





皆さんが認知症という言葉を聞いて、どのようなことを思い浮かべるでしょうか。おそらく、ご自身の家族や将来のこと、そして社会全体にとって、これがますます重要かつ重大な疾患の一つになっているという感覚をお持ちのことでしょう。その感覚は、決して間違いではありません。実際に、2025年には日本の65歳以上の高齢者のうち、約700万人、つまり5人に1人が認知症になるとの予測も出ています 1。これは、もはや一部の人の問題ではなく、私たち一人ひとりが向き合うべき社会的な課題であることを示しています。
この大きな課題に対して、「私たちに今、何ができるのか」という問いが自然と生まれます。日々の食事や運動、睡眠といった生活習慣を整えることが予防につながるという話は、多くの方がご存知かもしれません 2。しかし、それだけにとどまらず、もっと大きな視点で、未来のために貢献できることがあります。それは、日々の健康に関する情報や活動の記録をデータとして蓄積し、それを将来の医療やケアの発展に活かしていくという考え方です。これは、単なる流行りの言葉としての「ビッグデータ」ではなく、医療研究のあり方を根本から変えうる、力強い流れなのです。
このような背景のもと、日本では今、一つの壮大なプロジェクトが進行しています。それが「オレンジレジストリ(ORANGE Registry)」です 3。この取り組みは、国立長寿医療研究センターを中心に、国の主要な研究機関や厚生労働省が連携して運営する、全国規模の認知症データ基盤構築プロジェクトです 4。
この記事では、この新しい時代の潮流を理解するための三つの重要な柱について解説していきます。第一の柱は、私たちが直面している「認知症」という課題そのものです。その定義から現状、そして社会的な取り組みまでを深く掘り下げます。第二の柱は、この課題に立ち向かうための強力な武器となる「オレンジレジストリ」です。その目的や設計、そして世界的な意義について解き明かします。そして第三の柱が、これらのデータを真の力に変えるための方法論、「リアルワールドエビデンス」です。これがどのようにして新しい知見を生み出すのかを説明します。
この記事を読み終える頃には、これら三つの柱がどのように連携し、認知症という大きな課題に対して、希望ある未来を切り拓こうとしているのか、その全体像をご理解いただけることでしょう。それでは、さっそく始めましょう。
Table of Contents
認知症を理解する
認知症とは何か:定義と全体像
まず、基本となる「認知症」そのものについて理解を深めることから始めましょう。認知症とは、実は一つの特定の病気を指す言葉ではありません。これは、一度正常に発達した記憶、思考、理解、計算、言語、判断といった知的な能力が、脳に何らかの病気が起こることによって持続的に低下し、日常生活や社会生活に支障をきたすようになった「状態」を指す、包括的な言葉、つまり症候群なのです 5。
この状態は、誰にでも起こりうるものです。特に高齢化が進む現代社会においては、その可能性は誰にとっても身近なものとなっています 5。厚生労働省の発表によると、2022年時点での日本の65歳以上の高齢者における認知症の人の数(有病者数)は、約443万人と推計されています。これは、高齢者人口における有病率が12.3%に達することを意味しており、およそ8人に1人が認知症と共に生活している計算になります 7。
さらに重要なのは、この数字が未来に向けて増加していくと予測されている点です。日本の人口構造の変化に伴い、認知症の人の数は2025年には約472万人、2040年には約584万人、そして2060年には約645万人にまで増加すると見込まれています 5。この推計は、私たちがこれから直面する課題の大きさを明確に示しており、社会全体でこの問題に取り組むことの緊急性を物語っています。認知症は、単なる医療の問題ではなく、介護、福祉、そして地域社会のあり方そのものに関わる、複合的で大きな課題なのです。
最も多いタイプ:アルツハイマー型認知症
認知症という大きな枠組みを理解した上で、次にその中で最も代表的なタイプであるアルツハイマー型認知症について詳しく見ていきましょう。認知症を引き起こす原因となる病気はいくつか存在しますが、その中でもアルツハイマー型認知症は全体の半数以上、報告によっては67%以上を占めるとされ、最も多くの人が罹患するタイプです 9。
この病気の根本には、脳内で起こる特異的な変化があります。科学的には、脳の中に「アミロイドベータ」という異常なたんぱく質が蓄積して「老人斑」と呼ばれるシミのようなものを作り出すこと、そして「タウ」という別のたんぱく質が異常にリン酸化されて「神経原線維変化」という塊を形成することが、その主な特徴とされています 6。これらの異常なたんぱく質の蓄積は、発症の数十年も前から静かに始まっていると考えられており 1、これらが神経細胞を傷つけ、最終的には死滅させてしまうことで、脳が徐々に萎縮し、認知機能の低下が引き起こされるのです 11。このメカニズムは「アミロイド仮説」として知られ、現在の治療薬開発の主要なターゲットとなっています 1。
アルツハイマー型認知症の症状は、ゆっくりと進行するのが特徴で、その経過は大きく初期、中期、後期の三つの段階に分けて理解することができます。
初期の段階では、特に記憶に関する障害が目立ち始めます。しかし、これは単なる加齢による物忘れとは質が異なります。加齢による物忘れが体験の一部を忘れるのに対し、アルツハイマー型認知症では体験した出来事そのものを忘れてしまい、ヒントを与えられても思い出すことができません 11。例えば、数日前の家族旅行の記憶がすっぽり抜け落ちてしまったり、約束したこと自体を忘れてしまったりします 12。また、計画を立てて物事を順序よく進める「実行機能」にも障害が現れ始め、料理の手順を間違えるといった失敗が増えてきます 12。
中期に進行すると、症状はより深刻になります。記憶障害はさらに悪化し、数分前に食べた食事の内容すら忘れてしまう「即時記憶障害」や、自分の出身校の名前といった個人的な過去の記憶を思い出せない「遠隔記憶障害」が現れます 12。また、時間や場所の感覚が失われる「見当識障害」も顕著になり、慣れ親しんだはずのスーパーへの道で迷ったり、目の前にいる知人が誰だかわからなくなったりすることがあります 12。さらに、一人で着替えができない、お金の払い方がわからなくなるといった認知機能の障害や、物の名前が出てこない失語なども見られるようになり、日常生活における支援の必要性が増してきます 12。
そして後期になると、日常生活のほぼ全般において介護が必要な状態となります。家族の顔がわからなくなるなど、人物に対する見当識障害が深刻化し、言葉によるコミュニケーションは極めて困難になります 10。歩行機能にも障害が現れ、歩幅が狭くなることもあります。また、食べ物ではないものを口にしてしまう「異食」や、便をいじってしまう「弄便」といった行動が見られることもあり、介護者の負担は非常に大きくなります 12。この段階では、誤嚥性肺炎や転倒による事故のリスクも高まり、総合的なケアが不可欠となります 10。
このように、アルツハイマー型認知症は長い年月をかけて徐々に進行し、本人の生活と尊厳、そして家族の暮らしに大きな影響を与える病気なのです。
認知症の前段階:軽度認知障害(MCI)
認知症について語る上で、絶対に欠かすことのできない重要な概念が「軽度認知障害(MCI: Mild Cognitive Impairment)」です。これは、健常な状態と認知症との間に位置する、いわば「グレーゾーン」の状態を指します 6。具体的には、本人や家族から物忘れなどの訴えがあり、客観的な認知機能検査でも年齢相応のレベルを超えた低下が認められるものの、食事の準備や金銭管理、服薬といった日常生活における基本的な動作は自立して行えるため、まだ認知症とは診断されない段階のことです 5。
このMCIがなぜそれほど重要視されるのかというと、MCIと診断された人々は、将来的に認知症へ移行するリスクが非常に高い集団だからです。複数の研究報告によると、MCIの人のうち、年間でおよそ10%から15%が本格的な認知症へと進行するとされています 6。これは、MCIが認知症の「前段階」あるいは「予備群」と位置づけられる所以であり、この段階でいかに適切な介入を行うかが、その後の進行を遅らせる上で極めて重要になることを示唆しています。
そして、このMCIの状態にある人々の数は、決して少なくありません。最新の推計によれば、2022年時点で認知症の高齢者が約443万人であるのに対し、MCIの高齢者はそれを上回る約472万人とされています 16。さらに将来に目を向けると、2040年には認知症の人が約584万人、MCIの人は約612万人に達すると予測されており、両者を合わせると1000万人を超える人々が何らかの認知機能の課題を抱える時代が到来することになります 5。
この事実は、私たちに極めて重要な視点を与えてくれます。それは、認知症対策が、すでに発症した人々へのケアだけに留まるものではないということです。むしろ、MCIという広大な「フロンティア」にいる人々をいかに早期に発見し、認知症への進行を予防、あるいは遅延させるための支援を提供できるかどうかが、今後の社会全体の負担を軽減し、一人ひとりの生活の質を維持するための最大の鍵となるのです。このMCIという集団の存在こそが、なぜ国を挙げて大規模なデータ収集と予防研究に取り組む必要があるのか、その根本的な理由を説明しています。後ほど詳しく解説するオレンジレジストリが、健常者やMCIの人々を対象に含めているのは、まさにこの戦略的な判断に基づいているのです 17。
予防への期待:生活習慣の役割
認知症、特にアルツハイマー型認知症の進行を完全に止める根本的な治療法は、残念ながらまだ確立されていません 9。しかし、だからといって私たちが何もできずにただ待つしかない、というわけでは決してありません。近年の研究は、日々の生活習慣が認知症の発症リスクに深く関わっていることを明らかにしており、「予防」という考え方に大きな希望の光を当てています。
この分野の研究をリードする国立長寿医療研究センター(NCGG)などの専門機関は、特定の生活習慣が認知症になる危険性を低減させる可能性があると報告しています 2。それは、決して特別なことではなく、私たちが日々の暮らしの中で意識できることの積み重ねです。
その中心にあるのが、活動的なライフスタイルを確立することです。具体的には、三つの活動が重要とされています。一つ目は、体を動かす「身体活動」です。定期的な運動習慣を持つことは、脳の血流を改善し、神経細胞の健康を保つのに役立ちます。ある追跡調査では、週に3回以上の運動習慣を持つ高齢者は、そうでない人々に比べて、その後に認知症を発症する割合が有意に少なかったことが報告されています 19。
二つ目は、頭を使う「知的活動」です。読書や楽器の演奏、ボードゲームなど、知的な好奇心を刺激し続ける活動は、脳の予備能力を高め、認知機能の低下を防ぐ助けとなります。これも別の研究で、これらの活動を週に2回以上行う人々は、ほとんど行わない人々と比較して、認知症の発症率が低いことが示されています 19。
そして三つ目が、人とかかわる「社会活動」です。家族や友人と頻繁に会って会話を楽しんだり、地域の活動に参加したりすることは、脳に多様な刺激を与え、孤立を防ぎ、精神的な健康を保つ上で非常に重要です。社会的なつながりが豊かな人ほど、認知症になりにくいというデータも存在します 19。
これらの身体活動、知的活動、社会活動は、それぞれが独立して効果を持つだけでなく、複数を組み合わせて日常生活にバランス良く取り入れることで、より高い予防効果が期待できると考えられています 2。バランスの取れた食事や、禁煙、高血圧や糖尿病といった生活習慣病の管理もまた、認知症のリスクを低減させる上で重要な要素です 6。
このように、認知症は運命としてただ受け入れるしかないものではなく、日々の生活習慣を見直すことで、その発症リスクを自らコントロールできる可能性があるのです。この「予防」という視点は、認知症対策における大きな希望であり、社会全体で健康的なライフスタイルを推進していくことの重要性を示しています。
社会全体で支える:共生社会を目指す認知症基本法
認知症という大きな課題に立ち向かうためには、医学的なアプローチだけでなく、社会全体の仕組みや考え方を変えていく必要があります。そのための羅針盤となるのが、2023年6月に成立し、2024年1月1日に施行された「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」です 20。この法律は、日本の認知症施策の歴史において、画期的な一歩を記すものと言えます。
法律の誕生とその目的
この法律が目指す究極の目標は、その名の通り「共生社会」の実現です 1。共生社会とは、認知症であるかどうかにかかわらず、全ての人が互いに人格と個性を尊重し、支え合いながら、希望を持って暮らすことができる活力ある社会を意味します 5。
この法律の制定は、認知症に対する社会の認識が大きく転換したことを象徴しています。かつては、認知症の人を単に「支えられる側」「保護の対象」と捉える見方が主流でした。しかし、この法律はそうした一方的な視点を乗り越え、認知症の人を、基本的人権を享有する個人として、自らの意思と能力を発揮しながら社会を構成する対等な一員として位置づけています 1。つまり、認知症を単に治療すべき「病気」としてのみ捉える医学的なモデルから、尊厳を持って共に生きていく「人のあり方」として捉える、社会的な権利のモデルへと、その哲学を大きく転換させたのです。この法律は、今後の日本のあらゆる認知症施策が立脚すべき、揺るぎない土台となるものです。
基本理念:権利の尊重と共生
認知症基本法は、その目的を達成するために、全ての施策が基づくべき七つの基本理念を掲げています 15。これらは、共生社会の具体的な姿を描き出すための設計図と言えるでしょう。
第一に、全ての認知症の人が、基本的人権を持つ個人として、自らの意思によって日常生活や社会生活を営むことができるようにすることです 20。これは、本人の自己決定権を最大限に尊重するという、最も根幹にある原則です。
第二に、国民が認知症に関する正しい知識と、認知症の人に関する正しい理解を深めることができるようにすることです 20。偏見や誤解をなくし、社会全体の受容性を高めることが目指されています。
第三に、認知症の人にとって生活の障壁となるものを取り除くことです 20。物理的なバリアだけでなく、社会制度や人々の意識の中にあるバリアフリー化を推進し、誰もが安心して社会に参加できる機会を確保します。
第四に、本人の意向を十分に尊重しつつ、良質で適切な保健医療サービスや福祉サービスが、途切れることなく提供される体制を整えることです 15。
第五に、支援の対象を認知症の人本人だけでなく、その家族や介護者にも広げることです 21。家族等が安心して生活を営める環境を整えることが、結果的に本人を支えることにつながります。
第六に、共生社会の実現に資する研究等を推進することです。予防、診断、治療、リハビリテーション、介護方法、社会参加のあり方などに関する研究を進め、その成果を広く国民が享受できる環境を整備することが明記されています 5。
そして第七に、これらの取り組みを、教育、地域づくり、雇用、保健、医療、福祉といった各関連分野における総合的なものとして行うことです 21。
これらの理念は、認知症という課題を、医療の枠を超えた社会全体の課題として捉え、人権を基盤とした包括的なアプローチで解決していこうという、国の強い意志の表れなのです。
国、自治体、国民の責務
この基本理念を実現するために、法律は国、地方公共団体、そして国民一人ひとりに対して、それぞれの役割と責務を定めています。
まず国は、基本理念にのっとり、認知症施策を総合的かつ計画的に策定し、実施する中心的な責務を負います 21。その具体的な計画が「認知症施策推進基本計画」であり、政府はこの計画に基づいて、必要な法制上、財政上の措置を講じなければなりません 15。
次に地方公共団体、つまり都道府県や市町村は、国との適切な役割分担のもと、それぞれの地域の実情に応じた施策を策定し、実施する責務があります 21。これにより、全国一律ではない、地域に根差したきめ細やかな支援が可能になります。
そして重要なのは、この法律が国民一人ひとりにも責務を課している点です。国民は、共生社会の実現を推進するために、認知症に関する正しい知識と理解を深め、その実現に寄与するよう努めなければならない、とされています 20。これは、共生社会が誰かから与えられるものではなく、私たち全員の意識と行動によって築き上げられていくものであることを示しています。
特に注目すべきは、第六の基本理念である「研究の推進とその成果の享受」です。これは、認知症基本法が単なる理念法にとどまらず、科学的根拠に基づいた施策の推進を明確に求めていることを意味します。後述するオレンジレジストリのような全国規模のデータ基盤を構築し、そこから得られるエビデンスに基づいて予防法やケアの質を向上させていくという取り組みは、まさにこの法律の精神を具現化する、極めて重要な実践であると言えるでしょう。法律が描く理想の社会像と、科学が提供する具体的な解決策とが、ここで固く結びついているのです。
未来への羅針盤:オレンジレジストリの全貌
認知症基本法が示す「共生社会」という目的地へ向かうための、いわば国家レベルの地図だとすれば、その航海に不可欠な精密な羅針盤となるのが「オレンジレジストリ」です。この章では、日本の認知症研究とケアの未来を左右する、この壮大なデータ基盤の全貌に迫ります。
オレンジレジストリとは何か
オレンジレジストリ(ORANGE Registry)とは、その正式名称を「Organized Registration for the Assessment of dementia on Nation-wide General consortium toward Effective treatment in Japan」と言い、日本語に訳せば「日本における効果的な治療に向けた全国規模の共同事業体による認知症評価のための組織的登録システム」となります 3。
その核心は、全国規模で、長期間にわたって認知症に関するデータを体系的に集積し続ける、前向きの観察研究システムです [User Query]。このプロジェクトは、国立長寿医療研究センター(NCGG)が事務局を担い、国立精神・神経医療研究センター、認知症介護研究・研修センター、そして厚生労働省が参加する運営委員会によって推進されています 4。このように、国の主要な専門機関が結集していることからも、このレジストリが国家的な戦略プロジェクトとして位置づけられていることがわかります。その目的は、多様な人々の情報を長期間にわたって集め、分析することを通じて、認知症のより良い治療法やケアの手法を科学的に明らかにしていくことにあります 4。
レジストリの設計:健常者から進行期までを追う
オレンジレジストリの設計思想において、最も革新的で重要な特徴は、その対象範囲の広さにあります。このレジストリは、すでに認知症と診断された人々だけを対象とするのではありません。その視野は、認知機能が正常な「健常(プレクリニカル)期」の人々、物忘れなどの自覚症状はあるものの日常生活は自立している「軽度認知障害(MCI)期」の人々、そして軽度から中等度、進行期に至るまでの「認知症ケア期」の人々まで、疾患の全スペクトラムを網羅しています 4。
このような「切れ目のない」データ収集体制は、極めて重要な戦略的意味を持っています。第一章で触れたように、アルツハイマー病のような認知症の根本的な病理変化は、症状が現れるずっと前から、時には数十年単位で脳内で静かに進行しています 1。したがって、病気の進行そのものに介入する「疾患修飾薬」のような根本的な治療法を開発するためには、症状がまだ現れていない、あるいはごく軽微な段階で治療を開始することが不可欠と考えられています。
しかし、そのためには大きな課題があります。症状のない段階で、誰が将来発症するリスクを抱えているのかを正確に知るための目印(バイオマーカー)を見つけ出す必要があります。また、健常な状態からMCIを経て認知症へと至る自然な経過を詳細に理解しなければ、新しい薬が本当に進行を遅らせたのかどうかを科学的に証明することができません。
オレンジレジストリが健常者やMCIの人々を登録対象に含めているのは、まさにこの課題に応えるためです 17。長期間にわたって彼らのデータを追跡することで、認知症発症の超早期のサインを捉え、疾患の自然史を解明し、未来の革新的な臨床研究や治験を加速させるための、揺るぎない基盤を構築することを目指しているのです。これは、認知症研究を「治療」から「超早期介入・予防」へとシフトさせるための、壮大な布石と言えるでしょう。
収集されるデータ:多角的な情報の集積
オレンジレジストリが目指すのは、単一的な情報の収集ではありません。一人の人間を多角的に、そして深く理解するために、非常に幅広い種類のデータが集められます。これにより、認知症という複雑な状態を、より立体的に捉えることが可能になります。
収集される情報には、まず、医師の診察による詳細な臨床情報や、記憶力や判断力を評価する神経心理検査の結果が含まれます 17。これらは、認知機能の状態を客観的に評価するための基本データとなります。
それに加えて、脳の物理的な変化を捉えるための画像データも重要な要素です 4。MRIやPETといった脳画像検査によって、脳の萎縮の程度や、アルツハイマー病の原因とされるアミロイドベータなどの異常たんぱく質の蓄積具合を視覚的に確認することができます。
さらに、このレジストリが特徴的なのは、医学的なデータにとどまらない点です。参加者の食事や運動といった生活習慣、趣味や社会参加の状況といった日々の活動に関する情報も収集されます 4。これにより、どのようなライフスタイルが認知症のリスクを高め、あるいは低減させるのかを具体的に分析することが可能になります。
また、実際にどのような介護サービスや社会的な支援が利用されているかといった、ケアに関する情報も集められます 4。これは、どのような支援が人々の生活の質を維持する上で有効なのかを評価し、より良いケアのあり方を模索するための貴重な手がかりとなります。これらの多岐にわたる情報を、一人の参加者について長期間にわたり追跡・集積していくことで、認知症の発症から進行、そしてケアに至るまでの全過程を解明するための、世界にも類を見ないリッチなデータプラットフォームが形成されていくのです。
日本版「プロジェクトベースライン」としての意義
このオレンジレジストリの構想は、しばしば米国の「プロジェクトベースライン(Project Baseline)」と比較されます [User Query]。この比較は、オレンジレジストリの持つ先進性と重要性を理解する上で非常に的確です。
プロジェクトベースラインとは、Googleの親会社であるAlphabet傘下のライフサイエンス企業Verilyが主導する、極めて野心的な健康研究プロジェクトです 22。このプロジェクトは、約1万人の参加者から、臨床データ、分子生物学的データ、画像データ、ウェアラブルセンサーによる行動データ、自己申告による生活習慣データなど、考えうるあらゆる種類の健康情報を4年以上にわたって収集し、「健康とは何か」という基準(ベースライン)を定義し、健康な状態から病気へと移行する過程を詳細にマッピングすることを目指しています 22。その究極の目的は、がんや心臓病といった疾患の兆候を、現在よりもはるかに早期に予測し、医療を「治療中心」から「予防中心」へと転換させることにあります 22。
オレンジレジストリは、このプロジェクトベースラインの思想と方法論を、認知症という特定の領域に適用した、いわば「日本版プロジェクトベースライン」と考えることができます。どちらも、大規模な集団を対象とした長期的な縦断観察研究であること、多様で多角的なデータを統合して分析すること、そして病気の発症メカニズムを解明し、早期発見や予防法の開発に繋げることを目的としている点で共通しています 22。オレンジレジストリは、認知症領域において、世界最先端のデータ駆動型研究を実践し、この困難な課題に対する新たな突破口を開く可能性を秘めた、国家的な挑戦なのです。
リアルワールドエビデンスとは何か
オレンジレジストリという壮大なデータ収集の仕組みが整ったとして、その膨大な情報をどのようにして医学的な「知」へと昇華させるのでしょうか。その鍵を握るのが、「リアルワールドエビデンス(Real-World Evidence: RWE)」という現代の医療研究における重要な概念です。この章では、その土台となる「リアルワールドデータ(RWD)」から説き起こし、RWEが持つ力とその重要性について解説します。
リアルワールドデータ(RWD)の定義
まず、「リアルワールドデータ(RWD)」とは何かを理解しましょう。これは、文字通り「現実世界(リアルワールド)」から得られる、人々の健康状態や医療の提供に関するデータの総称です 26。ここでの「現実世界」とは、厳格に管理された研究環境の外、つまり、私たちが日常的に医療を受けたり、生活したりしている場を指します。
RWDの源泉は多岐にわたります。最も代表的なものの一つが、日々の診療で作成される電子カルテ(EHRs)です 27。ここには、医師の診察記録、検査結果、処方された薬の情報など、実際の医療現場で生み出される情報が詰まっています。また、医療機関が診療報酬を請求するために作成するレセプト(診療報酬明細書)データや、特定の疾患を持つ患者さんを登録・追跡する「患者レジストリ」も、RWDの重要な供給源です 27。まさに、これから構築されるオレンジレジストリそのものが、質の高いRWDを生み出す巨大な源泉となるのです。
さらに近年では、私たちが身につけるウェアラブルデバイスやスマートフォンアプリから得られる歩数、心拍数、睡眠パターンといった、患者自身が生成するデータ(Patient-Generated Health Data)も、RWDの一部として注目されています 27。これらのデータに共通する最大の特徴は、管理された実験環境ではなく、ありのままの日常の中で収集されるという点です。そのため、RWDは現実の医療や生活の実態を色濃く反映した、生きた情報であると言えます 26。
リアルワールドエビデンス(RWE)の創出
では、このリアルワールドデータ(RWD)から、どのようにして「リアルワールドエビデンス(RWE)」が生まれるのでしょうか。両者の関係は、原材料と製品に例えると分かりやすいかもしれません。RWDが、いわば採掘されたばかりの原石や収穫された農産物といった「原材料」であるとすれば、RWEは、それらを分析・加工して得られる「製品」、すなわち医学的な知見や証拠(エビデンス)です。
米国の食品医薬品局(FDA)などの規制当局は、RWEを「RWDの分析から得られる、医療製品の使用実態や、その潜在的な利益またはリスクに関する臨床的なエビデンス」と定義しています 27。つまり、オレンジレジストリのような仕組みで集められた膨大なRWDを、統計学的な手法などを用いて解析し、そこから「特定の治療法は、実社会の多様な患者集団において、どのような効果や副作用をもたらすのか」「どのような生活習慣が、認知症の発症リスクと関連しているのか」といった問いに対する答えを導き出したもの、それがRWEなのです。RWDはデータそのものであり、RWEはそこから引き出された意味のある結論や洞察を指します。
なぜRWEが重要なのか:臨床試験を補完する力
新しい薬や治療法の有効性を証明するための最も信頼性の高い方法は、現在でも「ランダム化比較試験(RCT)」であるとされています。RCTでは、参加者をランダムに二つのグループに分け、一方には新しい治療法を、もう一方には既存の治療法やプラセボ(偽薬)を施し、その結果を比較することで、治療法の純粋な効果を厳密に評価します。
しかし、このRCTには限界もあります。RCTは、その科学的な厳密性を保つために、参加者の条件を非常に厳しく設定することが一般的です。例えば、特定の年齢層で、他の病気を合併しておらず、決められた薬以外は服用していない、といった均質な集団を対象とします 30。しかし、現実の医療現場で治療を受ける患者さんは、はるかに多様です。高齢で、複数の持病(高血圧、糖尿病など)を抱え、様々な薬を併用している、といった人々が大多数を占めます。RCTで有効性が示された治療法が、このような多様な背景を持つ「リアルワールド」の患者さんに対しても、同じように有効かつ安全であるとは限らないのです。
ここに、RWEの重要な役割があります。RWEは、まさにこの多様な患者集団を対象として、実際の臨床現場で治療法がどのように使われ、どのような結果をもたらしているかを観察することから生まれます 30。そのため、RWEはRCTでは得られにくい、以下のような貴重な情報を提供してくれます。
一つは、治療法の長期的な有効性と安全性に関する知見です。RCTは通常、数ヶ月から数年という限られた期間で行われますが、RWEは数年、数十年単位での追跡を可能にし、稀な副作用や長期的な効果を明らかにすることができます。
二つ目は、多様な患者サブグループにおける効果の検証です。RWEを用いることで、「高齢の女性で、かつ糖尿病を持つ患者さん」といった特定の集団における治療効果を分析し、より個別化された医療(Personalized Medicine)の実現に貢献できます。
三つ目は、疾患の自然史、つまり病気が時間と共にどのように進行していくかを理解するための情報です。オレンジレジストリのように、健常な段階から長期間追跡するRWDは、認知症がどのように発症し、進行していくのかという根本的な理解を深める上で不可欠です。
このように、RWEはRCTに取って代わるものではなく、その限界を補完し、医療に関する私たちの理解をより豊かで現実に即したものにするための、強力なツールなのです。それは、実験室で得られる理想的な条件下でのエビデンスと、現実世界の無数の患者さんと医師たちの経験から生まれる集合的な知恵とを、結びつける架け橋と言えるでしょう。このアプローチは、医療におけるエビデンスの源を、一部の管理された研究から、医療システム全体の経験へと広げる、いわば「エビデンスの民主化」とも呼べる動きなのです。
オレンジレジストリが拓く、認知症研究と医療の新たな地平
これまで、認知症という課題、それを支える法制度、そしてオレンジレジストリとリアルワールドエビデンスという新しい武器について、それぞれ個別に見てきました。この章では、これら全ての要素を統合し、オレンジレジストリが具体的にどのようにして日本の認知症研究と医療に革命をもたらすのか、その新たな地平を展望します。オレンジレジストリは単なるデータの貯蔵庫ではありません。それは、医療システム全体が学び、進化していくための、生きたフィードバックシステムなのです。
創薬の加速:新しい治療法をより早く届ける
認知症、特にアルツハイマー病に対する新しい治療薬の開発は、世界中の製薬企業や研究者がしのぎを削る、極めて困難な挑戦です。一つの新薬を世に送り出すためには、莫大な時間と、一説には3000億円にも上る巨額の研究開発費用が必要とされ、その成功確率は決して高くありません 31。この状況は、革新的な治療法を待ち望む患者さんへのアクセスを妨げる大きな障壁となっています。
オレンジレジストリは、この創薬プロセスが抱えるいくつかの重大なボトルネックを解消し、開発を劇的に加速させる可能性を秘めています 17。
その最大の貢献は、臨床試験における参加者のリクルート(募集)の効率化です。新しい薬の有効性を確かめる臨床試験では、「特定の条件に合致する患者さん」を、必要な人数だけ、迅速に集めることが成功の鍵となります。しかし、特に疾患の早期段階の患者さんを見つけ出すのは非常に困難で、多くの臨床試験が参加者集めの遅れによって計画通りに進まないという現実に直面しています 32。
オレンジレジストリは、この問題を根本から解決します。全国規模で、健常者からMCI、軽度認知症に至るまで、あらかじめ詳細な臨床情報と共に登録された膨大な人々のデータベースが存在することで、研究者は臨床試験の組み入れ基準に合致する候補者を、迅速かつ的確に特定できるようになります 17。これは、大海原で一艘の小舟を探すような作業を、GPSで目的地を特定するような作業へと変える、画期的な変化です。
さらに、レジストリに蓄積された長期的なデータは、より質の高い臨床試験の計画立案にも貢献します 32。どのような患者さんが、どのような経過をたどるのかという疾患の自然史や、病気の進行度を客観的に示すバイオマーカーの変化に関する豊富なデータがあれば、より成功確率の高い試験デザインを組むことが可能になります。これにより、有望な新薬候補をより早く患者さんの元へ届け、一方で成功の見込みが低い開発プロジェクトは早期に中止し、限りある研究開発資源をより有望な分野に集中させることができるようになるのです 32。
ケアと予防策の最適化:一人ひとりに合った支援へ
オレンジレジストリがもたらす恩恵は、新薬開発のような最先端医療の領域に限りません。むしろ、日々のケアや予防といった、より多くの人々の生活に密着した領域においてこそ、その真価が発揮されると言えるでしょう。
レジストリに集積される、医学的データと、食事、運動、社会活動といった詳細なライフスタイル情報を組み合わせ、大規模に解析することで、これまで見過ごされてきた認知症のリスク因子や、逆に発症を遅らせる保護因子を、より高い精度で発見することが可能になります 2。
例えば、「どのような運動を、週に何回、どのくらいの強度で行うことが、70代のMCI女性の認知機能維持に最も効果的なのか」「特定の食生活パターンは、遺伝的なリスクを持つ人々の発症を遅らせる効果があるのか」といった、非常に具体的で実践的な問いに対する、科学的根拠に基づいた答え(RWE)を導き出すことができるようになります。
こうしたエビデンスは、画一的な予防指導から脱却し、個人の年齢、性別、健康状態、遺伝的背景、さらには生活環境までを考慮した、真に個別化された(パーソナライズされた)予防プログラムやケアプランの策定を可能にします 33。
また、レジストリは、様々な介護サービスや支援策が、実際に人々の生活の質(QOL)や病状の進行にどのような影響を与えているかを評価するための、強力なツールともなります。ある地域で導入された新しいデイサービスが、利用者の社会的孤立感を軽減し、介護する家族の負担を減らす上で有効であった、といったエビデンスが得られれば、その成功モデルを他の地域へ展開していく際の、強力な後押しとなるでしょう。このようにして、オレンジレジストリは、日々の臨床や介護の現場から得られた無数の「声」を集約し、分析し、再び現場へと還元していく、巨大な「学びのサイクル」を創出するのです。
医療政策の道しるべ:限りある資源を賢く使う
認知症患者の急増は、国の医療費や介護給付費に大きな影響を与え、社会保障制度の持続可能性を揺るがしかねない大きな課題です。このような状況下で、国や地方自治体は、限られた医療・介護資源を、いかに公平かつ効率的に配分していくかという、難しい舵取りを迫られています。
ここで、オレンジレジストリから生み出されるリアルワールドエビデンス(RWE)は、感情論や旧来の慣習ではなく、客観的なデータに基づいて政策決定を行う「エビデンスに基づく政策立案(Evidence-Based Policy Making)」のための、不可欠な道しるべとなります 33。
例えば、レジストリデータを分析することで、認知症の進行に伴う医療費や介護費用の実態、あるいは疾患がもたらす生産性の損失といった、社会経済的な負担を正確に把握することができます 33。また、早期診断・早期介入が、長期的に見てどれほどの医療費抑制効果をもたらすのかをシミュレーションすることも可能になるでしょう。
さらに、地域ごとのサービス提供体制や、異なるケアモデル(在宅中心、施設中心など)が、患者さんの予後やコストにどのような違いをもたらすかを比較分析することで、より効果的で効率的な医療・介護提供体制のあり方を検討するための、具体的なデータを得ることができます 32。
このように、オレンジレジストリは、個々の患者さんへの医療の質を高めるだけでなく、マクロな視点から国の保健医療政策全体を最適化し、将来にわたって持続可能な社会保障システムを構築していくための、極めて重要な戦略的情報基盤となるのです。それは、日本の未来の形を、データという光で照らし出す試みと言えるでしょう。
国際的な認知症レジストリとの連携
日本のオレンジレジストリは、孤立した取り組みではありません。それは、認知症という世界共通の課題に、データ駆動型のアプローチで立ち向かおうとする、大きな国際的な潮流の一部です。この章では、海外の先進的な認知症レジストリの事例を紹介し、それらとの連携を通じて日本の挑戦がどのように深化していくのかを探ります。世界に目を向けることは、自らの立ち位置を客観的に理解し、未来への道筋をより確かなものにするために不可欠です。
世界のモデル:スウェーデン認知症レジストリ「SveDem」
国際的な認知症レジストリを語る上で、まず筆頭に挙げられるのが、スウェーデンの「SveDem(Swedish Dementia Registry)」です。2007年に設立されたこのレジストリは、その包括性と質の高さから、しばしば世界の「ゴールドスタンダード(最高水準)」と評されています 36。
SveDemは、スウェーデン政府および地方自治体の共同出資によって運営される、ウェブベースの全国的な品質登録システムです 38。その主な目的は、スウェーデン国内のどこに住んでいても、全ての認知症の人が質の高い診断、治療、そしてケアを等しく受けられるように、その品質を監視し、改善していくことにあります 37。
SveDemの特筆すべき点は、その驚異的な網羅性です。国内のほぼ全ての記憶専門クリニック(90%以上)と多くのプライマリケア施設が参加しており、新たに認知症と診断された患者さんのデータが継続的に登録されています 37。登録されるデータは、診断に至るまでの検査内容、認知機能評価(MMSEスコアなど)、確定診断名、処方された薬、そして自治体から提供された支援サービスの内容など、多岐にわたります 38。
SveDemが単なるデータ収集システムに留まらないのは、その強力なフィードバック機能にあります。参加している各医療機関は、自施設で登録したデータを、いつでもオンラインで地域や国全体の平均値と比較することができます 37。これにより、自らの診療の質を客観的に評価し、改善点を見出すことが可能になります。さらに、SveDemは毎年詳細な年次報告書を公表し、医療専門家や介護関係者、そして国の政策決定者に対して、スウェーデンの認知症ケアの現状と課題に関する最新のデータを提供しています 37。この透明性の高い情報公開が、国全体のケアの質を向上させる原動力となっているのです。SveDemの成功は、オレンジレジストリが目指すべき一つの具体的な目標像を示しており、その運営から学ぶべき点は非常に多いと言えます。
欧米の多様な取り組み
スウェーデンのSveDemが品質管理を主眼に置いたモデルである一方、ヨーロッパやアメリカでは、それぞれ異なる目的を持った多様なレジストリやネットワークが活動しており、この分野の豊かさを示しています。
ヨーロッパでは、「ERN-RND(European Reference Network on Rare Neurological Diseases)」のような、国境を越えた専門家ネットワークが構築されています 42。これは、希少な神経疾患を対象としており、その中には前頭側頭型認知症(FTD)も含まれています 43。このネットワークを通じて、ある国の患者の診断や治療が困難な場合に、オンラインのプラットフォームを介して他の国の専門家が知識や経験を共有し、最適な治療方針を共に検討することができます。これは、患者が移動するのではなく、知識が国境を越えて移動するという、新しい医療協力の形です 42。
一方、アメリカでは「ALZ-NET(Alzheimer's Network for Treatment and Diagnostics)」という取り組みが進められています 44。これは、米国食品医薬品局(FDA)によって新たに承認されたアルツハイマー病治療薬を実際に使用している患者さんのデータを、実社会(リアルワールド)で収集・追跡することを目的としたネットワークです。このレジストリから得られるリアルワールドエビデンスは、新薬の長期的な有効性や安全性を評価する上で貴重な情報となるだけでなく、公的医療保険(メディケア)がその薬の費用をどの程度カバーすべきか、という保険償還の判断材料としても活用されます 44。
これらの事例は、レジストリが、品質管理(SveDem)、専門知の共有(ERN-RND)、そして市販後評価と政策決定(ALZ-NET)など、実に多様な目的のために活用できることを示しています。日本のオレンジレジストリは、これらの複数の機能を併せ持つ、非常に包括的で野心的な設計となっており、世界の様々な取り組みの長所を取り入れながら、独自の発展を遂げていくことが期待されます。
国際協力の重要性:WHOとの連携
認知症は一国だけの問題ではなく、世界的な公衆衛生上の課題です。このグローバルな挑戦に対応するため、世界保健機関(WHO)は「グローバル認知症オブザーバトリー(GDO: Global Dementia Observatory)」という仕組みを運営しています 45。
GDOは、WHOが策定した「認知症に関するグローバル・アクション・プラン」の進捗状況を監視し、各国が目標を達成できるよう支援するための、国際的なデータ収集・共有プラットフォームです 45。加盟国は、認知症政策、サービス提供体制、研究開発といった35の主要な指標に関するデータをGDOに提供し、それによって自国の取り組みの状況を国際的な文脈で把握することができます。
日本のオレンジレジストリは、このGDOに対する、日本からの極めて質の高い貢献となり得ます 47。全国規模で体系的に収集された詳細なデータは、日本の認知症の実態を正確に世界へ発信し、国際比較研究を可能にします。これにより、日本のケアモデルの優れた点や、逆に他国から学ぶべき点を明らかにすることができます。
このような国際連携は、単にデータを共有するだけに留まりません。国際的な大規模臨床研究への参加や、新しい診断基準・治療ガイドラインの策定において、日本が主導的な役割を果たしていくための基盤ともなります 47。WHOをはじめとする国際機関との連携を深めることで、オレンジレジストリは国内の課題解決に貢献するだけでなく、世界の認知症研究とケアの発展に寄与する、国際的な公共財としての価値を高めていくことになるでしょう 50。認知症との闘いは、国境を越えた知の結集によって、より力強いものになるのです。
データ活用がもたらす認知症との共生
これまで、認知症という巨大な課題に対し、日本が法制度、データ基盤、そして科学的方法論を三位一体で組み合わせ、いかにして立ち向かおうとしているかを見てきました。オレンジレジストリという羅針盤は、間違いなく希望ある未来への航路を照らし出しています。しかし、その航海は決して平坦なものではありません。最後に、この挑戦を成功に導くために乗り越えるべき課題と、データ活用が真に実現する「共生社会」の姿について考察し、この記事を締めくくりたいと思います。
倫理的課題との向き合い:データ保護と尊厳の両立
大規模な健康情報を扱うプロジェクトには、常に重大な倫理的配慮が伴います。特にオレンジレジストリのように、認知機能の低下という脆弱性を抱える可能性のある人々を対象とする場合、その配慮はより一層、慎重かつ厳格でなければなりません 51。
最大の課題の一つは、「インフォームド・コンセント(説明と同意)」のあり方です。研究への参加に同意した時点では判断能力が十分であったとしても、時間の経過と共に認知機能が低下し、研究参加の継続やデータ利用の範囲について、本人が自らの意思を表明することが困難になる可能性があります。このような状況において、いかにして本人の尊厳と自己決定権を守り続けるか。これは、認知症基本法が掲げる「自らの意思によって日常生活及び社会生活を営むことができる」という基本理念の根幹に関わる問題です 21。代理同意のあり方や、意思決定支援のプロセスなど、継続的な倫理的検討と、それに基づく明確なガイドラインの整備が不可欠となります 51。
もう一つの重要な課題は、データの保護とプライバシーの確保です。レジストリに集積されるのは、個人の病歴や遺伝情報、生活実態など、極めて機微な個人情報です。これらの情報が不正にアクセスされたり、目的外に利用されたりすることのないよう、最高水準のセキュリティ対策と、厳格なデータ管理体制を構築し、維持し続けなければなりません。PMDA(医薬品医療機器総合機構)などが示すガイドラインを遵守し、データの信頼性と安全性を両立させることが、プロジェクトに対する社会的な信頼を得るための大前提となります 52。技術と倫理は、常に車の両輪でなければならないのです。
持続可能性という挑戦:長期的な視点
オレンジレジストリの真価が最大限に発揮されるのは、データが長期間にわたって蓄積された時です。健常な人がMCIを経て認知症へと至る、数年から数十年にも及ぶ変化の軌跡を捉えることによってはじめて、疾患の根本的なメカニズムの解明や、真に効果的な超早期介入法の開発が可能になります。
これは、このプロジェクトが短期的な成果を求めるものではなく、次世代、さらにはその先の世代への投資であることを意味します。そのためには、政権の交代や経済状況の変化に左右されない、長期的かつ安定した資金提供と、国家的な支援体制の継続が不可欠です。
同時に、参加してくださる患者さんやご家族、そして日々多忙な業務の合間を縫ってデータを入力してくださる全国の医療・介護従事者のエンゲージメントを、いかにして長期間維持していくかという課題もあります。そのためには、SveDemの例に見られるように、レジストリから得られた知見を定期的に参加者や現場へフィードバックし、「このプロジェクトに参加することが、自分たちの診療や日本の医療の質の向上に直接つながっている」という価値を実感してもらう仕組みを構築することが極めて重要です。持続可能性とは、資金だけの問題ではなく、関わる全ての人々の間で価値を共有し、協力の輪を育み続けるという、文化的な挑戦でもあるのです。
データが拓く「共生社会」の実現
本記事を通じて、私たちは日本の認知症対策が新たな時代に突入したことを確認してきました。それは、個別の努力や経験則に頼る時代から、国全体で体系的にデータを収集し、そこから得られる科学的根拠(エビデンス)に基づいて行動する時代への移行です。
この大きな転換において、「認知症基本法」は、私たちが目指すべき「共生社会」という人間尊重の理念を示し、「オレンジレジストリ」はその実現に必要なデータを集めるための強力なインフラストラクチャーを提供します。そして、「リアルワールドエビデンス」は、そのデータを分析し、実践的な知恵へと変えるための科学的な方法論を与えてくれます。これら三者は、互いに深く結びつき、日本の認知症対策を前進させるための強力なエンジンを形成しているのです。
認知症の「完治」という目標は、まだ遠い道のりかもしれません。しかし、このデータ駆動型のアプローチは、より効果的な予防法の確立、一人ひとりの状態に合わせた個別化ケアの実現、そして革新的な治療法の開発を加速させ、多くの人々の人生に具体的な希望をもたらすでしょう。
最終的に、オレンジレジストリの成功が測られるべき指標は、発表される論文の数や開発される新薬の数だけではありません。それらがもたらした結果として、認知症の人の生活の質がどれだけ向上したか、介護する家族の負担がどれだけ軽減されたか、そして社会全体の偏見がどれだけ払拭され、認知症の人が尊厳と希望を持って社会に参加できるようになったか。すなわち、このデータ基盤が、認知症基本法の理念である「共生社会」の実現にどれだけ貢献できたか、という点にあります。
データとテクノロジーは、それ自体が目的ではありません。それらは、人間の尊厳と幸福という、より高次の目標に奉仕するための、現代における最も強力なツールの一つです。オレンジレジストリという日本の挑戦は、そのツールを駆使して、誰もが自分らしく、安心して暮らせる社会を築き上げていこうという、未来に向けた確かな意志表示なのです。
引用文献
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