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JCRファーマ:JUST-AAV技術とAlexion社との戦略的提携

私たちの体を構成する設計図である遺伝子、その情報に誤りが生じることで引き起こされる病があります。これまでは症状を和らげることしかできなかった多くの難病に対して、病気の根本原因である遺伝子そのものに働きかけ、治療しようという革新的なアプローチ、それが遺伝子治療です。

遺伝子治療は、一度の投与で長期的な、あるいは根治的な効果が期待できることから、現代医学における最大の革命の一つとして大きな期待を集めています。世界の遺伝子治療市場は急速に成長しており、2024年には数十億ドル規模に達し、今後10年足らずでその規模は数倍から十数倍にも拡大すると予測されています 1。この数字は、遺伝子治療がもはや未来の夢物語ではなく、力強い成長を続ける巨大な医療産業であることを示しています。

しかし、この希望に満ちた治療法には、乗り越えなければならない非常に大きな壁が存在します。それは、「どうやって治療用の遺伝子を、体の目的の場所、つまり病気の原因となっている細胞に正確に届けるか」という「デリバリー」の問題です。どれほど優れた治療遺伝子を設計できたとしても、それを安全かつ効率的に患部へ運ぶ手段がなければ、薬として成立しません。このデリバリー技術の確立こそが、遺伝子治療の真の可能性を解き放つための鍵となっているのです。

このような背景の中、2025年7月、日本のスペシャリティファーマであるJCRファーマ株式会社が、世界の希少疾病治療をリードする米国Alexion, AstraZeneca Rare Disease社(以下、Alexion社)と、画期的なライセンス契約を締結したというニュースが発表されました。この契約の核心にあるのが、JCRファーマが独自に開発した「JUST-AAVカプシド」と呼ばれる、新しい遺伝子運搬技術です。この出来事は、単なる一企業の事業提携にとどまらず、遺伝子治療が直面する根源的な課題に対する一つの光明となりうる、非常に重要な意味を持っています。

この記事では、まず遺伝子治療がどのようなものであり、どのような課題を抱えているのかという基礎から丁寧に解説していきます。そして、JCRファーマが開発した技術が、いかにしてその課題を克服しようとしているのか、その巧妙な仕組みを解き明かします。最後に、この技術提携が両社にとって、そして遺伝子治療全体の未来にとってどのようなインパクトを持つのかを、戦略的な視点から深く考察していきます。これから、遺伝子治療という次世代医療の最前線で繰り広げられる、壮大な挑戦の物語を一緒に見ていきましょう。

遺伝子治療の基礎を学ぶ

遺伝子を「薬」にするという発想

私たちの体は約37兆個もの細胞から成り立っており、その一つ一つの細胞の核の中に、生命の設計図である遺伝情報、すなわちDNAが収められています。このDNAには、体を形作り、生命活動を維持するために必要なたんぱく質の作り方が細かく記されています。しかし、この設計図の一部に誤り、つまり遺伝子の変異が生じると、必要なたんぱく質が正しく作られなくなったり、全く作られなくなったりすることがあります。これが、多くの遺伝性疾患の根本的な原因となります 5

遺伝子治療とは、この考え方を逆転させ、遺伝子そのものを「薬」として利用する治療法です。具体的には、病気の原因となっている欠陥のある遺伝子の代わりに、正常に機能する遺伝子を患者さんの細胞に導入します 7。これにより、細胞は再び必要なたんぱく質を自力で作り出すことができるようになり、病気の進行を止めたり、症状を改善したりすることが期待されます。これは、従来の薬のように症状を一時的に抑える対症療法とは一線を画し、病気の原因に直接アプローチする根治療法となりうる画期的な発想です 8

ただし、治療用の遺伝子を裸のまま体内に投与しても、それはすぐに分解されてしまい、目的の細胞にたどり着くことはできません。そこで必要になるのが、治療遺伝子を安全に細胞まで運び届けるための「運び屋」です。この運び屋のことを、専門用語で「ベクター」と呼びます。ベクターは、いわば治療遺伝子を乗せるための輸送カプセルのような役割を果たします。科学者たちは、このベクターとして、ウイルスが持つ「細胞に感染し、自らの遺伝情報を送り込む」という性質に注目しました。もちろん、病気を引き起こすウイルスの毒性は完全に取り除き、安全な運び屋としてだけ機能するように遺伝子を改変して使用します 9。このウイルスベクターの開発こそが、遺伝子治療を実現するための最も重要な技術の一つなのです。

アデノ随伴ウイルス(AAV)ベクターとは何か

遺伝子治療の「運び屋」、すなわちベクターには様々な種類がありますが、現在、世界で最も注目され、広く利用されているのが「アデノ随伴ウイルス(AAV)」を基にしたベクターです。AAVは、もともと自然界に存在する小さなウイルスですが、人に対して病気を引き起こす性質(病原性)がないことが知られています 9。この安全性の高さが、AAVベクターが選ばれる最大の理由です。

AAVベクターには、遺伝子治療薬として非常に優れた特徴がいくつかあります。第一に、前述の通り、もとになるウイルスが非病原性であるため、安全性が高いと考えられています 12。第二に、導入した治療遺伝子が、患者さん自身の細胞の設計図(ゲノム)にほとんど組み込まれないという性質があります 11。遺伝子がゲノムの意図しない場所に組み込まれると、がんを引き起こすリスクが懸念されますが、AAVベクターはそのリスクが極めて低いのです。AAVベクターは細胞の核内でゲノムとは独立した形で存在し、長期間にわたって治療用のたんぱく質を作り続けます 10。このため、たった一度の投与で、その効果が何年にもわたって持続する可能性を秘めています 9。実際に、これまでに世界で承認された体内で直接機能するタイプの遺伝子治療薬17製品のうち、8製品でAAVベクターが採用されているという事実は、その有用性と信頼性の高さを物語っています。

しかし、この優れたAAVベクターにも、解決すべき重要な課題がいくつも残されています。これらが、遺伝子治療の普及を妨げている大きな壁となっています。

第一の課題は、目的の組織や臓器に選択的に遺伝子を届けることの難しさです。静脈内に投与されたAAVベクターは、血流に乗って全身を巡りますが、特定の臓器だけに集積させることは容易ではありません。その結果、治療の必要がない臓器にも遺伝子が導入されてしまい、効果が分散したり、予期せぬ影響が出たりする可能性があります。

第二に、副作用の問題です。特に、脳などの特定の臓器に十分な量のベクターを届けるためには、非常に多くの量を投与する必要があります。しかし、高用量のAAVベクターを投与すると、肝臓に集積しやすく、重い肝機能障害を引き起こすことが報告されています。その他にも、血栓性の病気や神経毒性といった深刻な副作用のリスクも指摘されており、安全性の確保が大きな課題です。

第三に、製造の難しさとコストの問題です。AAVベクターの製造には、非常に複雑で高度なバイオテクノロジー技術が必要とされます 12。そのため、高品質なベクターを大量に、かつ安定的に生産することは簡単ではなく、製造コストが非常に高額になります。

第四に、中和抗体の存在です。AAVはありふれたウイルスであるため、多くの人々が知らないうちに過去に感染しており、体内にAAVの働きを妨害する「中和抗体」を持っていることがあります 12。中和抗体を持つ患者さんにAAVベクターを投与しても、ベクターが免疫システムによって破壊されてしまい、薬の効果が著しく弱まるか、全く効かなくなってしまいます。

そして最後に、これらの課題が複合的に絡み合った結果として生じるのが、極めて高額な薬価です。一回の治療に数千万円から数億円もの費用がかかることも珍しくなく、多くの患者さんにとって手の届かない治療法となってしまう現実があります。

このように、AAVベクターは大きな可能性を秘めている一方で、その真価を最大限に発揮するためには、「標的への正確な送達」「安全性の向上」「製造効率の改善」といった根本的な課題を解決する技術革新が強く求められているのです。

治療薬を阻む「血液脳関門」という壁

私たちの体の中で、脳は生命活動を司る最も重要な司令塔です。そのため、脳は頭蓋骨という固い鎧で物理的に守られているだけでなく、内部にも非常に精巧な防御システムを備えています。その一つが、「血液脳関門(Blood-Brain Barrier、略してBBB)」と呼ばれるものです 13

血液脳関門とは、その名の通り、血液と脳組織との間に存在する「関所」のような機能を持つバリアのことです 15。その実体は、脳内に網の目のように張り巡らされた毛細血管です。全身の多くの組織では、毛細血管の壁を構成する内皮細胞の間にわずかな隙間があり、血液中の物質はある程度自由に行き来できます。しかし、脳の毛細血管では、この内皮細胞同士が「密着結合(タイトジャンクション)」と呼ばれる特殊な構造で隙間なく固く結びついています 13。さらに、その周りをグリア細胞などの別の細胞が覆うことで、二重三重の強固な壁を形成しています 16

この厳重なバリアのおかげで、血液中の細菌やウイルス、毒素といった有害物質が簡単に脳内へ侵入するのを防ぎ、脳の繊細な環境を安定に保つことができるのです 13。しかし、この優れた保護機能は、脳の病気を治療しようとする際には、逆に大きな障壁となって立ちはだかります。なぜなら、血液脳関門は有害物質だけでなく、多くの「薬」の侵入もブロックしてしまうからです 13。特に、たんぱく質や遺伝子治療薬のような分子の大きな物質は、この関門を通過することが極めて困難です。

ただし、血液脳関門は単なる物理的な壁ではありません。そこには、特定の物質だけを選択的に通すための「専用の通用口」が存在します。脳が活動するために不可欠なブドウ糖やアミノ酸といった栄養素は、「トランスポーター」と呼ばれる特殊なたんぱく質によって、能動的に血液中から脳内へと輸送されます 13。つまり、血液脳関門は、許可証を持った物質だけを通す、非常に高度なセキュリティシステムなのです。

このため、アルツハイマー病やパーキンソン病、あるいは後述するライソゾーム病の神経症状など、脳や中枢神経系に作用する薬を開発する場合、どうやってこの血液脳関門を突破させるかが最大の課題となります。薬を静脈に注射しても、その大部分が脳に到達できなければ治療効果は得られません。この問題を解決する一つの方法が、脳がもともと持っているトランスポーターなどの「専用の通用口」をいわば拝借し、薬を脳内へと送り込むという戦略です。血液脳関門を単なる障害物と捉えるのではなく、その仕組みを逆手にとる巧妙なアプローチが、中枢神経系疾患の治療薬開発の鍵を握っているのです。

ライソゾーム病:酵素が作れない難病

遺伝子治療が特に期待されている領域の一つに、希少疾病があります。その中でも、「ライソゾーム病」は、JCRファーマが長年にわたって研究開発に力を注いできた重要な疾患群です 17

私たちの細胞の中には、「ライソゾーム(リソソームとも呼ばれます)」という小器官があります。これは、細胞内の「ごみ処理場」や「リサイクルセンター」のような役割を担っており、細胞内で生じた不要な物質や古くなった成分を分解し、再利用可能な形に変えています 18。この分解作業を行っているのが、「酵素」と呼ばれる特殊なたんぱく質です。ライソゾームの中には数十種類もの分解酵素があり、それぞれが特定の物質を分解する担当となっています 19

ライソゾーム病とは、この分解酵素の設計図である遺伝子に生まれつき変異があるために、特定の酵素が作られない、あるいは正常に機能しなくなる病気です 5。担当の酵素がいないため、分解されるはずだった特定の物質(老廃物)が、ライソゾームの中にどんどん溜まっていってしまいます。この老廃物が細胞内に蓄積することで、細胞の機能が損なわれ、全身の様々な臓器や組織に深刻な障害を引き起こします 19

ライソゾーム病には、どの酵素が欠損しているかによって、ゴーシェ病、ファブリー病、ムコ多糖症など、現在では50種類以上の異なる疾患が含まれることが知られています 19。症状は疾患によって多岐にわたりますが、骨の変形、関節の硬化、肝臓や脾臓の腫れ、心臓や腎臓の機能不全などが見られます 20。そして、多くのライソゾーム病で特に深刻な問題となるのが、中枢神経症状です 19。老廃物が脳の神経細胞に蓄積することで、発達の遅れ、知能の低下、けいれん、運動機能の喪失といった、重い神経障害が進行していきます。

ライソゾーム病に対する治療法として、「酵素補充療法(ERT)」があります。これは、不足している酵素を製剤化し、点滴で体内に補充する治療法です 20。この治療法によって、内臓の症状などは改善が見られるようになりました。しかし、酵素補充療法には大きな限界があります。それは、補充する酵素製剤がたんぱく質という大きな分子であるため、前章で説明した血液脳関門を通過することができないのです 21。そのため、点滴で投与しても薬は脳には届かず、進行していく神経症状を食い止めることはできません。

この「治療薬が脳に届かない」という問題こそが、ライソゾーム病の治療における最大のアンメット・メディカル・ニーズ(未だ満たされていない医療ニーズ)です。JCRファーマの薗田取締役が「酵素補充療法では治せない疾患、遺伝子導入が必要な疾患をカバーするためにこのベクター技術がある」と強調するように、遺伝子の異常が原因で、かつ、脳への治療が不可欠なライソゾーム病は、血液脳関門を突破できる遺伝子治療技術の真価が最も発揮される領域なのです。

JCRファーマの革新的技術「J-Brain Cargo」と「JUST-AAV」

脳への「荷物」を運ぶJ-Brain Cargo技術

ライソゾーム病をはじめとする中枢神経系疾患の治療における最大の壁、血液脳関門。この難攻不落の関所を突破するために、JCRファーマが長年の研究の末に生み出した独自の技術が「J-Brain Cargo(ジェイ・ブレイン・カーゴ)技術」です 17。この技術は、力ずくで関所を破壊するのではなく、正規の通行証を使ってスマートに通過するという、非常に巧妙な発想に基づいています。

その通行証となるのが、血液脳関門を構成する血管内皮細胞の表面に豊富に存在する「トランスフェリン受容体(TfR)」です 22。トランスフェリン受容体は、本来、血液中の鉄分を脳内に運ぶための「専用の通用口」として機能しています 23。J-Brain Cargo技術は、この既存の輸送システムをいわば「ハイジャック」するものです。

具体的な仕組みは、「受容体介在性トランスサイトーシス(RMT)」と呼ばれる生命現象を応用しています 23。まず、脳に届けたい薬物(カーゴ、つまり荷物)に、トランスフェリン受容体に特異的に結合する「抗体」を融合させます。この抗体が、トランスフェリン受容体という鍵穴にぴったり合う「鍵」の役割を果たします 21。この薬物と抗体の融合タンパク質を静脈に投与すると、血流に乗って脳の毛細血管に到達します。そこで、融合タンパク質の抗体部分が血管内皮細胞の表面にあるトランスフェリン受容体に結合します。すると、受容体はそれを正規の荷物だと認識し、細胞膜が内側に窪んで融合タンパク質を包み込み、細胞内に取り込みます(エンドサイトーシス)。そして、取り込まれた融合タンパク質は、細胞内を通過して反対側、つまり脳組織側の細胞膜まで運ばれ、そこで細胞の外に放出されます。こうして、薬物は見事に血液脳関門を通過し、脳の実質へと到達することができるのです 23。この一連の流れは、あたかもトロイの木馬が城壁を越える様に似ていることから、「トロイの木馬戦略」とも呼ばれます。

このJ-Brain Cargo技術の革新性は、単なる理論や実験室レベルの話にとどまらない点にあります。JCRファーマは、この技術を用いて、ハンター症候群(ムコ多糖症II型)というライソゾーム病の治療薬「JR-141(製品名:イズカーゴ®)」を開発しました 21。イズカーゴは、不足している酵素(イズロン酸-2-スルファターゼ)と抗トランスフェリン受容体抗体を融合させた製剤であり、2021年に日本で製造販売承認を取得しました 21。これは、血液脳関門を通過して中枢神経症状に効果を示すことが期待される、世界で初めて承認された酵素補充療法薬であり、J-Brain Cargo技術がヒトにおいて実際に機能することを証明した、画期的な成果です 24。この成功は、J-Brain Cargo技術が単なる有望なコンセプトではなく、臨床的に価値が証明された信頼性の高いプラットフォーム技術であることを、世界に示しました。この実績こそが、後にAlexion社のようなグローバル企業との大型提携へとつながる、強力な礎となったのです。

究極の運び屋、JUST-AAVカプシドの誕生

J-Brain Cargo技術によって、酵素のような大きな分子を脳へ届ける道が拓かれました。JCRファーマの次なる挑戦は、この画期的なデリバリー技術を、遺伝子治療の主役であるAAVベクターに応用することでした。これにより、一時的に酵素を補充するのではなく、酵素を作り出すための「設計図(遺伝子)」そのものを脳の細胞に届け、根本的な治療を目指すことが可能になります。この挑戦から生まれたのが、今回の提携の主役である「JUST-AAVカプシド」技術です。

この技術開発は、大きく二つのステップで進められました。第一のステップは、J-Brain CargoのコンセプトをAAVベクターに組み込むことでした。具体的には、AAVベクターの表面、つまり「カプシド」と呼ばれるウイルスの殻の部分に、J-Brain Cargoの鍵となる抗トランスフェリン受容体抗体(JCRファーマは低分子抗体を使用)を提示させるように、遺伝子工学的な改変を加えました。これにより、AAVベクター自体がトランスフェリン受容体を標的として血液脳関門を通過する能力を持つ「JBC-AAV」が誕生しました。このJBC-AAVの有効性は、動物実験で劇的な結果を示しました。マウスを用いた実験では、従来のAAVベクター(AAV9)と比較して、脳への遺伝子送達量が65倍に、脳での治療遺伝子の発現量が20倍にも増加しました 26。さらに、よりヒトに近い霊長類であるサルを用いた実験でも、脳への遺伝子送達量が50倍に達することが確認され、この技術が種を超えて有効であることが示されました 26

しかし、ここでもう一つの重要な課題が浮上します。トランスフェリン受容体は脳だけでなく、肝臓をはじめとする全身の様々な臓器にも存在します 26。そのため、JBC-AAVは脳への移行性が高まると同時に、肝臓など他の臓器へも集積しやすくなり、高用量を投与した際の肝毒性が懸念されます。これが、第二のステップで解決すべき課題でした。JCRファーマは、この問題に対処するため、脳への指向性を高める技術とは別に、肝臓への集積を回避するための全く新しい技術を開発しました。これは、AAVカプシドを構成する遺伝子に意図的に変異を導入することで、ベクター自体の性質を改変し、肝臓の細胞に取り込まれにくくするというものです。

そして、この「脳への指向性を高める技術」と「肝臓への集積を回避する技術」を組み合わせることで、究極のAAVベクターが完成しました。マウスでの実験では、この二つの技術を組み合わせたベクターを投与した結果、肝臓での遺伝子発現を98%も抑制しながら、脳での標的遺伝子の発現を増加させることに成功したのです 26

この一連の技術体系こそが、「JUST-AAV」プラットフォームです。この名称は、「JCR's Ultimate destination of organ Safeguarding against off-target delivery Transformative technology」の頭文字から取られており、その名の通り、特定の組織・臓器(Ultimate destination of organ)への高い指向性を持ち、標的以外の組織(off-target)への送達を防ぎ(Safeguarding)、治療法を根底から変える(Transformative)革新的な技術であることを示しています 25。JUST-AAVは、脳だけでなく、筋肉など他の組織を標的とするようにカスタマイズすることも可能であり、常に肝臓回避などの安全性を高める工夫が組み込まれた、非常に汎用性の高いプラットフォーム技術なのです 27。この「標的への高い効率性」と「標的外への低い毒性」という二つの側面を同時に達成した点に、JUST-AAVの真の革新性があります。

戦略的提携と市場へのインパクト

JCRファーマとAlexion社、三度目の提携

JCRファーマが開発した革新的なJUST-AAV技術。その価値を最大化し、一日も早く世界の患者さんのもとへ届けるためには、強力なパートナーの存在が不可欠です。そこで白羽の矢が立ったのが、希少疾病治療の領域で世界を牽引するAlexion社でした。

まず、パートナーであるAlexion社がどのような企業であるかを理解することが重要です。Alexion社は、1992年の創業以来、患者数が極めて少ない「希少疾病」や「超希少疾病」の治療薬開発に特化してきた製薬企業です 29。同社は、発作性夜間ヘモグロビン尿症(PNH)の治療薬「ソリリス」など、これまで有効な治療法がなかった疾患に対する画期的な医薬品を世に送り出し、この領域における確固たる地位を築いてきました 29。2021年には、英国の巨大製薬企業アストラゼネカ社に買収され、その希少疾病部門として、より強固な研究開発力とグローバルな事業基盤を手にしました 29。Alexion社の研究開発哲学は、患者さんの声に耳を傾け、アンメット・メディカル・ニーズが高い領域にこそ、最先端の科学技術で挑むというものです 31。特に近年は、病気の根本原因にアプローチできるゲノム医療を戦略の柱の一つに据え、外部の優れた技術を積極的に導入する姿勢を明確にしています 8

今回のライセンス契約の内容を見てみましょう。Alexion社は、JCRファーマのJUST-AAVカプシド技術を、同社が開発を進める最大5つの遺伝子治療薬候補(パイプライン)に利用する権利を獲得しました。その対価として、JCRファーマは契約一時金に加え、開発の進捗に応じたマイルストーンフィーとして最大2億2500万ドル、さらに販売額に応じたマイルストーンフィーとして最大6億ドル、合計で最大8億2500万ドル(日本円にして1200億円以上)を受け取る可能性があります。加えて、製品が上市された後には、売上高に応じたロイヤルティーも継続的に得ることになります。

特筆すべきは、この契約が両社にとって三度目の提携であるという点です 25。最初の提携は2023年3月、J-Brain Cargo技術を神経変性疾患に応用する共同研究でした 37。同年12月には、同技術を核酸医薬の創薬に応用するための二度目の提携が発表されています 38。このように、比較的小規模な共同研究から始め、JCRファーマの技術の確からしさを段階的に評価した上で、今回、プラットフォーム技術そのものをライセンスするという大規模な契約に至った経緯が見て取れます。これは、Alexion社がJCRファーマの技術に対して非常に高い評価と信頼を寄せていることの証左と言えるでしょう。

この提携は、両社の強みが完璧に噛み合った、理想的な戦略的アライアンスです。JCRファーマは、世界初・日本発の革新的なデリバリー技術という「宝」を持っていますが、世界規模で大規模な臨床試験を実施し、製品を販売するためのインフラやノウハウは限定的です。一方、Alexion社は、希少疾病領域における豊富な臨床開発経験、各国の規制当局との交渉力、そしてグローバルな販売網という強力な「事業遂行能力」を持っていますが、自社のパイプラインを強化するための次世代の技術を常に求めています 31。JCRファーマは巨額の開発リスクを負うことなく技術の価値を収益化でき、Alexion社は臨床応用が証明された信頼性の高い技術を導入することで、ゲノム医療分野での競争力を一気に高めることができます。まさに、互いが持たないものを補い合う、共存共栄の関係が成立しているのです。

遺伝子治療市場における競争と未来

JCRファーマが開発したJUST-AAV技術は、間違いなく世界トップクラスの革新性を有していますが、血液脳関門(BBB)突破を目指すAAVベクターの開発競争は、世界中で熾烈を極めています。この競争環境を理解することで、JCRファーマの技術が持つ独自の価値と立ち位置がより明確になります。

現在、JCRファーマの競合として注目される企業がいくつか存在します。その筆頭が、米国のバイオテクノロジー企業であるVoyager Therapeutics社です。同社は「TRACER」と呼ばれる独自のスクリーニング技術を用いて、BBBを効率的に通過する新しいAAVカプシドを発見しています 40。特に同社が開発した「VCAP-102」というベクターは、「ALPL」という、JCRファーマが利用するトランスフェリン受容体とは異なる受容体を介してBBBを通過することが示されており、脳への高い遺伝子導入効率を報告しています 41

また、同じく米国のDenali Therapeutics社もこの分野の有力なプレイヤーです。同社はJCRファーマと同様にトランスフェリン受容体を標的とするアプローチを進めているほか、「CD98」といった別のアミノ酸トランスポーターを利用する戦略も探求しており、複数の「通用口」を試みています 42

日本国内においても、タカラバイオ株式会社が「CereAAV」と名付けた脳指向性の高いAAVベクターを開発し、動物実験で良好な結果を得たと発表しています 44

このように、BBBを突破するという同じ目標に向かって、世界中の研究者が異なる受容体(鍵穴)や異なるベクター改変技術(鍵)を用いてアプローチしているのが現状です。これは、この分野がいかに重要で、大きな可能性があると見なされているかの裏返しでもあります。もしかしたら、脳への最適な「通用口」は一つではなく、運ぶべき「荷物」(治療遺伝子)の種類や、治療対象の疾患によって、使い分けるべき複数のルートが存在するのかもしれません。

このような競争環境の中で、JCRファーマが持つ決定的な強みは二つあります。一つは、J-Brain Cargo技術を用いた医薬品「イズカーゴ」が、すでに日本で承認され、臨床現場で使われているという「実績」です 21。多くの競合技術がまだ前臨床段階や初期の臨床試験段階にある中で、JCRファーマのトランスフェリン受容体を介したアプローチは、ヒトでの有効性と安全性が規制当局によって認められた、いわば「お墨付き」の技術です。これは、パートナー企業にとって計り知れない安心材料となります。

もう一つの、そしてより本質的な強みが、JUST-AAVプラットフォームが持つ「安全性への配慮」です。多くの競合が「いかに効率よく脳に届けるか」という有効性の向上にしのぎを削る中で、JCRファーマはそれに加えて、「いかに肝臓など標的以外の臓器への影響を避けるか」という安全性の課題にも正面から取り組み、その解決策をプラットフォームに組み込んでいます。遺伝子治療のように、一度投与すると後戻りできない治療法においては、安全性は有効性と同じくらい、あるいはそれ以上に重要です。有効性と安全性の両輪を高いレベルで実現するJCRファーマの技術は、開発の後期段階に進むほど、その価値を増していくことでしょう。この先見性こそが、熾烈な開発競争におけるJCRファーマの最大の差別化要因となっているのです。

まとめ:次世代医療への期待

本記事で詳述してきたJCRファーマとAlexion社の戦略的提携は、単なる一企業のライセンス契約という枠を遥かに超え、遺伝子治療という次世代医療の未来を左右する可能性を秘めた、きわめて重要な出来事です。この提携は、革新的な科学技術、差し迫った医療ニーズ、そして卓越した事業戦略という三つの要素が、理想的な形で融合した結晶と言えるでしょう。

私たちはまず、遺伝子治療が持つ計り知れない可能性と、その実現を阻んできた「デリバリー」という根源的な課題について学びました。特に、脳という聖域を守る血液脳関門は、中枢神経系疾患の治療において長らく越えられない壁として存在し続けてきました。

その壁に対し、JCRファーマは「J-Brain Cargo技術」という、既存の輸送システムを巧みに利用するエレガントな解決策を提示しました。さらに、その技術をAAVベクターに応用し、標的である脳への高い送達効率と、最大の懸念事項であった肝臓への毒性回避という、いわば「アクセル」と「ブレーキ」を両立させた「JUST-AAV」プラットフォームを完成させました。この技術は、遺伝子治療における長年の課題であった有効性と安全性のジレンマを解決しうる、まさに画期的な発明です。

一方、Alexion社は希少疾病領域における絶対的なリーダーとして、最も治療を必要としている患者さんに革新的な治療法を届けるという強い使命感と、それを実現するためのグローバルな実行力を持っています。両社の提携は、日本で生まれた世界最先端の技術と、それを最も効果的に世界中の患者へと届けられる実行力が手を結んだ、必然のパートナーシップでした。

この提携の成功は、JCRファーマとAlexion社に大きな利益をもたらすだけでなく、遺伝子治療の分野全体に計り知れない恩恵を与える可能性があります。これまで治療法がなかった数多くの神経難病や希少疾病に対して、有効な治療選択肢が生まれる道筋が示されたのです。これは、病と闘う患者さんとそのご家族にとって、何物にも代えがたい希望の光となるでしょう。JCRファーマの挑戦は、まさに次世代医療の新たな扉を開き、私たちが知る医療の姿を根底から変えていく、壮大な物語の序章なのかもしれません。

引用文献

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  4. 遺伝子治療の市場規模、シェアの成長、傾向、レポート[2027] - Fortune Business Insights, 遺伝子治療の市場規模、シェアの成長、傾向、レポート[2027]
  5. 専門医がわかりやすく解説!ライソゾーム病治療の最前線, https://genetics.qlife.jp/interviews/dr-takahashi-20221108
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  7. Our approach to gene therapy | AstraZeneca, https://www.astrazeneca.com/r-d/next-generation-therapeutics/gene-therapy.html
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  22. JCRファーマの脳標的AAV遺伝子治療:ASGCT 2025で発表された ..., https://note.com/pharma_insight/n/n26ae93efd854
  23. Treatment of Neuronopathic Mucopolysaccharidoses with Blood ..., https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC9229961/
  24. JCR Pharmaceuticals Completes Enrollment in Global Phase III Trial for Blood-Brain Barrier-Penetrating Hunter Syndrome Therapy - MedPath, https://trial.medpath.com/news/7df0dd791bfb64b3/jcr-pharmaceuticals-completes-enrollment-in-global-phase-iii-trial-for-blood-brain-barrier-penetrating-hunter-syndrome-therapy
  25. JCR Pharmaceuticals Enters License Agreement with Alexion for Proprietary JUST-AAV Capsids to be Used in the Development of Genomic Medicines - BioSpace, https://www.biospace.com/press-releases/jcr-pharmaceuticals-enters-license-agreement-with-alexion-for-proprietary-just-aav-capsids-to-be-used-in-the-development-of-genomic-medicines
  26. 革新的AAVベクター:JCRファーマが中枢送達と肝毒性回避を両立 ..., https://note.com/mrmr275/n/n8379ce1cba23
  27. JCRファーマ アレクシオンと新規遺伝子治療用製品の開発でJUST-AAV技術に関するライセンス契約 - ミクスOnline, https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=78647
  28. JCR Pharmaceuticals and Alexion partner on JUST-AAV, https://www.pharmaceutical-technology.com/news/jcr-pharmaceuticals-alexion-just-aav-gene-therapy-platform/
  29. Alexion Pharmaceuticals - Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Alexion_Pharmaceuticals
  30. About us | Alexion Advance Rare Disease Knowledge Center, https://rarediseaseknowledge.com/en-se/about-us
  31. Rare Disease Research & Development | Alexion Global Site, https://alexion.com/rare-disease-research-and-development
  32. About Us | Alexion US Site, https://alexion.us/about-us
  33. Our Approach | Alexion Global Site, https://alexion.com/our-approach
  34. Alexion, AstraZeneca Rare Disease, enters agreement with Pfizer to acquire a portfolio of preclinical rare disease gene therapies, https://www.astrazeneca.com/media-centre/press-releases/2023/alexion-enters-gene-therapy-agreement-with-pfizer.html
  35. AstraZeneca announces collaboration and investment agreement with Cellectis to accelerate cell therapy and genomic medicine ambitions, https://www.astrazeneca.com/media-centre/press-releases/2023/astrazeneca-cell-and-gene-therapy-deal-w-cellectis.html
  36. JCR, Alexion collaborate on genomic medicines using JUST-AAV, https://www.worldpharmaceuticals.net/news/jcr-alexion-collaborate-on-genomic-medicines/
  37. JCR Pharmaceuticals Announces Research Collaboration, Option and License Agreement with Alexion to Develop a Therapy Using J-Brain CargoR for Neurodegenerative Disease - Business Wire, https://www.businesswire.com/news/home/20230403005515/en/JCR-Pharmaceuticals-Announces-Research-Collaboration-Option-and-License-Agreement-with-Alexion-to-Develop-a-Therapy-Using-J-Brain-Cargo-for-Neurodegenerative-Disease
  38. JCR Enters Research Collaboration with Alexion - Global Genes, https://globalgenes.org/raredaily/jcr-enters-research-collaboration-with-alexion/
  39. Discovery partnerships | Alexion Global Site, https://alexion.com/discovery-partnerships
  40. Voyager Demonstrates ALPL Receptor-Mediated Blood-Brain Barrier Transport of Novel AAV Capsids in Molecular Therapy Publication, https://ir.voyagertherapeutics.com/news-releases/news-release-details/voyager-demonstrates-alpl-receptor-mediated-blood-brain-barrier/
  41. TEngineered AAV Vectors Designed to Bypass the Blood-Brain ..., https://www.marinbio.com/targeting-the-brain-engineered-aav-vectors-designed-to-bypass-the-blood-brain-barrier-bbb/
  42. Companies Devise New Ways to Smuggle Drugs Across the Blood-Brain Barrier - BioSpace, https://www.biospace.com/companies-devise-new-ways-to-smuggle-drugs-across-the-blood-brain-barrier
  43. Companies Devise New Ways to Smuggle Drugs Across the Blood ..., https://www.biospace.com/companies-devise-new-ways-to-smuggle-drugs-across-the-blood-brain-barrier/
  44. Takara Bio Announces a Novel Brain-Tropic AAV Vector "CereAAV™" for Gene Therapy, https://www.takara-bio.com/en/news/news_220425dtyausdsh1404H.html

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