公衆衛生学

その成果、眠らせない!実装研究(インプリメンテーション・リサーチ)で社会へ活かす

2020年11月17日

研究成果を、もっと身近に、もっと役立つものへ。実装研究(IR)が私たちの日常を変える

「せっかく素晴らしい研究成果が出たのに、なかなか実社会で活かされない…」そんなもどかしさを感じたことはありませんか? 実は、その「研究」と「実践」の間にある見えない壁を乗り越え、新しい知識や技術を私たちの暮らしの中にスムーズに届けるための専門分野があります。それが「実装研究(Implementation Research: IR)」、または「実装科学(Implementation Science)」と呼ばれる学問です。

この分野を一言で表すなら、「良いものを、きちんと届けるための科学」。せっかく生まれた革新的なアイデアや効果的な治療法も、実際に使われなければ意味がありません。実装研究は、その「届ける」プロセスを科学的に分析し、より多くの人々に、より確実に、そしてより早く届けるための方法を探求する、いわば「橋渡し」の専門家なのです。

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なぜ今、実装研究がこれほどまでに注目されているのか?

現代は情報が溢れ、特にヘルスケア分野では、毎日のように新しい治療法、革新的な予防策、そして健康に関する貴重な知見が数多く生み出されています。しかし、これらの輝かしい研究成果が、実際に私たちの健康を守る医療現場で標準的に活用されたり、社会全体の健康水準を高める政策として実を結んだりするまでには、想像以上に長い道のりと多くのハードルが存在します。

よく指摘されるのが、「研究と実践のギャップ(Research-Practice Gap)」です。画期的な発見が医学雑誌に掲載されてから、それが広く一般の患者さんのもとに届くまで、平均して10年以上、時には17年もの歳月を要するという報告すらあります。この長い「タイムラグ」は、単に時間がかかるという問題だけではありません。その間、より良い治療を受けられるはずだった人々がその恩恵を享受できない「機会損失」や、効果が実証された介入が普及しないことによる「健康格差の拡大」、さらには「医療資源の非効率な配分」といった、社会全体にとって見過ごせない課題につながっているのです。

このような背景から、実装研究は喫緊の課題に取り組む学問として、その重要性を増しています。具体的に、なぜ今、実装研究がこれほどまでに注目されているのか、その理由をさらに掘り下げてみましょう。

「届ける」スピードと質を科学する – 単なる普及活動ではない

かつては「良いものは自然に広まる」と考えられていた時代もあったかもしれません。しかし、現代の医療は高度化・複雑化し、新しい知識や技術を現場に導入するには、体系的な戦略と科学的根拠に基づいたアプローチが不可欠です。実装研究は、「どうすればこのタイムラグを短縮できるのか?」という問いに加え、「何がその普及を妨げているのか?(阻害要因の特定)」そして「どうすれば最も効果的に、かつ持続可能な形で定着させられるのか?(促進要因の活用と戦略の策定)」といった、「HOW(どのように)」の部分を科学的に解明しようとします。 阻害要因としては、医療従事者の知識不足や既存の業務フローとの不適合、組織文化の抵抗、コミュニケーション不足、適切なトレーニングの欠如、あるいは経済的なインセンティブの不一致など、多岐にわたる要因が考えられます。実装研究はこれらの複雑な要因を特定し、それに応じた多面的な解決策を設計・評価するのです。

「賢い選択」を促す – "やめる"ことの積極的な意義(脱実装:De-implementation)

実装研究の役割は、新しいものを「採り入れる(Implementation)」ことだけではありません。医療費の適正化が世界的な課題となる中、「これまで当たり前に行われてきたけれど、実は効果が薄い、あるいは全く意味がない、場合によっては有害ですらある」といった検査や治療法、慣習を見直し、それらを積極的に「やめる(De-implementation)」という判断も、医療の質と安全性を高め、限りある医療資源を有効活用する上で極めて重要です。 例えば、効果が限定的なのに長年続けられてきたスクリーニング検査の見直しや、新しいエビデンスによって効果が乏しいとされた旧来の治療法からより効果的な治療法への移行などが挙げられます。実装研究は、こうした「引き算の意思決定」をデータに基づいて支援し、患者さんの負担軽減と医療システム全体の効率化に貢献します。

「人」と「文脈」を深く理解する – 行動科学との融合

どんなに優れた治療法や技術であっても、それを使うのは「人」であり、使われるのは特定の「文脈(状況や環境)」の中です。例えば、非常に効果的な治療法があるにもかかわらず、特定の地域や文化を持つ集団、あるいは特定の疾患を持つ患者群で、なぜかその治療法がなかなか受け入れられない、あるいは正しく実践されない、といった状況は珍しくありません。 実装研究は、このような場合に、患者さん、医療従事者、さらには組織や地域社会が「なぜそのような行動をとるのか/とらないのか」を深く掘り下げます。そこには、単なる知識不足だけでなく、個人の信念や価値観、社会的な規範、過去の経験、情報へのアクセス、経済的な障壁、既存のシステムとの不整合、心理的な抵抗感など、複雑な要因が絡み合っています。行動科学、社会学、人類学、経済学といった多様な分野の知見を動員し、これらの要因を丁寧に解き明かし、行動変容を促すための効果的な介入策を開発します。これは、まさに人々の行動の「なぜ?」に迫る探求であり、理論を現場に一方的に押し付けるのではなく、人々の実際の行動や社会の仕組みに深く寄り添いながら、より良い変化を共に創り出そうとするアプローチです。

「公平性」と「持続可能性」を追求する – 一過性で終わらせないために

新しい研究成果や技術の恩恵が、一部の先進的な医療機関や情報感度の高い人々に偏ってしまい、本当にそれを必要としている人々に届かないという事態は避けなければなりません。実装研究は、生み出された価値を社会の隅々まで公平に(Equity-focused implementation)行き渡らせるにはどうすればよいか、という視点を重視します。 さらに、新しい取り組みが一時的なブームで終わってしまったり、導入の旗振り役がいなくなると立ち消えになったりすることなく、現場にしっかりと根付き、長期的にその効果を発揮し続ける(Sustainability)ための戦略も不可欠です。組織の体制づくり、必要なリソースの確保、継続的な評価と改善のサイクル確立など、持続可能性を高める要因を科学的に検証し、実践を支援します。

エビデンスに基づく政策決定(EBPM)への貢献 – 社会システムのデザイン

個々の医療現場での実践改善だけでなく、より大きなスケールで、国や地域の保健医療政策やシステム全体を、科学的根拠(エビデンス)に基づいてより良いものにしていくためにも、実装研究の知見は不可欠です。どのような政策介入が、実際に人々の健康行動を変え、健康アウトカムを改善し、医療システムを効率化するのか。そのプロセスと結果を評価し、より効果的な政策立案につなげていく上で、実装研究が果たす役割はますます大きくなっています。

小括

つまり、実装研究が今注目されているのは、単に「研究成果を早く現場に届けたい」という素朴な願いから一歩進んで、複雑な現実社会の中で「どのようにすれば、より賢く、より公平に、そして持続可能な形で、科学の恩恵をすべての人々に行き渡らせることができるのか」という、より本質的で切実な問いに、科学的なアプローチで真摯に向き合おうとしているからなのです。それは、私たちの健康と幸福、そしてより良い社会システムの実現に直結する、極めて実践的で希望に満ちた探求と言えるでしょう。

実装研究の進め方:アイデアの誕生から社会での実現まで

「実装研究って、具体的に何をするの?」「なんだか漠然としていて、掴みどころがない…」そんなふうに感じる方もいらっしゃるかもしれません。確かに、実装研究が取り組む範囲は広く、解決したい課題や対象となる「良いもの」(科学的根拠のある新しい方法や技術など)によって、進め方や研究の形も様々です。それが、一見すると全体像を掴みにくくさせているのかもしれません。

しかし、研究の種が生まれ、それが育ち、やがて社会の中で実際に役立つようになるまでの「道のり」を、いくつかの段階に分けて見ていくと、実装研究がそれぞれの段階でどんな役割を果たし、何を明らかにしようとしているのか、その姿がよりはっきりと見えてきます。この道のりは、順を追って進むこともあれば、時には前の段階に戻りながら、着実にステップアップしていくこともあります。

ステージ0:社会のニーズと「実装の種」を見つける

まず、社会が何を求め、今解決すべき大切な課題は何かという、進むべき方向を定めます。そのために、ニーズ調査や課題の明確化、これまでの研究や知識の整理、そして当事者や医療者、政策を作る人といった関係者との話し合いなどが行われます。実装研究の視点では、この最初の段階から、「将来、どんな方法や技術が求められ、それが社会に受け入れられ、実際に使ってもらうためには何が必要か」という最終的なゴールを意識することが、その後のスムーズなプロセスへと繋がると考えます。

ステージ1:アイデアの芽を育てる「発見・開発」の段階 ~基礎研究と初期のカタチづくり~

この段階では、主に基礎研究者や発明家、製品開発の初期チームが中心となり、「これはいけるかもしれない!」とひらめいた新しいアイデアの種を見つけ出し、その基本的な仕組みや安全性を確かめることを目指します。情熱と探求心で「良いもの」の核となる部分を生み出すことに全力が注がれ、研究室レベルでの検証や小規模な試行、作用の仕組みの解明、初期の安全性の確認といった活動が行われます。実装研究の観点からは、この時点ではどうやって社会に広めるかという具体的な方法はまだ先の話かもしれませんが、例えば開発の早い段階から、将来使うことになる人々(患者さんや医療従事者など)の意見を聞く「ユーザー中心の考え方」を取り入れることで、後になって「こんなはずじゃなかった」と困ることを減らすヒントが得られることもあると考えます。

ステージ2:「本当に効くの?」を厳しくチェックする「有効性(Efficacy)検証」の段階 ~理想的な環境で効果を証明する~

次に、臨床研究者や製品開発の中盤から後半のチームが主導し、「この方法(治療法、予防法、新しい仕組みなど)は、理想的な条件のもとで本当に効果があるのか?」を科学的に厳密に証明することを目指します。信頼できる結果を得るために、ランダム化比較試験(RCT)のようなしっかりとした研究計画のもと、条件に合った人々に協力してもらい、管理された環境で効果を確かめるのです。具体的には、厳密な計画に基づいた臨床試験の実施や他の方法との比較、効果の大きさと統計的な確かさの評価、短期的な副作用の観察などが行われます。実装研究の視点では、ここで得られる「有効性」のデータは、この後、実際に広めていくための重要な証拠となると認識しています。しかし同時に、「理想的な環境」と「現実の複雑な日常診療」との間には差があることも忘れてはいけません。この段階で、どんな人に特に効果があるのか、どんな副作用に気をつけるべきかといった情報は、将来、どうやって広めていくかを考えるための大切な材料になります。

ステージ3:いざ「実社会」という現実の場へ! 「実環境での効果(Effectiveness)検証」と手探りの第一歩

理想的な環境での有効性が示された後は、いよいよ実社会という現実の場での挑戦です。現場の医師や看護師、公衆衛生の専門家、新しい技術や治療法をいち早く試すアーリーアダプター、そして医療の質を良くしようとするQIチームなどが中心となり、「研究室ではうまくいったけど、実際のいろいろな患者さんがいる日常の現場でも、本当に役に立つのだろうか?平均してどれくらい効果があるのだろうか?」という問いに答えることを目指します。また、一部の先進的な現場では、手探りながらも導入を試み、そこから学びを得る段階でもあります。実臨床に近い環境で行う試験(プラグマティック臨床試験)や準実験的研究、観察研究、医薬品の市販後調査(PMS)、試験的な導入(パイロットスタディ)といった活動を通じてこれを検証します。実装研究の観点から見ると、ここから本格的に「実装」の難しさが顔を出し始めます。「研究ではうまくいったのに、現場ではなぜかうまくいかない…」そんな壁にぶつかることも珍しくありません。その原因を探るため、導入の初期の障壁(例えば、やり方に慣れること、今の仕組みとの相性、費用など)や、現場からの声、使う人(患者さんや医療者)がどれくらい受け入れてくれて満足しているか、などを評価することが重要になります。

ステージ4:「なぜ広まらない?」「どうすれば根付く?」を解き明かす「実装戦略さがし」の段階

実環境での効果も確認できたものの、必ずしもスムーズに広まるとは限りません。そこでこの段階では、実装研究の専門家や行動科学の専門家、医療政策を作る人、医療機関の管理者、現場で変化を推し進める人々が力を合わせ、「効果があることは分かった。でも、なぜある場所ではうまく広まるのに、他の場所ではなかなか進まないのだろう?」「何が普及を後押しし、何が妨げているのか?」という疑問に答えることを目指します。その背景にある複雑な理由(場所ごとの状況、妨げになること、後押しすること)をきちんと整理し、それらを乗り越えてうまく広め、根付かせるための具体的な「作戦(実装戦略)」を考え出し、試してみるのです。そのために、インタビューやグループ討論などで課題やヒントを探る定性的研究や、アンケートや観察で関連する要因を特定する定量的研究が行われ、さらには教育研修プログラムの提供、リマインダーシステムの導入、診療ガイドラインの見直し、専門家のアドバイス、監査とフィードバック、やる気を引き出す工夫、組織の雰囲気づくり支援といった様々な作戦の効果が検証されます。このステージこそ、実装研究の腕の見せ所と言えるでしょう。時には、専門的な考え方の枠組み(例えばCFIRやEPISモデルなど)も使いながら、多角的に現状を分析し、課題に合った最適な作戦を計画し、実行し、評価します。効果があるかを確かめながら、どうすればうまくいくかという作戦の検証も同時に行う「ハイブリッドデザイン」という効率的な研究方法が使われることもあります。

ステージ5:確かな道筋を広げ、未来へつなぐ「より大きな展開(スケールアップ)と長続きする仕組みづくり」の段階

最終段階では、政策を作る人や医療制度を設計する人、広域の医療ネットワークを管理する人、そして持続可能な社会システムづくりに関わる人々が中心となり、一部の地域や施設で成功した「良いもの」とそれを広める効果的な「作戦」を、もっと広い範囲に展開し(スケールアップ)、一時的な流行で終わらせず、社会の仕組みの一部として長く役立ち続けるように(持続可能性を高め、制度として定着させる)道筋をつけることを目指します。具体的には、大規模展開のための作戦づくりと実行、場所や状況に合わせた調整(アダプテーション)、費用と効果のバランスの分析、政策への提言、長く続けるための仕組みづくり(人を育て、お金を確保し、ちゃんと機能しているか見守る仕組み)、そして長期的な効果と社会への影響の評価などが行われます。実装研究の視点では、「どうすれば、質の高い実践を保ちながら、より多くの人々に、より公平に届けられるか?」が中心的な問いとなります。前にうまくいったやり方が、別の場所でも同じようにうまくいくとは限りません。そのため、現地の状況に合わせた調整や、新たな課題への対応が求められます。また、長い目で見て、その取り組みが社会にどんな本当の価値をもたらすのかを評価し続けることが重要です。

小括

このように、実装研究は、アイデア段階から、それが社会に役立つまでの長い道のりの各段階で、その時々の問題点を見つけ出し、科学的な知識や方法で解決策を探り、より良い未来へ進むための道しるべとなる役割を果たしています。それは、単に「研究成果を現場に届ける」というだけでなく、社会の仕組みや人々の行動まで考えた、やりがいのある創造的な取り組みだと言えるでしょう。

ヘルスケア分野における実装研究の活用

では、具体的にどのような場面で実装研究の考え方が活かされているのでしょうか。ヘルスケアに関わる様々な立場の人々にとって、実装研究がどのように役立つのかを見てみましょう。

ステークホルダー 活用場面の例
政府・行政機関 政策立案・効果検証、規制の策定、公的資金の配分最適化、健康教育キャンペーンの企画、医療サービスの質の向上と効率化、汚職防止策、パフォーマンスに基づく契約、医療提供体制の再編など
医療機関・医療提供者 組織運営の改善、医療の質の向上・保証、チーム医療の推進、診療ガイドラインの作成と普及、スタッフの能力開発、医療安全管理、新しい医療技術や医薬品の導入・評価、患者満足度の向上、経営効率の改善など
医療従事者(個人) 最新知識・技術の習得と実践、継続的な学習とスキルアップ、ピアラーニング(同僚間の学び合い)、より効果的な患者指導、多職種連携の円滑化、エビデンスに基づいた医療の実践
地域社会・住民 健康増進活動への参加促進、健康リテラシーの向上、患者会や自助グループの運営支援、地域保健活動の活性化(例:コミュニティヘルスワーカーの育成)、健康的な生活習慣の普及啓発、ソーシャルマーケティングによる需要喚起、地域医療への参画と監視など
研究者・学術機関 研究成果の社会還元促進、新たな研究課題の発掘、学際的な共同研究の推進、実装研究手法の開発と普及、若手研究者の育成
企業(製薬・医療機器等) 新製品・サービスの開発戦略、市場導入戦略の最適化、エビデンス構築と情報提供、規制当局との連携、医療現場のニーズ把握、製品の適正使用推進
全体に共通すること 関係者間のニーズと課題の共有、課題解決のための協働、多様なステークホルダーの意見を取り入れた柔軟な意思決定プロセスの構築、継続的なフィードバックと改善サイクルの確立

すべての関係者が目指すこと:

実装研究を成功に導き、その恩恵を社会全体に行き渡らせるためには、立場や役割の異なるすべての人々が共通の目標に向かって協力し、いくつかの重要な原則を心に留めておくことが不可欠です。これらは、より良い未来を共に築くための協働の基礎となるものです。

現状のニーズを深く理解し、それを阻む障壁を的確に評価する

まず最も大切なのは、現状のニーズを深く理解し、それを阻む障壁を的確に評価することです。これは、患者さんが本当に望んでいる治療やケアは何か、医療従事者が日々の業務で直面している困難は何か、あるいは社会全体としてどのような医療システムが求められているのか、といった「真の必要性」を明らかにすることから始まります。その上で、これらのニーズの実現を妨げている様々な壁、例えば知識や技術の不足、古い慣習や固定観念、経済的な制約、制度上の問題、あるいは人々の心理的な抵抗感などを、丁寧に特定していきます。この特定作業には、関係者への聞き取りやアンケート調査、既存のデータの分析など、多角的なアプローチが用いられます。そして、これらの障壁をどうすれば乗り越えられるのか、あるいは少しでも低くできるのか、具体的な解決策(例えば、新しい知識を学ぶための研修の実施、より使いやすいツールの開発、業務プロセスの見直し、関係者間の対話を促す場の設定、政策レベルでの働きかけなど)を、皆で知恵を出し合いながら検討していくのです。

変革を実現するための幅広い支持を獲得し、多様な人々との連携を深める

次に、変革を実現するための幅広い支持を獲得し、多様な人々との連携を深めることが求められます。どんなに優れた計画であっても、それに関わる多くの人々の理解と協力なしには、絵に描いた餅に終わってしまいます。患者さんやそのご家族はもちろんのこと、医療専門家、病院や施設の管理者、政策立案者、地域社会のリーダー、関連企業、そして一般市民に至るまで、可能な限り多くの関係者が「自分たちのための取り組みだ」と当事者意識を持ち、積極的に関わってくれるよう働きかけることが重要です。そのためには、情報を透明性高く共有し、共に考え、意思決定に参加できるような開かれたプロセスを重視し、それぞれの立場や意見が尊重される環境を作ることが不可欠です。特に、実際に変化が起こる地域コミュニティとの信頼関係を丹念に築き、その土地の文化や価値観を理解し尊重しながら進めることで、より多くの人々からの共感と協力を得て、変革を推進する大きな力へと変えていくことができます。

変化に対して柔軟に対応し、学び続ける姿勢を持つ

そして三つ目には、変化に対して柔軟に対応し、学び続ける姿勢を持つことです。現実の世界は常に動いており、どんなに綿密に計画を立てても、予期せぬ出来事や困難はつきものです。実際に取り組みを進める中で得られる成功体験だけでなく、うまくいかなかった点、当初の想定とは異なる結果、あるいは関係者から寄せられる懸念や新しいアイデアといった様々なフィードバックを真摯に受け止める必要があります。そして、その貴重なフィードバックを元に、最初に立てた計画に固執するのではなく、状況の変化に合わせて柔軟にやり方を見直し、改善を重ねていく「学習する姿勢」が何よりも大切になります。このような試行錯誤を許容し、そこから得られた教訓を次に活かしていく、しなやかで継続的な改善のサイクルを回していくことこそが、複雑で予測困難な課題を乗り越え、真に価値のある成果を生み出す原動力となるのです。

小括

これらの原則をすべての人々が共有し実践することで、実装研究は、政府の政策決定から医療現場の最前線で働く人々の日常業務、さらには私たち市民一人ひとりの健康への意識や行動に至るまで、ヘルスケアに関わるあらゆる場面において、より良い未来を築くための重要な指針となります。

せっかく多大な努力と費用をかけて生み出された貴重な研究成果が、論文として発表されるだけで活用されずに「宝の持ち腐れ」となってしまう事態を防ぎ、その価値を最大限に引き出すこと。そして、その恩恵を、健康寿命の延伸、生活の質の向上、医療費の適正化、あるいはより効果的で効率的な医療システムの構築といった具体的な形で社会に届け、還元することこそが、実装研究の使命です。この学問分野は、私たちの健康と暮らしをより豊かで確かなものにし、誰もがより質の高いケアを受けられる社会の実現に貢献する、大きな可能性を秘めた希望に満ちた取り組みと言えるでしょう。

まとめ:プラグマティックトライアルが拓く医療の未来

プラグマティックトライアル(PCT)は、日常診療に近い現実的な環境で、医療介入が「本当に役立つか」を検証する実践的な研究手法です。従来の治験よりも参加基準を広げ、多様な患者さんにおける結果の一般化可能性(実臨床への応用しやすさ)を重視することで、科学的知見と医療現場との間のギャップを埋めることを目指します。

このアプローチは、実社会における介入の有効性や費用対効果を明確に示せるという大きな利点がある一方で、バイアスの混入リスク管理など、慎重な研究計画と実施が求められます。今後、リアルワールドデータやデジタル技術との連携により、PCTはさらに発展し、より患者さんに寄り添った質の高い医療の実現に不可欠な役割を果たすでしょう。

このプラグマティックトライアルという新しい研究の潮流は、これからのヘルスケアを大きく変える可能性を秘めています。本稿が、その理解の一助となり、皆様がより良い医療の未来を共に考え、築いていくための一歩となれば幸いです。

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