前回(その7)では、「曝露因子をどのように測るか」について解説しました。
今回は、研究で評価したい結果、すなわち「アウトカム」を測るための重要な指標の一つである発生率(Incidence rate)について、より詳しく、そして分かりやすく掘り下げていきましょう。
前回はこちら。
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発生率とは? - 新しい出来事が起こる「速さ」の指標
発生率とは、簡単に言うと「ある集団の中で、特定の期間内に、注目している出来事(イベント)が新しくどれくらいの速さで発生するか」を示す指標です。
もう少し具体的に考えてみましょう。例えば、「100万人の都市で、1年間の観察期間中にインフルエンザと診断された人が新たに50万人いた」という情報があったとします。これを聞くと、「この都市では、1年間で約2人に1人が新たにインフルエンザにかかるペースなんだな」と、その病気の発生の勢いを想像できます。
ここで非常に重要なポイントは、発生率がカウントするのは「新しく発生した事例(新規発生ケース)」であるという点です。既にその状態にある人ではなく、観察期間中に新たにその状態になった人を数えます。
この「発生率」は、英語では Incidence rate(インシデンスレート) と呼ばれます。IT業界で「インシデント」というと、システム障害などの予期せぬ「良くない出来事」を指すことが多いですが、ヘルスケア分野でも、病気の発生や健康上の問題など、「好ましくない出来事」の発生を指す文脈で「インシデンス」という言葉が使われます。多くのヘルスケア研究が病気や健康リスクを扱っていることを考えれば、自然な使われ方と言えるでしょう。
発生率の計算方法 - なぜ「人年」を使うのか?
発生率の概念はなんとなく感じ取って頂けたでしょうか。もう少し具体的に考えた方が分かりやすいと思うので、仮想的な状況を考えてみます。
特定の感染症の名前を出すのはよくないので、「感染症A」としてみましょう。
とある町(ETARO Town)にて、40000人中、感染症Aにかかったという報告数は50000件だった(2020年1月1日~2020年12月31日調べ)。
例:ETARO Town における感染症Aの発生
- 観察期間: 2020年1月1日~2020年12月31日 (1年間)
- 対象集団の人数: 40,000 人
- 期間中の感染症Aの新規発生件数: 50,000 件
さて、このような場合、ETARO Townにおける、感染症Aの発生率はどうなるでしょうか。
非常に単純な計算式で、50000 [件] ÷40000 [人年]=1.25 [件/人年] が、2020年におけるETARO Townの感染症Aの発生率となります。
ここで出てきた「人年(Person-year)」という単位に戸惑うかもしれません。これは、疫学研究において非常に重要な概念です。
1.25 [件/人年] って何だ?となるかもしれませんが、[件/人年] という概念に慣れる必要があります。
「人年」とは?
「人年」は、集団内の各個人がリスクにさらされた(観察された)期間の合計を表します。なぜ単純に「人数」で割らないのでしょうか?それは、研究対象となる人々を同じ期間だけ追跡できるとは限らないからです。
- ある人は研究期間の最初から最後まで(例えば1年間)追跡できるかもしれません。
- 別の人は研究開始から半年後に引っ越してしまい、追跡できなくなるかもしれません。
- また別の人は研究期間の途中から参加するかもしれません。
- 病気になった時点で観察を終了する場合もあります。
このように、個々の観察期間はバラバラです。1年間追跡できた人も、半年しか追跡できなかった人も、同じ「1人」として扱ってしまうと、病気が発生する「機会」が異なるのに、それを無視することになってしまいます。
そこで、「人年」を使います。
- 1人の人を1年間観察した場合 → 1人年
- 1人の人を半年間(0.5年)観察した場合 → 0.5人年
- 10人の人をそれぞれ1年間観察した場合 → 10人年
- 10人の人をそれぞれ2年間観察した場合 → 20人年
- Aさん(1年観察)、Bさん(半年観察)、Cさん(2年観察)の場合 → 合計 1 + 0.5 + 2 = 3.5人年
このように、「人年」は集団全体としての延べ観察期間を表し、観察期間の長さの違いを考慮に入れることができる、より公平な分母となるのです。
そもそも、同じ人を1年間ずーーーーーっと追跡できるという状況自体が「普通ではない(=異常)」という前提に立つ必要があります。
1年くらいなら同じ場所に住んでいるかもしれませんが、10年、20年というスパンで考えたらどうでしょうか。
アクティブな人だと、数年単位で居住地が変わっていたりしませんか?
国をまたぐと、現状、健康関連の情報(罹患歴、治療歴なども含む)は容易に国をまたげないという状況があります。
同じ国でも、市町村ですら跨げていない情報もあるかもしれませんね。非常に変なことですが。
1.25 [件/人年] の意味
ま、そんな具合で「ETARO Townにおける、感染症Aの発生率」は計算されます。単位は [件/人年] です。
ETARO Townの発生率「1.25 件/人年」は、以下のように解釈できます。
- 「この集団においては、平均して1人年あたり1.25件の感染症Aが新たに発生するペースである」
- 言い換えると、「もし1000人をそれぞれ1年間ずつ観察できたとしたら(合計1000人年)、その間に約1250件の感染症Aの新規発生が期待される」という意味になります。
ETARO Townの例では、1年間の新規発生件数(5万件)が総観察人年(4万人年)より多くなっています。これは、観察期間中に同じ人が複数回感染症Aにかかった場合、それらが別々の「新規発生イベント」としてカウントされている可能性を示唆しています。(もし「期間中に少なくとも1回感染した人の数」を分子にする場合は、「累積発生率」という別の指標になります。)
ETARO Townに住んでいると、とある人を1年間観察すると、1.25件の感染症Aの発生が観察できる、という意味ですね。
そうすると、ETARO Townに住む人は、1年あたり1.25回、感染症Aにかかることを覚悟する必要があることになります。
ETARO Townでは、1人あたり年間平均1.25回も感染症Aにかかるリスクがある、と考えると、感染症Aがどのようなものか不明ですが、あまり住みたくないと感じるかもしれませんね。
感染症Aがどんなものなのかわからないですが、無症状ではないでしょうし。
疫学における発生率の重要性と活用
発生率は、疫学研究や公衆衛生において、以下のような目的で非常に重要な役割を果たします。
- 疾患の発生動向の監視:
- 特定の地域や集団における病気の発生状況(流行の程度)を把握できます。
- 異なる地域間での発生率の比較や、同じ地域での経年変化(増加・減少傾向)を見ることで、対策の必要性や効果を評価できます。
- リスク因子の特定:
- ある要因(例:喫煙、特定の薬剤の使用、特定の職業など)に曝露された集団と、曝露されていない集団の発生率を比較することで、その要因が病気の発生リスクを高めるかどうかを評価できます(例:喫煙者の肺がん発生率は非喫煙者より高い)。
- 予防策や介入の効果測定:
- ワクチン接種キャンペーンや健康教育プログラムなどの介入を行った後、発生率が低下したかどうかを評価することで、その介入の効果を測ることができます。
発生率と他の指標との違い
- 有病率 (Prevalence): ある一時点において、その病気を持っている人の割合。発生率が「新しく発生する速さ」を示すのに対し、有病率は「ある時点で存在している人の割合」を示します。期間の概念が異なります。
- 累積発生率 (Cumulative Incidence): 特定の期間内に、対象集団の中で少なくとも1回イベント(病気など)を経験した人の割合。「リスク」とも呼ばれます。分母は期間開始時の対象者の数であり、単位は通常ありません(%で示すことが多い)。元の記事で触れられていた「1人1回まで」の原則は、主にこの累積発生率に当てはまります。発生率(Incidence rate)は人年を分母とし、同一人物の複数回イベントもカウントし得ます。
- 死亡率 (Mortality rate): 特定の期間内に、特定の原因(または全原因)で死亡した人の割合。発生率の一種と考えることもできますが、アウトカムが「死亡」に限定されます。
注意点
発生率はあくまで「新規発生の速さ」を示す指標であり、その病気の重症度や、治癒率、致死率などを直接示すものではありません。また、潜伏期間の長さなども発生率の解釈に影響を与える可能性があります。
まとめ
今回の内容で、ぜひ覚えておいていただきたい重要なポイントは以下の通りです。
- 発生率 (Incidence rate) は、「新しいイベントが起こる速さ」を示す指標である。
- 計算には、観察期間のばらつきを考慮した「人年 (Person-year)」を分母に用いる。
- 単位は「件/人年」や「人/人年」などとなり、単純な割合(%)とは異なる意味を持つ。
- 発生率は、病気の流行状況の監視、リスク因子の特定、予防策の効果測定などに不可欠な指標である。
発生率の概念、特に「人年」の考え方を理解することは、疫学研究やヘルスケア関連の論文を読む上で非常に役立ちます。分母と分子が何を意味しているのかを常に意識するようにしましょう。