Table of Contents
なぜ特許は創薬の生命線なのか
そもそも特許とは何のために存在するのでしょうか。その答えは、単に発明者の利益を守るためだけではありません。それは、社会全体が未来の医療を享受するための、極めて重要な「約束」なのです。ある個人や企業が画期的な発明をしても、その瞬間に他社が容易に模倣し、安価に販売できてしまう世界を想像してみてください。そこでは、誰も莫大な時間と費用を投じて新しいものを生み出そうとはしなくなるでしょう。発明を奨励し、それによって産業全体を発展させることこそ、特許制度が生まれた根源的な目的です。
この原則が、他のどの産業よりも切実に当てはまるのが、医薬品の世界です。一つの新しい薬、すなわち「新薬」が私たちの手元に届くまでには、想像を絶するほどの長い道のりと、天文学的な規模の投資が必要とされます。製薬企業の研究室で薬の候補となる新しい物質が発見されてから、実際に国の承認を得て発売されるまで、平均して9年から15年という歳月がかかります 。これは、子供が生まれてから高校生になるまでの期間に匹敵します。
その道のりは、無数の失敗の上に成り立っています。創薬の成功確率は、時に3万分の1とも言われるほど低く、薬の候補となった何万もの化合物のうち、最終的に製品として世に出られるのは、ほんの一握りに過ぎません 。一つの成功の裏には、文字通り数万の失敗プロジェクトが存在し、その研究開発費もすべて、最終的に成功した一つの薬のコストに集約されるのです。日本製薬工業協会の調査によれば、一つの新薬を上市するために必要な開発コストは、失敗したプロジェクトの費用も含めると、数百億円という規模に達することもあります 。
このような極めてリスクの高い事業環境において、特許による保護がなければ、製薬企業の経済モデルは成り立ちません。もし、15年の歳月と数百億円を投じて生み出した新薬が、発売と同時に他社によって簡単にコピーされ、開発費を全くかけていないジェネリック医薬品として安く売られてしまったら、投資を回収することは不可能であり、次の新薬開発に向けた原資も確保できません。これでは、企業が創薬に挑むインセンティブは完全に失われてしまいます。
だからこそ、特許制度は製薬産業にとって単なるビジネスツールではなく、その存立基盤そのものなのです。特許によって与えられる一定期間の独占的な販売権は、この途方もないリスクに見合うリターンを確保するための、いわば社会からの「約束手形」です。この独占期間があるからこそ、企業は失敗のリスクを乗り越え、次の世代の革新的な治療薬を生み出すための研究開発に再投資することができるのです。
この観点から見ると、医薬品特許は一種の「社会契約」としての側面を持っていることがわかります。社会は、新薬が開発されることによる公衆衛生上の長期的な利益を享受するために、その対価として、一定期間、開発企業に独占的な地位を認め、比較的高価な薬価を受け入れるのです。これは、短期的な費用の負担と、新薬が生まれなければ得られなかったであろう未来の健康という、より大きな利益との間の意図的なトレードオフと言えるでしょう。このバランスの上に、現代の医療イノベーションは成り立っています。
さらに、特許は特に小規模なバイオベンチャーやスタートアップ企業にとって、事業を推進するための「リスクキャピタル」そのものとして機能します。これらの企業は、しばしば画期的なアイデアや有望な化合物を持っていても、収益を生み出す手段や有形の資産をほとんど持っていません 。彼らが莫大な費用のかかる臨床試験を進めるためには、ベンチャーキャピタルなど外部からの投資が不可欠です。投資家は、将来的なリターンが見込める場合にのみ資金を提供しますが、そのリターンの源泉となるのが、製品化された際の市場での独占権です。
この未来の独占権を法的に保証するのが、特許に他なりません。強力な特許ポートフォリオは、その企業が持つ将来の収益可能性を具体的に示す、最も価値のある資産となります。つまり、特許は完成した製品を守るだけでなく、その製品を完成させるまでの長い道のりを歩むための資金を調達する上で、生命線とも言える役割を果たしているのです 。
特許は一つではない:発明を守るための戦略
「医薬品の特許」と一言で言っても、それは単一のものではありません。実際には、製薬企業は一つの薬を多角的に保護するために、様々な種類の特許を戦略的に組み合わせて用います。それはまるで、貴重な城を守るために、まず強固な本丸を築き、その周りに堀や城壁、出城を次々と配置していくようなものです。この特許による「要塞」を理解することが、医薬品ビジネスの核心に迫る鍵となります。
本丸:物質特許
この要塞の中心に位置し、最も強力で根源的な保護を与えるのが「物質特許」です 。これは、薬の有効成分として機能する、新しく発見された化学物質そのものに対する特許です。通常、その権利範囲は物質の化学構造式によって特定されます 。この特許の絶大な力は、たとえ製造方法や使用目的が異なっていても、その物質自体が含まれている限り、他社はその物質を製造・販売できないという点にあります 。
物質特許は、創薬研究の比較的早い段階、有望な候補物質が見出された「探索研究」のフェーズで出願されるのが一般的です 。この特許を保有することで、企業はその後の長い開発期間を経て上市された新薬を独占的に市場に供給する権利を得るため、医薬品特許戦略のまさに「礎石」と言えるでしょう 。
用途特許
次に重要なのが「用途特許」です。これは、物質そのものではなく、その物質の「新しい医学的な使い道」を保護する特許です 。例えば、既知の物質Aがこれまで胃薬として使われていたとします。しかし、その後の研究で、物質Aに全く新しい抗がん作用があることが発見された場合、その「抗がん剤としての用途」に対して特許を取得することができるのです 。
このタイプの特許の古典的な例として、爆薬の原料であったニトログリセリンが、後に狭心症の治療薬としての全く新しい用途が発見されたケースが挙げられます 。この場合、特許の権利は新しい用途(狭心症治療)にのみ及び、元々知られていた用途(爆薬原料)には及びません。用途特許は、開発の過程、特に動物実験などを行う前臨床試験の段階や、ヒトでの効果を確かめる臨床試験の段階で新たな薬理作用が見出されることで生まれることが多くあります 。
製剤特許
城の守りをさらに固めるのが「製剤特許」です。これは、薬の最終的な「レシピ」や「剤形」に関する発明を保護します 。有効成分そのものは同じでも、それをどのように患者さんに届けるか、という工夫に価値を見出すのです。例えば、有効成分を安定化させるための特定の添加剤を加える技術や、薬が体内でゆっくり溶けて効果が長持ちするように設計された「徐放製剤」の処方、あるいは逆に素早く溶けて即効性を発揮する「速溶錠」の技術などがこれに該当します 。
これらの発明は、患者の服薬コンプライアンス(指示通りに薬を飲むこと)を向上させたり、副作用を軽減したりと、医薬品の価値を大きく高めるものです。製剤に関する工夫は、主に臨床試験の段階で、実際の患者での使用を想定しながら最適化されていく過程で生まれることが多いのが特徴です 。
製法特許
重要な要素として「製法特許」があります。これは、有効成分である物質を製造するための、新しい効率的な方法を保護する特許です 。同じ物質であっても、Aという方法で作るのとBという方法で作るのでは、コストや純度、環境への負荷が大きく異なる場合があります。より少ない工程で、より安価に、より高純度のものを製造できる新しい合成ルートを発見した場合、その「製造方法」自体が特許の対象となり得ます 。
ただし、この特許の権利はあくまでその特定の製造方法に限定されるため、他社が異なる方法で同じ物質を製造した場合には権利が及びません 。そのため、物質特許に比べると権利範囲は狭いですが、製造コストにおける競争優位性を確保する上で重要な役割を果たします。製造プロセスの最適化は、開発の後期、特に承認審査段階やその後に、大量生産を見据えて行われる中で発明されることが多くあります 。
その他の特許
これらの主要な特許に加え、企業はさらに多層的な防御網を築きます。例えば、同じ化学式でも結晶の構造が異なると薬の安定性や溶けやすさが変わることがあり、特定の「結晶形」を保護する結晶特許 。二つ以上の有効成分を組み合わせた「配合剤」に関する配合剤特許や、複数の薬を組み合わせて使用する治療法を保護する併用特許 。そして、特定の症状を持つ患者に対して、1日に何ミリグラムを何回投与するといった、最も効果的で安全な「用法・用量」を定めた用法用量特許などです 。
これらの多様な特許群は、単なる思いつきで出願されるわけではありません。実は、企業が取得する特許の種類とタイミングを時系列で追っていくと、そこには一つの新薬が誕生し、成長していく「発見の物語」が刻まれています。創薬研究段階での物質特許は「アイデアの誕生」を、前臨床・臨床段階での用途特許は「可能性の探求」を、開発後期での製剤特許は「製品としての洗練」を、そして承認前後での製法特許は「生産技術の習熟」を、それぞれ象徴しているのです。特許ポートフォリオは、いわばその薬の研究開発の道のりを記した、知的財産の航海日誌なのです。
このことはまた、製薬企業のイノベーションが、最初の「何を(What)」、つまり新しい物質の発見だけに留まらないことを示唆しています。むしろ、その後の「いかに(How)」、つまり、いかに効果的に使うか、いかに安全に届けるか、いかに効率的に作るか、という継続的な改善の中に、多くの発明が隠されているのです。この「How」への絶え間ない探求こそが、次に述べるライフサイクルマネジメント戦略の根幹を成しています。
時間との闘い:20年という期間
特許権の存続期間は、原則として出願日から20年間です 。この「20年」という数字は、一見すると発明者に十分な保護期間を与えているように思えるかもしれません。しかし、医薬品の世界においては、この数字は大きな誤解を生む源泉となっています。なぜなら、この20年という時計の針は、薬が発売された日からではなく、特許を「出願した日」から動き始めるからです 。
前述の通り、一つの新薬が研究室での発見から規制当局の承認を得て市場に出るまでには、10年から15年もの長い年月を要します 。これはつまり、製薬企業がその発明によって1円の収益も得られない間に、20年という貴重な特許期間の大半が刻一刻と失われていくことを意味します 。この現象は、特許期間の「侵食(erosion)」と呼ばれます。
結果として、製薬会社が実際に新薬を独占的に販売できる期間は、20年どころか、わずか5年から10年程度に過ぎないというケースも珍しくありません 。これは、第1章で述べた、莫大な投資を回収し、次のイノベーションの原資とするという特許制度の根幹を揺るがしかねない深刻な問題です。
この構造的な問題を解決するために、法律は「特許権の存続期間の延長登録制度(PTE: Patent Term Extension)」という、いわば「命綱」を用意しています 。この制度は、医薬品医療機器等法(薬機法)のような法律に基づく承認審査など、国の規制によって特許発明の実施(この場合は医薬品の販売)ができなかった期間が存在することを考慮し、その失われた期間の一部を回復させることを目的としています 。
具体的には、規制によって販売できなかった期間について、日本では最長で5年間、特許期間の延長が認められています 。この延長制度は、医薬品開発という特殊な事情を鑑み、発明者を適切に保護するために設けられた、極めて重要な仕組みです 。
興味深いことに、この延長は最初の新薬承認時だけでなく、その後に追加された新しい効能・効果(適応症)や、新しい用法・用量での承認など、異なる承認処分に基づいて複数回申請できる場合があります 。その結果、一つの特許であっても、Aという用途に関する権利は2025年に切れるが、Bという用途に関する権利は延長されて2028年まで存続する、といった複雑な状況が生まれることもあります 。
この特許期間の侵食という現実は、製薬企業に極めて重大な戦略的ジレンマを突きつけます。それは、「最初の、そして最も重要な物質特許を、一体いつ出願すべきか」という問題です。
もし、あまりに早く出願してしまうと、競合他社に先んじて権利を確保できるというメリットはありますが、その後の長い開発期間によって特許期間の侵食が最大化され、いざ発売された時には残りの独占期間がほとんどない、という事態に陥りかねません 。また、データが不十分な段階での出願は、権利範囲が狭く、他社に容易に回避されてしまう弱い特許しか取れないリスクも伴います。
一方で、出願を遅らせすぎるとどうなるでしょうか。より豊富なデータに基づいて強力で広い権利範囲の特許を取得でき、期間の侵食も最小限に抑えられるかもしれません。しかし、その間に競合他社が同じような発明をして先に出願してしまえば、全ての努力は水の泡となります。特許制度は「先願主義」を採用しており、先に特許庁に出願した者に権利が与えられるからです 。さらに、自社の研究者が学会や論文で研究成果を発表してしまえば、その発明は「公知の事実」となり、もはや新規性を失って特許を取得できなくなるというリスクも存在します 。
このように、特許の出願タイミングの決定は、競合に打ち負かされるリスクと、自らの権利期間を侵食するリスクとの間で、極めて高度なバランス感覚が求められる、まさに企業の知財戦略の根幹をなす意思決定なのです。
この延長制度の存在は、法律が二つの相反する社会的要請をいかに調整しようとしているかを示す好例です。一方では、国民の安全を守るために、厳格で時間のかかる医薬品審査は不可欠です 。もう一方では、未来の医療を創出するイノベーションを促進するために、企業に十分な商業的インセンティブを与える必要があります 。この二つの要請は、一方が長くなればもう一方が短くなるという、直接的な対立関係にあります。特許期間延長制度は、この対立する二つの価値を天秤にかける「支点」の役割を果たしているのです。規制によって必然的に失われる時間を、法律が部分的に補填することで、安全性とイノベーションの間の崩れがちなバランスを回復させようという、社会的な知恵の結晶と言えるでしょう。
ライフサイクルマネジメントと特許
これまで見てきた特許の基本原則を踏まえ、ここからは製薬企業が展開する、より高度で戦略的な世界へと足を踏み入れます。それは、一つの医薬品の価値をその生涯にわたって最大化するための壮大な計画、「ライフサイクルマネジメント(LCM)」と呼ばれるものです 。これは、第2章で紹介した様々な特許という駒を駆使して、いずれ訪れる中核特許の満了という危機を乗り越えるための「特許要塞」を築き上げる、長期的なチェスゲームに他なりません。
LCM戦略の核心は、最初の物質特許が出願された後も、研究開発の手を緩めず、その薬に関連する新たな発明を継続的に生み出し、特許として権利化していくことにあります 。企業は、主力製品の独占販売期間を可能な限り長く、そして強固なものにするために、意図的に以下のような改良や発見を追求します。
一つは、新たな「剤形」の開発です。例えば、1日3回服用が必要だった薬を、体内でゆっくり成分が放出されるDDS(ドラッグデリバリーシステム)技術を用いて1日1回の服用で済むように改良したり、水なしで飲める口腔内崩壊錠を開発したりします 。これらの改良は患者の利便性を大きく向上させるため、それ自体が新たな製剤特許の対象となります。
二つ目は、新たな「用法・用量」や投与方法の発見です。これは「レジメン特許」とも呼ばれ、特定の投与スケジュールや他の薬剤との組み合わせによって、より高い治療効果が得られたり、副作用が軽減されたりすることを発見し、その使用方法を特許で保護する戦略です 。
三つ目は、新たな「適応症」の拡大です。元々はAという病気の治療薬として承認された薬が、その後の研究でBという全く異なる病気にも効果があることが判明した場合、その新しい用途について承認を得るとともに、用途特許で保護します 。
四つ目は、「配合剤」の開発です。既存の薬と他の有効成分を組み合わせることで、相乗効果が生まれたり、複数の薬を一度に服用できるようになったりする新しい医薬品を開発し、その組み合わせ自体を特許で保護します 。
これらの後続特許(フォローオン特許)は、それぞれが異なる満了日を持つため、特許ポートフォリオ全体として、切れ目のない、あるいは重複した保護期間を生み出します。これにより、たとえ最初の最も強力な物質特許が切れてジェネリック医薬品が市場に参入できるようになったとしても、これらの後続特許が壁となり、ジェネリックメーカーがより利便性の高い改良版の製品(例えば1日1回服用の徐放錠)を販売することを阻止できるのです 。
この戦略が成功した顕著な例として、抗がん剤「アリムタ」のケースが挙げられます。この薬の物質特許が切れた後も、開発企業は「アリムタの毒性を軽減するために、葉酸とビタミンB12を併用する」という特定の投与レジメンに関する特許を行使し、市場での独占期間を実質的に延長することに成功しました 。
一方で、このような戦略は常に成功するとは限りません。抗がん剤の「ハーセプチン」や「タキソール」の事例では、企業が取得したレジメン特許が、後に裁判で「既存の技術から容易に思いつくことができる」などとして無効と判断され、LCM戦略に大きな打撃を与えました 。これは、LCM戦略が高度な知財判断を伴う、リスクの高いゲームであることを示しています。
このLCM戦略は、次に述べる「パテントクリフ」という巨大な崖を乗り越えるための、いわば「橋渡し」の役割を担っています。製薬企業の主力製品は、年間数千億円もの売上をもたらすことがあります。その製品の物質特許が切れると、売上が一夜にして崖から転落するように激減する現象が起こります。LCMは、この事態を何年も前から予見し、プロアクティブに防御策を講じるためのメカニズムなのです。
改良版の製品を開発し、それを新たな特許で保護することで、企業は単一の製品ではなく、複数の選択肢を持つ「製品ライン」を構築します。そして、オリジナルの薬の特許が切れるタイミングで、市場を巧みに、まだ特許で保護されている新しいバージョンへと移行させていくのです。これにより、崖からの真っ逆さまの転落を、より緩やかな下り坂に変え、次世代の革新的な新薬が育つまでの貴重な収益源を確保しようと試みるのです。
しかし、このLCM戦略は、常に賞賛されるわけではありません。それは、イノベーションと「エバーグリーニング」という、二つの顔を持つからです。一方では、患者の負担を軽減する新しい剤形の開発や、これまで治療法がなかった病気への適応拡大など、患者にとって明確な利益をもたらす、真のイノベーションであることは間違いありません。
しかし、もう一方では、批評家から「エバーグリーニング(evergreening)」、すなわち、些細な改良で新たな特許を取得し、独占期間を不当に引き延ばすことで薬価を高止まりさせるための戦略ではないか、という厳しい目が向けられることもあります。企業の視点では新しい発明を正当に権利化している行為が、社会の視点からはシステムの抜け穴を利用した独占の延長と映るのです。
この緊張関係こそが、現代の医薬品特許を巡る議論の核心にあります。そして、ある改良が真に価値のある非自明な発明なのか、それとも独占を延長するためだけの些細な変更なのかを判断する重い責務が、特許庁や裁判所に課せられているのです。
パテントクリフ:特許独占が終わる時
すべての特許には、必ず終わりが訪れます。製薬企業が築き上げた堅牢な特許要塞も、時間の経過とともにその壁が崩れ、ついに独占期間が終焉を迎える日がやってきます。この瞬間は、関係者によって全く異なる意味を持ちます。開発企業にとっては「崖」からの転落を意味する一方、ジェネリック医薬品メーカーや患者、そして国全体の医療制度にとっては、新しい「夜明け」の始まりとなるのです。
「パテントクリフ(特許の崖)」とは、主力新薬の特許が切れることで、ジェネリック医薬品が一斉に市場に参入し、その新薬の売上が文字通り崖から落ちるように急激に減少する現象を指します 。特に、1990年代に登場した数々の大型製品(ブロックバスター)の特許がこぞって満了を迎えた2010年前後には、この問題が製薬業界全体を揺るがす大きな課題となりました 。
開発企業(先発医薬品メーカー)にとって、これは経営の根幹を揺るがす一大事です。これまで会社の収益の柱であった製品の売上が、数年で8割以上も失われることも珍しくありません。この崖を乗り越えるために、企業は前述のLCM戦略や、全く新しい新薬の研究開発に社運を賭けることになります。
一方で、ジェネリック医薬品メーカー(後発医薬品メーカー)にとって、この日は待ちに待ったビジネスチャンスの到来を意味します。彼らは、先発医薬品メーカーが費やした莫大な研究開発コストを負担することなく、同じ有効成分を持つ医薬品を製造・販売することができます 。そのため、薬価を大幅に低く設定することが可能となり、市場に大きな変革をもたらします。
そして、社会全体、特に患者と国の医療制度にとって、ジェネリック医薬品の登場は計り知れない恩恵をもたらします。薬の価格が劇的に下がることで、患者個人の経済的負担が軽減されるだけでなく、国民皆保険制度を支える国の医療費も大幅に抑制することができます 。実際に、日本政府は医療費抑制の観点から、ジェネリック医薬品の使用を積極的に推進しており、その数量シェアは約80%に達しています 。
しかし、患者の視点はもう少し複雑です。ジェネリック医薬品は、有効成分やその量、効能・効果が先発医薬品と同等であると国によって認められていますが、味や形、そして薬の吸収などに影響を与える可能性のある添加物については、異なる場合があります 。そのため、長年使い慣れた先発医薬品への信頼感や、添加物の違いによるアレルギー反応などへの懸念から、先発品を希望する患者も少なくありません 。
この状況に対応するため、日本では近年、新たな制度が導入されました。それは、ジェネリック医薬品が発売されているにもかかわらず、患者が自らの希望で先発医薬品を選択した場合、ジェネリック医薬品との価格差の一部を追加で自己負担するという仕組みです 。これは、患者にジェネリックへの切り替えを促す経済的なインセンティブとして機能します。ただし、アレルギー歴があるなど、医師が医学的な必要性があると判断した場合には、この追加負担は免除されます 。
このパテントクリフという現象は、一見すると開発企業の悲劇のように映るかもしれません。しかし、より大きな視点で見れば、これは特許制度という「社会契約」が、その役目を完全に果たした瞬間なのです。第1章で述べたように、特許制度はイノベーションを促すための「一時的な」独占を社会が認めるという契約でした。その「一時的な」期間が満了し、発明の恩恵が広く社会に還元され、低価格で誰もがアクセスできるようになる。パテントクリフは、まさにその約束が果たされた証であり、制度が失敗したのではなく、意図通りに機能した結果なのです。一つの発明が、私的な資産から公共の財産へと移行する、重要な節目と言えるでしょう。
さらに、特許切れ後の市場は、単なる「先発品 vs ジェネリック」という単純な構図だけではありません。近年、「オーソライズド・ジェネリック(AG)」という第三の存在が市場をより複雑にしています。これは、先発医薬品メーカー自身が、子会社などを通じて発売するジェネリック医薬品のことです 。AGは、有効成分だけでなく添加物や製造方法も先発品と全く同じでありながら、価格はジェネリック医薬品の水準に設定されています。
先発メーカーは、AGを投入することで、特許切れによって失われる市場シェアの一部を自ら確保しようとします。また、医師や患者に対して「中身は先発品と全く同じ」という安心感を訴求することで、他のジェネリック医薬品に対する競争上の優位性を築こうとするのです 。このように、特許が切れた後の市場でも、企業のしたたかな戦略的思考が繰り広げられているのです。
大学と企業の特許意識の溝
この報告書の締めくくりとして、冒頭の問い、すなわち大学の研究と製薬会社での研究における「特許に対する意識」の大きな差というテーマに立ち返りたいと思います。この溝はなぜ生まれるのか、そして、未来の創薬イノベーションのために、この二つの世界をいかにして繋ぐことができるのか。その答えは、両者の根源的な文化、目的、そして評価尺度の違いにあります。
大学における研究の第一の目的は、多くの場合、真理の探求と知の創造です。その成果は、査読付き学術雑誌への「論文掲載」という形で公にされ、研究者としての評価や名声に繋がります 。研究者にとって、自らの発見をいち早く世界に公表することは、科学の発展に貢献する行為であり、キャリアを築く上で極めて重要なマイルストーンです。
一方、製薬企業における研究の目的は、明確に「商業的に成功する製品」、すなわち患者を治療し、かつ収益を生み出す医薬品を創出することにあります。その過程で生まれる発明は、単なる科学的発見ではなく、市場での競争優位性を確保するための「価値ある資産」として捉えられます。そして、その資産を法的に保護する手段が特許なのです 。
この目的の違いが、特許に対する意識の根本的なギャップを生み出します。大学の研究者にとっては、論文発表がゴールであるのに対し、企業にとっては特許出願がスタートラインです。むしろ、企業から見れば、特許出願前の論文発表は、発明の新規性を失わせ、特許取得を不可能にしてしまう「致命的な行為」ですらあります 。
また、両者の間で「価値ある発明」の認識が異なることもしばしばです。「認識のギャップ」とも呼ばれるこの問題は、産学連携における大きな障壁の一つです 。大学は、生命現象の根源的なメカニズムの解明といった「上流」の研究に価値を見出す傾向があります。一方、企業が求めるのは、直接製品化に結びつく具体的な化合物や技術といった「下流」の成果です 。企業が特許として権利化し、事業化を進めるためには、学術的な面白さだけでなく、有効性や安全性を示す膨大な量のデータが必要となりますが、大学の研究室単独でこれを満たすことは困難です 。
しかし、こうした数々の困難にもかかわらず、大学と企業の連携、すなわち「産学連携」は、現代の創薬において不可欠なエンジンとなっています。実際、ノーベル賞受賞に繋がったオプジーボ(京都大学と小野薬品工業)や、国産初の抗体医薬であるアクテムラ(大阪大学と中外製薬)など、多くの画期的な医薬品が、大学の基礎研究のシーズ(種)を企業が育て上げるという連携モデルから生まれています 。
この連携を円滑に進めるために、大学内に設置されたTLO(技術移転機関)や産学連携本部の役割が極めて重要になります 。彼らは、大学の研究成果の中から商業的に有望なシーズを見出し、適切な特許戦略を立案し、企業との橋渡し役を担う、専門家集団です。
大学の基礎研究と、企業の製品開発との間には、しばしば「死の谷(Valley of Death)」と呼ばれる深い溝が存在します。これは、大学の発見が科学的には有望であっても、製品化するにはリスクが高すぎて企業が投資を躊躇し、かといって大学が単独で開発を進めるには資金もノウハウも不足している、という開発段階の空白地帯を指します。
この「死の谷」を乗り越えるための重要なメカニズムが、大学発のスタートアップ(ベンチャー企業)です。大学で生まれた発明の特許を基盤に設立されたスタートアップは、ベンチャーキャピタルなどからリスクマネーを調達し、その技術の価値を証明するための初期開発を行います 。そして、その技術が一定の段階まで進み、リスクが低減された時点で、大手製薬企業にライセンスアウトしたり、企業ごと買収されたりすることで、最終的な製品化への道筋をつけるのです。
近年、製薬業界では、自社内ですべての研究開発を完結させるクローズドなモデルから、大学やベンチャー、時には競合他社とも連携してイノベーションを追求する「オープンイノベーション」へと、大きな潮流の変化が起きています 。研究開発のコストが高騰し、成功確率が低下する中で、外部の優れた知恵や技術を積極的に活用することが、企業の生き残りにとって不可欠になっているのです。
この文脈において、大学と企業の特許意識のギャップを理解し、その溝を埋めるための努力は、もはや一部の専門家の課題ではありません。それは、日本の、そして世界の製薬産業全体の未来を左右する、中核的な戦略課題となっています。異なる文化を持つ二つの世界が、特許という共通言語を通じて対話し、互いの強みを活かし合うこと。その先にこそ、いまだ治療法のない病に苦しむ患者を救う、次世代の医薬品が生まれる希望があるのです。
引用文献
- 医薬品開発の期間と費用 - 製薬協, https://www.jpma.or.jp/opir/research/rs_059/pb1snq000000107e-att/pdf_article_059_01.pdf
- くすりを創る | くすりをつくる | からだとくすりのはなし | 患者さん ..., https://www.chugai-pharm.co.jp/ptn/medicine/create/create001.html
- 製薬企業における新薬開発の流れ:莫大な研究開発費と期間が必要です, https://www.cro-japan.com/clinical_trial/development.htm
- スライド 1 - 久留米大学, http://www.med.kurume-u.ac.jp/med/joint/chizai/file/090130_nagai.pdf
- 知的財産の基本から知財ミックスまで【第4回】 - GMP Platform, https://www.gmp-platform.com/article_detail.html?id=15848
- 医薬品の特許について - 日本ジェネリック製薬協会, https://www.jga.gr.jp/jgapedia/deals/_19347.html
- 医薬品分野の特許とは?【知財タイムズ】, https://tokkyo-lab.com/co/info-aboutmedical
- 製薬業界の必須知識!パテントクリフについて解説します - 知財タイムズ, https://tokkyo-lab.com/co/patentcliff
- ジェネリック医薬品と特許, https://www.jga.gr.jp/information/jga-news/2022/167/06.html
- 医薬品の特許:製薬会社が独占販売できる期間は10年程度, https://www.cro-japan.com/clinical_trial/patent.htm
- 新規医薬品と特許|初心者でも知っておきたい前提知識 : 記事・コラム - 日本アイアール株式会社, https://nihon-ir.jp/pharmaceutical-patents1_new-drug/
- 日本の医薬品産業の特性・最近の動向と税務面の特徴 - PwC, https://www.pwc.com/jp/ja/knowledge/column/digital-tax/assets/pdf/pharmaceutical-industry-tax03.pdf
- 医薬品特許の種類や期間について | 髙﨑法律事務所, https://itip-law.com/tokkyo/%E5%8C%BB%E8%96%AC%E5%93%81%E7%89%B9%E8%A8%B1%E3%81%AE%E7%A8%AE%E9%A1%9E%E3%82%84%E6%9C%9F%E9%96%93%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/
- 医薬品分野の特許とは? 特許の種類や存続期間について解説, https://www.inoue-patent.com/post/medicinalproduct-patent
- 【コラム】数百億円かけて開発する医療用医薬品の特許期間はどれぐらい?, https://www.members-medical.co.jp/blog/medical/2020/0228/1093/
- 特許権の存続期間の 延長登録制度について, https://www.chisou.go.jp/tiiki/kokusentoc_wg/hearing_s/150327shiryou08-01.pdf
- 第2回:特許期間の延長制度とは? 〜「+5年」の裏側を読み解く ..., https://susumiru.com/%E7%AC%AC2%E5%9B%9E%EF%BC%9A%E7%89%B9%E8%A8%B1%E6%9C%9F%E9%96%93%E3%81%AE%E5%BB%B6%E9%95%B7%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F-%E3%80%9C%E3%80%8C%EF%BC%8B5%E5%B9%B4%E3%80%8D%E3%81%AE/
- 特許権の本質と存続期間の延長登録 - Kobe University, https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/81009059/81009059.pdf
- 医薬特許権の存続期間の延長, https://jpaa-patent.info/patents_files_old/201603/jpaapatent201603_074-079.pdf
- 【医薬品の特許戦略】特許の保護期間をのばすには?, https://sakatani-ip.com/media/extension-registration-of-patent/
- 3. 国内ヒアリング調査 - AMED, https://www.amed.go.jp/content/000032005.pdf
- 先使用権制度の円滑な活用に向けて - 特許庁, https://www.jpo.go.jp/system/patent/gaiyo/senshiyo/document/index/senshiyouken_2han.pdf
- 医薬品ライフサイクルと変更マネジメント, https://www.nihs.go.jp/drug/PhForum/19thRecord/19Forum03.pdf
- 医薬品製造事業関連の知財戦略【第9回】 - GMP Platform, https://www.gmp-platform.com/article_detail.html?id=136
- 医薬品ライフサイクルマネジメントのマップによる解析評価ーProduct-Generation Patent-Portfolio Map の提案ー - 神戸大学大学院経営学研究科 |, https://mba.kobe-u.ac.jp/oldweb_pics/contents/students/thesis_files/workingpaper/2007/WP2007-16.pdf
- レジメン特許:LCM 失敗例と成功例 - 阿部国際総合法律事務所, http://www.abe-law.com/wp/wp-content/uploads/2023/09/230919-Newsletter.pdf
- Patent Use Codeの記述に基づく 医薬品ライフサイクルマネジメント, https://www.oblon.com/A11960/assets/files/News/JIPA_article_Patent-Use-Codes_feb_2011.pdf
- ジェネリック医薬品と特許の基礎知識を解説|パテントリンケージ ..., https://nihon-ir.jp/pharmaceutical-patents2_generic-drugs/
- OPD(オフ・パテント・ドラッグ)の市場動向と関連制度 - 株式会社メディカルエデュケーション, https://medicaleducation.co.jp/back_number/2017_summer03/
- 特許切れ先発薬の自己負担額引き上げその仕組みと影響は?, https://www.comado.co.jp/post-6158/
- 【2024年最新版オーソライズド・ジェネリック医薬品一覧表付】AGが製薬の業界再編をもたらしうるのではと思ったので調べてみた | アジヘルのヘルスケアビジネス考察日記, https://healthcareit.jp/?p=1208
- デジタル化の進展を踏まえた医薬品分野の 産学連携における知財マネジメントの在り方に 関す, https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou/siryou/pdf/r01hosei_chizai-management.pdf
- 【第2部】日本の創薬産業が直面する危機と産学連携の必要性 - 基礎研究 × 内科医, https://cork31-naikai.com/academia-industry_partnership/
- 製薬企業とベンチャー企業とのアライアンスに おける意識のギャップに関する研究 - 製薬協, https://www.jpma.or.jp/opir/research/rs_065/pb1snq00000011dx-att/pdf_article_065_01.pdf
- アカデミア視点からの産学連携の現状 と課題 - 経済産業省, https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/shomu_ryutsu/bio/pdf/005_06_00.pdf
- 医薬品産業の現状と 産学連携への期待, https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shinkou/054/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2019/04/25/1416071_004.pdf
- 医歯薬系URAの役割, https://www.rman.jp/meetings2017/doc/M-3_1_o.pdf
- 産学連携のパイオニア-大阪大学における知的財産創出と技術移転- - 河野特許事務所, https://knpt.com/contents/thesis/00014/ronbun14.htm
- 大学から見た産学連携活動の現状, https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/ip/haihu33/siryo7.pdf
- 「スーパー研究者」出しても、日本の創薬が世界で勝てない本当の理由 | Business Insider Japan, https://www.businessinsider.jp/article/181170/
- 複数企業の社内データを産学で共有して新薬創出を加速する 革新的な枠組みの構築に成功, https://www.nibn.go.jp/information/nibio/files/3e91ed5d41ce024ddb586a7bac4d2801d2b203e5.pdf
- 世界のメガファーマに匹敵する「創薬立国日本」を目指す - 立命館大学, https://www.ritsumei.ac.jp/research/sdgs/life/story5.html