衆衛生学の5領域に加え、ゲノム医学や医療ビッグデータ解析といった最先端の学術領域を統合し、社会における健康課題を多角的に研究・実践します 26。地域の保健医療機関との連携を重視した、実践的な研究が特徴です。
  • 取得学位: 社会健康医学専攻の博士前期・後期課程を提供 25

順天堂大学大学院 医学研究科 公衆衛生学コース

  • 焦点: 公衆衛生大学院の国際標準である5つのコア分野(疫学、生物統計学、社会科学・行動科学、保健行政・医療管理学、国際保健・環境保健学)を体系的に学ぶことを重視しています 27
  • カリキュラム: 医学研究科医科学専攻の中に設置されています。特色ある学位プログラムとして、医療通訳技能認定試験の受験資格が得られる「ヘルスコミュニケーション学位プログラム」を設けています 27
  • 取得学位: 修士(公衆衛生学)、通称MPH 27

これらの多様な大学院の存在は、日本の公衆衛生教育が、設立当初の基盤を固める段階から、より専門化・多様化する段階へと進化していることを示しています。医療経営(九州、慶應)、グローバルヘルス(東京、順天堂)、データサイエンス(順天堂)、そして社会健康医学という学問分野そのものに特化する大学(静岡)まで、学生は自身のキャリア目標に合わせて、極めて専門性の高いプログラムを選択できるようになっています。この進化は、公衆衛生が活躍する領域の拡大と、社会からのニーズの高度化を反映していると言えるでしょう。

第3章 SPHでの学習体験と卒業後のキャリアパス

この章では、SPHでの具体的な学びの中身と、学位取得後の多様なキャリア展開について掘り下げていきます。SPHがどのようにして「理論と実務の架橋」を実現しているのか、また、多忙な社会人学生をどのように支援しているのかを明らかにします。そして、MPHという学位が、どのような未来への扉を開くのかを、具体的なデータと事例に基づいて解説します。

理論と実践の架橋:SPHの学習モデル

専門職大学院の核心的理念である「理論と実務の架橋」は、具体的な教育手法を通じて実現されます。その代表例が、事例研究(ケーススタディ)を用いた問題解決型学習です。

例えば、ある保健所に配属された公衆衛生医師が、外国籍の大学生の結核発生事例に対応する、というシナリオが教材として用いられます 29。このケースでは、学生は単に結核の臨床知識を問われるだけではありません。患者が寮生活を送る留学生であるという状況から、接触者健診の範囲特定、大学やアルバイト先(小学生向け英語学童)との連携、言語や文化の壁への配慮、地域住民への説明責任など、臨床、社会、行政、文化の各側面が複雑に絡み合う問題群に直面します 29。このような実践的なシナリオを通じて、学生は断片的な知識を統合し、現実の課題を解決する能力を養います。その他にも、学校給食での大規模食中毒への対応や、自治体における中学生のヘリコバクター・ピロリ菌検査導入の是非を医学的見地から判断する事例など、現実の公衆衛生の現場で起こりうる多様な課題が扱われます 29

また、実践とは研究活動そのものも含まれます。あるMPHの学生は、在学中の2年間で5本以上の英語論文を執筆したと報告しています 30。これは、単に研究理論を学ぶだけでなく、自ら問いを立て、データを分析し、国際的に通用する形で成果を発信する「研究の実践」能力を重視するSPHの教育姿勢を象徴しています。

社会人学生のためのカリキュラム設計

日本のSPHの多くは、既に職業を持つ社会人(社会人)がキャリアを中断することなく学べるよう、意図的に設計されています。このことは、SPHが単なる高等教育機関としてだけでなく、日本の生涯学習や人材の再教育(リスキリング)戦略において重要な社会インフラとして機能していることを示唆しています。人口減少社会において、既存の労働力人口のスキルを最大化することは国家的な課題であり、SPHは医療・健康分野でその役割を直接的に担っているのです。

そのための具体的な支援体制は多岐にわたります。

  • 柔軟な時間割: 多くの講義を特定の曜日に集中させたり、土日を利用した集中講義を開講したりすることで、社会人が仕事と学業を両立しやすくする工夫がなされています 5。国際医療福祉大学のように、平日の夜間や土日に授業を集約するカリキュラムを組む大学もあります 15
  • オンライン教育の活用: Zoomなどを用いたリアルタイムの双方向型授業や、録画された講義を後から視聴できるオンデマンド型授業の導入が進んでいます 12。これにより、遠隔地に在住する学生や、決まった時間に毎週通学することが困難な学生でも、質の高い教育を受けることが可能になっています 14
  • 多様な履修制度: 標準的な2年制コースだけでなく、1年制や3年制といった複数の履修期間を選択できる大学(例:聖路加国際大学 13)や、職業等の事情により標準修業年限での修了が困難な場合に、計画的に長期間かけて履修できる長期履修制度を設けている大学(例:福島県立医科大学 31)もあります。

表4:主要SPHにおける社会人学生向け支援体制の比較

大学名夜間・週末開講オンライン・オンデマンド柔軟な履修制度
九州大学◯(特定曜日への集中、土日集中講義)△(検討中)
聖路加国際大学◯(昼夜開講制)◯(Zoom双方向、オンデマンド)◯(1・2・3年コース)
国際医療福祉大学◯(平日夜間、土日祝)◯(eラーニング、双方向ソフト)
順天堂大学◯(一部科目で夜間開講、e-learning)◯(e-learning)

MPHで拓くキャリア:インパクトへの道筋

MPH学位の取得は、公衆衛生分野における多様なキャリアパスへの扉を開きます。その進路は、卒業生の経歴や目標によって大きく二つのパターンに分かれます。一つは、既存のキャリアを加速させる「触媒」としての役割、もう一つは、新たな分野へ転身するための「基軸」としての役割です。この学位の二重の機能が、その幅広い魅力と価値を物語っています。

聖路加国際大学の修了生175名の進路データは、この傾向を明確に示しています。過半数の58%(102名)が入学前と同じ職場でキャリアを継続しており、これはMPHで得た知識やスキルが、管理職への昇進や臨床研究の指導といった形での内部的なキャリアアップに直結していることを示唆します 32。一方で、23%(40名)が転職、11%(19名)が博士後期課程へ進学しており、MPHがキャリアチェンジや研究者への道を開く重要なステップとなっていることもわかります 32

具体的な進路は、以下のセクターに大別されます。

  • 行政・公共機関: 最も代表的なキャリアパスの一つが、都道府県や政令指定都市などの保健所に勤務する「公衆衛生医師」です 33。感染症対策、医療政策の立案・評価、健康増進事業の企画など、地域住民の健康を守る最前線で活躍します。キャリアパスや給与水準も比較的明確に示されています 33
  • 医療機関: 病院内でのキャリアも多様です。臨床研究支援センターでの研究コーディネート、医療の質・安全管理(QIセンター)、感染管理、病院経営企画など、臨床現場をシステムとして改善する役割を担います 34
  • 民間企業: 近年、成長が著しい分野です。製薬企業における疫学研究や医薬品開発、医療経済評価、コンサルティングファームにおける医療政策分析、そして医療ビッグデータを扱うITベンチャーなど、MPHで修得した疫学、生物統計学、医療経済学の専門知識が高く評価されます 30
  • 学術・研究機関: 大学教員や、医薬品医療機器総合機構(PMDA)のような公的研究機関の研究者として、新たなエビデンスを創出する道です 30
  • 国際機関: グローバルな健康課題に関心を持つ学生にとっては、世界保健機関(WHO)や国際協力機構(JICA)などの国際機関や、国境なき医師団のような国際NGOが目標となります 28

これらの多様なキャリアパスは、MPH取得者が持つ専門性が、社会の様々な場面で求められている証左です。

表5:MPH取得者のキャリアパス事例(分野別)

応用分野医療機関での役割行政・官庁での役割研究所・シンクタンクでの役割民間企業での役割
医療データ管理・分析臨床研究、医療情報センターNDB等の公的データベース分析医療データベース管理・分析医療データ分析、コンサルティング
HTA・医療経済医療技術評価、QIセンター医療経済政策、診療報酬改定費用対効果分析、医療経済研究医療経済分析、コンサルティング
IT/AI電子カルテデータ解析、医療情報地域医療IT化推進、医療効率化遠隔医療研究、革新知能統合研究医療関連IT/AI製品の開発・設計
国際保健国際医療救援チーム国際機関(WHO, JICA等)との連携国際保健政策研究国際貢献事業、戦略支援
臨床研究・治験臨床研究中核病院での研究支援研究開発振興政策トランスレーショナル研究推進創薬ベンチャー、臨床統計分析

出典: 35の情報を基に作成

例えば、管理栄養士としてキャリアをスタートした人物が東大SPHで学んだ後、健康コミュニケーションアプリを開発する企業で活躍する事例 34は、MPHが「キャリア触媒」として機能した典型例です。一方で、弁護士がハーバード大学SPHでMPHを取得し、ヘルスケア法務という新たな専門性を確立した事例 38は、MPHが異分野からの参入を可能にする「キャリアの基軸」となったことを示しています。

まとめ:未来を拓くSPHの選択

本記事では、日本の公衆衛生専門職大学院(SPH)の成り立ちから、各大学院の特色、そして卒業後のキャリアに至るまでを包括的に分析してきました。最終章では、これまでの情報を統合し、読者が自身の目標に最も合致したSPHを選択するための実践的な指針を提示します。

目的別比較分析:最適なプログラムを見つけるために

SPHの選択は、自身のキャリア目標を明確にすることから始まります。以下に、想定されるキャリア志向と、それに合致する可能性が高いプログラムの類型を示します。

  • 将来、病院経営や医療機関の管理職を目指す場合: 九州大学の医療経営・管理学修士(MHA)プログラムや、慶應義塾大学の健康マネジメント研究科は、経営学と公衆衛生学を融合した実践的な学びを提供しており、有力な選択肢となるでしょう。
  • 国際的な舞台での活躍やグローバルな健康課題に関心がある場合: 東京大学の「PeSeTo」プログラム、必修科目を英語で開講する筑波大学、そして国際標準を強く意識した聖路加国際大学は、国際的な視野とネットワークを育む上で最適な環境を提供します。
  • 働きながら学び、キャリアアップを目指す社会人の場合: 夜間・週末開講やオンライン教育が充実している国際医療福祉大学、聖路加国際大学、九州大学などは、仕事との両立を強力に支援する体制を整えています。
  • データサイエンスや疫学研究の専門家を目指す場合: 各大学の疫学・生物統計学分野に加え、順天堂大学のデータサイエンス関連プログラムなど、量的アプローチに強みを持つプログラムが適しています。また、特定の学問分野を深く探求したい場合は、静岡社会健康医学大学院大学のような特化型の大学院も視野に入ります。

意思決定のためのフレームワーク

最適なSPHを選択するためには、自己分析が不可欠です。以下の質問リストを参考に、自身の状況と目標を整理してみてください。

  1. キャリアの目標は何か?: 将来、実践家、研究者、管理者、政策立案者のいずれを目指すのか。具体的な職種や組織をイメージできているか。
  2. 教育の形式は重要か?: 「専門職大学院」という制度的枠組みが、自身のキャリアにとって重要か。あるいは、伝統的な大学院の修士課程プログラムでも目標は達成できるか。
  3. 現実的な制約は何か?: 所在地(通学可能範囲)、現在の仕事との両立(時間的制約)、学費(経済的制約)はどの程度か。オンライン教育の活用は必須か。
  4. どの学問分野に惹かれるか?: 各大学院が掲げる理念や哲学、そして教員の専門分野の中で、自身の知的好奇心や問題意識と最も共鳴するものは何か。

おわりに

21世紀の社会が直面する健康課題は、ますます複雑化・多様化しています。気候変動がもたらす健康影響、超高齢社会の持続可能性、次のパンデミックへの備えなど、そのいずれもが、個人の努力だけでは解決できない、社会全体の組織的な取り組みを必要としています。

日本のSPH制度は、こうした時代の要請に応え、社会全体の健康をデザインし、守り、向上させることができるリーダーを育成するための国家的な投資です。本記事で紹介した各大学院は、それぞれ独自のアプローチで、その崇高な使命を果たそうとしています。この道に進むことを決意することは、単に学位を取得すること以上の意味を持ちます。それは、より健康で、より公正で、より強靭な社会を構築する担い手の一人となるための、第一歩に他なりません。この記事が、その重要な一歩を踏み出すための一助となれば幸いです。

参考情報

  1. 概要 - 公衆衛生専門職大学院連絡協議会 - UMIN SQUAREサービス, http://square.umin.ac.jp/sph/about.html
  2. 国内の公衆衛生大学院紹介|Ellie - note, https://note.com/ellie_phn/n/n64b7a61ab1ef
  3. 京都大学 大学院医学研究科 社会健康医学系専攻, https://sph.med.kyoto-u.ac.jp/
  4. 専攻の概要 | 京都大学 大学院医学研究科 社会健康医学系専攻, https://sph.med.kyoto-u.ac.jp/about/summary/
  5. 九州大学大学院医学系学府 医療経営・管理学専攻 - UMIN SQUAREサービス, http://square.umin.ac.jp/sph/kyushu_pamphlet.pdf
  6. 九州大学大学院医学系学府医療経営・管理学専攻の就職サマリー - Iroots, https://iroots.jp/research/13598/
  7. 東京大学大学院医学系研究科公共健康医学専攻 ... - 大学基準協会, https://www.juaa.or.jp/updata/evaluation_results/226/20220324_713839.pdf
  8. 公衆衛生学研究科 | 帝京大学, https://www.teikyo-u.ac.jp/faculties/sph
  9. 公衆衛生学研究科 | 帝京大学 - 英皇娱乐, http://cdjanh.com/faculties/sph
  10. 帝京大学大学院 公衆衛生学研究科 - ヘルスコミュニケーション学関連学会機構, https://healthcommunication.jp/healthcommunication/journal/vol014no01/pdf/vol014no01-p73.pdf
  11. 聖路加国際大学大学院 公衆衛生学研究科, https://university.luke.ac.jp/sph/ja/
  12. 聖路加国際大学大学院公衆衛生学研究科公衆衛生学専攻に対する認証評価結果 - 大学基準協会, https://www.juaa.or.jp/updata/evaluation_results/193/20230403_474189.pdf
  13. 聖路加国際大学 公衆衛生学研究科専門職学位課程 学費・経済的支援, https://up-j.shigaku.go.jp/department/category06/00000000262701004.html
  14. 専門職学位課程-カリキュラム | 教育 | 聖路加国際大学大学院 公衆衛生学研究科, https://university.luke.ac.jp/sph/ja/academics/mph.html
  15. 国際医療福祉大学大学院|教育事業紹介 - 国際医療福祉大学・高邦会 ..., https://www.ihwgroup.jp/business/education/22/detail
  16. 国際医療福祉大学 医療福祉学研究科(博士) 学費・経済的支援 - 大学ポートレート(私学版), https://up-j.shigaku.go.jp/department/category06/00000000120901004.html
  17. 公衆衛生学 | 大阪大学医学系研究科・医学部, https://www.med.osaka-u.ac.jp/introduction/research/social/public
  18. 大阪大学大学院医学系研究科修士課程 公衆衛生学コース(MPHプログラム)募集のご案内, https://ameblo.jp/sono-lulu/entry-12462590187.html
  19. 大阪大学大学院医科学修士課程, http://www.msc.med.osaka-u.ac.jp/
  20. 慶應義塾大学大学院 健康マネジメント研究科, https://gshm.sfc.keio.ac.jp/
  21. 学生募集 - 慶應義塾大学医学部 衛生学公衆衛生学教室, https://www.keiopublichealth.jp/education/students.html
  22. 概要 | 公衆衛生学学位プログラム - 筑波大学医学医療系, https://www.md.tsukuba.ac.jp/mph/program/
  23. 公衆衛生学学位プログラム | 筑波大学 - 筑波大学医学医療系, https://www.md.tsukuba.ac.jp/mph/
  24. 人間総合科学研究群(修士課程) 公衆衛生学学位プログラム マスター・オブ・パブリックヘルスプログラム(MPH) - 学校検索|日本留学情報サイト Study in Japan, https://www.studyinjapan.go.jp/ja/search-for-schools/course_detail.php?depid=1030106616&lang=ja&school_code=103010
  25. 静岡社会健康医学大学院大学|静岡県公式ホームページ, https://www.pref.shizuoka.jp/kodomokyoiku/school/1002728/1002729/1018709.html
  26. 静岡社会健康医学大学院大学|大学ポートレート, https://portraits.niad.ac.jp/univ/outline/1194/1194.html
  27. 順天堂大学大学院 医学研究科, https://www.daigakuin.ne.jp/schools/juntendo-grad/kenkyu.html
  28. 公衆衛生学・グローバルヘルス|医学研究科|順天堂大学, https://www.juntendo.ac.jp/academics/graduate/med/master/pbh/
  29. 公衆衛生医師業務と コンピテンシーを学ぶ ケーススタディ集, https://www.jpha.or.jp/sub/pdf/menu04_2/menu04_2_r05_02-2.pdf
  30. 【公衆衛生大学院】MPHとったら人生変わった話 - 研究ハック, https://nothing-without-poison.com/career5/
  31. 教育課程|医学研究科(博士課程)|福島県立医科大学 - 大学ポートレート, https://portraits.niad.ac.jp/faculty/academic-program/1124/1124-6M01-02-01.html
  32. 修了生の進路 | 修了後のキャリア | 聖路加国際大学大学院 公衆衛生学 ..., https://university.luke.ac.jp/sph/ja/career/alumni.html
  33. キャリアパスや待遇 - 全国保健所長会, https://phcd.jp/04/career.html
  34. 卒業後の進路 | 東大SPH ,SPH, 東京大学 | 公共健康医学専攻, https://www.m.u-tokyo.ac.jp/sph/entrance/graduate/
  35. 将来のキャリアパスの例 | 修了後のキャリア | 聖路加国際大学大学院 ..., https://university.luke.ac.jp/sph/ja/career/career.html
  36. 修了生の進路について ( 公衆衛生学専攻 ) - 東北大学大学院医学系研究科・医学部, https://www.med.tohoku.ac.jp/admission/grad_career/sph/
  37. 人文科学・社会科学系における 大学院生のキャリアパス等について - 文部科学省, https://www.mext.go.jp/content/20220411-mxt_daigakuc03-000022681_8.pdf
  38. ハーバード大学公衆衛生大学院の学生インタビュー【留学ブログ】 - There is no Magic!!, https://www.path-to-success.net/harvard-public-health

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